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早速ですが、「自分は特別だ」と思うことと「自分には価値がある」と思うことはどこが違うのでしょうか? 又、これらを持ち合わせている人を自尊心があるというのでしょうか?
自尊心がある=自己承認出来ているということですか? もしくは自己承認は他者との関わりでしか生まれないものでしょうか?

無知でさっぱりわかりません。
教えて頂けると幸いです。
宜しくお願いします。

A 回答 (3件)

こんにちは。


あまり、参考になるかはわかりませんが回答させて頂きます。
この質問にはそれぞれ2つの捉え方ができます。
『自分は特別だ』の“特別”というのは
対象物とはっきりした区別がある、格別な違いを表します。
つまり、対象となる何か。この質問の場合、自分を主体にあげていますので『他人』に当てはまります。
簡単に言えば他の誰もほとんどができない事が、自分にだけはできる。という事です。

『自分には価値がある』の“価値”は、三種の意味がありますが「自分には」ですので、この場合も他人が対象となるので、どのぐらい人の役に立つのかの度合いと受け取れます。

どちらも他人を対象にしていますので2つの違いは価値と特別の言葉の違いそのものとなります。詳しく知りたいのであれば、辞書で調べる程度で理解できると思います。
 
次に自尊心ですが
“自尊心”は国語の意味と心理学の意味が違います。
(自惚れと同一化した解釈もありますが、はぶかせてもらいます)
国語では
自分の人格を大切にする気持ち。また、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度。プライド。

心理学では
自己に対して一般化された肯定的な態度。

一見、同じにも見えますが
説明しやすいように、一部を取り上げると
国語の意味では『他からの干渉を排除する態度』
心理学の意味では『自己に対して一般化された肯定的な態度』
国語では対象が他人です。心理学では対象は自己です。
なので『自分は特別で自分には価値がある』といった人間は、対象が他人なので国語的自尊心の持ち主と言えます。
ですが、対象が他人である以上、国語的自尊心の持ち主は“自己”承認ができているとは限らないといえます。

心理学的自尊心ならば対象が自己ですので
「自分は特別」では無く「自分には特別」
「自分には価値がある」では無く「自分にとっては価値がある」となるはずです。

私の経験を例にあげますが
学生時代、すぐに人を否定するクラスメイトがいました。
彼は非社交的で、嫌われ者でした。成績が最下位だった為、そこをよく取り上げられ陰口をたたかれいたのですが、彼は周りの人間を見返す為、毎日毎日勉強し成績はトップクラスに上り詰めました。それでも誰も彼を見直しても、人間性を認めはしませんでした。
彼は質問にあるように自分は価値があるといった主旨の発言が多くなり、周りの人間の言葉は負け犬の遠吠えに聞こえていると言っていましたが、他人の否定が入らなければ自己を保てない限り、彼は自己肯定を意地にこなしたまでだとわかります。

自己承認なら周りを敵に回すのではなく、自分の性格の難を認めて味方につけなければなりません。

彼の勉強という努力は彼自身にとって成績が上がらなくとも価値のある物です。周りの人間にとっては価値が無くとも、成績が上がらなかったとしても彼にとって頑張った努力は彼だけの物で誰かが否定する権利は無く、人と比べる必要も無い、彼にとって価値のある物です。彼はそれを認めず人と比べる事で証明しようとしましたが、自己承認ができていれば比べるまでもありません。
(彼は今、自己承認した立派な大人になっています)

長文の上、わかりにくくなってしまいましたがもう一つ例をあげさせてください。
私は最近趣味でランニングを始めました。大した距離では無いですが走れば疲れます。運動不足ですし、タバコも吸っています。それでも、目標距離までは疲れてもやめず全力で走り疲れて家に帰ります。
普段から健康的で体力のある人からすれば大した距離では無いし、その程度では疲れません。
でも、私にとっては疲れます。誰が何と言おうと私には辛い距離です。人から大した距離じゃないと言われたとしても実際クタクタですし、全力で走ったので頑張ったと胸を張れます。私は頑張った事を自分で承認しています。大した距離で無くとも馬鹿にされようとも頑張りを認めています。私にとっては少ない距離でも価値があります。
逆にもしもこれから奇跡的に体力が休息に伸び世界トップクラスになり周りが自分を頑張ったと価値がある人間だと認めたとしても、目標まで全力で無かったのなら私にとっては価値はありません。

さらにわかりにくくなったかもしれませんが以上の事から

自分は特別=他人が対象=国語的自尊心がある=自己承認できていない可能性が高い  ※対象が他人なので人との関わりが必要になる (他人に認めてもらうのは他者承認です)

自分には特別=自己が対象=心理学的自尊心がある=自己承認できている可能性が高い ※対象は自己なので人との関わりは必要ない
といった結論がでます。

可能性と書いたのは、自己承認といっても物事それぞれに当てはまる物でもあるので全ての自己を承認できているかはわからない事と心理学的自尊心と自己承認が近い物ですが違う物なので、曖昧な表現をさせてもらいました。

(諦め、工程、妥協、目的のすり替え、他者比較は自己承認ではありません。心理学的自尊心は一般化された態度であって、これらの感覚が必要無くなり、他の感覚と変わらなくなった事を示します)

簡単な説明ですが回答させて頂きました。
参考になれば幸いです。

(心理学的自尊心と自己承認の違いや疑問があれば補足をお願いします)
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございました。
私は今まで国語的な自尊心を持たなければいけないと考えていた事に気がつきました。
心理学的自尊心という解釈を教えて頂き、今まで自分で自分を追い詰めていたことに気付きました。
『自分にとって』でいいんだな....
それならやんわりと、出来損ないの自分を愛でてあげれそうです。
だからといって甘やかすばかりでなく、出来ないことが出来る様になる喜びや、知らなかった事を知ることが出来る喜びを噛み締めていける暮らしをしていきたいと思います。
有り難うございました。

お礼日時:2013/06/27 17:11

NO・1様が良くまとめておられますから、補助的に。



普通人間は程度に差はあっても自分には(そうたいしたものではないが)価値がある、他人とは(当然)異なる、という意識を持っているようです。それらは他人との関係から生じたものだと思われます。自尊心とはそういう心の持ちようから生じたのでしょう。自己承認といってもいいと思います。だからこそ長い辛い人生を生きて行かれるのだろうと思います。
>自己承認は他者との関わりでしか生まれないものでしょうか?
どんな思いでこれを仰っておられるのか良く分からないのですが、やはり人間は社会動物といわれるとおり、自分の存在、ありかたを多くの他人との関係性から作っていくのだと思います。同じ者同志を比べることで思いを精緻に、深くしていくのでしょう。
他面、「自分は特別だ(他人より偉い)」と思うひとも少数ならずいると思われます。これをいちがいに悪いとは思いませんが、それが嵩じて他人を見下げたりする態度に出るのは醜いことで、良くないと思います。国会議員でも、大俳優でもそうしない謙虚な人士は居ます。自分を取り巻く社会のなかで冷静に見比べ、それが本当であっても、自分から他人にそれを認めさせるのでなく、本当なら自然に他者からたててくれるものです。いや、余計なことを申しました(汗;;)
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございました。
人間は社会動物....今いる集団と丁寧に向き合うことで、自分の存在や在り方を見つけていくこと。
自意識過剰になっていた思考がとてもシンプルになりました。
感謝の心や相手を心配る姿勢を忘れず過ごしたいと思いました。
有り難うございました。

お礼日時:2013/06/27 16:57

「自分は特別だ」ということは他人と違った個性を持っているということ、「自分には価値がある」ということは無価値でも害でもないということ。

自然体でこうした感覚を持っている程度なら正常ですが、これをあわせて「自分には特別な価値がある」みたいになると大体は自意識過剰ということになってしまいます。人はみんなそれぞれ特別でそれぞれ価値があるものですから。また‘自尊心の満足(自己承認)‘は、意識の上では‘心理的に必要に迫られた時の他者との相対的な比較の結果による‘と言えると思います。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございました。
私は今まで自意識過剰にならなければと、自分を追い詰めていたことに気付きました。
個性があった方がいいとか、オンリーワンがいいなどという言葉を誤って解釈し、無駄に危機感を感じていました。
今回、改めて本当のオンリーワンに立ち返る良い機会に恵まれました。
有り難うございました。

お礼日時:2013/06/27 16:46

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