プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

昔は教会に通っており私の名前もキリスト教の聖書から貰いました。信心深いからというよりも"神"という存在に畏れを抱いていたから日曜学校にも飽きずに欠かさず通っていたのだと思います。謂わば監視している相手に対し私は"ちゃんと"してますよと誇示するように…

ただ高校生の時に異端審問などを調べている途中で宗教というものが本気で気持ち悪くなり今では寄り付かなくなりました。あんなに酷いことを教会の者がしているのに何故お救いにならないのかと。

畏れる対象がいなくなったことで不安よりも束縛感が消えて昔よりも自由な気がします。

私にとって今の段階では"神"は不必要な存在となってしまいましたが、そこに至るまでの過程は重要だったのでしょうか?また神は何処かにおられるのでしょうか?

まとまりのない文章で非常に申し訳ないのですが回答でなくても構いませんのでご意見いただけると嬉しいです。

A 回答 (26件中11~20件)

神がいるのか居ないのかわからんが、神を利用する人間がいることだけは確かですね。

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神はいます、具体的にあげる事が出来ます。

一人の人には一人の神です。

聖書の言葉で説明します。天国の住人或いは天国に一番近い存在とは『幼子』と書いてあります、この線で説明します。

幼子は『神と共にいます』その理由を挙げてみます。

人間も動物も植物も昆虫でさえも『全ての生きている、命あるものが』神によって生かされています。その理由は、命が授かった瞬間から『生命として働き始める事によって証明されています。』

そうして誕生した時には『既にどのように生きてゆくのかがプログラムされています。』

桜の木を例にするなら、その桜には全てがプログラムされて生まれています。花の色や形や葉の色や形や、匂いまでもその種として『生命として芽生えた瞬間』に全てが決められている事で『証明されています。』

その種として成長して行く事で、証明されています。

熊なら熊以外にはなりえません、蜘蛛だとしても、数ある蜘蛛の中でその種の蜘蛛としての『蜘蛛の巣を作ることも、行動様式も』形でさえも、決められて生まれてくる事で証明されています。

人間の場合のみ違います。人間の場合だけは『疑う事をします。』この疑うと云う事を『神に背く』と表現しています。

人間の場合でも『子供時代では、疑う事も知らないで、全て言われたことをすべて信じています。』そうして明日の事を思い煩う事も無く『自分は何のために生きているのだろうか?或いは人生とは何なんだろうかとか、自分は何者か?』と云った事にまでも疑いを差し挟むようになってゆきます。

この疑いが生じない状態を『天国』と表現しています。

この疑いが生じるために『人はパンのみて生きるものに在らず。』という、第二段階の魂の救いが必要になってきます。

この魂の救いを必要としている理由を、科学的に証拠をあげて見ます。

是は人間には『考えたり意識したりする意識、自我意識があります。』処が人間にはもう一つ生まれる前から意識が在りました、この意識を神と呼んでいますが?説明します。

人間の脳の構造上の問題です、二重構造になっていて『自我意識の背後に存在しながら、その影も形も見えないことによって分り難く、又信じる事さえ出来難くなっています。

ウイキペデアからの引用です。

『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』

簡単に説明するなら『右脳に存在する意識』が神に相当します、その理由は『その人間の生命の全てを握っている存在として働いている意識』だからです。

生命として芽生えた瞬間から働き始める働きそのものが『神』です、細胞分裂することや、その手順を全て知り尽くして働き始める機能を持っている意識です。

そうして誕生するや否や『笑う事も不安と云う事も、恐怖する事も安心する事も既に熟知している存在として、働いている機能を持っている意識です。』おまけに『自分はサルでもなく、馬でもない事を知っていて』人間として成長する事や髪の毛の色までも熟知している存在として機能している働きその者が『神』です。

幼子が天国に一番近い存在と言う理由は『左右の脳の機能の分化が進んでいなくて、一つのものとして働いていたからです。』

下等生物が『自分は何者か?』と疑問を抱かない事と同じです。

そうして思春期頃『脳の機能分化が完成に近くなります。』丁度中二病が始まる年代です。人間の脳に疑問が湧きあがり始める年代です。昔の宗教家が『出家を始める頃です。』

『人生に疑問を感じながらも、同時に無常も感じる年代です。』

右脳の機能が『生命維持装置』として働いている事や、自我意識の背後に控えていながら『自我意識に様々な情報を出している事』や『生命を守る為に』行動でさえ『右脳の意識が握っている事』を説明します。

身体に付いての全ての機能は、右脳の人格の管理下にあります。血圧も脈拍も呼吸もです。神経系統も、ホルモン系統も消化器官系統も全てです。身体の生命維持活動全てが『右脳の意識』の管理下にあります。この生まれる前から備わっていた『神に相当する、働きをする意識』に背く事が。

身体機能の異常感を訴えている障害、自律神経失調症、難治性の腸症候群に代表されるものや、心身症等に相当します。

身体機能に関して『神に背いた事』を意味します。幼子にはそういう疑う心が未だないからです。機能的な能力の問題です。


湧き上がる感情や、湧き上がる考えも、『自我意識の背後に居ながら』情報を送る事や情報交換という手段で、連絡を取っています。この様子が『脳卒中の為に、』分りやすく、或いは判り難く描かれている、脳科学者の動画を紹介します。

URL:

この動画で注目するべき処は、この体験が『見性体験』所謂『悟り』に相当する体験という事です。脳梁の中で『意識の根底で』左右の脳に存在する意識が出会えた体験です。この体験後では『二つの意識』は戦う事をしなくなります。

話が逸れました、本題に戻します。

右脳の意識は『無意識の底』に潜んでしまうため、自我意識とは『意識の表面上では』没交渉という関係式が成り立つようになります。この関係から『精神的なものは、如何してそうなるのか?』が分からないとされています。

精神疾患や自律神経失調症等や神経症などの原因は特定出来ないとされています。

『無意識の底に沈みこんでしまった』と言った所で、しっかり仕事をしています。

寒い所では、身体的には血管を収縮させて体温の消費を抑えています。身震いをさせる事で体温の上昇を図っています。おまけに暖かいところや、温かい飲み物さえ『探すように指示』さえ出しています。

この指示された事や、教えてもらった事を『疑ったり、信じられなくなる時』精神的な事柄や心に対して『神に背いた事』を意味します。つまり『意識地獄に落ちてしまう事』を意味します。

行動する機能を司っている神と争う場合に、メンタル面が弱いという現象『神経症』の症状になって表われます。

字を書く場合でも、喋る場合でも、手や足を動かす場合でも『無意識の底で活動している、神たる機能』無しでは、口でも手でも、歩く事も、出来なくなっています。挙句の果てには『眠る事さえ出来なくなっています』この場合では『不眠症』という立派な名前がつけられています。

人間が心でも身体でも体でも自由になれなくて、苦しい想いを抱く時には『神に背いています。』

幼子は疑う事を知らないために、天国に住んでいます。

お腹が空いた事も、満腹と云う事も、便意をもようす場合でも、この人と結婚をすると幸せになれるのかという場合も『全てその人に内在する神からの情報が元になっています。』

只この情報を『正しく受止める事が出来るのか、出来ないかで』将来的な破綻を招くのか、或いは破綻を防ぐ事が出来るのかが決まります。

それはその人が『欲や得や見得』というフェルターをしたままで『神の声が聞こえ難くなっている。』という場合では、当然の結果が待っているのかも知れません。

子供のように正直な自分の声が聞こえた時、例え困難が待っていたとしても
『幸福な結婚が保証されています。』神の声とは『本当の自分の声、という言い方も可能と思います。

生き難い想いは『自分自身を働かせている、自分自身の生命力』と仲違いしている事を意味します。

人間の苦しみとは『心の矛盾』の別称です。自律神経失調症等を代表する症候群も、神経症なども。心を病む事も同じです。

心の矛盾の解消で完治する事を意味します。心の矛盾の解消は『自我意識の機能では出来なかったと認める時です。』

自我意識は有限の存在です。右脳の意識は永遠の存在です。その証拠は『生まれた訳ではないところにあります』

生まれた訳ではないために、滅する事もない存在だからです。この事が分かる時。『例え自分の死が近くとも』死や生には、特別厭うところも、好むところも無くなっています。

好きとか嫌いという分別作用で、不安や恐怖が湧き上っている事が分かっているためです。
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神なんていませんよ。



なぜなら、仮にいたとしたら、人類を創造したことを後悔して、とっくに人類を滅ぼしていますよきっと。
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ついつい



神が存在するかどうかで
考えてしまいましたが、

神が要るのか、
つまり必要かどうか
という質問にもなりうると思いました。

そこで神が人にとって必要かどうかで
いえばこれは

どうなんでしょう。

世界中の人が神を必要としない世界。

一切、祈らない世界。

そういうのが良いという人が今は多いのかな。
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 No.4です。

その理論です。

  ○ 神とは何か?

   §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)

 さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

 とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。
 人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。


  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
   歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

 これに対する答えは むしろ簡単である。

 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。

 介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。

 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。

 いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。

 もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

 以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 
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神(=宗教)とは「道徳」の一種です。



宗教は…現世で良い行いをすれば死後幸せになれます。
道徳は…今良い行いをすれば社会は明るくなり、あなた自身にも良い環境が生まれます。

↑いずれにしても、清く正しく生きなさい。ということ。

 で質問の神はいるのか…いないと思います。
 理由:悲惨な戦争で命を落としたり、冤罪で処刑されたり、……人類誕生以来うらみ骨髄に達する出来事は数限りなくあったでしょうが、神は何もしません。知らん顔。
 うらみながら死んでいった人は死後幸せに暮らしているでしょうか。人には証明できません。
 神も証明しません。それどころかうらみ骨髄・怨念と復讐の心を持ってで死んでいく事件を今も作り続けています。  でも復讐できません。死ねば はいそれまーでーよー。
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科学の進歩のため人々が神様への信仰心をなくしましたね。



日本では長野県の諏訪大社に神様(現人神)早苗さま・諏訪子さま・神奈子さま がおられます。

東方風神録で会うことが出来ます。
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神なんて人が作り出した逃げ道そのものでしょう。


しかもそれが根付いてしまっていますから。
居るのか居ないのか?
苦しくなってくれば心の中に現れてきます。
そう、「苦しいときの神頼み!」。(笑)
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いないと思います。




居たらこんな無慈悲な事起きないのに。

神とは何かにすがりたい人間が作り出した幻かも知れません。
宗教めいた物を見る度に「神なんて居ない」と思います…。宗教にはまる者を見る度に言い様の無い憐れみというか、虚しさを覚えます。

自分の力で生きていくしかないんだよって…

ただ、ニュースなどで凄い奇跡的な出来事を見た時などは信じたくなりますね(笑)。

この世には必然として人間が居るだけです。生命から進化したという事実があって、例えそれが偶然や奇跡の連続であったとしても、この世に誕生したのだから偶然でも奇跡でも無く「必然」です。神が作ったのではありません!
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神なんて?


いませんよ。

そのほうがいろんな道理が通ってきます。

例)

シリア:あんな酷い事をする大統領、犠牲になる市民、神は何故そんな事を止められないのか。それは、神はそもそもいないからです。

震災:先に何故、神は伝えてくれないのか。それは、神など始めからいないからです。
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