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今、歴史はブームだそうな。
しかし、小説等で一部の武将が過剰に評価されたり、貶められたり、そしてこれが一番重要なのですが、創作が史実の様に語られてしまうのが残念なのですな。
史実について話しているのに、反論が明らかな創作を根拠にしているのでは蒟蒻問答にしかならんのです。(´Д⊂モウダメポ
もちろん、史実が新たな発見によって変わっていくのはいいんですよ。
でも創作物をまに受けて捻じ曲げるのだけは勘弁して。

と、ひとしきり愚痴を言ったところで質問です。
あなたが知る不当な評価をされている大名、武将を教えてください。
どう不当なのか、どんな事をした人なのか詳しいほどありがたい。
高すぎる評価、低すぎる評価、若しくは「無視されすぎじゃね?」とか、なんでも結構です。
なお、当方好みが戦国時代に偏っておりますので、そのへんはお察しください。

PS:お前は誰が不当に評価されていると思っているんだ?とか言われそうですが、書き出すと長くなる上みなさんの自由な意見を阻害する恐れがあるため、あえて書きません。
と言いつつ、北関東の某大名は評価が低すぎ&無視されすぎ。とか書いてみる。

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A 回答 (5件)

基本的には、人気のある武将さんは概ねインフレ傾向の高い評価でしょうね




とにかく、講談の類や江戸時代に編纂された史実性無視の歴史書の類に依拠した戦国時代の人物像が多いのも不当でしょうね

>あなたが知る不当な評価をされている大名、武将を教えてください。
どう不当なのか、どんな事をした人なのか詳しいほどありがたい。

BEST5でいいですか?
1位:最上義光
 とにかく陰謀好きのイメージが先行している。しかも、史実として破綻している俗説がまかり通って悪評が先行している

2位:大道寺政繁
 小田原征伐で北条に離反したことで悪評が大きい。裏切りに対する現代的イメージを根底にして、当時の一所懸命の武士道・士道の類の意識での評価が皆無。川越発展の最功労者とも言えるのに・・・

3位:蘆名盛氏
4位:有馬晴純 
5位:陶晴賢 


>高すぎる評価、低すぎる評価、若しくは「無視されすぎじゃね?」とか、なんでも結構です。
なお、当方好みが戦国時代に偏っておりますので、そのへんはお察しください。

高すぎる評価:中部・近畿・越後長尾家方面はインフレ評価すぎる
低すぎる評価:東北・関東


>と言いつつ、北関東の某大名は評価が低すぎ&無視されすぎ。とか書いてみる。

北関東って地味なんだよね。佐竹・那須・宇都宮・結城・小田・壬生・成田とか・・

北条が比較的評価が渋いケースが多いので、北条に蹂躙されるのは必然的に評価が低いんだろうね
佐竹義重・結城晴朝・那須資晴・大関高増・大田原晴清・菅谷政貞・菅谷範政とかいぶし銀なのが多いのに・・・
上州はね・・色々とあってね・・・

でもね・・一番不幸なのは、織田家に蹂躙された上で、地味な伊勢国人衆だと思うw



>もちろん、史実が新たな発見によって変わっていくのはいいんですよ。
でも創作物をまに受けて捻じ曲げるのだけは勘弁して。

残念だけど、史実主義者って「ヲタク」扱いで、KY扱いなんだよね
三国志なんか顕著だけど、日本の歴史は講談などの大衆芸能の影響が中国と同じで顕著すぎる
そして、その大衆芸能の影響を更に加速させたのが、某歴史シミューレションゲームの大手メーカーw

思うんだが、本当に人名にしろ、いい加減なのが多過ぎる
”立花道雪”なんか、当人は全く自覚してなかっただろうしねw
あと、戦国時代は、どうしても信長時代がメインになってしまう。尼子経久の全盛期も魅力的だし、太田道灌の時代の関東三国志なんかも凄く魅力的だし、どうも、大衆の歴史嗜好は偏りがあって、好きになれない


そういえば、”直江状”について酷評した研究者が知己にいるのだが、悪意を買ったようで・・ゲフンゲフン
研究も金がかかるので、越後長尾家好きパトロンの激昂を受けて在野となったww

蛇足すぎた・・すまそ

ちなみに、北関東扱いは微妙だが、下館の水谷正村がかなり好きw
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
最上義光ですか。確かに極悪非道の権化みたいな書かれ方ですものね。特に伊達派や上杉派の人に・・・。
こういう人物にもっと光を当てて欲しいものですね。
某シミュレーションゲームについては納得です。知識のないところにあれがドーンと入ってくるわけですから、誤って刷り込まれてしまうのでしょうね。
ですが、とっかかりとしてはとても良いツールだと思うので、それ自体は個人的には肯定的なのですよ。(ゲームが面白いという意味ではないですが。)
創作と史実の境界を、受け入れる側がはっきりさせて置けば問題ないと思うのです。
しかし今日日歴史を疑って見る人が減った気がしませんか。海外では特にひどいようです。脱線失礼。
下館!! 水谷正村!!
実は私、近所に住んでいますが、地元の武将は余り解っていなかったりして・・・。m(_ _)mスミマセン
いあ、勉強になります。

お礼日時:2012/10/06 19:37

・立花宗茂


戦国ファンでは名前は知られているが、一般への認知度が低い。「陪臣だから」というのなら、大河の主人公になった直江兼続に負けるのはまだしも、片倉景綱や山県昌景、本多忠勝や島左近や大谷吉継より知名度も人気も負けているというのはおかしいでしょう。
部下の人望も抜群な上、守れば無敵、攻めれば必ず勝つ。しかも相手は戦国チートである島津軍とどこにケチをつければいいのか分からないほどです。

・福島正則
「槍一本でのし上がった猪武者で、家康にまんまと乗せられてむしろ豊臣家を滅亡に導いた」という扱いで、まあそういえばそうなんだけど加藤清正も同じのはずなのに清正公になれなかった人物。でも本当は部下思いの優しい人。広島城を改易されるとき、家臣は幕府の使者に対し当初は「聞いてねえ。俺らは福島正則の部下だ。文句があるなら戦ってやろうじゃねえか」と男らしい啖呵を切ったが、結局従うことになると混乱することもなく一糸乱れずに立派な引き渡しをしたそうな。家臣団への教育が行き届いていた証明で、そのあまりに武士らしい態度に各大名家から再就職の引く手あまただったとか。
社会人として働くと分かりますが、自分一人が名声を立てるより、部下を育てる方が何倍も難しい。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

立花宗茂ですか。渋い。^^
関ヶ原敗戦組でも稀有な大名復帰の実力は伊達じゃないですよね。
最近のビジュアル系戦国もどき格闘ゲームのせいで奥さんの誾千代さんの方が人気があるとかないとか。頑張れ婿養子!!

福島正則も関ヶ原の戦後処理されてしまった人物ですね。惜しい。
本来なら広島県は福島公だったハズなのに・・・。
広島と言えば毛利。毛利というば長州。長州といえば会津と犬猿の仲。福島公が健在だったら架け橋になれたのに・・・などとむちゃくちゃな三段撃ちならぬ三段論法を展開してみました。ハイ、酔ってます(・。・;

お礼日時:2012/10/08 20:44

戦国武将とは言いがたいですが黒田忠之を挙げます。


黒田騒動を引き起こし創作では「主家滅ぶべし(滝口康彦)」などで「暗君」として描かれる事が多いですが、実際には平和な時代に入っては無意味となった戦国時代の槍働きで大きな領地を得て、半独立領主として藩政にも影響力を行使する有力家臣の力を削ぎ、藩主権力の構築に尽力していた人物です。
このため当然ながら家臣団は不満を高め、それがお家騒動を引き起こし、また家臣達の悪評により「暗君」とされてしまいましたが、もし忠之が有力家臣の力を削がなければ、当時改易された最上家や加藤家と同様、黒田家も有力家臣同士の内紛のために改易の憂き目を見る危険性がありました。
確かに領地を削減され、権力を奪われた家臣から見れば忠之は「暴君・暗君」でしょうけど、彼は立派に藩主としての勤めを果たし、黒田家が幕末まで生き残る土台を固めたと評価すべきです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
これ、何処の大名も頭を痛めたことと思います。
家康なんて「過ぎたるもの」とまで言われた本多忠勝を左遷してますしね。
「狡兎死して走狗烹らる」
嫌な話ですが、これやらないと無駄飯食らいの役たたず家臣が多くて財政が傾くのは必定ですからね。
現在のように功績に対する報恩が一代限りであればこんなことをしなくても良かったんでしょうがね。(一代限りでも弊害が多いのはこの際目をつぶるとして・・・。)

お礼日時:2012/10/06 20:28

太田資正


川尻秀隆
真田信幸
羽柴秀勝
豊臣秀長

彼らは過小評価されています
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
羽柴秀長、真田信之などは結構評価が高い気がしますが、まだまだ過小評価のようですな^^。
よかったらどんなところとか書いてくださると嬉しいです。

お礼日時:2012/10/06 20:01

代表格は小早川秀秋じゃないのかなぁ


優柔不断・裏切り者など評価は最低

実態は、最初から東軍支持だし、遅れたのは若しかしたら赤座・朽木などを説得していた可能性がある。実際、彼らは小早川と共に西軍を攻撃しています。
朝鮮出兵では敵将を16人も自ら討ち取るほどの豪将
身長も190cm超える巨漢です

小早川の重臣・稲葉正成は、本来は外様なのに譜代格が与えられ、最終的に10万石の大名になっています。春日局の功績もありますが、破格の待遇であったのは事実であり、それが徳川の小早川への評価ではないでしょうか
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
成程、小早川秀秋とは。
義父の小早川隆景は大好きですが、こちらには確かにあまり目がいってませんでした。
やはり色々な人の話を聞いてみるものですね。

ところで、・・・秀吉が毛利本家に養子として送り込もうとしたのを、小早川隆景が自分の養子にしたいと懇願して阻止した(毛利を守った)・・・と言う話がありますが、実際のところどうなのでしょう。

お礼日時:2012/10/06 19:53

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Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
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Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

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 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


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たとえば、
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Q戦国時代でまさに知将と言えるすごい武将を教えて下さい

戦国時代でまさに知将と言えるすごい武将を教えて下さい
できればその理由なども書いて頂けたら嬉しいです

Aベストアンサー

一般的に「知将」というと戦上手な武将を指すと思うのですが、「頭がいい」というような意味合いもあると思うので、インテリというか知識人的な意味で明智光秀を挙げたいと思います。

明智光秀という人はなかなか謎が多い人物で、来歴がよくわからないのですが元々は足利義昭の家臣でした。将軍家の家臣ですから天皇家や公家ともかなり太いパイプを持っていたらしく、信長に重用されました。義昭が追放されるまでは信長の家臣であり、義昭の家臣でもありました。そういうのが認められていたのはいかな戦国時代とはいえ異例だと思います。
信長の家臣の中で、最も早く「一国一城の主」となったのが他ならぬ光秀です。京都に程近い坂本城が与えられました。光秀は秀吉より柴田勝家より新参の家臣で、その抜擢ぶりも極めて異例です。いかに信長が重用していたかが分かります。
合戦で活躍したイメージはないですが、参加した合戦でこれといった負け戦も特になく、信長の野望を始めゲームでの武力値などのレートはどれもかなり高いですね。丹波国を平定してその治世は大変な善政だったらしく、今でもあの辺りでは「光秀公は名将、信長は悪者」なんだそうです。何より、他ならぬ本能寺の変を起こすときに彼の家臣から裏切り者は誰も出ず、彼の直卒の家臣は全員最後まで光秀についていきました。あの「人たらしの天才」秀吉の切り崩し工作に崩された家臣は誰もいなかったのです。
公家や天皇家、将軍家との関係も深かったので知識人でもあったでしょう。ああいうところは様々なしきたりやなんやが何かとうるさいところで、その辺りの事情に疎い(当時からすると)田舎侍だった織田家ではありがたい存在だったと思います。

光秀の人となりを知らせるあるエピソードがあります。彼の奥さんになる人は結婚の直前に疱瘡だかなんだかにかかり、顔の左側に痕が残ってしまったそうです。父親は醜い娘を嫁にやるのは失礼だと思い、妹を嫁におくったそうです。光秀は最初それを知らなかったのですが、事情を知ると「自分の妻になる女性は姉のはずだ」と妹を送り返し姉を妻にしたそうです。奥さんはそれを感謝して光秀のそばにいるときは醜い顔を見せないようにいつも左側にいたんだとか。誰ですか、姉妹丼で羨ましいなどといったのは。

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Q貴方が下す、石田三成への評価

豪華絢爛たる戦国乱世の人材の内、長らく低い評価に甘んじていた代表的人物となれば、何と言っても石田三成ではないでしょうか。

私が子供の時分、まるで聖人君子の如く扱われていた加藤清正辺りがいる一方で、さながら権臣・佞臣としてそれはもう散々な評価が下されておりました石田三成、もっともその後両者に対する風向きが、少々変わったとの印象もありますが・・。

或る意味、徳川家康が側面支援そして企画・監督して、三成がキャスティング・主演した感のある関ヶ原、結果のみを考えれば、単に豊臣家の滅亡を早めただけとの御指摘もある一方で、彼のみが故秀吉への餞・レクイエムを手向けた唯一の子飼いであった、そうも取れるはず。

その後の歴史を知り得る我々から見れば、大坂の陣は付け足しに過ぎず、徳川政権成立へと至った最大のエポック・メイキングはやはり関ヶ原でして、豊臣の天下に別離を告げる或る種のセレモニーであった事は明確でしょう。

そもそも宇喜多秀家・上杉景勝といったごく稀な例外を除き、殆んどの大名家は家康の権勢に及び腰であった事実を見れば、彼が尻を叩かねばとても西方に10万もの大軍(もっとも実際に参戦したのは、その内の3割程度ではありましたが)を掻き集める事は不可能でした。

一方、人間の功利性を知り尽くした家康との比較に於いて、余りに正義・忠義といった倫理面のみを世を計る物差しとして捉え過ぎた甘さがあり、且つ敗れはしたが、東西20万もの大軍を参集せしめ、関ヶ原の戦いという後世に残る一大イベントを催して、なし崩しに徳川へという流れだけは食い止めた訳で、どうにかこうにか豊臣家の体面を保ったとの印象を持ちます。

さて前置きが長くなりましたが、主観・客観の如何に関わらず、皆様がお持ちの三成に対する評価・印象を御聞かせ下さい。

豪華絢爛たる戦国乱世の人材の内、長らく低い評価に甘んじていた代表的人物となれば、何と言っても石田三成ではないでしょうか。

私が子供の時分、まるで聖人君子の如く扱われていた加藤清正辺りがいる一方で、さながら権臣・佞臣としてそれはもう散々な評価が下されておりました石田三成、もっともその後両者に対する風向きが、少々変わったとの印象もありますが・・。

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Aベストアンサー

実は「最も武人らしい武人」
だったのでは?
三成は官僚というイメージがあり戦下手だが頭はキレる
しかし他人に媚びへつらうところが無かった(冗談の通じる性格ではなかった)ので嫌われていた部分もありました

しかし
主に忠実でまっすぐに一本の道を進む
その姿に名だたる名将が関ヶ原で三成のために命を捨てようとまでしたほどです
もしも戦場の総大将が三成ではなく毛利輝元だったら
大谷 宇喜多 小西 真田 佐竹 上杉と言う名将は豊臣に味方しなかったでしょう
「三成だったから」10万もの軍勢を集められたのだと思います


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