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はじめまして
東京都西東京市ひばりヶ丘に住む兼業主婦です。
3人の子供の子育てがほぼ終わったので、パートで働いています。
今は、マンションで夫と2人暮らしです。

今、学校での体罰や家庭での虐待が問題になっているのがおかしく思えたので、私の考えを書きたいと思います。
是非返答してください。

私は、子供をたくさん殴って育てました。暴言もいっぱい吐きました。
イラついた時には子供に当たり散らしてましたよ。
でも、それの何が悪いんですか?
子供が私をイラつかせるのが悪いんですよ。
親になると、子供のことで頭がいっぱいになります。
だから、何か起きたら必ず子供が関係しているんです。

子供なんて言うのは、子供の内は親のおもちゃでいいんですよ。
どうせ親がいいようにコントロールしているのが、教育の現状でしょ?
親と言うのは、ご近所に自分の子供を自慢して、鼻を高くしたいものです。
これを読んでいる子育て経験のある人は、違いますか?
こういう学校に行かせたい
こういう職に就かせたい
余所の主婦から羨ましがられたい
そういう思いを子供に反映させながら育てるものじゃないですか。
だから、子供が学校で虐められていた時は、虐められるような弱い子供になっていることが恥ずかしかったですね。
虐めの影響で、浪人してもろくな大学に入らずに社会人になっちゃいました。
長男が大学生の頃は、外では子供の話はあまり出来ませんでしたね。恥ずかしくて。
浪人までしたんですから、有名なところに行ってくれなきゃ困るんですよ。
あと、うちの長男は、乳児の時にテレビCMに出る機会がありました。
しかし、いざ本番の収録の時に大泣きしてしまってうちの子は出演せずに終わってしまったのを
今でも覚えています。
子供があの時に泣かなければ、あの子の人生はもっと違ったものになったと思うと、とても残念で、
ずーっとその話をしています。
子供がそれをきっかけに芸能界に入れば、私の人生ももっと良いものになったはずですから。
あれを思い出すたびにイライラして、長男には特に強く当たり散らしてましたよ。

こういう育て方が日本の基本でしょ?
子供なんていうのは、自分のために利用して、親として他人に自慢するための道具ですよ。
だから、家の中でだけ子供を殴り飛ばし、外には決してばれないようにしてました。
こうして大人のストレスを発散させたおかげで、子供は親のもとで育つことが出来るんですよ。
ストレスをため込み続けたら私が壊れてしまって子育て自体が出来なくなってしまうじゃないですか。

最近になって、その長男が児童虐待を続けてきたなどと私達に何か言うようになっていますが、
今更そんなことを言われても・・・・ね。
やられているその時に言わなかったのが悪いんです。
傷害罪とかに問おうにも、もう時効でしょ?
もちろん、子供が私にふるう暴力は、家庭内暴力です。
私が子供にふるう暴力は、躾です。
家の中のことは、親がすべて決めて動いているものなので、決まりを作るのも裁くのも全て親である私達です。
私達の自由にしていいんですよ。
日本は、そういう国ですよね。

長男がごちゃごちゃ言おうが、私は警察には捕まらないんですから。
今はもう、子供が何を言おうが関係ありません。
今の子供の人生は子供のものです。
私達 親のものではありません。

こういう考え方はおかしいですか?

A 回答 (58件中11~20件)

女性ならばとくに、仕方がない事はありますね。

それによって、空気を読めるようになる大切さもあるでしょう。
しかし、当たり前では、ちょっと悲しい気がします。
もし、あなたがいうことが正統ならば、今もしくはこれから、あなたは子供さんのお荷物ですよね?子どもを宝物のように優しく厳しくなさってきたのなら、これからは、家宝のように慕われるでしょう。
少なくとも、ただ当たり散らしてきた親の元に自分の子どもは連れていきたくありませんね。
理性がある人ならば、バランスを考えて接し、その誠実さを伝えていくのも大切ではないでしょうか。
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どちらかといえば長男さん側の人間ですが、そういう考えもいいんじゃないですか?


道徳道徳とか言われてますけど、感情の喜怒哀楽が激しいのも人間の特徴ですし。

むしろ、社会人になったら自由になれている長男さんが逆に羨ましいぐらいです。
こっちなんて日によって出て行けだったり、出て行ったら許さんだったりで意味がわかりません。
社会人になっても相変わらず、いらいらしているのか態度が悪いとかで殴られますよ~
しかも、質問者さんと違って顔がメインで殴ってきます(笑)
ま、おかげさまで女にしては逞しい方に育ちましたけど。
学校でいじめに合っても母親のほうが怖いっていう感じでしたし

それに、こどもを玩具って思うかどうかもそれは考え方の違いってだけであって、誰が子育てしたとしても、それぞれの個人的な考えを基にして育てているんだからそれでいいんじゃないでしょうか?
殴らずに育てられたとしてもまた別のところで他の家と比べられるってだけであって、隣の芝生は青いってやつじゃないんですかね?
ただいまの時代は暴力自体が良くないって言われてるから皆さん噛み付いてるってだけだと思います。

子供は殴っていいけど、親はだめって言うのは、まぁ普通じゃないですか?
しつけの基準なんて外からは判別つきにくいものだけど、社会人になってから手を上げるのは感情が前面に出てるだけだからだと思うのでそこは仕方ない。

ちょっと言ってる事がめちゃくちゃになってきましたけど、結論、考え方は別におかしくないと思います。
質問者さんが御礼で言ってることとかぶりますけど
仲間入りと仲間はずれで言う、仲間はずれな考え方なだけだと思います。
つか、考え方に正しいも何もないと思います。自分が正しいと思えることをしたらいいんじゃないでしょうか?

最後に子育てお疲れ様でした。
これからは自分の時間を大事にしてくださいね。
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あなたって心底可哀想な人ですね。

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下の回答をしたものです。


回答をしたあと、改めて読み返して大変失礼なことを言っていることに気が付きました。
私自身、親から虐待を受けて、家庭裁判所で親と話をしたのですが
馬乗りになり、タオルを猿ぐつわにし、ばれるといけないと首から下を毎日殴られ続けたのですが
結局、素行が悪かったせいで、親が正しく、私は精神病ということになり
この手の内容に対して平常心を失っていました。

大変申し訳ございません。

私の場合は18になると同時に家を出て、住んでいた土地がどうしても嫌だったので
県外に飛び出したのですが。そういった行動が社会的に認められてはおらず
また自分自身も幼かったので、各地を転々として、揚句にホームレスになり
なんとかホームレスから抜け出したのですが、まだうまくいかないことも多く・・・

虐待がいいか悪いかではなく、された側がどうなるか。
一般的ではない生き方を強いられることになります。
そして、虐待を受けた人たちを何人か知ってはいますが
暗中模索といいますか、正解が無いので皆必死です。
どうか虐待を擁護するようなことだけはしないでください。
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よくぞまぁ、親になろうと思いましたね。


そんなに子供がお嫌いなら親にならなければよかったのに
それとも何ですか?
親になると、子供のことで頭がいっぱいになります。とありますが
親になるまで、そのような状況を全く想定できなかったということですか?
子供というのはわがままなもの。とは世界共通の常識だと理解していましたが
その常識すら知らなかったということですか?

私は、子供をたくさん殴って育てました。暴言もいっぱい吐きました。
イラついた時には子供に当たり散らしてましたよ。とありますが
自分のメンタルをコントロールすることが出来ないのですね。
いい大人なのに(笑)
いい大人が子供と張り合って、力にものを言わせたのですね。
立派ですね
自分自身を制御する力は、親が子供に教えなければならないことだと思っていましたが
あなたは、そのことに関して全く知識がなかったのですね

なぜ家の中に治外法権があるのですか?
なぜ許されることだと考えているのでしょうか?
頭が悪いのですか?
人を殴ったら傷害罪ですよ
あなたは自分の子供は人じゃないとお考えでしょうか?
頭が悪いのですか?
あなたは立派な犯罪者ですよ
頭が悪いのですか?


この質問を読んで感じたことは
あなたがとても幼いということです
もちろん年齢が、ということではありませんよ
とても無駄な歳の取り方をしたのですね(笑)


自分の心をコントロールできず
周りに当たり散らすことしかできず
その異常さに気が付かない
言い換えれば、人にぶつけていなければ自分自身を制御できないほどの脳ミソしか
持ち合わせていない、社会のパラサイトさん

どうか、家から出ないでください(笑)
あなたは人を不幸にします
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私も子供のころ母親にビンタされましたよ。

いたずらの度が過ぎてお灸をすえられたことも。今でも手の甲にはその時の火傷跡が残っています。でも自分が何か悪いことしたのですから、仕方ないですね。

小学校の下校のとき、急に土砂降りの雨が降り出しても傘持ってきてくれるなんてことはなかったですから、ずぶ濡れになって走って帰りましたよ。帰ってきても「風邪ひかんでね。医者行くの面倒だから」なんてそっけなくてね。誕生日もクリスマスも、小2ぐらいからはプレゼントなんか記憶にないですね。「高校出たら小遣いなんか一円もやらんぞ。免許ほしけりゃ全部自腹でとんなよ」と常に言われてました。また、(消費税以外には)「税金払っていないあんたは一人前じゃない。煮て食おうが焼いて食おうが親の勝手だよ。文句言うのは経済的に自立してから」ということも言われ続けてきました。


万事がそんなだから自分のことは自分で始末をつけ、たいていのことには動じない生き方を自然に学びましたよ。体力的にも精神的にもたくましくなったと母親には感謝しています。
こんな俺でも、きちんと自立できたよと、初任給では父親と母親に、ささやかですが感謝の贈り物をしました。少し照れていた姿を今も思い出します。


あなたのお子さんが今どう感じているのかは知りませんが、感謝しているといいですね。
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自分は両親から、嘘をついた時に布団たたきで何度も叩かれた経験があります。


かなり痛いんですよね。しかも、跡が残りますし。ミミズ腫れです。
夏のプールの時期は特に最悪でした。
でも、叩く場所が「お尻」というのがミソで、水着を着てしまうので隠れるんですよね。
ただ自分も、いつまでもジッとしてただ叩かれているのではなく、そのうちに逃げ回る事を学んだので
(実際には学んだのではなく、逃げれば余計叩かれる回数が増えるだけだったんですけど)
逃げながら叩かれると背中とかに当たるんですよね。
で、クラスメートに見つかった事があります。なんて答えたかは忘れました。

親は、嘘だけは絶対にいけない!と強い信念を持って、まっとうな人間になるために
涙をのんで行った懲らしめだったのでしょうが、結局、嘘つきはエスカレートするだけでした。
こんな思いをしているのに…、本当にとんでもない人間なんです、自分は。
そして、嘘をつく事に全く罪悪感を感じなくなりました。
あくまでこれは、自分のケースですからね。

何が言いたいかと言うと、痛みでは人をコントロールできないんじゃないかなぁという事です。

自分も今は小学生の親です。自分のイライラをつい口調で出してしまう事はあります。
でも、それで手を上げようと思った事は一度もありません。
言うことを聞かない事なんてしょっちゅうです。年齢を重ねれば重ねるほど…。
でも、それで手を上げようと思った事は一度もありません。
親が教えている事を聞かずに、他のお友達に迷惑をかけてしまう事もあります。
まぁ、一緒に登校しようと呼びに来てくれたのに間に合わずに…という事を繰り返す、という
自分の「うそ」と比べるとものすごくかわいい迷惑なのですが。
それでも、人間だれしも自分の事が可愛いので、そういった他人を思いやれない気持ちが
自己中心的な考え方を発展させ、最終的に自分の様にとんでもない人間に成長してしまう
可能性が強い、という考え方の基で、教えています。
そして、自己中心的な考え方がいじめや暴力の基本となっているとも教えています。

よく「人に迷惑をかけない」様に育てる事は親として一つの目標に上がりますが、
なぜ迷惑をかけたくないのかという動機によっては全く異なる教育方法になる気がします。

1、他人の事を思いやっているから、自分が何か苦労してでも「人に迷惑をかけない」
2、「人に迷惑をかけない」から自分にも迷惑をかけないでほしい。

子供を育て、教えていく時に大切なことは「動機」なのではないのでしょうか。
自分の「うそ」のケースで考えてみます。

この事を教える時に、一番親が気にする事柄はなんでしょうか。
うそつきな子供を育てたという事は親の恥だ、という理由であれば、動機は「自分一番」です。
うそをつくと誰からも信じてもらえなくなるよ、という理由であれば、動機は「子供一番」ですかね。
うそをつくと他人を悲しませるよ、という理由であれば、動機は…なんて言えば良いのでしょうか。
自分で言っておきながら判りません。強いて言うのなら「思いやり」なのでしょうかね。
まぁ思いやりのある子はうそをつかないのかもしれませんが、最初からとても他人に対して
思いやりであふれている子供は少ないのではないのでしょうか。

この、一番強い動機が何かによって、教える方法が異なっていくような気がします。

自分一番の場合は、自分の事を聞く事がすべてにおいて正しい訳ですから、
子供が何度怒っても直そうとしなくても、自分の教育方法を変える事なんて考えられないですよね。

子供一番の場合は、子供の人生が良くなればそれで良い訳ですから、
子供がどんどんと大きくなり社会の中でまっとうに生きていくためにあまり苦労をせず、
出来る事なら周りから褒めてもらえるような人間になって欲しいのかもしれません。
そうすると、何度怒っても直さない場合、どうすれば直せるかな?と工夫をするかもしれませんが、
でも根底にあるのは子供の人生ですから、自分の子供だけに通用する工夫をしていくのかもしれません。

では最後の動機は?自分がうそをつきたいという気持ちよりも、つかれた相手の悲しさを想像し、
その悲しさを感じさせない様に教えていく訳ですから、
何度怒っても直さない時には、今よりも他人の事を考えられるにはどうすればよいのだろうか、
という事を根底に工夫していくのかもしれません。

ではここに、身体に与える痛みを加えてみましょうか。
それを行う動機は何ですか?自分を客観的にとらえた時に…。
そしてその痛みは、子供に、自分を変える力を与えるものでしょうか…。
痛みを加えられる時の恐怖は、なんとも表現しがたいものです。
何度も何度も痛みと恐怖を与えられていると、「だから次は二度とするもんか」という思いより、
憎しみの方が強くなっていってしまう恐れがあるのではないのでしょうか。

多くの国で、痛みを与えても人を良い方向へ導く事は難しいと言われていますし、
色々な分野で、恐怖や痛みで支配された人間の心理について研究されていますよね。
結果として、「うん、素晴らしい教え方だ!」と分析された事はないのでしょうか。

何より、立派に成長出来るように、とある「立派」とは、何を指しますか?
立派について、親と子供で価値基準が共有できていますか?
子供が、親の考える価値基準を受け入れて「立派」に成長したいと思っていたら、
今更になって(という表現で書かれていますが)教育方法に異議を唱える事はないですよね。
そこに隔たりがあるのでしたら、結局のところ「親の考える通りに子供が成長してくれなかった」
訳ですから、教育方法を変えた方が良かったのかもしれませんよね。

人を真から変える事が出来るのは、人の「心」を動かした時だけではないのでしょうか。
そして、心を動かせば物事に対する動機も変わるのではないのでしょうか。
これは、子供でも親でも、成人でも年配者でも変わりがないのではないのでしょうか。
つまり、子供に「心」を変えてもらって「動機」を好ましいものに変えていくには、
教える立場である自分の「心」と真剣に向き合わなければいけないのかもしれません。

そうすると、人の「心」を変える時、痛みや恐怖がその手段だとは自分は思えないのです。


子供は親の作品だという考え方は、親からの一方的な価値基準の押しつけの様な気がします。
そこで子供が「うん、僕は(私は)親の作品なんだよ!」と嬉しそうに答えたとして…。
その子供の自主性が感じられるのでしょうか。
立派に成長したなぁ、と目を細める事が出来ますか?
私の教育方法は間違っていなかった!と胸を張れるのでしょうか…。


周りのお子さんも、子供は親の作品だという考え方で育てられていたとしましょう。
学校や近所で子供が問題を起こしたら、イコール親同士に問題があるわけですよね。
子供が自分で自分の問題を解決していく必要がなくなってしまうのではないのでしょうか…。
子供には、あまり悩まず、苦しまずに人生を歩んで欲しいですよね。
だとしたら、自分の事は自分で解決していける能力は、絶対に必要なのではないのでしょうか。
もちろん、一人では生きていけませんから、周りからの協力は必要不可欠ですが、
その周りの協力を問題解決の第一の糸口にする事は、
少なくとも「立派に」成長しているとは言えないのではないのでしょうか。


質問者様の文章を読んで、あそこまで気持ちよく言い切れるのは、自分も気持ち良くなりました。
でも、質問されたという事は、今の世の中の流れと自分の考え方が違う事を感じられたという事ですもんね。
昔は手を上げる事なんて当たり前だったのに、今の世の中が、
暴力や虐待に反対する傾向だからこの問題が提起されたのではなく、
もともと人間がもっている思いやりだとか良心だとかの「心」の問題として
この質問が、そして自分の提案が少しでも役に立てたら嬉しいなぁと思います。
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私の知人がご同様なことを考えていました。


親が金を出して子どもを育てるのだから、子どもの殺生与奪の権利は親にある。
親が子どもに対してこうあるべきだと思えば、子どもはそれに従う義務があり、言うことをきかなければ殴ってでも従わせる。
ここまでは同じですが、彼の言い分では親も又子どもの生き方に対して責任を負うという点があります。
つまり言うことをきかなければ殴ってでも従わせるが、それによって子どもが人生に失敗したらそれは親の責任であり、親もその責めを負う。
一般社会で言えば、教育を引き受けた以上、結果を出せなければ違約金を支払うのが当然で、うまくいかなければそれは親が間違っていると言う事です。
期限もあって、子どもが20歳になり成人式から帰ってきたら、その瞬間から親も子もなく大人同士で対等な関係、それ以降の子どもの生き方に一切口は出さないし、アドバイスはするが援助はしない、学生なら就職までの学費は払ってやるが、それは貸しであって返して貰い、自分の趣味にあてる予定。
20歳になるまでに自立した自我を育て、自分で生きていける力を育むのが親の責務で、躾はその手段に過ぎない。

あなたの長男が文句を言うのはあなたの育て方の失敗、その責をあなたはどう負うつもりですか?
子どもが家庭内暴力を振るうのはあなたの躾が失敗した結果なので、あなたの方針は間違っていたということになります。
今更責任を放棄できませんから、やむ得ないことかと。
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> 子供をより成長させようと頑張ったつもりなのですが、全然上手くはいきませんでした。



上手くいかなかった人が、大層に子供の教育方針を語ってるワケですか・・・。


> 子供は親がどんな人間かを表しているとも言えます。

ではアナタも「全然上手くいってない」ってことですね。(笑)


> 子育てという行いによって、子供が成長していきます。

私は子供の成長と共に、子育てを通じて、自分も成長しました。
子供のおかげで、私の方が成長出来たかも知れません。

その私が、更に子供を教育し・・・を繰り返す関係で、ある意味「対等」です。


> その結果を世間に対して公表して余所の家庭の子供と比べたり、世間から評価されたりするのです。

つまらないコトを気になさってるのですね。
私にとっては、世間の(親に対する?)評価なんて、どうでも良いのですよ。

子供が余所の子供と比べられた結果、「子供が不幸かどうか?」だけです。
子供が不幸なら、私も不幸なので、私は子供が幸福になる努力をするのみです。


> 「子供というのは、親の作品」ということです。

私にとって子供は、「私の作品」などと言う軽々しい存在じゃありません。
私の全てより大きな存在であって、少なくとも私の幸福は、子供に従属していますので。

それでも強いて作品に譬えるなら、「作者は余り知られてない超名曲」みたいな感じですかね?
私にとって子供は、その一曲を作るために、生涯を賭す様な存在です。

子供が私に従属するのではなく、やはり「私の幸せが、子供の幸せに従属している」のです。
子供が幸せであれば、私は幸せになれるし、子供が不幸なら私は不幸です。
すなわち、私が不幸でも、子供が幸せなら、私は幸せです。


> うまくいかなくなった時に子供に厳しくしつけるわけです。

そう言う理由では、私は余りしつけませんでしたね。

しつけ,指導,教育なんてのは、相手が理解していないこととか、反省すべきところで、反省していない場合などに行うものでしょう。

「うまくいかなかった」なんて言う結果は、本人が一番判ってますので、敢えて言う必要も無いから・・。
私自身、「それなのに言われる」のが苦痛(不幸)だし。


やはり何かと正反対ですね。

まあ教育論や教育方法なんてのは、人の組み合わせの数だけあるものです。

後は結果だけでしょう。
結果は、繰り返しになるけど、教育者たる親と、被教育者たる子供のそれぞれが、幸せかどうか?だけですよ。

即ち、
・アナタが幸せかどうか?
・アナタの子供が幸せかどうか?
それだけ。

アナタが自論を曲げる必要はないですが、アナタやアナタの子供が幸せじゃなきゃ、その自論に価値がありますか?

一方、私の考え方を押し付ける気も毛頭ありませんが、私や私の子供は、まあまあ成功してますヨ。

「間違ってないけど、全然上手くはいきませんでした。」では、アナタの教育論は、私にとって価値は「ゼロ」です。

私は子供に「良い踏み台だった」などと思って欲しくもありません。
ただ、子供が親になった際には、「親とは子の踏み台である」みたいな気持ちは持って欲しいです。

「子供は自分の作品で、暴力をふるっても警察に捕まらないので、好きに扱って良い」などとは、死んでも考えて欲しくないです。

まあそんな可能性は、全く心配してませんが。
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長男乙w

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