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NHKの大河ドラマも最近は人材不足で主人公が次第に小物化。同じ人物を何回も取り上げたりNHKも苦労していますな。ところが、その一方で当然取り上げられてしかるべき人がずっと取り上げられないままになっていると思いませんか。偶然とは思えません。意識的に避けられているとしか思えません。そうです。いわずと知れた北条早雲です。どこの馬の骨ともしれない武士が流れてきて、謀略と戦争で関東の雄にのし上がって行くーこれくらい大河ドラマ向きの話があるでしょうか。主要な戦国大名でやっていないのはもう関東の北条と九州の島津くらいしかありません。あれだけ戦国時代が好きなのですから戦国時代を始めた北条早雲には戦国時代を終わらせた信長・秀吉・家康と同等の敬意が払われてしかるべきでしょう。「日本の歴史って戦国時代が大部分を占めているのですか?」って聞きたくなるくらい大河ドラマは戦国時代が好きですよね。早雲より優先度が低いと思われる人物も多数取り上げられています。山内一豊なんか大した仕事はしていないが世渡り上手、ゴマすり上手で出世ーある意味でサラリーマンの理想なんですかね。新島襄ならともかく、新島八重って誰?と言いたくなる様な新島八重とか、元寇だけしか見せ場のない北条時宗とか、山本勘介とか直江某とか黒田官兵衛とか人材不足のため最近ではトップではない人物も取り上げられています。それなのに全国に先駆けて戦国時代を開始した北条早雲を取り上げないのはどう考えてもオカシイ。冗談ではありません。大河で取り上げられれば観光客が押し寄せて大変な経済効果を生みます。小さな町小田原にとっては大きな違いです。「また今度もダメだったのか。」と小田原の人は落胆すると同時に「これだけ落選し続けるということは不運では済まされない。北条早雲をやらせないように何らかの力が働いているのではないか?」と疑問と怒りを感じ始めているのではないかと思います。地元だけではありません。北条早雲をやることは低視聴率と人材不足に苦しむNHKにとってもメリットがあるはず。それなのになぜ北条早雲をやらないのでしょう。おそらくNHKには「大河ドラマで北条早雲をやってくれ。」という声が殺到しているが、NHKはそれを握りつぶしていると想像されます。
北条早雲をやらない理由としては
1.NHKのお偉方の中に北条早雲を嫌いな人がいる
2.北条早雲の版権を持っている人が「NHKにはやらせん!!」と息巻いている
などが考えられると思いますが、実際のところはどうなのでしょう。

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A 回答 (18件中1~10件)

1.北条早雲(伊勢宗瑞)を題材とした原作としての著作物が存在しない。



2.北条早雲(伊勢宗瑞)の前半生がはっきりせず、特に生年において1432年説と1456年説のいずれかを採用するか?で内容が大きく変わる。

3.そもそも北条早雲という名称自体が生存中に本人が名乗ったものではなく、死後の呼称で伊勢宗瑞という。

つまり、著名な戦国大名ではあるものの不明な点が多く、仮に著作しようとしてもかなり難しい題材と思われます。
仮にドラマ化するとするならば、葵徳川三代や炎立つのように【伊勢宗瑞→氏綱→氏康】と三代記のようにするのがベターかもしれませんが、制作サイドとしてもかなり難しい題材だと思われます。
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 NHKの決定に影響を与えるのは受信料です。


 受信料の徴収率が良くない地方を大河ドラマの舞台にすると徴収率が上がるそうです。
 あと、視聴率も重要です。多額の経費がかかりますから一桁になりそうなものはしません。
 
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この回答へのお礼

あなたが視聴率が一桁になるという根拠は何ですか。北条早雲は最も大河ドラマらしい大河ドラマが作れる主人公です。これで視聴率が取れなければ大河ドラマを止めるしかありませんな。でも視聴率を度外視しても北条早雲をやらないのはおかしいです。考えても見てください。太平記物語がタブーだったおかげで源平合戦と戦国時代の間には大きな空白がポッカリと空いていました。'91年に太平記、'94年に花の乱(足利義政、日野富子)が放送されてようやく空白が埋まりましたが、なぜ戦国が始まったのかがまだ説明されていません。織田信長・豊臣秀吉が出てきて戦国が始まったわけではありません(彼らはむしろ戦国を終わらせた人です)。日野富子で室町幕府が凋落していくことが示唆されてはいますが、戦国がなぜ始まったかを語るには北条早雲が欠かせません。大河ドラマにとって戦国があれだけ重要なのに戦国の始まりを説明しない、避けているのは全く持っておかしなことです。大河ドラマが北条早雲をやるのはほとんど義務と言ってもいいくらいだと思います。

お礼日時:2013/01/04 21:05

微妙すぎませんか? 確かに伊勢新九朗長氏は最初の戦国大名ですが どっちかといえばマイナーな部類です


知名度なら孫の氏康のほうが高いです
そもそも視聴率という観点から見れば数字は平清盛より低くなりそうですよ
その時代に有名な武将は他には出てきませんし 初心者が見たらつまらないと思います


1ついえるのはNHKに北条氏の子孫がスタッフに居ます
直系ではないですが 紛れもなく戦国の北条氏の子孫のようです
まぁ 彼に権限があればそのうち取り上げられるかもしれませんがね
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 まぁ歴史趣味からすれば「全国に先駆けて戦国時代を開始した北条早雲」の様な色めいた意見もあるのでしょうが、少なくとも日本中世史のスタンスからすれば、この様な突拍子もない評価は議論にすらならないでしょう。


 戦国大名ならば領国経営の問題が必ず出てきますから、それを裏付けるだけの史料も必要となります。また同時に中世的秩序構造をどの様に評価するかとの学的問題も顔を覗かせてきます。視聴率的には不評でしたが、この点では「平清盛」も「花の乱」も「太平記」もキチンとした歴史学の成果を盛り込んでいた点で評価されても不自然ではありません。むしろ世俗の信長・秀吉・家康や英雄物語を求める方が稚拙ともいえることになります。
 「平清盛」の最終回では、頼朝が後鳥羽院を「日本一の大天狗(嘘つき)」と評した話、清盛が始めた対外貿易の形がその後の室町時代の日明貿易の礎となった話などをポンと投げ込む形で示したのは世間にありがちな歴史物語などよりも数段優れていたと僕は評価しています(日本の中世社会を「権門」の形で説明したのは従来にはなかった部分であり、それだけでも考証を担当した研究者の良識を感じます)。
 この質問サイトにもしばしば「捏造」を根拠に珍問を寄せる三河地方のアホな質問者がおりますが、この質問者様も同類でしょうか。
 この質問に敢えて応えるなら、後北条氏に関する研究は東国史研究会や戦国研究会などの学術レベルでは進んでいますが、ドラマ仕立てにするならば関東の字侍や土豪層が名経営から発したことなどを丁寧に説明せねばならずドラマとしてはかなり地味なものにならざるを得ないでしょうね。かつては大河ドラマをビジネスマンのバイブルの様に扱う馬鹿げた風潮もじじいの世代にはみられましたが、あれが物語であるとの認識すら持てないことらにも困ったものです。
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この回答へのお礼

「主人公をヒーロー/ヒロインまたは現代的感覚を持った人物として描こうとするため、その人物の暗い側面に関しての描写が曖昧であったり、歴史学上の定説と離れた演出がなされることも多い。このことに関し、NHK側は「大河ドラマはドキュメンタリーではなくあくまでドラマであり、演出も必要である」と述べている。」-Wikipediaより

北条早雲が最初の戦国大名になったのは史実ではないのですか? それでも構いません。「新撰組!」では新撰組と坂本竜馬が仲良く一緒に黒船を眺めるシーンが出て来るそうで、トンデモナイ話をでっち上げて面白おかしく話を作るくらいNHKには朝飯前です。

お礼日時:2013/02/02 21:49

 僕個人は北条早雲の大河ドラマは是非観たい



です。先の回答者様が言っておられる通りだとは

思いますが、司馬遼太郎の小説(ごめんなさい。題名

を失念しました。)で北条早雲をとりあげていますので

それを種本にして作品にできると思うのですが。

確かに彼についての史料が乏しいのだけど、司馬遼太郎

の作品は嘘っぽいことでも堂々と史実のようにとリあげ

られています。フィクションだと明記すれば良いのです。

初の戦国大名として、伊豆を国盗りしどうやら善政を行った

人物として興味深いです。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

あなたの「北条早雲」に対する思い入れは、十分に解ります。

私は、このように考えます。

1.早雲の出自が、まだまだ研究段階である。(出自論争)
これは、一介の素浪人から出世をした。という説と、名門伊勢氏の血を引く。という説。
つまり、まだ確立されていない。

2.早雲の生誕がいまだに不明である。(生年論争)
享年64歳とする説と88歳とする説に二分されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1% …

3.早雲が歴史の表舞台に登場するようになったのが88歳説でいくと50歳前後、そして、戦いといえば「伊豆討ち入り」ぐらいしか記録がない。

4.あまりにも早雲を語る上においての史料が少ない。

5.戦いに明け暮れたのか、民政に力を注いだのかの史料も不足している。

6.通常、大名などになると、本人が書くか家臣が書くかは別としても、そのような「日記」がない。
従って、日々の暮らし振りが判明しない。

7.民放ならともかく、天下のNHK。
小説は、確かに「嘘」の塊かもしれませんが、「嘘」の中でも「大嘘」はやはり「罪」です。
つまり、社会に間違った解釈をされることは、作家にとっては「致命傷」なのです。

8.NHKの大河ドラマでは、必ず、「時代考証(家)」が関わっていて、
細かく言えば、どのような服装であったか。どのような食べ物を食べていたか。どのような屋敷に住んでいたか。
書状などにしても、誰にどのような内容で発着したか。などなどを「検証」します。
しかし、早雲に関する史料が余りにも乏しい。

9.Wikiによると、
早乙女貢『北条早雲(1)~(5) 』 文藝春秋 、1976年/1980年(文庫)、ISBN B000J883W0 他 ※TVドラマ『若き日の北條早雲』の原作。
とあり、ドラマになった形跡はあるようですが、1~2時間ものであればドラマ化されるかもしれませんが、1年間を通して・・・となると、No1.の方も言っておられますが、「見せ場」は何?「落ち」は何?それによって天下がどのように動いたの?


以上のような事柄から、まだまだ確立されていない人物を取り上げることは、非常な困難かと思います。
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この回答へのお礼

山本勘介なんか、本当にいたのかどうかも分からないような人物ですよ。どこの馬の骨とも分からない人間がのし上がっていくところにロマンがあるのではないでしょうか。

お礼日時:2012/12/30 22:47

そりゃね、まず考えてみてくださいな。

戦国カードゲームを作るとしたら、山本勘介も直江兼続も黒田如水も北条早雲も出てくるでしょうが、山本や直江や黒田はレアカードになるでしょうが、早雲はレアカードになりますかね?ならないでしょう、たぶん。つまり戦国ファン(多くはライトファン)に対する人気がさほどないです。

あと、早雲の場合他に出てくる登場人物もマイナーですよね。山本勘介なら当然武田信玄と上杉謙信は出てくるし、その絡みで信長や家康も出せます。直江兼続も関ヶ原絡みで石田三成や家康、伊達政宗も出せるでしょう。黒田如水なら秀吉に家康に信長の全員が出せます。本人にスター性がなくても、知名度があるスター武将を脇役で使えるわけです。
新島八重は幕末ですから、これも幕末オールスターを使えますよね。会津藩絡みで新撰組で飛び抜けた人気を持つ土方歳三の出番を増やしても不自然になりません。

戦国モノか幕末モノにしないと視聴率にならないのが大河ドラマのつらいところです。平清盛は意欲的な作品だったけど、視聴率になりませんでした。私もしばらく見ていたけど、宮廷陰謀ドラマばかりでカタルシスがなくて途中でやめてしまいました。
大河ドラマではなかったですが、3年かけての3部作という異例の作品となった「坂の上の雲」はそれなりに視聴率を稼ぎました。たぶん、NHKの本音は「山本五十六をやりたい」んじゃないかなと思います。ただ、まだ太平洋戦争を知る世代がいるのでできないですけどね。

もうひとつ、最近は「歴女」なんていう人たちが出てきて、大河ドラマも女性視聴者をかなり意識しなければならなくなりました。天地人は男性歴史ファンからは「陪臣じゃねーか」とか「直江状のエピソードをまるまるカットかよ」「前田慶次郎出てこねえのかよ」と散々でしたが、「イケメンオールスタードラマ」といわれるほどイケメン俳優を揃えて歴女ブームを作りました。
北条早雲は女絡みのエピソードがまったくないので、大河の主人公には力不足でしょうね。

最後になりましたが、私は北条早雲は好きですよ。氏康のほうがもっと好きですけどね。新春3時間ドラマスペシャルの主人公にはなれても、大河の主人公は無理だろうなあ。
でも前田慶次郎もマンガになるまではまったくといっていいほど無名でしたし、のぼうの城の忍城攻防戦もまったく知られていなかったので、小説やマンガで取り上げられて大ヒットしたらもしかするかもしれませんね。
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この回答へのお礼

藤原純友・平将門の乱に他に有名な武将はでてきましたか?信長は出すぎで視聴者はそろそろ飽きてきているのではないかと思います。戦国を代表する人物は信長でも秀吉でもなく(彼らは戦国というより安土桃山時代=織豊政権の人物です)北条早雲だと思います。

お礼日時:2012/12/31 18:56

 NHKに殺到はしていないぞ。

すでにあるのが地域的に動いている所の人物でしょう。

 私の地域ではガラシャ夫人を取り上げてもらうよう署名活動など行っています。関連する地域との連携もとっています。そこまでアクションを起こさないと難しいでしょう。

 まず、あなた自身が知名度を上げる。もっと細かくエピソードを探し出すなど。

 大河を諦めて、映画の脚本を考えるとかされては?

 まっているだけでは無理ですよ。

 思い切り盛り上げていけば、出来ない理由も見えて来ると思いますよ。盛り上がっていないのが原因かなぁ。
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この回答へのお礼

私は別に北条早雲をやって欲しいわけではありません。ただ北条早雲に何かタブーでもあるのですかと聞きたいだけです。北条早雲と並んでもう一つのタブーだったのは太平記物語です。話としてはこれほど面白いものはない。しかし太平記が政治的に利用された苦い経験からタブーになっていました。戦後長い年月がたち、足利尊氏・楠正成といっても知らない人が多くなった(足利尊氏を「アシリソンシ」と読んだりする人がいるそうです)。もういいだろうということで1991年に放送されましたが、左右どちらの陣営からも強い反発が出ることはなく無事に放送が終わりました。しかし北条早雲は依然としてタブーのままのようですが、早雲がタブーになる理由が分かりません。

お礼日時:2012/12/31 19:50

素人考えで失礼致します。


何故北条早雲をやらない理由は?と言う事よりも誰を選ぶのか?と言う要因を考えて見ました。

1.NHKは「公共放送」である。と言う事
2.放送及び企画する&した時の時代背景の影響(震災の影響は捨てきれず)
3.取り上げる主人公のストーリー性と、そして最後のシーン(結果どうなったか?と言うオチの問題)
4.主人公の影響力(その当時と現代日本への。と言う両面で)
5.主人公を題材にしたNHK以外の「作品」の多い少ない

1は語る余地は無いのですが、質問者様がおっしゃる「地元の経済効果」については言うまでもありません。それ故に『余所だって同じ事を考えている』訳です。郷土の偉人・英雄を取り上げて欲しい。と思うのは誰でも一緒。故に決定にはそれなりの「大儀名分」が必要になります。その大儀名分を肉付けるのが2~5と言う訳です。

2は当然あると思います。震災の影響で自粛ムードの中でバブリーな番組は作れません。また現実的に震災の影響範囲を考えると撮影そのモノに影響がでると思われるので北関東地域や宮城、福島、岩手の人物や関係者は少々難しいといわざるを得ません。また当然被災地への配慮も必要です。榎本武明なんかを取り上げようとしたらどうしたって彼の地は「賊軍」的な描写にせざるを得ません。理由はどうあれ「今の段階」でソレは反発を招きかねません。つまりその時の時代背景が許せば… と言う事です。

3は主人公そのモノの問題(?)ですが、その人物について廻るイメージや特に物語として終わりがある以上ラストシーンのイメージは重要です。グダグダな結末や主人公は既に死んでるのに物語はまだまだ続く。と言うのでは正直難しいと思います。簡単に言えば主人公の死で「一時代が終わる」的な終わり方が出来るか?と言う事です。(時代のパイオニア的な感じでは物語よりもドキュメンタリーの様な気が…)

4これは主人公の功績とも言える部分ですが、NHKは全国放送ですから出来る限り「日本全体への影響力」を持っているのが望ましいです。例:山内一豊は日本への影響力は少ないでしょうが、その嫁の姿は日本の女性への影響力と言う点では日本人1/2への影響力は計り知れません。

5これは作家さんなり芸術家の皆さんが何を題材に取り上げるか?それに拠って日本全体での興味がどれだけ高まるか?と言う点での採用基準となるのかならないのか?闇の中ですが…



因みに質問者様が例に出している人物で「山本勘介とか直江某とか黒田官兵衛とか」は組織上の『No2』と言う面で注目されてます。
どんな偉人でもソレを脇で支える人や補佐する人が居るものです(山内一豊の嫁も含む)。その偉人が成した事の裏には彼らの存在が必要不可欠。それ故に注目されるので、あながち無理のある人選とは言えないと小生は思います。

最後に小生が番組を作るとしたら北条早雲だけを取り上げるより北条早雲から始まる「北条家」を、俗に言う「風魔忍群」の視点で描いてみたいですね。
「風魔忍群」の詳細が殆ど不明なだけに創作意欲が湧きますw
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この回答へのお礼

今どき「幕府は賊軍」と考える人がいるでしょうか。そんなことを言っていたら新島八重なんかできませんよ。負のイメージが強いのは平家です。驕って悪行の末に源氏に滅ぼされたということでイメージ重視なら絶対できないはずですが、平気で平清盛をやっていました。

お礼日時:2012/12/30 23:04

北条早雲には華がありません


大規模な合戦がありますか?
ストーリーの最初から最後まで対峙する敵はいますか?
立身出世物語として面白いですか?
早雲はクソミソしかいない地域にやってきてそこをうまく乗っ取った人物です
小田原占領以外見るべき場所がありません
北条やるなら小田原北条記として早雲から小田原評定までの物語にしないとダメかと思います

八重の桜ですが、あれは震災枠(復興支援のためのドラマ)です
官兵衛はわかりませんが、今年のお詫びではないでしょうか

盛り上がりをみせているのは真田・明智・長宗我部と聞いています。北条はつい去年発足したばかりのようです
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p …
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この回答へのお礼

赤穂浪士なんかたったの47人ですよ。やったこともそれこそ吉良邸討ち入りだけです。(こんなスケールの小さな話は大河ドラマでやるべきではないと思いますが)。話は少しそれますが、浅野内匠頭は自ら刃傷沙汰を起こした短慮の見本のような人で、個人的な恨みを晴らすために赤穂の全藩士を路頭に迷わせました。今忠臣蔵をやるなら浅野内匠頭に批判的な視点からやらなければならないと思うのですが、NHKの忠臣蔵ではそのような視点はなかったように思います

お礼日時:2012/12/31 11:30

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Q戦国時代の北条早雲って鎌倉幕府の北条氏の子孫ですか?

鎌倉幕府の北条氏は室町幕府に倒されたと思いますが、戦国時代に出てくる北条氏はどんな関係なのでしょうか?
子孫?親戚?無関係?

どなたか教えてください。

Aベストアンサー

戦国時代の幕開けに関東の覇者となった戦国大名の北条早雲が初めて歴史に登場するのは、文明10年(1478)、駿河の守護大名である今川家の内紛の調停役としてでした。
彼の姉か妹かが今川家の側室の一人であったということらしいです。
この頃、早雲は四十六歳、まだ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称していました。出自については諸説いろいろあります。
その後、伊豆の韮山に北条氏の末裔がおり、そこの主が亡くなって未亡人が1人となったところに婿養子として入り、北条の名を継ぐようになりました。もっとも早雲自身は最後まで伊勢氏を名乗り、北条姓に変わるのは2代の北条氏綱からですが。
この改姓は非常に重要な意味を持ちます。つまり鎌倉幕府の実質上の主であったあの名門、北条氏の流れを汲む者であると名乗れることは、大きなハクがつくことになるからです。このような権威付けは当時では非常に重要なことと思われます。由緒ある家柄だということは、支配者としての「資格」のあることを意味するからです。もちろん資格があっても実力がなければすぐに亡ぼされてしまいますが、実力があっても資格がないと、人々は支配者としてなかなか認めたくはない。室町幕府の権威が低下し、実力の世となっても、人心の変化は、まだまだそういった古くからの権威をあがめ、由緒を尊ぶ気風は十分に残っていました。戦国時代、下克上の三羽烏とも言われる北条早雲、斎藤道三、松永久秀のうち、道三と久秀はまもなく滅んでしまったのも、このあたりに原因の一つがあるのではないでしょうか。

戦国時代の幕開けに関東の覇者となった戦国大名の北条早雲が初めて歴史に登場するのは、文明10年(1478)、駿河の守護大名である今川家の内紛の調停役としてでした。
彼の姉か妹かが今川家の側室の一人であったということらしいです。
この頃、早雲は四十六歳、まだ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称していました。出自については諸説いろいろあります。
その後、伊豆の韮山に北条氏の末裔がおり、そこの主が亡くなって未亡人が1人となったところに婿養子として入り、北条の名を継ぐようになりました。もっとも早雲...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
...続きを読む

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q「以降」ってその日も含めますか

10以上だったら10も含める。10未満だったら10は含めない。では10以降は10を含めるのでしょうか?含めないのでしょうか?例えば10日以降にお越しくださいという文があるとします。これは10日も含めるのか、もしくは11日目からのどちらをさしているんでしょうか?自分は10日も含めると思い、今までずっとそのような意味で使ってきましたが実際はどうなんでしょうか?辞書を引いてものってないので疑問に思ってしまいました。

Aベストアンサー

「以」がつけば、以上でも以降でもその時も含みます。

しかし!間違えている人もいるので、きちんと確認したほうがいいです。これって小学校の時に習い以後の教育で多々使われているんすが、小学校以後の勉強をちゃんとしていない人がそのまま勘違いしている場合があります。あ、今の「以後」も当然小学校の時のことも含まれています。

私もにた様な経験があります。美容師さんに「木曜以降でしたらいつでも」といわれたので、じゃあ木曜に。といったら「だから、木曜以降って!聞いてました?木曜は駄目なんですよぉ(怒)。と言われたことがあります。しつこく言いますが、念のため、確認したほうがいいですよ。

「以上以下」と「以外」の説明について他の方が質問していたので、ご覧ください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=643134

Q四次元というのはどんな世界ですか?

そもそも我々の住んでいる世界は三次元ですか、四次元ですか?
三次元の世界とは縦横高さのある空間の世界だと思います。
これに時間の概念を足せば四次元になるのでしょうか?
我々の世界にも時間があるので、四次元といってもいいのでしょうか?
それとも四次元とは時間とは無関係の世界なのでしょうか?
あるいは時間と空間を自由に行き来できるのが四次元なのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>そもそも我々の住んでいる世界は三次元ですか、四次元ですか?

4次元であると考えると都合がいいというのが
現段階の結論です。

 100年ほど前、スイスのチューリッヒ工科大学
のミンコフスキー教授が物理学的な4次元の理論というのを
考えました。物理的な計算をするのに、縦、横、高さ
方向以外にもう1つ方向があるとして計算すると
うまく計算できることがあるというもので、
彼の教え子の一人が、4次元時空の理論と
して有名な相対性理論を完成させた、アルバート・
アインシュタインでした。
 彼は、リーマンという数学者が作った、
曲がった空間の幾何学(現在リーマン
幾何学と呼ばれています)を使い、4次元の
空間が歪むという状態と、重力や光の運動を
あわせて説明したんです。これが相対性理論。

>これに時間の概念を足せば四次元になるのでしょうか?

 物理学的にはそうです。

 相対性理論の話に関連付けて説明するとこんな感じです。
例えば、下敷きの板のような平面的なもの(数学的には
これを2次元空間と言ったりします)を曲げると
いう動作を考えてみて下さい。下敷きに絵が書いて
あったとして、曲げながらそれを真上から見て
いると、絵は歪んで見えます。平面的に見て
いても下敷きという2次元空間が歪んでいる
ことが感じ取れます。
 2次元的(縦と横しかない)な存在である下敷きが
歪むには、それ以外の方向(この場合だと高さ方向
ですが)が必要です。

 19世紀に、電気や磁気の研究をしていた学者たちが、
今は小学校でもやる砂鉄の実験(紙の上に砂鉄をばら撒いて
下から磁石をあてると、砂鉄が模様を描くというやつです)
を電磁石でやっていたときに、これは空間の歪みが
原因ではないかと直感したんです。
 電磁石の強さを変えると、砂鉄の模様が変化します。
これを砂鉄が動いたと考えず、砂鉄が存在して
いる空間の歪みが変化したのでは?と考えたんです。

 3次元の空間がもう1つ別な方向に曲がる。
その方向とは時間という方向だということを
証明したのが、相対性理論だったんです。


>あるいは時間と空間を自由に行き来できるのが四次元なのでしょうか?

 4つ目の方向である時間は、存在していても
その方向に、人間が自由には移動する方法は
現在ありません。時間方向を自由に動ける機械と
いうのは、タイムマシーンのことなんですが。

 日常生活を考えてみたとき、縦、横といった
方向は割りと自由に動けます。1時間ちょっと
歩けば4kmくらい楽に移動できますが、
道路の真中で、ここから高さ方向に
4km移動しろと言われたら、人力だけでは
まず無理でしょう。
 飛行機やロケットといった道具が必要と
なります。
 時間方向というのは、このように存在していても
現在のところ自由に移動できない方向なんです。

 例えば、人間がエレベーターの床のような
平面的な世界に生きているとしましょう。

 この場合、高さ方向を時間と考えて下さい。

 エレベーターは勝手に下降しているんです。
この状態が、人間の運動と関係なく、時間が
経過していく仕組みです。

 人間もほんの少し、ジャンプして高さ
方向の移動に変化をつけることができます。

 同様に時間もほんの少しなら変化をつける
ことができます。

 エレベーターの中で、ジャンプすると
ほんの少し下降を遅らせることができる
ように、時間もほんの少し遅らせることは
できるんです。




 

>そもそも我々の住んでいる世界は三次元ですか、四次元ですか?

4次元であると考えると都合がいいというのが
現段階の結論です。

 100年ほど前、スイスのチューリッヒ工科大学
のミンコフスキー教授が物理学的な4次元の理論というのを
考えました。物理的な計算をするのに、縦、横、高さ
方向以外にもう1つ方向があるとして計算すると
うまく計算できることがあるというもので、
彼の教え子の一人が、4次元時空の理論と
して有名な相対性理論を完成させた、アルバート・
アインシュタイン...続きを読む

Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと...続きを読む

Q何で日本は戦国時代に植民地にされなかったんですか?

大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

すいません、もう一つ。

幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

私はまるで歴史ド素人なので恥ずかしい質問ですが、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地支配が容易になる、という目論見でした。この方法は成功しました。ザヴィエルらは、日本においても布教を行うべく1549年に来日し、布教を始めました。

ザヴィエルらが日本へ来て知ったのは、ほかのアジア諸国の人民に比べて日本の人民は教養が高く、さらに戦が強いことでした。

1467年に始まった応仁の乱以後、日本国内は乱れに乱れ、内乱時代(戦国時代)でした。戦国の時代は、武器の発達が進みます。さらに武士たちの武闘能力も向上し、剣術や砲術の力が向上します。戦国時代の日本は、世界で最強の軍事大国だったという学者もいます。

そうした事情を知ったザヴィエルらキリスト教関係者が、本国の王へ「日本を植民地にするのは非常に困難です」といった報告をしたものと思われます。

織田信長はキリスト教を公認しましたが、豊臣秀吉はキリスト教を禁止し、キリスト教関係者を国外追放しました。イスパニア王フェリペ二世の日本征服の野望を知ったからです。

徳川政権もキリスト教を禁止しました。その上、鎖国しました。西洋人は日本を征服するチャンスを失ったのです。


>幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

日本も植民地にされ、列強によって分割される危険がありました。それを避けられたのは、

(1)人民の教養が高かったから。西洋の外交官は、江戸の町の本屋の店頭で、女や子供が立ち読みするのを見て、日本は植民地にすることはできないとあきらめました。多くの人が文章を読めたのです。(日本よりも西洋の方が文盲率が高かった。)

(1)武士階級が支配していたからです。清(中国)は科挙に合格した文官が支配する国でした。西洋列強の手が隣国に及んできても危険を感じませんでした。しかし日本の支配層は武官(武士)ですから、清が英国との戦争で負けて香港を割譲したことを知り、さっそく日本もやばいぞと危機感を抱きました。武士の仕事は戦争ですから、国の危機には敏感なのです。

(2)徳川幕府の外交が巧みだったからです。大政奉還と王政復古の直後の慶応3年12月16日(1868年1月10日)、15代将軍徳川慶喜が大坂城に6カ国の公使を招いて接見し、「朝廷は王政復古を宣言したが、朝廷側に内部事情があり、依然として徳川幕府が主権者である」と説明し、政権承認の確認を求め、さらに内政不干渉を約束させました。欧米諸国の目にも、この段階では、三職をトップとする新政府の実力は甚だ脆弱であり、国際社会の承認に値する政権とは見えなかったはずです。しかし徳川慶喜が各国に内政不干渉の約束を取り付けた結果、その後の内戦(戊辰戦争)では外国の介入を招きませんでした。慶喜の側近に国際法を理解していた人材が豊富だったからこその成果と言えます。徳川幕府の大手柄と思います。

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地...続きを読む


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