10秒目をつむったら…

レオンに・・・蒲生氏郷について、質問なのですが

秀吉曰く

【俺が死んだら、天下は、黒田か、蒲生さ】

氏郷死亡時

【これで秀頼を守るものが無くなった】

・・やら言われたり、信長の娘を娶ったり

かなり、才能が・・あった?
・・と、思われるのですが

実際彼の行動は、九戸の乱の時やら、あと細々とした、戦
くらいしか、私は知らないのですが

・・あ!あと政務は素晴らしい所も

秀吉は、氏郷の器量を畏れたともあります

あとは・・家臣に奮発し過ぎて、赤字・・かな
氏郷は、未完の大器・・なのでしょうか?

彼の活躍を聞かせていただければ、幸いです

よろしくお願いします

A 回答 (3件)

>あとは・・家臣に奮発し過ぎて、赤字・・かな 


>氏郷は、未完の大器・・なのでしょうか?
>彼の活躍を聞かせていただければ、幸いです

蒲生氏郷は戦国末期を代表する高名な武将、且つ同時代有数の将器と謳われながらも謎が多い人物として知られるが、彼の活躍を物語る文献は誠に少ない。
依って私としても、彼を語るに想像に依る部分が大きい事を、予め申し上げておきます。

因みに明治維新まで続く大名家の多くは、家祖或いは中興の祖の業績に関し、大袈裟に装飾した伝承を持つのが通例であるが、氏郷が抱える多くの謎は、彼以降の蒲生家の消長(孫である忠知の死に依り断絶)及び彼自身の早世と決して無縁ではないでしょう。

一方に於いて、氏郷は確かに家臣に大封をばら撒いております、この点は高々松坂12万石程度の領主から、一躍会津40万石そしてその後92万石の太守に任じられた故、天下に広く人材を集める必要性があった事、及び秀吉亡き後の中原に覇を唱える意志が明確であった事の証しかと思われます。

即ち彼は、吝嗇な人物は天下を取れないとの独特の自論を持っていた、その点を論拠として、秀吉亡き後の家康天下説を否定し、且つ家康を極端に軽蔑していた節が伺えます。
何しろ氏郷が徳川家康を嫌い、且つ伊達正宗と反目していたのは恐らく事実、さもなくばあの秀吉が会津という要衝を彼に託すはずがない、何しろ三者合わせれば400百万石を越え、ゆうに秀吉率いる天下の軍と対決し得る大勢力となる訳ですから。

その辺りが秀吉流人事の妙なのでしょう、即ち才能ある彼を上方から遠ざけると共に、徳川そして伊達に睨みを利かせる重しとして配置し、且つ三竦みといった状態を作り出せば、尚良といった具合に・・。

一方先に御指摘があった秀吉が切れ者を遠ざけた意図は、恐らく彼の記憶から生涯離れなかった本能寺の変がその根底にあったものと思われます。
つまり彼なりに天下に野望を持つ者とそうでない者を峻別し、或る種のリスク・ヘッジを行った訳で、野望と才能を併わせ持つ武将には、大封を与えて遠国に追いやった、或いは氏郷もその該当者かも知れません。

その事を物語る伝承として、会津92万石の太守という破格の抜擢を受けた後、鶴ヶ城に於いて流したと言われる涙(仮に上方で騒乱が起こったとしても、遠国故にそこに加われない無念さに由来する)が、記録に残されております。

尚氏郷の尊敬と忠誠心は生涯織田信長にあったのでしょう、多くの歴史的文献は、彼が秀吉にさほど傾倒しなかった点を示唆しているが、それ以上に家康を嫌い且つ軽蔑した、依って秀吉の死後尚彼が存命であれば、そして越後の上杉・常陸の佐竹と手を結び、合わせて二百数十万石に近い勢力が徳川の北方に盤踞しておれば、易々と徳川家の天下が成立したものかどうか、極めて興味深い歴史のifではあります。
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この回答へのお礼

質問していてなんですが
まったく同意見です

彼は当時・・多少信憑性の置ける文献などでは
当時の大名たちから、かなり評価を得ていた様子がるようで

ですが、実質的に何がどうだったか・・
・・となると、意外なほど、文献が無い

私も、関ヶ原時代に、彼が存命なら
佐竹、上杉、蒲生と同盟を結んだと思います
この三国の同盟なら、国外への出撃も可能なほどの、国庫がある
伊達なども、素直に、徳川に味方をしたか、分かりません
本当に、興味深い話です

そう考えると、仰られるとおりに
秀吉の、配置は、絶妙でした

本当に、ロマンです

お礼日時:2013/02/19 03:01

つい最近、藤田達生『蒲生氏郷』(ミネルヴァ書房、2012年)という本が出ています。

本当かどうか分からない秀吉の発言など過大評価されがちな氏郷の虚像ではなく、史料に基づいた氏郷の実像が書かれていますので、是非ご参照下さい。
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この回答へのお礼

おぉ?そんな本があるのですか!

是非、欲しい!情報ありがとうございます!

お礼日時:2013/02/19 03:02

秀吉は優れた部下は重用したが 切れ者過ぎる者はそり才覚を恐れ遠ざけた



黒田如水 豊前中津12万石
直江兼続 越後30万石
竹中半兵衛 伯耆5万石
蒲生氏郷 米沢90万石

こう見ると 遠国に留め置かれたものの石高は90万石
当時としては 徳川家康 上杉景勝 毛利輝元 前田利家に次ぐ禄高です
完全に5大老格ですね 
しかし秀吉は氏郷と伊達政宗の内通を実は疑っていました
家康も臣従しているとは言え家臣ではない 万一伊達政宗が謀反をした場合
蒲生氏郷も決起 昵懇の徳川家康も味方につけば東国は間違いなく家康の天下に…
秀吉はそれを恐れていたようです

秀頼の守役を家康でも氏郷でもない前田利家に任せたのはいかに彼が高禄でありながら野心が無かった事を秀吉は見抜いていたかです
秀吉は人を見る目は確かです…まぁ家康の事実上の謀反(関ヶ原)に至る道は見抜けなかったようですが

ただ この人はあの真田幸村からは嫌われていたようです
石田三成 大谷吉継 直江兼続 後藤又兵衛と錚々たる面々から人望が厚かった幸村が何故氏郷を嫌ったのでしょう?

ただ ある人物からは絶大な信頼を得ていました
横山喜内…彼は石田三成の家臣で 島左近と並び三成の左腕ともいう存在です
かれは後に 蒲生郷舎と名乗っています
氏郷の息子の秀行と親戚だったため蒲生姓になったという説もありますが
実際は氏郷に憧れ 勝手に蒲生を名乗ったというのが真実のようです





逸話をひとつ


ある日 堀丹後(秀政)が小判の入った袋を大阪城の門内で落としてしまう
秀政の後には 前田利家 福島正則 蒲生氏郷 筒井定次と続いて登城した

利家は小判の入った袋を見つけると 自ら拾い上げ関白殿下に届けた
正則は 小判を1枚だけ取り出し これは良いものを拾った これで酒を飲むか と良い去っていく
氏郷は その場で家臣一同の行列を止め 「これは御城番頭の丹後殿の小判よ」と言い秀政に届けるよう命じた
定次は ネコババ

小判にも袋にも当然名前は書いていない しかし氏郷はみただけでこれが秀政のものだと分かった
いかに普段から氏郷が人を見ているかがわかる逸話です
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この回答へのお礼

おぉ!その逸話、全然知りませんでした、なんか久々に新鮮な戦国知識!

それと幸村が氏郷が嫌いだったのもしらなんだ!
知ってるようで、戦国は知らないものだな~!
俄然勉強したくなる!

子供のわがままでは無いので、嫌いだから、ぷん!
・・な~んて、のりは無いでしょうが
氏郷は、家康、政宗のこと嫌いだと思ってました
とくに家康

なんか、あいつが上洛するなら俺が絶対背後から攻撃してやる!
的なことを言っていたので

知ってるようで、まだまだですな~僕も

お礼日時:2013/02/17 23:19

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