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豊臣政権の五奉行にして「関ヶ原の戦い」における実質的な西軍首謀者である石田三成。彼の領地は近江佐和山19万4千石でした。
しかし固辞はしたものの秀吉から筑前100万石を打診された事もあります。
そこで、もし秀吉が
三成に近江佐和山で100万石の領地を与えていたらその後の歴史は一体どうなったと思われますか?
また、関ヶ原の戦いで勝利する事は出来たと考えられますか?
皆さんの忌憚なき御意見をお待ちしています!

※歴史にifは禁物というのは分かった上での質問ですが、もし宜しければ回答の程お願い致します。

A 回答 (7件)

所詮、石田三成は石田三成でしかなく知行が100万石になったとしても



動員人数が、4千人強から2万人になるだけ
100万石ということはその差80万石分の知行がほかの大名に渡っていないということなので
例えば、それが小早川家の知行の分だとすれば、小早川の裏切り効果が減殺されるので動員数以上の影響があったのかもしれない。

結局は東西両軍がガップリ四つに組んだ合戦というよりも、裏切りによって決した戦いなのでその加増が裏切り者にどう影響したのかの方が大きいかもしれない
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見方は変わったでしょうね。

ただそれで、関が原となるとどうかな。
三成は、どうしても。参謀とか、軍師とかにしか見えない。

いざ、関が原、相手は家康となれば、、、やっぱり、百戦錬磨って感じですよね。
でも今、この考えは、日本地図を上から見ながら考えてる。
当時、戦国大名は、カネか。金のある方に付くのは当たり前かも。百万石。

そうだ、、三成の勝ち
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結果としてはあまり変わらないんじゃないかと思います。

Wikiを読んだ印象ですが。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0% …

 石田三成へのイメージは優秀な官僚なのですが、それはあくまで他人の下で
能力が活かせるという意味合いです。為政者に必要なのは人望とバランス感覚
なのですが、どう考えても彼にはそれが欠如しています。サラリーマンの漫画
で言えば、派閥争いに敗れて取締役会から排除される役柄みたいです。
 確かに100万石を持っていれば財力も半端ではないが、結局、三成のいちばんの
問題は、豊臣体制の正当後継者になれなかったという事です。無駄な朝鮮出兵で
疲弊している中、諸大名も既得権益を護りたいがために厭戦的なムードになって
いました。

 したがって三成に100万石あったとして、それをしっかり運用できるかが
いちばんの疑問点ですし、その100万石のせいで、最悪、豊臣体制と亀裂が生じる
かもしれません。いずれにしても三成の命運は秀吉の死と共に無くなったのですな。

 話は変わるが橋下徹も頭のいい人物ですが、同じ轍を踏まぬ事を祈るだけですw
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タイミングによるのではないでしょうかね。



佐和山100万石というのは、豊臣秀次の近江八幡100万石と同様な意味を持ってきます。
秀次
1585年 八幡城 43万石
1585年 秀長大和・紀伊で64万石
1590年 加増で 100万石
1591年 鶴松死去により、秀次が関白になる
1591年 秀長死去
1593年 秀頼出生
1595年 秀次切腹
1595年 三成、佐和山城主に、19万4千石
1598年 秀吉死去
1600年 関が原の戦い

Case1 1590年の段階で、秀次の代わりに100万石になる
この場合、秀吉の後継者ないし、鶴松あるいは秀頼への中継ぎを委託されたと位置づけることができます。
三成がうまく立ち回れば、つまり秀吉死去までその勢力を温存できたならば、家康による政権奪取の構想は成立しないと考えられます。
なぜなら、京都近辺に3万から5万程度の動員能力を持つ、正式な豊臣政権中継者が存在することになりますから、家康の立場で考えるとあまりにリスキーです。
あるいは、秀次同様に失脚していた可能性があります。
いずれにせよ、関ヶ原の戦いは生じていないと思われます。

Case2 1595年の段階で、秀次の旧領を継承する。
この場合、三成の立場は秀頼への中継者あるいは保護者としての立場がより一層強まります。
Case1の場合、一族として秀長がおりましたが、Case2の場合、秀次も秀長もおらず、豊臣家への三成の保護者としての立場が強くなるからです。
対家康との戦争としては、家康が前田家や浅野家に恫喝したように、このケースでは、三成が家康に恫喝することになるかと考えられます。
家康が関ヶ原まで進出できることなくなり、(秀次の旧領には尾張も含まれていましたから)箱根あたりが決戦場になります。
※ 関東勢力に対して京都勢力が追討した過去の例では
富士川の戦い 源平合戦
箱根竹之下の戦い 尊氏VS新田
小田原城 秀吉の北条家攻め
など、だいたい静岡県東部から神奈川県西部にかけて行われており、三成による家康追討戦もこのあたりで行われる可能性が高いと考えます。
※ 三成の立場が高ければ、佐竹氏も実際の歴史上よりもより一層旗幟鮮明にするでしょうから、家康が長駆西に攻めこむ可能性は低いと思われますので。
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仮に100万石領していたら 75万石は島左近にあげていたでしょう


実際に19万石のうち8万石超を左近に与えていましたから

「三成に 過ぎたる物が二つあり 島の左近に 佐和山の城」という詩があるぐらいです

三成の関ヶ原勝利と石高は関係ないと思います
しかも筑前でならほぼ無意味です
畿内で100万石なら 多少の情勢変化はあったでしょうね


三成は人望は2つに別れる人です


福島 加藤 黒田など豊臣子飼いの武闘派には嫌われ
真田 大谷 小西 上杉 佐竹など外様の武将からは慕われていました


石高よりも人望です
人望があれば1万石でも勝てるでしょう
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三成は人の上に立てる器ではないので、100万石はそもそも維持できないかと。



関ヶ原の合戦は徳川家康VS石田三成の様な言われ方をしますが、実態は石田三成を中心とした文治派に福島正則等武断派が反発して起こった豊臣政権のお家騒動です。
それを家康にうまく利用されてしまうわけですがね。
なにが言いたいかというと、つまり石田三成には人望がありません。
20万石程度の所領であればなんとか治められても、100万石ともなると大きすぎてとても無理です。
中小企業の社長なら社員ひとりひとりにまで目を光らせることができても、大会社では物理的に無理なのと一緒です。
色々な考えを持つ者をうまくまとめられない人には務まりません。
100万石を与えられていたら、その中でお家騒動が起きたんじゃないかな。
 
まあ、なんとか関ヶ原にこぎつけたとしても、他の西軍大名が三成を警戒して西軍が成立しなかった可能性も大きいです。
毛利や宇喜多が西軍に参加したのは、三成の石高が僅かであり、影響力が限定的であったからと言っていいでしょう。

余談ですが、島清興に禄の大半を与えてしまう話ですが、三成には軍を動かすノウハウが欠落していたので、いっそ清興に全軍を与えてしまった方が都合が良かったとも推測されます。(手勢は俸禄の大きさにほぼ比例する為。)
逆に言えば、三成に組みしてくれる実戦指揮官が清興以外いなかったとも言えます。

なお、ifの話なので発言に責任は負いかねます。
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もし三成が100万石に相当する立場を扱いを豊臣家から受けているとするならば、当然5大老の一角を占め上杉毛利とともに家康を抑え込む立場にいるわけですから関ヶ原の戦いは起きてさえいないと思いますよ。



その状況でも三成が私心なく豊臣家に仕えてるという前提ならばですけど。
むしろ家康の暴走をとがめて豊臣家から家康を処分する状況になってもおかしくないです。
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