プロが教えるわが家の防犯対策術!

国際法、あるいは政治学から見て、日本は飛鳥時代から現在まで一つの国家が継続しているのでしょうか?それとも、いくつかの国に分けて考えられるのでしょうか?

飛鳥時代以降1945年までは天皇主権の国家が続いていましたが、戦後の憲法では主権在民となって政体が根本的に変わっていますね。
そこで、私は新憲法施行以前と以降とでは別の国家ではないかと思うのですが、どうなのでしょうか?
あるいは、明治維新でも別の国家に移行したのでしょうか?

別の国家に移行していたとしても、新国家は前の国家の継承国家として機能してきたので、対外的には飛鳥時代以来ずっと実質的には同一国家であったのでしょうが、ここでは、後続の国家がどう振る舞ったかには関係なく、国家が(少なくとも)一旦は途切れたのか、否かを教えて下さい。

A 回答 (14件中1~10件)

日本が国際的に認められた事件があります。

それは醍醐天皇の御代、中国大陸にあった唐が、朝貢してきたことです。当時は国家として長く存続しアジアで最も歴史の旧い王朝として、復活間もない唐の正統性を保証してくれる強い国であると認められました。日本はこの時点で中国と対等になりました
    • good
    • 0

 一部の回答者に若干間違いが指摘しうるので、適切な回答を提示しておきたい




”国際法は、近代社会によって成立した概念であって、それ以前に関しての回答はできない”・・・という部類の言説があるが

国際法は慣習法でもありえるのであって、古くに存在した国際慣習法を勘案することによって、回答しえるものだろう

ただし、本件の回答では、「国」ではなく「国家」という概念を主語にしている関係上において
「国家」概念の起源としては、当然、”国民国家”で説明するのが政治学的な正統性が指摘しえるだろう
国際法・政治学的にも、「国家」という概念は、国と峻別しえるものであることは、英語からしても指摘できるだろう

 質問者が「国家」と意図する質問であることを鑑みれば、内在的に「国家と国」を分離した表現が求められうると判断するのだが、そもそも、回答者諸氏はそこらの判断が曖昧のようjに思う
国家・国・政府・政体をまったく峻別しない回答には呆れるが、それが一般レベルではあろう

もっとも、質問者が、国と国家を峻別していない可能性も想定されうる危険性もあるが、質問文では「国家」を主体にしていることから、筋道としては「国」ではなく「国家」で論じるべきように思われる


なお、都市国家という概念による論説が可能だろうが、質問の趣旨から思慮すれば、いわゆる古代・中世の城塞都市国家の歴史にない日本を考えるにおいて、都市国家を用いて国家を論じるのは、的確(適格)さにかけるように思う

次に、継続という概念についても、難しい問題がある

継続というのは、途切れのない連続性を示唆するニアンスがあるが、一時的な中断からの再開でも継続とは言えるだろう

本件の質問は、政体・国家・政府が混濁した状況での質問で、好ましいものではないだろうが、そのレベルに応じて回答するのではなく、より適切に分離・峻別して論説することが、望ましい回答になる・・とは思うのだが

もっとも、ご都合主義な回答者の回答の自由もあるので、小生はこれ以上は、注釈はしない



以上、老婆心ながら
    • good
    • 0

 何か色々と問題点が絡み合ってグチャグチャな内容の質問になっています。


(1)「国家」と「国家体制」は異質のもの
(2)「国際法」「政治学」に示される「国家の概念」をそのまま日本の前近代史に適用することは論理として無理がある(古くは安良城盛明氏の太閤検地論による“太閤検地以前は全て古代社会である”との提言)
この二点が大きく問題となっています。
 では(1)の問題から始めます。
飛鳥以後~1945年まで天皇主権の国家が続いていた、これはもうカビの生えた見解で既に歴史学の分野では完全に否定されています。
 少なくとも天皇に主権(決裁権)があったのは古代の天武期とアナクロニズムの権化である後醍醐それから天皇大権を標榜した明治憲法の規定下の時期です。それ以外は天皇に権限などありません。律令制度も当初から太政官制度を敷いています。その後も幕府・戦国大名・在地領主などといった様に検断権や決裁権は天皇などにないことも明白です。では史料上に示される「公儀・公方」が誰を指すのかといえば、その書状の差出人と宛先の関係で理解する以外にはありません。
 「(国際法、あるいは政治学から見て)日本は飛鳥時代から現在まで一つの国家が継続しているのでしょうか?それとも、いくつかの国に分けて考えられるのでしょうか?」これは前提そのものが成り立っていません。江戸時代に現代の国際法を適用できますか?。火を見るよりも明らかですので答を避けさせていただきます。
 「時代認識」との言葉でいえば、有名なところで『愚管抄』『梅松論』『読史余論』『大勢三転考』などがありますが、一つとして「一貫した枠組み」などはありません。あるとすれば偏狭なナショナリズムの国学に基づく本居宣長やら平田篤胤そして水戸派であり、それは『扶桑略記』『帝王編年記』『釈日本紀』『神皇正統記』辺りにまで遡ることができます。全て神道系です。イカレています。
 では次に明治維新及び明治維新以降の1945年以前と近代以前での関係ですが、政治学者の丸山眞男は「古層として近代の中に滑り込んでいる」との形容を示している。つまり「器」として近代的国家の体裁を採りながらその背後には古いしきたりやら伝統そして慣習といった後ろ盾としての逃げ場を用意しているとの形です。
 近代国家が良くも悪くも「国家基本法」に基づいて構築され、権力主体が何処にあるのかを明文化していることに対し、近代以前の日本ではこの部分の位置付けが極めてあやしい。
 そして「国家」と「国家体制」の問題を問うならば、歴史学や政治学の分野として「国家体制史」「国家体制論」の括りがあることとなるはずですが、実際にこうした括りはありません、そこにあるのは「国家史」なり「国家論」です。
「体制」といった場合には「社会体制」なり「経済体制」を示すのが研究としては通常です。ですから「律令体制」「幕藩体制」などの呼び方か可能となる。
 尚「日本の近代化」に関する学説は、近代以前を内包する形と認識するスタンスからガチガチの帝国主義と認識するまでそれこそ千差万別です。がしかしここが歴史学の厄介なところで、化学実験に見られる色や形そして温度といった目視で確認できる変化や化学式の変化とは少し異なります。
 個人的には明治維新以前と明治維新以後の断続しながら継続し続けてきた前近代の残滓を引きつる形としての明治国家と1945年以後ではシステムが異なるとの点で一先ず同意できますが、飛鳥時代から一貫して変わっていない、となれば異義を感じざるを得ないとの立場です。なぜこの様な疑問が出てくるのでしょうか。そしてなぜこの様な歴史認識を持つに至ったのでしょうか、少しばかり興味のあるところです。
    • good
    • 0

国際という社会ができた時からでしょう。


それ以前(近代欧米の国家間関係の開始)にも当然日本という国はありましたが、国際法の誕生が日本という国を主体の一つとして認知しなければならなくなったのでしょう。
そういう意味で国際社会と国際法の誕生により日本という交際社会の立場は進行し始めたという事でしょう。
無論古代にも国家間関係はありましたが国際法という観念と概念は確立しては居なかったでしょう。
    • good
    • 0

国際法上の見解から回答しませう



>国際法、あるいは政治学から見て、日本は飛鳥時代から現在まで一つの国家が継続しているのでしょうか?それとも、いくつかの国に分けて考えられるのでしょうか?

まず日本社会に存在している国家は、国際法上では、大日本帝国・日本国、のみと考えるのが妥当だろう
それ以前は、国家ではなく、国に過ぎない。もっとも大日本帝国以前の統治体については、国際法的には、政府と見なせる組織がある、とは言えるだろう
本件の質問は、国家であって、政体・政府ではないことから、大日本帝国以降の継続性について回答する必要性があるだろうが、
 継続性についてはポツダム宣言からSF条約までの空白状態があることから、断絶が一旦ある継続性・連続性を認める余地があろう
しかし、大日本帝国から日本国に変容している・・という意味では、継続性を認めない見解もあろう
さtれ、飛鳥時代から~という見解については、上記したように「国家」ではないことから原初としては認めることが出来ない。
あくまでも日本社会を代表する国としては、大宝律令に確認できる「日本」という名称が国になるだろうが、それを『国家』とするのは、適切ではない。
仔細は、国民国家という概念で説明するべきだろうが、補足説明の要請があれば回答しよう

>飛鳥時代以降1945年までは天皇主権の国家が続いていましたが、戦後の憲法では主権在民となって政体が根本的に変わっていますね。
そこで、私は新憲法施行以前と以降とでは別の国家ではないかと思うのですが、どうなのでしょうか?
あるいは、明治維新でも別の国家に移行したのでしょうか?

政体の変化によって国家が変容する、という必然性はない
例えば、王政から立憲君主制に移行したとしても、対外的・内的な国名が変わらない事例もあるように、政体と国家名称は全面的には関連しない
しかし、政体変更をもって国名が変更される事例が多いことを考えれば、質問の発想はナンセンスでもないだろう
もっとも、質問に関しては、確実に、「大日本帝国」から「日本国」に変わったことを指摘できることから、別の国家と看做すのが適切だろう
ただし、憲法の名称が変わったことを受けて・・という話ではない
要は、国家名称は、対外的な概念であって、対外的な看板の付け替えの話に過ぎない・・とも言える
したがって、現在の日本国は、現憲法の名称から「日本国」と表現するのではなく、外交書類及び対外的国家名称として「日本国」を利用していることから、日本国に変化した・・というのが妥当だろう
仔細は、国家の構成要件含めて説明するべきだろうが、承認説にしろ、非承認説にしろ、国家という概念が内的なもので収束できないものであって、対外的概念であることは当然のことであろう

>あるいは、明治維新でも別の国家に移行したのでしょうか?

「大日本帝国」という名称を利用し、外交的に通用するようになった時代をもって、移行と看做すのが適切であろう
もっとも、大日本帝国という看板の原初は大日本帝国憲法となるだろう
なお、「大」の有無については、国際法原文を勘案するに、必然性はないだろう
「Empire of Japan」に近いニアンスの記述であって、『大』を意味する単語が国際法的には確認できない現実もある

>別の国家に移行していたとしても、新国家は前の国家の継承国家として機能してきたので、対外的には飛鳥時代以来ずっと実質的には同一国家であったのでしょうが、

上記したとおりである
さて、”承継国家”の件だが、継承しているから、実質的には同一・・というのは論理的には必然性はない。
上記したように、そもそも大日本帝国以前には、国家はないのであって、あるのは、日本社会を代表する「国」である『日本』でしかない。

>ここでは、後続の国家がどう振る舞ったかには関係なく、国家が(少なくとも)一旦は途切れたのか、否かを教えて下さい。

上記したように、ポツダム宣言受諾による断絶は確認できる
そして、国家としての名称の変更によって、継続性は別にして、途切れていると考えるのが適切であろう
なお、憲法を基調とする”国家観”については、立憲主義を採用しない事例の問題を考えれば問題がある
世界には少ないながらも成文憲法がない国はあるわけで、それを勘案すれば、憲法を基調する国家観には普遍性・必然性は伴わないし
なにより、憲法を重複的に持ち得るケースにおいての問題が生じる
したがって、国家については対外的概念として抽象的に捉えることで解決するのが妥当であり、現実的であろう
もっとも、通俗的には、国家名称ではなく、社会としての国の通称を利用するに過ぎないのであって、国家と国の相違性は希薄に感じられるだろう

既出の回答者のレベルの高低差には呆れかえるが、そもそも、国家・国・政体・政府という多元的な基準・概念と一緒くたにするのは適切ではないだろう
むしろ、それらを分離して理解することのほうが大過ないものであろうことから、仔細は峻別して論説した。

仔細質問があれば、補足記述に応じて回答及び私見を述べたい

以上
    • good
    • 0

日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正規定に基づいて改定された。


よって戦前国家と戦後国家は継続している。

国家は何か?といえば、他国と交渉する権利と義務を持っている主体。
あるいは、他国と条約を結ぶことができて、守らせる権利と守らされる義務を持つ主体。


大日本帝国憲法下において任命された外務大臣とそのもとで作られた大本営を代表した参謀総長が降伏文章に調印した。
じゃぁ日本国憲法になった段階で、「あの降伏文章に調印したのは、関係ない国です」といえるか?言えない。継承しているから。

明治政府は江戸幕府が調印した条約改正を明治44年に完了(というか、この年に関税自主権を回復)なんで明治44年になったかというと、江戸幕府が締結した条約を、江戸幕府という政権から継承した政権であるから。

江戸時代末期の条約締結以前に関して

※ 17世紀から国際法体系は欧州ローカルルールとして創りだされて、19世紀から世界に広がった。
なので、16世紀 17世紀の東アジアの国際関係に、その後に創りだされた国際法体系を当てはめても意味が無いと考える。

新国家は前の国家の継承国家として機能してきたので

近代国際法体系は、内心はどうだろうと、外面的にどのように拘束されるかどうかだけの話なので、外面の条約関係以外の話をしても意味が無い。
    • good
    • 0

NO.6 です。



>で、「国際法、国際政治では」と限定して
質問しています。

仰ることの意味がよくわからないでいるのですが、いわゆる「国際法」での国の定義といわれるものは、現在の世界で、一般的にその国が対外的に交渉能力をもつかどうかということで認証されるだけなので、古代の諸国家もその意味ではどんな形であれ対外的にみとめられていれば国といえただろうと思います。ここで言われる国は、単に対外的に国として統一した交渉実体があればそれでいいということですから、そういう意味では王制が共和せいになったところでフランスとして対外的に交渉能力が引き継がれて一つの国として継続していたといえるわけです。ですから「国際法、国際政治では」と限定して もあまり意味はないともいえるわけです。




>>最もその権力が強化されたのが、明治維新から昭和20年までの時代です

>明治・大正期に実際の権力を握っていたのは当初は政府で、
昭和に入ってからは軍部でした。
つまり、この時代の天皇権力は限定されたものだったのではないでしょうか。

その通りです。私が言ったことは「天皇としての相対的な権力」が明治期で極大になったと言いたかったのです。


>明治維新から昭和20年までよりも、奈良時代の天皇の方が権力を握っていたと思います。

このあたりは微妙なところです。大化の改新以前では間違いなく「天皇の祖先である豪族」が他を圧して名実ともに強大だった時期があったと思いますが、それ以後の天皇が国家的な政治のなかでどんな役割を演じたのか、よくわかっていない面があり、更にその祖先とのつながりも継続性があるかどうかは不明です。かくじつなところでは、仰るように改新後の律令制が始まった奈良時代においてもっとも天皇制がよく機能したということは言えるかもしれません。


>国際法、国際政治で言う「国家」から見て、日本は幾つの国家に
分けることができるかについてご

対外的には、天皇から実質的に藤原摂政時代、そして武家が権力を握った時代、明治維新で天皇のもとに官僚政治家が政治権力を得た時代、戦後の占領期、そして現在 というこtになるのかもしれません。しかし、それは単なる政権の交代に過ぎず、一面で天皇はすべての時代で国家の中枢に連綿といて誰もがそれを無視できなかった。国家の代表的な象徴的な存在でありえたという意味で日本は継続的な単一国家だったとも言えると思います。
    • good
    • 0

ええっとですね、日本の天皇制というのは極めて特異的なローカルルールで成立しているのですよ。

それを「国際法」というスタンダードルールで理解しようとすると理解はできないと思います。なぜなら、天皇制とそれに伴う日本の権力構造というのは外国の存在を前提にしていないからです。
日本の権力構造が外国の存在を前提にしていない、というのは、実は日本では軍隊というのはほとんど国内紛争のための存在だったんですね。平安時代にしても江戸時代にしても、日本国内で戦乱が終わって平和な時代が訪れると、実質的に日本の軍事力はゼロになります。江戸時代は名目上は武家政権つまり軍人政権なのですが、しかし実質的に江戸時代も5代将軍くらいの時代になるともう武士は軍人ではなく官僚となっています。
そして、それだけ日本の軍事力が実質ゼロになっても、その平和が外圧によって危険にさらされるということはありませんでした。例外が元寇とペリー来航だけです。

そしてそういうガラパゴスな環境の中で、天皇家というのは極めてユニークなサバイバル術を身につけました。それは、時の権力者に権力者であることを証明する「権力発行機関」として生き残ることでした。自分自身では権力を持たず(後醍醐天皇のように自ら権力を持とうとした人もちょいちょいは出ましたが)、権力者にお墨付きを与えることで、その権威を保ちました。
権力者側も、ヘタに天皇家を根絶やしにして人々の反感を買うより、名目上天皇家の家臣になることで天皇家の権威を利用し、そして天皇家に自分の親族を入れることで天皇そのものを自分の血族にして傀儡として利用するほうを選んだのです。そしてその方法を取る限り、日本国内という「ムラ社会」の中では不文律として成立していたのです。

そもそも日本の社会構造そのものが「どこに権力と責任があるかまったく曖昧」ですよね。例えば今の政治で野田首相がいちばん権力者なのかというと、そうとはいえない。森首相の時代なんか、明らかに自民党いちばんの権力者は野中広務氏でしたよね。
福島第一原発の事故にしても、今なにかと話題の大津市のいじめ自殺問題にしても、「誰が責任者なんですか」となると途端に分からなくなる。所長?社長?原子力保安委員会?あるいは、校長?教育委員会?市長?どれも「そうであるような、そうでないような」ですよね。企業でも、社長が単なるお飾りに過ぎない場合は少なくありません。

ですから、天皇家システムが日本の政治の代表なのかというと「そうであるような、あるいはそうでないような」という極めて曖昧な答えになってしまうのです。

それゆえの国際基準とのズレというのはありまして、例えば幕末にペリー一行と江戸幕府が交渉をしたときに、ほぼ交渉内容が合意に至ったときにアメリカ側が「では合意文書を作りましょう」といいました。当然のことですね。すると、幕府側は「ちょっと待って。朝廷にこのことをかけて了承をもらっとくから」と言い出しました。
そしてそのときにようやくアメリカ側はショーグンが日本の国王じゃなくてテンノーちゅうのがいることを知ります。欧米人たるアメリカ側は当然、「え?お前ら出先機関じゃん。それなら、幕府と話をしないで朝廷と直接交渉するよ。だって日本の国王は朝廷になるんだろ」と欧米基準では当然のリアクションになりました。すると今度は幕府側が大慌てで「いや、名目上朝廷ってのがあるんだけど、実質的な権力は幕府が持っていてですね・・・」としどろもどろで説明し、アメリカ側も混乱して「わけがわからねえ」とボヤく結果となっています。

最終的な回答としては、日本の権力構造は極めてガラパゴス化しているので、欧米基準で判断することは不可能であると思います。
    • good
    • 0

国家の継続性をどんな見方でとらえるかによって異なった結論が出ると思いますが、日本はおっしゃるように大化の改新以後は、世襲の天皇を中心とした「天皇制」という宗教的な政治形態が(たぶんその初期から)建前として構築され、それがずっと現在まで続いている(それゆえに長く続いた)とされるのが現在の一般的な考え方であろうと思います。

最もその権力が強化されたのが、明治維新から昭和20年までの時代です。

国家権力の中心はその間に様々変わりましたから、それを国家ということにすれば、何度も国家は途切れ、変化してきたということも言えるでしょう。明治維新もそうですし、戦後のアメリカによる占領時期も途切れていたといえます。

この回答への補足

>国家の継続性をどんな見方でとらえるかによって異なった結論が出ると思いますが

その通りだと思います。
ですから、「国際法、国際政治では」と限定して質問しています。

>最もその権力が強化されたのが、明治維新から昭和20年までの時代です

明治・大正期に実際の権力を握っていたのは当初は政府で、
昭和に入ってからは軍部でした。
つまり、この時代の天皇権力は限定されたものだったのではないでしょうか。
(東京裁判で天皇が断罪されなかった一因はここにあるかと。政治的配慮もあったようですが)

明治維新から昭和20年までよりも、奈良時代の天皇の方が権力を握っていたと思います。


ということで、できれば、国際法、国際政治で言う「国家」から見て、日本は幾つの国家に
分けることができるかについてご教示いただければ嬉しいです。

補足日時:2012/07/15 21:46
    • good
    • 0

関東は継続していたと思われるが、関西は歴史ドロボーに遭遇し乗っ取られたと考えるべき。


嘘吐き天皇(エンペラー)は、自分達こそが古き時の中で継続していたと思い込んでいたが、長野県松代町皆神山採掘によって露見した。

また、明治維新から嘘吐き天皇が国のトップに立ち、嘘国家が始まった。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!