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昔は教会に通っており私の名前もキリスト教の聖書から貰いました。信心深いからというよりも"神"という存在に畏れを抱いていたから日曜学校にも飽きずに欠かさず通っていたのだと思います。謂わば監視している相手に対し私は"ちゃんと"してますよと誇示するように…

ただ高校生の時に異端審問などを調べている途中で宗教というものが本気で気持ち悪くなり今では寄り付かなくなりました。あんなに酷いことを教会の者がしているのに何故お救いにならないのかと。

畏れる対象がいなくなったことで不安よりも束縛感が消えて昔よりも自由な気がします。

私にとって今の段階では"神"は不必要な存在となってしまいましたが、そこに至るまでの過程は重要だったのでしょうか?また神は何処かにおられるのでしょうか?

まとまりのない文章で非常に申し訳ないのですが回答でなくても構いませんのでご意見いただけると嬉しいです。

A 回答 (26件中21~26件)

ニーチェとかカントとか勉強したいものだ。


と思いつつ。

神がいるのかいないのか、は
結局、わからないという
不可知論に落ち着きます。

だからカントのあるなしの二律背反を学んだり、
要請を使って、いることにしたり。

ということになるんだと思います。

でもなんかなあ、と。

異端審問については、
一応、ヨーロッパの歴史だけが
キリスト教の歴史ではない、ということだけ。

でもまあ、どうかと思いますよね。

ニーチェはキリスト教を病気と呼んでいたような気がします。
つまり、信仰というのは闘病生活なんですよね。

ただ、「私を殺さないものは、私をいっそう強くする。」
といってもいますので、

キリスト教を糧に強くなれ。

ということになるのではないか、と。
ニーチェは愛を説く新約聖書よりも
闘争のある旧約聖書を評価していました。

キリスト教は批判しても、イエスを評価していました。

あとはまあ、神は、人間になった。
ということでしょう。

ここまで書いて思ったけど、
やっぱり、神のイメージって基本的に、
愛とか善とか全知全能なんだなあ、と。

それは、やっぱり、プラトン主義なんだよね。

ニーチェがプラトンをとにかく批判したのも
わかるような気がする。

あとは、
新約聖書を下手なギリシャ語と呼んだり。

ユダヤの民族神で、ホレブ山の神なんだから、
戦争しても不思議ではないと思うんだけど、

なぜか。

そんなに神というのは
善でないといけないのだろうか。
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信じるものの心の中に。

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 こんにちは。




 世の中には――つまり人それぞれには―― 神と 無い神 このいづれかの神がいます。

 いづれでも 呼び名が違うだけです。神という場合に ヤハヱーやアッラーフなどなどがあってその名が違っているのと同じようにです。

 すなわちまとめて全体としてひとつの《かみ》がいます。そのようにわれわれ人間は想定せざるをえないようです。
 なぜなら このかみという言葉を どの言語でも持っているようだからです。

 これが 哲学の立ち場です。一般神学の基礎理論です。


 この《かみ》は ヒトに自由意志をあたえて 自分たちの知恵と知識と工夫でその社会生活をよくゆたかにいとなむようまかせました。
 かみにさからうことも自由であり 自分の心にそむくことも自由であるというのが ヒトの意志です。
 
 あとは 風が吹くままとなります。風は気ままに吹くようです。ヒトにとって都合の良い気ままもあり得ましょうね。
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幼少期に宗教に関連した生活を送るのか、送らないのかは、遡っては「交換不可能な」出来事になってしまうでしょう。

。。
「もし、○○でなかったなら」という仮定は、その人自身の人間性・アイデンティティ、ないし「その」家族の成り立ちと相まって、想像することすら困難な状況であることと思われます。

したがって、ご質問の「私にとって今の段階では"神"は不必要な存在となってしまいましたが、そこに至るまでの過程は重要だったのでしょうか?」については、御自身の人生として既に経験された以上、「排除して考えることは不可能」だという前提に立たざるを得ないと言うことを積極的に受け止めて、生きて行かれるべきだと思います。

私自身、幼少期に「神仏」という存在について信仰ある家庭に育ち、生まれくる子供達には同じ思いをさせたくないと考えていました。しかしながら、最初から「無い」ということを前提に育てることがどれだけ困難なことかは、分かっていたというべきかも知れません。だからこそ、結婚することも、子孫を残すことも、元々拒絶した人生を送っていたのですが、縁あって子育て中の立場となっています。

子育てをして、まず最初にぶつかるのが、「目に見えないもの」という概念です。

子供は総じて親の言うことを聞かない時があります。体罰を避けて言い聞かせようとするなら「目に見えないもの」を持ち出さない限り、困難な状況が多々あります。「そんなことをしていると、怖いおじちゃんに連れて行かれちゃうよ」とかの類です。親が体罰を与え得ない存在として位置づけされるのであれば、体罰を与えうるような「架空の存在」を持ち出さざるを得ないのです。自身が経験しえない「想像・空想」の世界から、現実に襲ってくるかも知れないものです。好きなアニメがあれば、「怖い○○がやってくるかも知れないよ」とかです。でも、年齢と共にころころと変化し、「いるわけないでしょ」とそっぽを向かれるのが落ちでしょう。ある程度、恒久的に「存在」しうると認識可能なところを持ち出さざるを得ないものです。

信仰している・いないに関わらず、神社仏閣やキリスト教系なイベントには参加するのが好きな日本人です。「苦しいときの神頼み」ではないですが、何らかの普遍的な存在を持ち出さざるを得ないとき「神様が見ているよ」と言うことは、たとえ「神様が存在しなくても間違いではない」発言であり、重要なことだと思いますし、子供達を統制するにあたり、最も手軽な言い回しになります。

以下、「神様が存在しなくても間違いではない」について説明しておきます。

そもそも、本人の心の内部の問題で「良いこと、悪いこと」を行ったという価値判断・意識があるとき、なにがしかの「相手」を想定しています。
「○○にとって良いこと・悪いこと」です。通常「○○ちゃんが、嫌な思いをするでしょ、可哀想でしょ。」とか具体的な相手が対象になりますが、「目に見えないもの」を想定せざるを得ない場合があります。
いわゆる「形而上学的存在」(実在する・しないにかかわらず、仮想的な存在として想定しうるもの、神様といった概念を含む)です。でなければ、「誰も見ていないから、悪いことをしてもいい」ということにもなりかねないでしょう。

もっとも身近なところでは、ある種の「団体」(スポーツのチーム等を含む)です。その「団体」の代表として実在する代表者もおられるでしょうし、明文化された規律・規約もあるでしょうが、「団体」の(精神的な側面としての)集合体としての概念は、目に見える「明文化された規律・規約」や、「代表者」を透かし見た向こう側(未来を含む)に「みんなのため」とか「○○チームのため」といった概念を想定しているはずです。

極めて高度に社会化した集団として振る舞うとき、たとえば「地域」「社会」「国」といった概念を扱うとき、未だ会ったことのない個々にバラバラに実在する「個人」を想定しつつ、生まれくる未来の子供達とかを含めて「全体」という概念でとらえます。このとき想定している「全体」という概念そのもの(存在する)、あるいは、その「全体」という概念を透かし見た向こう側(未来を含むので、現時点では存在しない)が「形而上学的存在」です。

実在物として捉えきれない「何か」を「形而上学的存在」として、幼少期から、きちんと捉えることができるのかできないのかは、非常に大きな問題だと思います。

もっとも、幼少期からなにがしかの「社会的活動を行う集団」(幼稚園とか、運動クラブとか)に参加するでしょうから、「神様」を持ち出さなくても「形而上学的存在」という概念については、自然と身についてくるのかもしれません。
ただし、参加せざるを得ない活動において、何らかの宗教活動団体(あるいは、特定の価値観で繋がり合った特定の親の集団)がバックに存在している可能性もあるでしょうから、状況に対応できるだけの「家族」の絆を保つだけの「形而上学的存在」を共有することが大切になるのかも知れません。

以下、よろしければ参考にしてください。

神様のお話。。。
http://jinen.exblog.jp/8750004/
>>>
(前略)
父として、今までの知的・情的な変遷を経て、語りえぬものをあえて語る。。。

あたかも、「ここが彼岸だよ」と教えんがために、泥船を作って大河を渡ろうとするかのごとく。。。

しかし、彼岸は悲願であり、たとえ泥船が沈もうとも、「思い」の大切さを見つめて欲しいという願いがある。彼岸という知的切断面にたどり着くことができなくても、一度でも大河を渡りきろうと思わなければ、大河の存在すら、脳裏に浮かぶことはないだろう。。。

否定するにしても、肯定するにしても、「思い」を横断する共通了解可能な(モニュメント・記号といった)概念形成が前提条件になっている。。。

その大河が「忘れ去られようとしている」のではなく、元々「無い」かのごとく扱われることに、現代社会の抱える重大な問題点が隠されていると思う。。。

。。。

友達と虫を使った遊び(本人たちは研究と称している)をしているとき、「虫を捕まえないとバチが当たるぞ」と言われ、捕まえたら虫の体液で手にシミがついてしまった我が子。。。

その我が子に対して教えたこと

1.神様は見ているよ。
2.今日一日、無事健康で過ごせたことについて、神様にお礼を言いなさい。「自分の心に対して嘘をついたこと」や「悪いことだと思ったこと」を、寝る前に思い返して、神様に謝りなさい。そうして、明日も一日、無事健康で過ごせますようにと、神様にお祈りしなさい。
3.神様はバチを与えないよ。
4.「バチが当たった」と思うのは、自分が悪いことをしたり、自分に嘘をついたりしたときに、そう思うものなんだ。
5.そのつもりが無くても、虫さんをいじめたりしたら、手が腫れたり、痛くなったりするんだよ。
6.人の言うことを聞かなかったらバチが当たると思っているのなら、人の言うことを聞いたらバチが当たることもあるんだよ。
7.全ての生き物は繋がりあっているんだよ。
8.みんな繋がりの中で生きているから、余計な手出しをしたら、痛い目にあうことがあるんだ。
9.それを「バチが当たった」と思うのか、思わないのかは、自分次第だよ。
10.もう一度言うね。「悪いことをした」とか「嘘をついてしまった」とか思ったときには、神様に謝りなさい。そうすれば、「バチが当たった」なんて思わなくてもいいんだよ。そうして、それがどういう事だったのかを、深く考えなさい。

いつの日か、「神様」という概念について、いや、「越ええぬ大河」について、深く考察する日が来ることだろう。。。

※08/06/12 05:40 補足・追加

上記文は、「神様」という概念について、非常に流動的、というより境界設定をしないで定義している。

たとえば、多神教的な神概念であっても、一神教的な神概念であっても、否定神学的な神概念であっても成り立つような文章にしてある。

また、個人的な境界設定としての、「神とは自身の心の内部に存在する」としても、「自身を含んだ全体」(≒スピノザの神)としても、また、「自身の外部に存在する」としても、さらには、「神は存在せず、ただ、思考内部でのみ形成されるもの」としても、上記文章はは成り立つ。

なぜかといえば、上記文章は、「自他の関係性」における「情的繋がり」を前提としているからである。

もっとはっきり言えば、「神様概念」とは、「自他(外部)」の情的繋がりの「ひとつの知的切断面(全きもの)」に投影されうるものだからである。

なぜならば、その「ひとつの知的切断面(全きもの)」こそが、論理的・理論的無矛盾なモニュメントとして自己の認識のよりどころ(フィルター)になるとともに、その切断面に投影されるものとして内部・外部の「存在」が(自己の認識に対して)規定されうるからである。
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そこに至るまでの過程は貴方様の人生でありますから、


私のような第三者のものが重要かそうではないのか等、
おこがましくて口にはできません。


結果から言いますと、神などという存在はいないと思います。
では何故人が神という存在を造り上げたのか。
それは死という恐怖から逃れるための、仮想であり、手段です。
現世で良い行いをすれば、再び甦らせてくれる。
そんな夢物語のようなことです。
考えてみてください。
神が恵みを与えてくれるといいますが、
それの大概は現代の科学で証明できます。

もし神がいるとすれば、人生勝手ですよね。
餓えも戦争も止めないし、自分が勝手に造り上げた人間が悪いことをすれば地獄に落とす。
そんなことなら造ってもらわなくて結構ですって感じですけどね。
魔女狩りだって、もし神が本当にいれば止めたはずですよね。
どうして大量の人間を見殺しにするのか、意味がわかりません。
自分が勝手に造ったんなら、責任取って最後まで面倒見ろってことです。

最後になりましたが。
こんなに言っといてなんですが、私も結構迷信を信じる方です。
世の中言葉では説明できないぐらい不思議なことが腐るほどたくさんあります。
それはもしかしたら、幽霊とか神とか、はたまたは悪魔とか。
そう考えた方が楽しいし浪漫がありますよね。

なんだか話の纏まりが無くなってしまいましたが、質問者様の求める回答が出来ていれば良いなと思います。


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宗教とは道徳の概念なのです。


現在はともかく、昔は人の収穫物を奪うのが当たり前の修羅場でした。
だから、宗教で民衆を縛っておくのが都合が良かったのです。

現在の尖閣の問題で暴動を起こしている中国人民は文字通りの教科書といえましょう。
彼らは神の存在を否定する物欲の塊です。放置するとあのような状態になってしまいます。
日本は幸いにも仏教の上に神社信仰(神道)がありますから、
あなたが宗教というものを必要としていなくても、心の拠り所があります。

魔女狩りのことを疑問視しているようですが、どの時代にも狂気が存在します。
民衆の欲求不満を為政者は常に利用していたのです。
その時代には正義とされたことなので、当時を生きていた人の感覚になって考えてみるといいでしょう。

>また神は何処かにおられるのでしょうか

あなたのすぐ側にいますよ。ただし、あなたは気付くことはありません。
それは偉大な存在であり、人間に影響を与え続けていますが、人間に干渉することはありません。

ごく当たり前のことを考えて下さい。大陽から恵みを受けることで植物は育ちます。
空気があるおかげで我々は呼吸ができます。
そして、今では電気があるお陰で便利な生活を送れます。
これら自然の物理現象1つ1つが神の恩恵なのです。

あなたが本気で神を求める気があれば更なる導きがあることでしょう。
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