柔軟に働き方を選ぶ時代に必要なこと >>

レオンに・・・蒲生氏郷について、質問なのですが

秀吉曰く

【俺が死んだら、天下は、黒田か、蒲生さ】

氏郷死亡時

【これで秀頼を守るものが無くなった】

・・やら言われたり、信長の娘を娶ったり

かなり、才能が・・あった?
・・と、思われるのですが

実際彼の行動は、九戸の乱の時やら、あと細々とした、戦
くらいしか、私は知らないのですが

・・あ!あと政務は素晴らしい所も

秀吉は、氏郷の器量を畏れたともあります

あとは・・家臣に奮発し過ぎて、赤字・・かな
氏郷は、未完の大器・・なのでしょうか?

彼の活躍を聞かせていただければ、幸いです

よろしくお願いします

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

>あとは・・家臣に奮発し過ぎて、赤字・・かな 


>氏郷は、未完の大器・・なのでしょうか?
>彼の活躍を聞かせていただければ、幸いです

蒲生氏郷は戦国末期を代表する高名な武将、且つ同時代有数の将器と謳われながらも謎が多い人物として知られるが、彼の活躍を物語る文献は誠に少ない。
依って私としても、彼を語るに想像に依る部分が大きい事を、予め申し上げておきます。

因みに明治維新まで続く大名家の多くは、家祖或いは中興の祖の業績に関し、大袈裟に装飾した伝承を持つのが通例であるが、氏郷が抱える多くの謎は、彼以降の蒲生家の消長(孫である忠知の死に依り断絶)及び彼自身の早世と決して無縁ではないでしょう。

一方に於いて、氏郷は確かに家臣に大封をばら撒いております、この点は高々松坂12万石程度の領主から、一躍会津40万石そしてその後92万石の太守に任じられた故、天下に広く人材を集める必要性があった事、及び秀吉亡き後の中原に覇を唱える意志が明確であった事の証しかと思われます。

即ち彼は、吝嗇な人物は天下を取れないとの独特の自論を持っていた、その点を論拠として、秀吉亡き後の家康天下説を否定し、且つ家康を極端に軽蔑していた節が伺えます。
何しろ氏郷が徳川家康を嫌い、且つ伊達正宗と反目していたのは恐らく事実、さもなくばあの秀吉が会津という要衝を彼に託すはずがない、何しろ三者合わせれば400百万石を越え、ゆうに秀吉率いる天下の軍と対決し得る大勢力となる訳ですから。

その辺りが秀吉流人事の妙なのでしょう、即ち才能ある彼を上方から遠ざけると共に、徳川そして伊達に睨みを利かせる重しとして配置し、且つ三竦みといった状態を作り出せば、尚良といった具合に・・。

一方先に御指摘があった秀吉が切れ者を遠ざけた意図は、恐らく彼の記憶から生涯離れなかった本能寺の変がその根底にあったものと思われます。
つまり彼なりに天下に野望を持つ者とそうでない者を峻別し、或る種のリスク・ヘッジを行った訳で、野望と才能を併わせ持つ武将には、大封を与えて遠国に追いやった、或いは氏郷もその該当者かも知れません。

その事を物語る伝承として、会津92万石の太守という破格の抜擢を受けた後、鶴ヶ城に於いて流したと言われる涙(仮に上方で騒乱が起こったとしても、遠国故にそこに加われない無念さに由来する)が、記録に残されております。

尚氏郷の尊敬と忠誠心は生涯織田信長にあったのでしょう、多くの歴史的文献は、彼が秀吉にさほど傾倒しなかった点を示唆しているが、それ以上に家康を嫌い且つ軽蔑した、依って秀吉の死後尚彼が存命であれば、そして越後の上杉・常陸の佐竹と手を結び、合わせて二百数十万石に近い勢力が徳川の北方に盤踞しておれば、易々と徳川家の天下が成立したものかどうか、極めて興味深い歴史のifではあります。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

質問していてなんですが
まったく同意見です

彼は当時・・多少信憑性の置ける文献などでは
当時の大名たちから、かなり評価を得ていた様子がるようで

ですが、実質的に何がどうだったか・・
・・となると、意外なほど、文献が無い

私も、関ヶ原時代に、彼が存命なら
佐竹、上杉、蒲生と同盟を結んだと思います
この三国の同盟なら、国外への出撃も可能なほどの、国庫がある
伊達なども、素直に、徳川に味方をしたか、分かりません
本当に、興味深い話です

そう考えると、仰られるとおりに
秀吉の、配置は、絶妙でした

本当に、ロマンです

お礼日時:2013/02/19 03:01

つい最近、藤田達生『蒲生氏郷』(ミネルヴァ書房、2012年)という本が出ています。

本当かどうか分からない秀吉の発言など過大評価されがちな氏郷の虚像ではなく、史料に基づいた氏郷の実像が書かれていますので、是非ご参照下さい。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

おぉ?そんな本があるのですか!

是非、欲しい!情報ありがとうございます!

お礼日時:2013/02/19 03:02

秀吉は優れた部下は重用したが 切れ者過ぎる者はそり才覚を恐れ遠ざけた



黒田如水 豊前中津12万石
直江兼続 越後30万石
竹中半兵衛 伯耆5万石
蒲生氏郷 米沢90万石

こう見ると 遠国に留め置かれたものの石高は90万石
当時としては 徳川家康 上杉景勝 毛利輝元 前田利家に次ぐ禄高です
完全に5大老格ですね 
しかし秀吉は氏郷と伊達政宗の内通を実は疑っていました
家康も臣従しているとは言え家臣ではない 万一伊達政宗が謀反をした場合
蒲生氏郷も決起 昵懇の徳川家康も味方につけば東国は間違いなく家康の天下に…
秀吉はそれを恐れていたようです

秀頼の守役を家康でも氏郷でもない前田利家に任せたのはいかに彼が高禄でありながら野心が無かった事を秀吉は見抜いていたかです
秀吉は人を見る目は確かです…まぁ家康の事実上の謀反(関ヶ原)に至る道は見抜けなかったようですが

ただ この人はあの真田幸村からは嫌われていたようです
石田三成 大谷吉継 直江兼続 後藤又兵衛と錚々たる面々から人望が厚かった幸村が何故氏郷を嫌ったのでしょう?

ただ ある人物からは絶大な信頼を得ていました
横山喜内…彼は石田三成の家臣で 島左近と並び三成の左腕ともいう存在です
かれは後に 蒲生郷舎と名乗っています
氏郷の息子の秀行と親戚だったため蒲生姓になったという説もありますが
実際は氏郷に憧れ 勝手に蒲生を名乗ったというのが真実のようです





逸話をひとつ


ある日 堀丹後(秀政)が小判の入った袋を大阪城の門内で落としてしまう
秀政の後には 前田利家 福島正則 蒲生氏郷 筒井定次と続いて登城した

利家は小判の入った袋を見つけると 自ら拾い上げ関白殿下に届けた
正則は 小判を1枚だけ取り出し これは良いものを拾った これで酒を飲むか と良い去っていく
氏郷は その場で家臣一同の行列を止め 「これは御城番頭の丹後殿の小判よ」と言い秀政に届けるよう命じた
定次は ネコババ

小判にも袋にも当然名前は書いていない しかし氏郷はみただけでこれが秀政のものだと分かった
いかに普段から氏郷が人を見ているかがわかる逸話です
    • good
    • 0
この回答へのお礼

おぉ!その逸話、全然知りませんでした、なんか久々に新鮮な戦国知識!

それと幸村が氏郷が嫌いだったのもしらなんだ!
知ってるようで、戦国は知らないものだな~!
俄然勉強したくなる!

子供のわがままでは無いので、嫌いだから、ぷん!
・・な~んて、のりは無いでしょうが
氏郷は、家康、政宗のこと嫌いだと思ってました
とくに家康

なんか、あいつが上洛するなら俺が絶対背後から攻撃してやる!
的なことを言っていたので

知ってるようで、まだまだですな~僕も

お礼日時:2013/02/17 23:19

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む

Q徳川家康と藤堂高虎

どっちかと言えば、器量は小さく
猜疑心の多いと言われている、家康殿なのですが

その猜疑心を大いに生かせる、藤堂高虎に
えらく、晩年信頼を寄せている様子です

藤堂ファンの私としては、是非に!
高虎のどこに惚れたのか!?

・・と、調べてみたのですが
意外に、情報がない!

そこで、家康殿は、なぜ、高虎殿を、そこまで、信頼したのか

何でも良いので、教えてくださいな

かっちょよい、逸話なども、期待してます

是非に!!

Aベストアンサー

先ずは藤堂高虎への個人的な評価ですが、民政・外交・合戦・築城術のどれを取りましても一級品、幾多の人材が輩出した戦国期に於いてすら、高虎の如き有能な士は極めて稀でした。

一方に於いて、今に至る不当とも思える彼に対する評価の低さと評判の悪さは、当然ながら徳川幕府の価値観のほぼ全否定に至った、明治政府の樹立に由来するのでしょう。

即ち豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となった豊国神社が、明治天皇の鶴の一声で再興されるなど、明治維新後豊臣政権の復権が図られ、その結果として或る意味豊臣家に背を向けた藤堂高虎の評価は地に落ち、現在に至る訳です。

>家康殿は、なぜ、高虎殿を、そこまで、信頼したのか何でも良いので、教えてくださいな

浅井長政⇒阿閉貞征⇒磯野員昌⇒織田信澄⇒豊臣秀長⇒豊臣秀保⇒豊臣秀吉、左記は高虎が使えた主君を列記したものですが、後年徳川幕府の正学とされた(一義的に忠孝を説く)朱子学の教えがさほど支配的ではなった戦国末期に於いてすら、彼ほど主君を変えた或いは変えざるを得なかった武将も少ない、言い換えればあの時代有能な武将は引く手数多であった事を指し示す証左でもあるのだが・・。

晩年やっとの事で秀吉の直参とはなったが、そこは係累・子飼いでない為飽く迄も準譜代扱い、依って全神経を研ぎ澄まして次代の権力者を推敲した結果、彼が出した答えは徳川家康であり徳川政権という事だったのでしょう。
何しろ豊臣政権の最盛期に於いて既に、跡継ぎと子飼い・係累が少ない豊臣氏の行く末を見限り、家康に接近しておりますが、最上義光を除いてその嗅覚の鋭さは他に類を見ません。

家康の信頼を勝ち得た理由の1つがこの点、つまり即ち既成事実の積み重ねと陰日向が無い継続的な追従は、月日の経過と共に真実とほぼ同義語になってゆく訳で、それほど高虎は家康に尽くし抜いたという事の証しでもあります。
語りついでに有名な話を1つ、それは駿府で家康が死の床に就いた時の事、徳川家に対する未来永劫に至る忠誠を誓う為か、従来の日蓮宗から徳川家の宗旨である天台宗に改宗を申し入れました。

理由の2つ目は、開闢当初その構成分子に多くの豊臣恩顧の大名を抱えていたという、徳川政権の内部事情に依ります。
その後多くの豊臣系大名が粛清されるに至りますが、その全てを根絶やしにする訳にも参らず、自然豊臣系と目された藤堂高虎を粗略に扱えなったという、高度な政治判断でもあったのでしょう。

何れにしても極めてドライな高虎の立ち回りは、或る種のひ弱さを否定出来ない豊臣恩顧或いは徳川譜代の大名とは一線を画す、戦国大名・外様大名の一典型であり、一方に於いて彼の有能さを指し示すもの、私としてはそう肯定的に捉えております。

先ずは藤堂高虎への個人的な評価ですが、民政・外交・合戦・築城術のどれを取りましても一級品、幾多の人材が輩出した戦国期に於いてすら、高虎の如き有能な士は極めて稀でした。

一方に於いて、今に至る不当とも思える彼に対する評価の低さと評判の悪さは、当然ながら徳川幕府の価値観のほぼ全否定に至った、明治政府の樹立に由来するのでしょう。

即ち豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となった豊国神社が、明治天皇の鶴の一声で再興されるなど、明治維新後豊臣政権の復権が図られ、その結果として或る...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報