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「人を殺してはいけない」という文化が根付いたのは
いつ頃からでどのようにしてそうなったのでしょう?
その歴史を知りたいです。
日本の場合でも世界の場合でもいいです。

A 回答 (10件)

農耕開始前の狩猟社会では、


寧ろ争い事が少なかったのかも知れませんね。

『大道廃れて仁義有り。(孔子)』
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/14 03:17

自分が思いつくのは「モーセの十戒」です。


この中に「殺してはならない」ってのがあって、年代は紀元前13世紀頃らしいです。

ちなみに以下「十戒」です。

1.あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
2.あなたはいかなる像も造ってはならない。
3.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日を心に留め、これを聖別せよ。
5.あなたの父母を敬え。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.隣人に関して偽証してはならない。
10.隣人のものを一切欲してはならない。
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この回答へのお礼

モーセはなぜ「殺してはならない」としたのでしょうかね。
殺すことで苦痛を与えたり家族や友人恋人を悲しませるの
はいけないと思ったからでしょうかね。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/14 02:40

サルなどの社会でもむやみに仲間のサルを殺さない。

だから、分化とも言えないくらい前からでしょう。あるいは人類と言えないくらい前からでしょう。
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この回答へのお礼

殺したくなっても「殺してはいけない」というブレーキがかかったから
殺さないのか、それとも殺したいと思うことがほとんどなかったのか?
どうなんでしょう。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/14 02:44

鎌倉時代初期。



それまでは、刑法は、地方自治体や荘園任せでした。
言い換えれば、中央の統治がそこまで及ばない、
及ばせられないほど、奈良や京都から遠かった。

中央からいちいち裁判官を派遣して裁判できない、
文書をかける人がいない、
今も同じく、ムラの事情があって調書など作れない
(物を取られたという人がいて、調書を作る段階で
「いやあ、あれはあげたんですよ。忘れてました」
と、ムラの中の力関係でコロコロ変わります。

そういうわけで、その土地任せでした

源平合戦は、その価値観を一変させました

内戦は、捕虜を奴隷として各地に移動させます
つまり、文化交流が行われるのです

大規模なものでは、アレクサンドロス大王のマケドニア統一があります

あまりにも多くの価値化や文化が交流し合った日本に、
統一価値観が生まれました

それまで一般庶民に布教が禁じられていた
というか
貴族のステイタスシンボルであった
「仏教」です

平安時代の仏教は

「この世でいっぱい功徳を積むと、死んでから極楽浄土へ行ける」
だったので、10円玉のデザインにもなっている
平等院鳳凰堂のようなテーマパークを作り、
それを功徳としていました。

源平合戦で東大寺まで焼かれたら、
そんな説など信じる人はいません

「みんなが信じられるフィクション」
が、受けました

比叡山延暦寺という「仏教の大学」を卒業した人が
「庶民への仏教布教禁止」をする政府がなくなったのをいいことに
全国を放浪して仏教を広めました。
まったく字も読めない、弥生時代と同じような原始人相手にです。
命がけです

その教えの一つに
「むやみに殺生をしてはいけません」
があり、
これは仏陀の教え通りなのですが
「やたらと人を殺すのははいけません」
「なぜだ」
「死んでから地獄に落ちます。地獄はこんな苦しいところです」
(こんなこと、ブッダは一言も言ってはいない)
「殺していいのは何だ」
となったとき、よくわからない坊主が、適当に苦し紛れに
「毛の生えているのはヒトと同類です。むやみに殺してはいけません」
という、生命への差別ができました

坊主みんながみんな
琵琶法師ではなかったのです


結論
1250年頃。
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この回答へのお礼

なるほど、仏教の普及で根付いた。
仏教はなぜ「むやみに殺生をしてはいけません」という教えに
したんでしょうかね? 殺すことで苦痛を与えたり家族友人恋人
を悲しませるのはいけないと考えたのでしょうか?

ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/14 02:49

いつ根付いたかはわかりませんが、鎌倉幕府の連署であった北条重時はこんな教訓を子どもに与えています。


「腹が立ってもむやみに人を殺してはいけない」
この頃はまだ人を殺してはいけないという文化は根付いていなかったのでしょう。

思うに、人を殺していけないという意識が根付くためには、人を殺すと罰せられるという厳格な法の執行がなされる環境が必須なのではないかと。国家による刑法の厳格化が一つの画期ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

北条重時はなぜそれを教訓としたんでしょうかね?
殺すことで苦痛を与えたり家族友人恋人
を悲しませるのはいけないと考えたのでしょうか?
社会の発展のためでしょうか?

ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/14 02:52

この間、NHKの番組でやっていたのですが、前石器時代には「人を殺せる道具」が発明されていたということです。



もちろん本来は狩猟用の道具なのですが、野生動物を殺して狩る事ができるということは当然に、人間を殺傷できるということでもあります。

この道具が出来た頃、人類は小さな集落から大きな集団に社会が変化したといわれています。理由は簡単で「争いごとが起きたときに、罰則を適用することが出来るようになったから」です。

それまでは争いがあっても力が弱い集団(家族単位)は力の強い集団に暴力を受けても取締りをしてくれるところは無く(警察権が未整備)殺されても泣き寝入りだったものが、道具のおかげで一定の水準以上の武器の使い手であれば、隊を組むことで乱暴者を懲らしめることができるようになったため、家族以上の集団で生活することも可能になり、また暴力や殺人などもコントロールできるようになったのです。

したがって、世界的に見て、人の殺傷能力を持つ武器が出来、それを利用して警察権が発動できる程度の集団が出来たときが「殺人禁忌」の文化が出来たとき、といえるのではないでしょうか。

ちなみにその「武器」とは投擲器のことでNHKの番組はNHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか」です。
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この回答へのお礼

あ~、なるほど、警察権の発動ができるようになったときですか。

分かりやすい説明ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/14 02:55

大衆が助け合いの価値を悟った頃からでしょう。

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この回答へのお礼

ん~、どうなんでしょう?
その集団が数人程度と少なかったら、普段は助け合っていてもちょっとした
いざこざとかで「殺したい」と思っても「殺すと助け合ってくれる人が1人
少なくなる」と考えてブレーキがかかる(殺してはいけないと思う)ことは
あると思うのですが
逆に集団が何十人とかなったら「こいつ1人殺しても俺は困らない」からって
殺しちゃうことがあるかな、と思うんですが。
もっと集団が大きくなると、殺人を取り締まる人たちが現れて
罰則ができてルール化されたり、ってことになるのかな、と。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/14 03:16

平安時代に死刑が無かった、というのは割と有名なことですね。


人道的上の問題ではなく、殺された人は怨霊になり祟るから、というのが理由だったようですが。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/14 22:31

支配者達には被支配階級からの支援が必要でしょう。

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この回答へのお礼

???

お礼日時:2012/08/14 22:35

 この問題。

一見して成り立っているかのような誤解を与えていますが、実は成り立っていません。
その理由として
(1)質問者は「文化」として一括りにしていますが、「文化」は階層によって異なる。これは社会科学や歴史学では当たり前の事項として入門者が学ぶべき前提です。それを踏まえていない。

(2)「文化」には表象形態としての「もの」カルチャー(縄文文化や鎌倉文化として説明される「その時代毎に示される事物やその総称」)と構造に規定された時代(古代や中世)そして空間として地域(都市部や中間地帯)そして人が集団として属する組織(身分及び階層)毎に示す特性などの条件的相違を無視している、或いは知らない、理解していない、が原因にあります。
 では歴史学の立場(日本中世社会史)のスタンスからお話しさせていただきます。

質問者が問う「殺人禁忌」には法規範による「死罪」が含まれると仮定した場合。
少なくとも日本の中世には「二つの規範」があることは既に知られている事象です。これを「王法・仏法」などと呼んでいます(気の効いた高校生ならば知っているはずです)。
 「王法」とは文字どおり「権力によって規定された法規範」であり、そこには律令・幕府法・在地法などの位相が示されています。
 これに対し「仏法」とは仏の法、つまりそうした現実的社会を内包しつつ、それとは隔絶された超法規的存在であるともいえます。判りやすくいえば(=近代の発想からいえば)、倫理観や宗教観に裏打ちされた考え方ともいえます。
 この両者がどの様な関係にあるのかを具体的に語る史料として室町期の『義経記』巻六「判官南都へ忍び御出ある事」の一節を引用します。義経の太刀を強奪することを企てた「奈良法師」但馬阿闍梨が配下の者に対し具体的な指示を与え「如何なる痴者(しれもの)ぞ、仏法興隆のところに度々慮外して罪作るこそ心得ね、命な殺しそ、侍ならば髻を切つて寺中を追へ、凡下ならば耳鼻を削りて追出せ」というものです。つまり「仏法興隆のところ(=興福寺の寺内)」であるから殺しはしない、もしこれが「侍」ならば「髻を切つて」 、「凡下(一般人)」ならば「耳鼻を削り」追い出してやれとの脅し文句です。ここに示されているのは「相手が侍ならば、侍としての身分を示す『髻』を奪うこと。凡下ならば『耳鼻削ぎ』の罰を与えること」でそれが社会的な「死」を象徴するとの論理であり、これが「仏法興隆のところ」であるから殺生を忌避するがゆえに、一命を助け「耳鼻削ぎ」を行うとの論理です。
 さて、こうした陰謀は義経の前に返り討ちに遭い、件の但馬阿闍梨は捕縛される結果となりますがその時の義経の言葉は「首を切つて捨てばやと思へども、汝は法師なり。某は俗なり、俗の身として僧を切らん事仏を害し奉るに似たれば、汝を助くるなり」と但馬阿闍梨にいうと、すかさず「大の法師を取つて仰け、胸を踏まへ、刀を抜きて、耳と鼻を削りて放され」た、という。つまり本来は首をはねるところだが、仏に仕える僧侶であることに免じて命は助けてやるとして耳鼻削ぎを行い追放した、との事象です。
 こうした観点からも質問者が「一括り」でそれも「現代の価値観を前提として論理構築」をしているとの点でこの質問が成り立っていないことを指摘させていただきます。
 他にも、信長が比叡山を焼き討ちした、一向門徒衆に対する殺戮行為があるとの史実から、少なくとも中世では殺人がタブーとはなされていなかったことを指摘させていただきます。
 なお「平安期」に関しても別途「事例に基づいての説明」をさせていただきます。
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この回答へのお礼

何を「殺人禁忌の文化」と考えるかは
受け取る人が自由に受け取って結構です、という質問です。

質問自体が成り立っていないとしても、寄せられた回答に対して
「それは文化じゃない」とか文句を言ってるわけじゃないんだから
Q&Aとしては立派に成り立っているでしょ。

お礼日時:2012/08/14 22:50

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