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 (あ) すでに考えられた結果を暗記しおこなうことしか望めないか?

 (い) われら考える日本人は 少数であるゆえに 悪貨は良貨を駆逐するの慣わしの前に望みは薄いとあきらめねばならないか?

 (う) 哲学以前あるいはさらにへたをすると人間以前という実際を目の前にして どうすればよいか?

 (え) 足の引っ張り合いなるたたかいに まだしばらくは 対処していかねばならない情況であろうか?

 (お) (あ)の見方によれば 外国人をまづ説得しその外国の人間が考えた《日本人よ 考えることをせよ》なる結論であるなら 日本人は受け容れるのだろうか?

 (か) なぜこれほどまでに日本人は あほばか状態が好きなのか? 心の奥底でそうなのではないだろうに。

 (き) なぞの隠れた愚民化政策が どこかその筋から ほどこされているのだろうか?
  (特に 神・絶対ということについての理解が あの聖徳なるぼんくら太子の水準でありつづけている。《世間虚仮 唯仏是真》なるおのれのみの観念の世界の中にくすぶりつづけるしかも高ぶり状態。タコツボ地獄)。

 (く) あるいは あほばかヰルスが ひょっとしたら ばら撒かれているのだろうか?

 (け) ・・・

 どうでしょう?

A 回答 (45件中1~10件)

>あほばかヰルスが ひょっとしたら ばら撒かれているのだろうか?



 え、知らなかったんですか。もう、抗体を提供しているんじゃなかったのですか。
 IDSCに問い合わせたら、このヰルスは名古屋から広がり豊橋、和歌山で新たな感染者が見つかったので、案の定、感染源の特定にやっきになっていました。
 早急に名乗り出なさい。
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この回答へのお礼

 うきよとんぼさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ってなことを言っている場合ぢゃないってことですか。

 ★ IDSC

 ○ 国立感染症研究所 NIID( National Institute of Infectious Deseases )所属の
  感染症疫学センター IDSC ( Infectious Desease Surveillance Center )
 
 ですか。

 ★ ・・・案の定、感染源の特定にやっきになっていました。 / 早急に名乗り出なさい。
 ☆ なるほど。ホームページの《最新情報》にも まだ掲載されていません。

 すでに感染者が見つかっているのに
 ★ 感染源
 ☆ が特定されていないのですか。困りましたね。

 けれども《感染源》と《ばら撒いた張本人》とは同じですか? どうでしょう。
 どのように分析・検証し特定しますか?

お礼日時:2013/06/28 11:05

個人的な仏教の研究も停滞しているので


しばらく仏教の話題を止めようとは思っているところですが

日本の仏教に要望といえば
日本語で書かれたサンスクリットの辞書が無いのはどうしてなの?
一応あることはあるけど、古いし値段が高いし入手に苦労するし。

サンスクリットの経典も簡単に書店で入手できるようにしてよ、と。
ローマナイズもしてね。

なんで英語で調べないといけないの?

それに漢訳と対応させれば訳したと思っている傾向があって、
現代の日本語にしてくれ、と思う。

まあ、それだけ何はともあれ、漢文である必要があるんだろうけど。

仏教について、何にも知らなかった頃は
鈴木大拙の「禅とは何か」なんかをそれこそ読んで
すっかり内容なんか忘れていたけど、なんだかんだ影響はあるのかもしれない。

そもそも英語で説明された仏教なんて発想は
鈴木大拙の影響だし。
読んでなかったら私もずっと漢文ばかり調べていたかもしれない。

でも禅は結局、坐禅をしないとわからないとかいって
議論を避けるから、悪く言うと逃げ口上があるから
だんだん関心が無くなった。

あとは某テーラワーダの長老の毒舌ぶりとか
あれで意地でも仏教なんか否定してやると思ったし。
まあ、それだけ影響は受けたのかも。

それから自分も反省しないといけないんだけど
あまりに中村元の本を引用したりしたということ。

中村元が書いていれば絶対なのかよ?というね。
だって、調べようが無いんだもん。

という致命的なことはわかった。
だから原文を手に入れる必要もあった。

それで辞書の問題もでてきた。基本的に
パーリ語の辞書は英語ばっかり。
やっぱり仏教は英語なんだろうか、と。

でも、なんかどこかで思想を統制されている感じはしないでもない。
仏教学者の本とか僧侶の本とか宗教学者の本とか
読んでもかえって遠回りしたかもしれない。

最近は、どういう本を読めばいいのか困っている。
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この回答へのお礼

 かざみどり365さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 原典資料と辞書と。
 ★ ~~~
 それに漢訳と対応させれば訳したと思っている傾向があって、
 現代の日本語にしてくれ、と思う。
 ~~~~~
 ☆ これは案外おおきいと思いますね。従来の研究との照らし合わせには 漢文も必要なんでしょうけれど。

 

 ★ 中村元が書いていれば絶対なのかよ?というね。 / だって、調べようが無いんだもん。
 ☆ わたしの経験を勝手に言えば 中村元(その全著作)をたたき台にしました。ひとりの人の研究にしぼったほうがよいという考えです。そのあとでほかの研究書を読む。

 それは 日本語学では 大野晋一本を基本としましたし 万葉集では 中西進。
 日本古代史の文献学では 上田正昭。考古学では 森浩一。神話学(民族学)では 大林大良(および 馬淵東一)。
 印欧比較言語学では 高津春繁(およびその弟子の風間喜代三)。・・・
 というふうに決めてたたき台としました。(まぁ ぜんぶ請け売りになる場合もあるのですが)。


 その道のりで 自分の考えが芽生えて来るとよいでしょうね。
 あるいはまた 主題を――あとで別のものへ移ってもよいのですから――きちんと決めるということも あんがい集中力がつくものと思います。(これこれこんなテーマは どうでもよいと思ったら そこそこに済ますということがあります)。

 友だちの物書きが 玄侑宗久の本がいいと言うので読んでみたら なるほどその本は 辻褄が合っていた。ならもう一冊と思ってわざわざ買って読んだら わが目をうたがいました。めちゃめちゃだという判定をしました。よくもこんな内容が売れているのかと。



 ★ でも、なんかどこかで思想を統制されている感じはしないでもない。
 ☆ こういう感覚は初めて聞きました。そうかも知れないし。・・・

 何かのヰルスがばら撒かれているのかも分かりません。

お礼日時:2013/06/28 11:34

こんにちはです。




日本人が考えることを好まないのは、《不安遺伝子》を持っているかもしれません。
不安遺伝子については、以下をご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AD% …

http://matome.naver.jp/odai/2136258422860419401

日本人は、《不安遺伝子》つまり《セレトニントランスポータ遺伝子のS型》をもつ人の割合が世界で一番高いとされています。
《不安遺伝子》をもつ人の特徴は、
 (1)内省的
 (2)不安・プレッシャー・孤独に弱い
 (3)優越的な他者に支配されるのを好む
などなど。

遺伝的形質からすると、
日本人は、基本的には内省型。なので、日本人は《うつ病》になりやすい。
自分をとことん追い込んじゃう、でも、不安や孤独に弱いから、ココロを傷つけてしまう、ココロが風邪をひいてしまう。。。
だから、
その予防として、トコトン、徹底的に考えることを放棄する、
という知恵が生まれたのかもしれません。

(3)なんか、
「寄らば大樹のかげ」
「長い物には巻かれろ」
などの諺(ことわざ)に顕著に現れていますよね~。


また、日本人の子育ての方法がこの傾向にさらに拍車をかけているかもしれません。。
親子三人、両親が子供を挟むように寝る、いわゆる、《川の字》睡眠。
母親は子供に絶えずベッタリ寄り添う。
両親、特に母親からの愛情をたっぷり受けるから、日本人はきめ細やかな《情緒》を有し、ずば抜けた《共感》能力をもつ。
これはいいことなのですけれど、諸刃の剣の側面を持っていて、他者の気持ち、立場を思いやり過ぎる傾向が出てくる。なので、《道理》や《我》が引っ込んじゃう。西洋的な意味での《自我》の発達が抑制される、《自我》の確立ができない。


遺伝・環境的要因の両面が揃っているので、
日本人は、自分や社会に関わることについて、徹底的に物事を考えることには、向いていないのかもしれませんね。
そのようなことをすると、心が破綻してしまうからです。
そして、これは
オリジナルの人文科学・哲学・世界観の貧困
に結びつく。
日本発世界への経済思想・政治思想・哲学など、明治以来、ありはしない。
これは、このことを裏付けているのかもしれません。

なのですが、
数学とかは凄いですね~、日本人。
和算という、西洋の数学に遜色のない高度なものを独自に作り上げてしまった。
このことを、日本人はもっと誇りに思っていい!!
「どうだ、凄いだろう」と世界に胸をはっていい。
そして、日本の現代数学もです。
日本人数学者の業績(谷村・志村予想などなど)がなければ、
おそらく、未だに《フェルマーの最終定理》は証明されなかったはずなので。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%BE%A4% …
日本人は、世界に向かって
「論理的に考えることができるのだ。オリジナリティー・独創性を有しているのだ」
と言っていいんですよ。
でも、多くの日本人は、このことを知らない!!


なので、日本人は考えることはできるのです。
ただ、日本人は《孤独に弱いウサギさん》だから、自己を徹底的に追い込む哲学や神学などには向いていない。
───これができた日本人は、歴史上、空海と親鸞くらいなものでしょう───
ウサギさんは、あんまり寂しいと、その寂しさのあまり、死んじゃいますから(笑)。
群れの仲間と一緒にいないと、《日本人ウサギさん》は、生きていけないんですよ。

ライオンや虎になれとは言いませんが、
日本人は《飼い猫》くらいには、ならないと、
ライオンや虎に頭からバリバリと食べられてしまうかもしれませんね。
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ◇ 日本人が考えることを好まないのは、《不安遺伝子》を持っているかもしれません。
 
 ▲ ( 不安は当然!? 日本人の多くが不安遺伝子を持っていた)~~~
 
  ● 日本人に多い SS 型のセロトニントランスポーター遺伝子
 
  多くの日本人は不安やストレスを感じやすいセロトニントランスポーター SS 型の遺伝子を持っていると言われている。

 ▲ 多ければ多いほど“内向的で従順”な性格になる S 型、逆に“自主独立の性向が強く、社交的で活動的”な性格になる L 型が知られる
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ◇ ~~~~~~
 日本人は、《不安遺伝子》つまり《セレトニントランスポータ遺伝子のS型》をもつ人の割合が世界で一番高いとされています。
 《不安遺伝子》をもつ人の特徴は、
 (1)内省的
 (2)不安・プレッシャー・孤独に弱い
 (3)優越的な他者に支配されるのを好む
 などなど。
 ~~~~~~~~~
 ☆ ならば内省的にて むしろ《考える》ことを好み 人一倍考えるのではないかとも思われます。


 ◇ ~~~~~
 遺伝的形質からすると、
 日本人は、基本的には内省型。なので、日本人は《うつ病》になりやすい。
 自分をとことん追い込んじゃう、でも、不安や孤独に弱いから、ココロを傷つけてしまう、ココロが風邪をひいてしまう。。。
 だから、
 その予防として、トコトン、徹底的に考えることを放棄する、
 という知恵が生まれたのかもしれません。
 ~~~~~~~~
 ☆ 羹に懲りてなますを吹くなのでしょうか? もともとは《考える人》であるということですね? 根は。
 だったら少なくとも青少年のころには よく考えるということではないのでしょうか?

 あるいはつまり
 ◇ トコトン、徹底的に考える
 ☆ と
 ◇ 自分をとことん追いこんじゃう
 ☆ とは限らないと思うのですが どうでしょう?

 考えるなら 考えるよろこびを知るようになります。
 その経験は別々にまたあらたに始めるようなものではなく 考えれば考えるだけ素養をつくりそれらが土壌となって残ります。その言わば宝は積み重ねて行けますし あたらしい問題に際しても考えるならすでに得て来ている成果とともに相乗効果を発揮することさえ出来ます。


 ◇ ~~~~~
 (3)〔優越的な他者に支配されるのを好む〕なんか、
 「寄らば大樹のかげ」
 「長い物には巻かれろ」
 などの諺(ことわざ)に顕著に現れていますよね~。
 ~~~~~~~~
 ☆ いわゆる集団志向ないし集団主義の問題ですが だからと言って 考えることを打っちゃってしまっているとは限りません。別問題ではないでしょうか?
 たとえ支配されるのを好むとしても 考えることを止めるわけでありません。支配にさからうことを考えたなら そのことは口外しないというだけのことだと思います。

 もの言えば唇寒し秋の風は 言わないというのであって その言わないと決めたという内容は その前にじゅうぶんに考えているということを明かしています。考えようとしたことを明かしています。



 ◇ 西洋的な意味での《自我》の発達が抑制される、《自我》の確立ができない。
 ☆ こんなよきことは 世界どこを探してもあまりないのではないですか? あとは考えることを放棄せずに つねにおこない しかもその内容を活かすようにするなら 《わたし》の確立はじゅうぶんのぞましく また実現しうるのではないでしょうか。
 
 情感の共同性なる土壌の上に 《人としての自己形成》がじゅうぶんに出来るはずです。あるいはすでに出来ているはずです。ただ 奥ゆかしく・はにかみやで 他人には見せないだけではないでしょうか? 一般のクウキにしたがって出しゃばらないだけなのではないでしょうか。


 ◇ ~~~~~
 遺伝・環境的要因の両面が揃っているので、
 日本人は、自分や社会に関わることについて、徹底的に物事を考えることには、向いていないのかもしれませんね。
 そのようなことをすると、心が破綻してしまうからです。
 ~~~~~~
 ☆ この意味が分かりません。考えることをなすと 心によくないことが起こるという見方が分かりません。
 わづかにそれを おおやけの場であからさまに言ってしまうことには 躊躇するところがある。というに過ぎないのではありませんか?

 精神が旋回するようにして 知識にもとづき思考をおこなうこと この《考える》ことに 何か《ものには限度というものがある》ということわざは通用しないと思うのですが。



 ◇ ~~~~~
 そして、これは
 オリジナルの人文科学・哲学・世界観の貧困
 に結びつく。
 日本発世界への経済思想・政治思想・哲学など、明治以来、ありはしない。
 これは、このことを裏付けているのかもしれません。

 なのですが、
 数学とかは凄いですね~、日本人。
 和算という、西洋の数学に遜色のない高度なものを独自に作り上げてしまった。
 このことを、日本人はもっと誇りに思っていい!!
 「どうだ、凄いだろう」と世界に胸をはっていい。
 そして、日本の現代数学もです。 
 ~~~~~~~
 ☆ ということは お上の意向に沿わないような結論の出る思考は おこなわない。または おこなっても門外不出とする。――というだけのことではないですか?


 
 ◇ ~~~~
 日本人数学者の業績(谷村・志村予想などなど)がなければ、
 おそらく、未だに《フェルマーの最終定理》は証明されなかったはずなので。
 ~~~~~~
 ▲ このラマヌジャン予想→谷山・志村予想→ラングランズ予想→超ラングランズ予想という一連の流れ(ゼータの統一)は数論の中心的テーマの1つとなっている。



 ◇ ~~~~
 なので、日本人は考えることはできるのです。
 ただ、日本人は《孤独に弱いウサギさん》だから、自己を徹底的に追い込む哲学や神学などには向いていない。
 ~~~~~~
 ☆ ただただ 上から《和を以って貴しと為せ》という遺伝子が 考えることから遠ざかりそれを放棄するように作用している に過ぎないのではないですか? 幽霊の正体見たり枯れ尾花 なのではないですか?

 ただただそれゆえに理数系とそれ以外というふうに《考える》を使い分けする習性がついた。だけなのではないでしょうか。

 《孤独に弱い》などというのは おそらく逆ではないでしょうか? ほかの国の人たちのほうがもっと弱いのでは?
 というのも 外国の人たちは おもにただただ頭の中に大きな観念を作り上げておいて その《非孤独・非不安遺伝子》のおかげで 何とかやり過ごしているだけなのだと考えられます。
 日本人は もろに孤独地獄に しかもむろん一人っきりで いどみつつ おのが人生をかたちづくって来ている。のではないでしょうか。情感の共同性は 土壌であって 幹を成し花や実を成らせるのは やはりおのれ一人のチカラないし実存なのですから。

お礼日時:2013/06/28 17:29

ヤバい。


また、NO5の回答でポカをやらかしてしまった(ポリポリ)。

フェルマーの最終手入りのリンク先は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7% …
です。

NO5のリンク先は《岩澤理論》ですね。

ポカや誤字・脱字、日本語としての表現の誤りが多いのは、
眠り猫の習性だと思って、大目に見てください(ペコリ)。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ◇ 《岩澤理論》
 ☆ これも 日本人の《思考》の成果なのですね。

お礼日時:2013/06/28 17:30

人は良貨かつ悪貨。

思考と思考停止を反復する
自己や外国人などを純粋良貨とみて、その他を純粋悪貨とみなすなら分裂した人間観
あほぱかウイルスは自己の短慮な面とそれへの受容を忘れて外化したイメージかも?
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この回答へのお礼

 71ぴーあいえいちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 人は良貨かつ悪貨。思考と思考停止を反復する
 ☆ そうですね。のっけから反論しますが

  ○ 《思考の過程におけるその中断という意味での思考停止》と《考えることをしないこと》とは 別だ

 と思うのですが? 《考えることをしない》のは ここでは《悪貨》です。《思考の中断》は 《良貨》の一断面です。

 ★ 自己や外国人などを純粋良貨とみて、
 ☆ これは 曲解です。《考える〔人〕》を良貨としているのみです。ですから:

 そのとき――たしかに表題では《日本人に》とありますが それはそういう意味ではなく つまり―― 日本人と外国人とをくらべて どうだこうだという議論ではありませんでした。

 《日本人に》と言っているのは 《われわれは》というほどの意味です。なぜならこの質問は 日本語でおこなっていますからというのが真意です。

 ましてや
 ★ 純粋良貨
 ☆ などという捉え方は けっしてしておりませんし するつもりもありません。

 たとえば直前の回答のやり取りでは 次のように言っています:
 ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~~
  ◇ 〔* 日本人にあっては〕西洋的な意味での《自我》の発達が抑制される、《自我》の確立ができない。
  ☆ こんなよきことは 世界どこを探してもあまりないのではないですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ですから
 ★ その他を純粋悪貨とみなすなら分裂した人間観
 ☆ というご指摘は――わたしが舌足らずだったのだと思いますが―― どうかご無用としてくださいませんか?


 ★ あほぱかウイルスは自己の短慮な面とそれへの受容を忘れて外化したイメージかも?
 ☆ まぁ 《短慮》はみとめますが。

 

 互いの自由な批評・批判が自由にすすめられることをのぞみます。

お礼日時:2013/06/28 17:44

こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。


傍観しようと思ってたんだけど
やっぱおじゃまします、ちょろっと。


ネコ様とのやりとり面白い。





平和ボケうんぬんとかぢゃなくて、
宇宙にたったひとりであるおいらが
毎日毎日24時間おいらをする、という

とてつもなく当たり前で大切な発想を
そもそもしなくなったか、それか、
諸事情でできなくなっているのかな。
それ堂々とやったら叱られるのかな。
叱られたら人格否定された気分になるのかな。
そうしたら立ち直れないのかな。


とか悲観的なこと書いちゃって。
そんなわけないわ。(▼・▼メ)


おいらは 積極的に「クウキを読まない人」が
頑張ってるしこれからも頑張ると思います。


ネコ様のご回答で思いついたのは、
不安な人ほど武器を持つのだそうです。
武器を持つと守られた気分になる上、
勝った気分にさえなるそうです。


そうだ、「中立」というID、
そんなにキライかい?
                             













 
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この回答へのお礼

 にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。けっきょく

   ふつうにわたしがわたししているなら
  それは《考える》をすでにそのときおこなっている。
  ともなっているはずである。

 こういったご見解でしょうか。それは つねなる姿であり 姿勢であり態度でもあると。

 むつかしいこともなく ただしやさしいというわけでもない。
 《わたし》は 所詮 ひとりであるから。
 ひとりであるゆえにこそ かかわりがありそれが分かり 社会を成しており 社会の人間として生きて行くのだと。



 ★ 「中立」というID
 ☆ これは やや分からなかったのですが。
 生活日常のふつうであること。これが 大事だということでしょうか。

お礼日時:2013/06/28 21:04

ところでさ、この写真、何なん?


昔は良かったね~♪とか
言わんといてくださいよ。(■.■メ)
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 土偶のこと? ハート型だそうです。顔が。


 強いて説明すれば ムラハチブを覚悟しての設問でえすと言っています。

お礼日時:2013/06/28 22:17

おっと、火だるまになってしまった(笑)。


せっかく《セロトニン遺伝子のSS型説》の話をしたのですから、この線にそって答えることにします。

遅れましたが、
お礼、ありがとうございます。



☆☆☆☆☆☆
☆ 羹に懲りてなますを吹くなのでしょうか? もともとは《考える人》であるということですね? 根は。
だったら少なくとも青少年のころには よく考えるということではないのでしょうか?
◇根は《考える人》でしょう。


☆考えるなら 考えるよろこびを知るようになります。
◇セロトニントランスポータ遺伝子がSS型の人は、《楽しみ》を感じにくいのですよ。考えるという作業に楽しさを感じにくい。
なのに、あれこれ考えてしまう。
ここに矛盾と葛藤があるのではないでしょうか。
楽しくないのに、考えこんでしまう。
これは、結構、辛いものがありますよ、きっと。
───わたしは考えるとことが好きですし、楽しいので、これは推測になりますけれど───



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~~
 ◇ ~~~~~
 遺伝・環境的要因の両面が揃っているので、
 日本人は、自分や社会に関わることについて、徹底的に物事を考えることには、向いていないのかもしれませんね。
 そのようなことをすると、心が破綻してしまうからです。
 ~~~~~~
 ☆ この意味が分かりません。考えることをなすと 心によくないことが起こるという見方が分かりません。
~~~~~~~
日本人の多くは、自己を日本・ウサギ村の関係性においてとらえるからです。
この関係性を逸脱すると、日本人の多くは、安心感を得られません。
したがって、個人がそのウサギ村をただ独り離れて、その後ろ盾を失って、神のような絶対的一者と向き合うなど到底、心の許すところではないし、心の耐えられるところではない、という意味です。
ひどい孤独に襲われたり、あまりに寂しいと、すぐに死んじゃうんです、《ウサギさん・日本人》は。ウサギさん村、ウサギさん群れの温もりを感じられないと、ダメなんです、日本人は。
なので、
自己の存続に関わる、天変地異などが起きないかぎり、日本人は、日本・ウサギ村を批判することや、そこからの逸脱をひどく嫌います。多くの矛盾を抱えていても、その矛盾に気づきながら、なかなか変えようとはしません。
それはよって立つ基盤を失うことであり、同時に、自己の喪失を意味しますので。

定年とともに、抜け殻のような状態になる人、日本人には多いでしょ。
これは、その一つの現われではないでしょうか。




☆☆☆☆☆☆
~~~~~~~
◇ 西洋的な意味での《自我》の発達が抑制される、《自我》の確立ができない。
☆ こんなよきことは 世界どこを探してもあまりないのではないですか? 
~~~~~~~
わたしも「いいことだ」とは思うのですが、
いわゆる、欧米型のグローバル・スタンダードとやらからすると、
主体性の欠如ということになるのでしょう。
そして、
こうした価値観・世界観を欧米などの異文化の人々に納得させるだけの論理を構築できていない。
現段階では、
ワンガリ・マータイさんという外国人の手を借りて、《もったいない・MOTTAINAI》という価値観を世界に発信した程度に終わっている。
情けねえな~、ホント!!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%B3% …

これもSS型のなせる業なのか。。。
SS型の人は、自分〔の考え〕に自信を持ちにくいとされていますので。
国際的な意識調査によりますと、
「日本人の自尊心の低さは世界一だ」といわれています。
例えば、こちら。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-23 …
日本人は基本的に内省的だから、他者との比較のうちにおいて自己の能力を正確に見極めている、ということになるのでしょうか。
「自尊心なんかクソ喰らえ」と言いたいところのですが、
自尊心の低さと《うつ病のなりやすさ》には相関関係があるといわれています。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 ☆ ということは お上の意向に沿わないような結論の出る思考は おこなわない。または おこなっても門外不出とする。――というだけのことではないですか?
~~~~~~
SS型ゆえに、お上の意向、あるいは日本ウサギ村の意志に逆らわないのか、
お上の意向、もしくは日本ウサギ村なる組織があったから、結果、SS型の人間が多く残ったのか、
これは分かりません。
「鶏が前か、卵が前か」の議論になるので。

和算、これ凄いんですけれど、
やっぱ、華道やお茶のような、互いに排他的な組織、つまり《流派》になっちゃって、他の流派との交流はないんです。
すぐに群れを作りたがる、ウサギさん日本人の悲しい性なんでしょうかね~。
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この回答へのお礼

 ねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ◇ ~~~~
 セロトニントランスポータ遺伝子がSS型の人は、《楽しみ》を感じにくいのですよ。考えるという作業に楽しさを感じにくい。
 なのに、あれこれ考えてしまう。
 ~~~~~
 ☆ これは 《考える》ではなくて 相手〔の肩書きや身分〕に気を遣うとか 思い悩むとか あれこれ気を回すとかいうたぐいの心理的な動きにしか過ぎないのではないでしょうか?

 考えるにともなうよろこびは 世界におけるワタシの位置関係が分かることがいちばんだと思います。そのことによって わたしがわたしでいることが出来ます。思うように実現していなくても それは 社会という関係構造の問題だと知るはずですから。
 
 船に乗っているときには 嵐に遭えば皆と同じようにこれに耐えます。そこから降りるわけには行かない。
 満員電車で急ブレーキがかかったときに 人から押されてしまうし 自分も隣りの人を押してしまう。このようなカカワリ情況は すでに自分が自分の位置にかんするかぎり引き受けています。そのことで思うようにものごとが行かなくても 自己了解に差し障りはないと言ってよいでしょう。

 考えることに たとえ楽しみがなくても わづらわしさが生じるわけではないでしょう。

 考えるという段階のさらに以前に 問題に直面しない・問題を直視しようとしない そういう段階のことを《考える》と言っていませんか?




 ◇ ~~~~ 
 日本人の多くは、自己を日本・ウサギ村の関係性においてとらえるからです。
 この関係性を逸脱すると、日本人の多くは、安心感を得られません。
 ~~~~~~
 ☆ というところまで《考える》ことを行なえば すでにその理論上《安心感》が得られているのではありませんか?
 ただ 現実は その理論どおりには行かないというだけのことではないですか? そこまで考えたなら 何の問題もないと思いますが。

 ◇ 日本・ウサギムラの関係性を逸脱する
 ☆ ということをすでに想像において描いてしまっているし そこまでのことを考えたことになると思います。

 考えただけで 社会生活上の安心感が得られなくなる。――これは どういうことか? とさらに考えるはずです。
 だったら
 ☆☆(趣旨説明欄) (き) なぞの隠れた愚民化政策が どこかその筋から ほどこされているのだろうか?
 ☆ というところまで――そのことの正否は別としても―― 行き着くのも 必然的なことです。

 ☆☆(同上) (く) あるいは あほばかヰルスが ひょっとしたら ばら撒かれているのだろうか?
 ☆ となります。どういうヰルスかは みんなで考え調べて行くとよいと思います。


 

 ◇ 自己の存続に関わる、天変地異などが起きないかぎり、日本人は、日本・ウサギ村を批判することや、そこからの逸脱をひどく嫌います。多くの矛盾を抱えていても、その矛盾に気づきながら、なかなか変えようとはしません。
 ☆ 《ウサギ村を批判する》ということは 知っていることになります。そういうことを考えることもあるんだなと分かっているという意味になります。
 《多くの矛盾を抱えている》ことについても考えているということですよね。《矛盾に気づき》それについて考えるところまでは すでにおこなっているではないですか? 処方箋までをも持ったとしても《なかなか変えようとはしません》というだけの話ではないでしょうか。

 そこまでのことを確認出来たならば まづは・ひとまづは安心です。


 ◇ ~~~~
 定年とともに、抜け殻のような状態になる人、日本人には多いでしょ。
 これは、その一つの現われではないでしょうか。
 ~~~~~
 ☆ 違うと思います。それこそは 《何も考えない人間》だったということだと考えます。《言われたことだけをやる人間》だったのだと考えます。少しでも考えたことのある人は そうはならないでしょう。


 ねこさんは 人びとがウサギ村のウサギさんだということを何故か故意に強調しようとしていませんか? 考えることはほんとうにはあるという人たち この人たちになおさらに威嚇をしようとしていませんか? この世であくせくとはたらく世界とはかけ離れたところにあって暮らす人たちの代弁をしているのではありませんか? つもりがなくても そうしていることになるのではありませんか?
 マインド・コントロールにかかっているのでしょうか? 催眠術でしょうか?
 《考える人たち》のあたらしい一歩について 踏み出しづらいと思わせるような話をしていませんか?



 ◇ ~~~~
 いわゆる、欧米型のグローバル・スタンダードとやらからすると、
 主体性の欠如ということになるのでしょう。
 ~~~~~~
 ☆ いまだに人殺しをおこなっている人間たちのどこが《主体性》なのでしょうか?

 ◇ こうした価値観・世界観を欧米などの異文化の人々に納得させるだけの論理を構築できていない。
 ☆ 聴く耳を持たない人間のどこが 主体的な行動なのでしょう?
 いまだに 人種差別をしているのではないでしょうか? オモテには出しませんが。
 日本人などというのは ごみくず同様に思っているやも知れません。


 ◇ SS型の人は、自分〔の考え〕に自信を持ちにくいとされていますので。
 ☆ 何を言ってんですか。たぶんクリスチアニズムによると思われますが自分たちは えらばれた人間であると思い込んだ人間がどうして人間にふさわしいふつうの《自信》を持てると言うのでしょうか? 思い込みの上の思い込みではないでしょうか。
 
  ほこるなら わがよわきをほころう。

 と聞いていても また日本人というそのお手本が目の前にあっても やっこさんたちは 反省もしないわ優越感にひたりつづけるわで 目も当てられません。

 《 SS 型》がどうのこうのというのはよく知りませんが 仮りにそのとおりだとしたら そうだとしても
 ◇ SS 型の人は、自分〔の考え〕に自信を持ちにくいとされていますので。
 ☆ というのは だからこそその《自信の無さ》が 人間のほんとうの《自信》につながるのではないでしょうか? この慎み深さをどうして 自分たちで卑下したり相手に対しては蔑むにまかせておくのでしょう?

 ◇ 「日本人の自尊心の低さは世界一だ」といわれています。
 ☆ これほどとうとい事実はないのではありませんか?

 ◇ ~~~~
 日本人は基本的に内省的だから、他者との比較のうちにおいて自己の能力を正確に見極めている、ということになるのでしょうか。
 「自尊心なんかクソ喰らえ」と言いたいところのですが、
 自尊心の低さと《うつ病のなりやすさ》には相関関係があるといわれています。
 ~~~~~~
 ☆ 相手が・つまり思い込みによって他の民族に対して優越感を持ちその蜃気楼の上に乗っかっている人間である相手
が おそかれ早かれウツになることさえ出て来るのでしょう それをこちらが先取りしてやっているのではないでしょうか? これは 無縁慈悲と言うのだと思います。
 やつらは 《人権》ということしか言えないぢゃないですか。思い上がりの自尊心のどこがとうといのでしょう?


 ◇ ~~~~~
 和算、これ凄いんですけれど、
 やっぱ、華道やお茶のような、互いに排他的な組織、つまり《流派》になっちゃって、他の流派との交流はないんです。
 すぐに群れを作りたがる、ウサギさん日本人の悲しい性なんでしょうかね~。
 ~~~~~~~
 ☆ そうなんですか。アマアガリ・シンドロームに罹っているのでしょうか。
 アマテラス予備軍症候群でしょうか。
 真ん中にアマテラシテ象徴をいただくヒエラルキア組織なんでしょうか。真似したがりますから。
 そして ムレたがるのでしょうか。

お礼日時:2013/06/28 22:07

NO10の付け足しです。



NO10やNO5の議論は、すべて、日本人の男についての議論です。
女性は、精神的・肉体的に強いんで。
女性は、少々のことでヘコたれたりはしません。
ヘタレなのは、世界中、どこを見まわしても、男と決まっているので。
これは動物実験などから明らかなんだもの。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 男が問題であると。

 分かりました。

お礼日時:2013/06/28 22:08

ぶらじゅろんぬさん、何度も失敬おす。





ワタクシゴトなんですが、
小学校に通う娘の意見を聴いていると、

◇ こうあるべきと決め付けすぎ
◇ 転ばぬ先の杖をお互い与えすぎ

なんぢゃないかなあと思ひまつ。


___________


娘の話です。
2年か3年前の図画工作の授業で、
「明るい色を挙げてください。」と言われ、
張り切って挙手して「茶色!」と答ると、

「違います!それは暗い色です。」
と教師に言われたのだそうです。

どうして茶色を明るい色だと感じたのか
教師は娘に尋ねることなく、
黄色やらピンクやら水色やら、
そういうのが明るい色だと教えたそうです。


帰宅した娘にその話を聞いたおいらは、
「どうして茶色が明るいと感じたの?」
と訊いてみると、娘は
「だって土は茶色だし木も茶色だし、
 家の床もテーブルも茶色やんか。」
と答えるんですわ。

親バカかもしれませんが、このように
「個人の感覚」を「間違いだ」と「教える」のは
マチガイなんぢゃないかと思ひまつ。


___________



またまたワタクシゴトですが、
小学生をはじめ、多くの人が、
「失敗」を極度に恐れているように感じます。
その結果「最初からやらない」
という選択をしているように思います。

おいらが担当しているサッカー少年団には、
鬼ごっこが得意な人がいたり
鉄棒が得意な人がいたり
ロングシュートが得意な人がいたり
ドリブルが得意な人がいたり
攻めが得意、守りが得意な人がいたり、
利き脚が右の人がいたり左の人がいたり、
いろんな人がいるんですが、


「鬼ごっこしよう!」というと
「いやや!だってオレ走るの遅いもん。」と言って、
まだやってもいないのに絶望する人がいます。
やってみたら楽しいかもしれないのに
もったいないなあと思います。


「恥ずかしい」ことに敏感なんでせうか。
「恥」をかくぐらいなら切腹、
なんて時代はとっくに終わったのに、

「恥」を避けて行動をしないなんて
とてももったいないと思ひまつ。


___________


(あ) 否。
(い) 否。でも悪貨とラベリングされるのはムカつきます。
(う) 脇腹か足の裏をくすぐってやりませう。
(え) 急ぎませう。
(お) 外国に関係なく自分でできるでせう。
(か) 駱駝から。(けどつまらないと思ふ。)


以下、分かりません。ほぢゃ。



                
 
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 日本人がと言いますか われわれが《考える》ことをしないのは
 ★ ~~~~
  ◇ こうあるべきと決め付けすぎ
  ◇ 転ばぬ先の杖をお互い与えすぎ

 なんぢゃないかなあと思ひまつ。
 ~~~~~~~
 ☆ という回答ですね。


 倫理規範による締め付けでしょうか。
 そして 過剰保護でしょうか。

 道徳にはよわいようです。道徳を説かれると まづは ごもっともですと言わなければならないし そういう顔をしなければならなくなるようです。クウキに合わさねばならないのでしょうね。

 でも 杖を差し出されても かえってうざこいように思うのですが そうはならないんでしょうかねぇ。

 道徳による説教ないしいわゆる精神論は もう廃れているのではなかったでしょうか。根強いのでしょうか。



 ★ ~~~~
 ・・・
 「違います!それは暗い色です。」
 と教師に言われたのだそうです。
 ~~~~~~
 ☆ そうですか。お箸は右手に持ってご飯を食べましょうという標語が家の壁中に貼ってあるのでしょうね。その教師の家。


 ★ 多くの人が、「失敗」を極度に恐れているように感じます。
 ☆ そのことと《考える》こととの関係が いまひとつ分かりにくいんですが。


 ★ (い) 否。でも悪貨とラベリングされるのはムカつきます。
 ☆ ええ。ムラハチブを覚悟の上での質問です。

 ほかの項目について 分かりました。了解しました。

お礼日時:2013/06/28 22:36
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