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江戸時代の庶民の間にはお伊勢参りがさんだったようです。
これは、お伊勢さんが江戸庶民に人気があったということだと存じます。
質問:
1. 江戸庶民の間にどうしてお伊勢さんの人気があったのでしょうか?
2. ここで江戸庶民というのは、お江戸にいる庶民という意味で、他の地域の庶民は含まれていないのでしょうか。
3. 庶民とは“高禄の武士や豪商を除く”という意味でしょうか?

A 回答 (8件)

No5です。


幾つかの回答に「お伊勢参りは旅行に出かける口実」であったかのような記述がありますが、その認識は大きな誤りです。江戸時代、お伊勢さんに対する憧れは非常に大きなものがあり、神宮大麻は今でもそうですが、家庭での厚い信仰対象でした。
人々は家財を売り払って出掛けたり、沿線の人々の厚志を頼りに無一文で出掛けたり、命がけでお伊勢参りに出かけたわけで、物見遊山の口実というのは、江戸時代の日本人に対する認識不足も甚だしいと思います。
蛇足ながら、戦前まで「参拝」という行動は日本人にとって大切な行事であり続け、それをあてにして池上本門時参拝客目当てに引かれたのが今の池上線であり、川崎大師参拝客目当てに引かれたのが当時の大師線、今の京急です。
また、お伊勢参りが江戸近辺だけの話であったかのような記述もありますが、これも大きな誤りで、全国的なブームであったことは間違いありません。記録では、遠く陸奥の国から往復百日以上かけて詣でた話しも残っています。

この回答への補足

文月さんとどちらか。とても迷っています。素晴らしいお江戸に関するご知見です。

補足日時:2012/11/06 16:01
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この回答へのお礼

うぅむすごいお話です。
私たちの真底の観念や見方の根底になっている江戸時代の心性を画くことが出来ます。
有り難う御座います。

お礼日時:2012/11/06 15:47

こんにちは。



>>1. 江戸庶民の間にどうしてお伊勢さんの人気があったのでしょうか?

伊勢大神宮は日本人の信仰の大元(おおもと)であり、江戸ではどの家庭の神棚にお伊勢さんのお札が祀られていました。

伊勢神宮は20年に一度、社殿が建て替えられ遷宮が行われるので、儀式を見ようととりわけ参詣者が多く集まりました。さらに、60年に一度特別の効果があるといわれたありがたい年で、空から神符(おふだ)が降ってきたと言う噂をきっかけに各地から多くの人がお伊勢さんを目指すようになりました。

江戸に限って言えば、伊勢神宮から毎年年末になると、御師(おし)と呼ばれる下級神職が各地に出向き「伊勢暦」や「一万度の御祓」(おはらい)という神札(神宮大麻=じんぐうたいま・とも呼ばれた)を各家庭に配って回り、お伊勢参りを希望する者へは、御師があらかじめ懇意にしている宿などの宿泊の手配をしてくれました。

と言う訳で、伊勢神宮でも活発な宣伝活動をしていましたので、全国的に「一生に一度はお伊勢参り」と言われるようになりました。江戸でも各町内ごとに「講中」が結成されたりしていました。


>>2. ここで江戸庶民というのは、お江戸にいる庶民という意味で、他の地域の庶民は含まれていないのでしょうか。

また、御師は農村部にも出張しましたので、農村部でも各地に「講中」と言う組織ができ、銭を毎年積み立てて、主に、20年ごとの遷宮や60年ごとの特別な効果があると言われた年にその講中の代表者2~3名が集まった銭で伊勢へ向かいました。そして、帰る時には講中の人々の分だけのお札やお守りを買って帰りました。


>>3. 庶民とは“高禄の武士や豪商を除く”という意味でしょうか?

豪商は別として、基本的には「YES」です。
なぜなら、各大名家でもそうですが、特に江戸に住まいを持つ旗本や御家人などは将軍家の家来で、住んでいる家屋敷は全て幕府からの貸与ですので、いわゆる、官舎住まいですから、いつ戦いが起きても出動できるよう自宅待機が原則で御符内の範囲であってもその外側であっても、一泊またはそれ以上の宿泊にも組頭への届け出が必要でしたし、御符内から外へ出るにも届け出が必要でした。ただ、面白いところでは夜九つ刻(午前1時)までに帰宅していれば良く、それを過ぎてしまうと宿泊扱いになり、届け出をしていない場合には「謹慎」などの処分を受けました。
朱引図と言われ赤い点線が、御符内と御符外との境でした。
ちなみに、黒線(墨線・ぼくせん)の部分は、町方同心の巡回管轄範囲です。

御符内の範囲→http://bungetsu.obunko.com/newpage507.html


(よもやま話)
1.古くから日本では神参りというと、男女の間が乱れても許されると言われ、お伊勢参りでも伊勢の宿場の「古市」には遊女がいて参詣客を男にしてくれました。

2.遷宮の参詣をはるかに上回ったのは、60年に一度の特別な「ご利益」(ごりやく)があるとされた年で、「お陰参」と言って子供や丁稚などが親や雇い主に無断で講中に加わって伊勢へと旅に出ました。これを「抜参」(ぬけまいり)とも言いました。
そして例えば、丁稚などの場合には、帰って来た時に、お札やお守りを持っていれば、主人は叱ってはいけない、という通達さえ出されていました。

3.「お陰参」は強い信心の表れと言われ、「柄杓」(ひしゃく)一本を腰にさして一文もなくても、道々では「お陰参」だと言えば誰かが助けてくれるほどでした。そして、「通行手形」がなくても関所は通過することができました。

4.江戸時代を通じて6回の「お陰参」があり、文政13年(1830)には参詣人が1日で19万人にも達したとの史料もあります。また、4か月間に宮川(三重県)の舟渡し場をわたった者が428万人だったとも言われています。

5.宮川の渡しは、
●小俣の下の渡し(桜の渡し):京・東国から参宮街道を通る者が利用した渡し。
●川端の上の渡し(柳の渡し): 大和・紀州から初瀬街道を通る者が利用した渡し。
●磯の渡し:地元の人が利用した渡し。
の3か所があり、小俣の渡しは「下の渡し」、またはこの付近には桜の木が多かったことから、「桜の渡し」とも呼ばれ、それは、今の宮川橋付近にありました。 渡しは、昼夜の区別なく運行され、無賃であったといいます。 また、宮川を渡ると神域に入るため、勅使参向の時はここでみそぎを行いました。諸国からの参詣人もこれにならって身を清めたという、聖なる川・宮川。 はるか昔から、多くの旅人たちの心を和ませていました。


6.慶応3年(1867)の「ええじゃないか」は、お陰参にかこつけての討幕の陰謀説とも言われています。

こんなサイトを見つけました。
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haku/osusume/177 …

この回答への補足

kagerohoさんがすばらしいですね。
今回はまことに素晴らしいご知見のご回答を賜り、皆様に心からお礼申し上げます。
お江戸、なんとも私達にもっとも影響を持ち、私たちの心性や基本の観念を形成させている文化と風俗ですね。

みなさんの素晴らしいご回答を暫く、勉強したいと存じます。
心からお礼申し上げます。

補足日時:2012/11/06 16:05
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この回答へのお礼

最後に文月論文を訪問しました。
うぅんさすがです。
たくさんの名ご回答の中で、お江戸を知る上では、やはり素晴らしいものです。
有り難う御座いました。

お礼日時:2012/11/06 16:00

1すでに出ていますが、正確にはお伊勢参りの目的は必ずしも伊勢神宮ではありません。


東海道旅行が実際の目的ですが、参詣目的じゃないと通行手形がおりないのでお伊勢参りとなったわけです。
つまり単なる旅行が本来の姿です。
2概ね江戸を中心とした関東の天領の住民です。
3豪商の二男三男や隠居した元武士などの暇で経済的に恵まれたものも、当然下と思います。

すでに講が出ていますが、江戸時代の庶民は貯金の習慣がないため、多くの人間が集まってお金を出し合い抽選をし、当選したものがお伊勢参りに行きました。現在のわれわれの宝くじみたいなもので、お金に余裕があるとき夢を買うような話で籤を買い、当選したものが参詣という名目で旅行したのです。
逆に言うとそれができたのは、時間に余裕のある(というかその日暮らしの)日雇い人夫や内職で暮らしてる職人、隠居者、富裕層の二男・三男などです。
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この回答へのお礼

そうですか。
そういう側面もあったのですね。
ありがとう御座いました。勉強になります。

お礼日時:2012/11/06 15:49

お伊勢さんは、江戸時代、60年周期で大ブームが巻き起こり、ピーク時には年間数百万人が詣でたと言われています。

人気の秘密は定かではありません。祀られている天照大神が商売繁盛の神として人気が高かったとも言われていますが、もっとも貢献したのは布教師とも言うべき御師の存在ではないでしょうか。お伊勢さんのご利益を広く民衆に伝えて、伊勢神宮をあこがれの地として広めました。
これは、お伊勢さんに限らず、様々な神社の御師が、全国を回りました。今、日本全国に稲荷神社や熊野神社があるのは、これら御師たちの仕事です。
また、江戸方面からであれば、東海道を歩きますが、街道沿線の観光地も人気があったようです。
ちなみに、当時、観光目的では通行手形を得ることが難しく、参詣目的で初めて手形をもらえたため、伊勢に限らず、関東であれば大山街道を通った大山詣、日光街道を通った日光詣など、様々な目的地があり、富士登山も信仰の対象でした。もちろん、庶民に伊勢まで行く旅費はなかなか工面できません。そこで、伊勢講という互助組織を通じて、集めた会費を旅費にして、代表者がお参りに出かけるシステムを取っていました。(富士講、大山講など、同じシステム)
また、特にお伊勢参りの場合は、お伊勢参りだということがすぐわかるように柄杓を持って旅をしましたが、それを目印に、沿線の民家やお店から、銭や握り飯などの振る舞いがあったりしたそうです。
数百万人も集まるのですから、当然「江戸」の住人だけではなく、農村からのお参りも数多く報告されています。農村の場合、の代表として行くわけですから、講で旅費を工面するだけでなく、旅行中の田畑の世話も、の人たちが面倒を見たようです。
武士や豪商が伊勢に参るのは特に珍しいことでもないわけで、ここで「庶民」というには、庶民までが旅行できたということを現しています。
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この回答へのお礼

御師の性格、信仰での旅とその方式、並びに講についての話は江戸時代の文化と風俗を画くたいへん貴重なものです。
有り難う御座いました。

お礼日時:2012/11/06 15:44

>1. 江戸庶民の間にどうしてお伊勢さんの人気があった


>のでしょうか?

「伊勢講」ってのがありまして、言えば「旅行積立」ですな。
これを村落や長屋などで行い、代表者1名が伊勢参りに行く
というシステムが出来上がっていたんです。

さらにそういう「旅行積立システム」を伝授する「御師」という
一種のセールスマンが居まして、「御師」に従って(別に一緒
に行かなくても口実で構わない。ただ、伊勢滞在時には自分
の所の御師に世話になる)伊勢参りに出立すると、通行手形
を容易に入手できるということもあったんです。

こういう「旅行システム」があるのは「伊勢神宮」が大手でした
ので(長野善光寺や日光東照宮にもシステムがあったらしい
けど、全国的なのは伊勢だけ)ので、伊勢神宮が有名だった
んですね。

>2. ここで江戸庶民というのは、お江戸にいる庶民という意味で、
>他の地域の庶民は含まれていないのでしょうか。

ということなので、御師の廻った地域=ほぼ全国です。単に
経済力が江戸が一番大きかったので、「講」も江戸が一番
多かった・・・というだけです。

>3. 庶民とは“高禄の武士や豪商を除く”という意味でしょうか?

ということで、「伊勢講」は基本的に武士商人ではなく、いわゆる
一般庶民で、農民や職人のシステムでしたから、「その通り」が
答えになります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD% …

更に伊勢参宮には「お陰参り」という、独特な一種の自然発生的
カーニバルがありまして、これが発生すると、庶民が奉公先から
抜け出し、資金も無いのに伊勢参りに出かける人が急増したん
です。そうなると庶民を中心に数百万人が伊勢に殺到したわけで、
沿道の大商人などは、そういう人たちに無料でふるまいを行う
事が通例でした。

ですので、無一文でも「お陰参り」の時期には伊勢参宮が出来
ちゃったんですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88% …

伊勢参宮と、一般的な江戸時代の旅行は、かなり異質なものです。
江戸庶民文化を考える時、「伊勢講」や「お陰参り」は非常に面白い
事象だと思いますよ。
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この回答へのお礼

たいへん江戸時代の風俗と生活文化についての貴重なご知見を玩味したいと存じます。
有り難う御座いました。

お礼日時:2012/11/06 15:40

>江戸時代の庶民の間にはお伊勢参りがさんだったようです。



ウソです。^^
 庶民に伊勢まで行くお金がありませんし、通行手形が入手できません。

1.行きたいという意味での人気です。実際に行けたのは商人など財のあるごく一部です。

2.全国的に人気はありました。

3.そそそ
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2012/11/06 15:34

1 道中手形を入手する口実になるから。


2 「ここで」と言うのが何を指しているのか解りませんが、旅行(社寺参詣)がブームだったのは全国的です。
3 高禄でない武士や僧侶、なども除かれるでしょう。
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この回答へのお礼

有り難うございました。
つまり常民の間の人気風習なんです

お礼日時:2012/11/06 15:33

1>お伊勢まいりにいくというのは、三重までの道のりには、尾張や美濃 長野の温泉など、飲んで喰っての風呂に入って歓楽街や湯治場が多く点在していました。

 お参りに行くというのは建前で、本来は、旅をしながら名物食って、風呂はいって楽しむことが目的でした。
それに、お伊勢にいくというと、近所中からめったにいけないとこだから
御札貰ってきてと余分に選別くれたので、銭に余裕のある旅でした。交通の便もよかったので
人気になったのです。

2>お伊勢まいりとはやし立てていたのは江戸のほうで、それ以外ではそれほどはやりません。
やはり江戸に住む人間は、他の地方より金銭的余裕のある金持ち庶民だったのでしょう。

3>伊勢までの道のりは、そりゃ金はかかります。万年長屋住まいの人間なら一生に一度いければ
御の字でしょう。なにせ何ヶ月も掛かりますから。
どちらかというと、お店の旦那さんや奥さんとかが供を連れて出かけたほうが多かったんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

あぁそういう側面もありましょうね。
有り難う御座いました。
聖地は賭博場や悪所とがいつも一緒って言うこの庶民の世界ですね。

お礼日時:2012/11/06 15:32

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