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C1)ライフの分野で質問(No.8334142、11・4日)しましたが、回答がなく、歴史の分野で、改めて質問します。

C2)12C頃に、全部が鋳鉄製の長州風呂が作られ、江戸時代の初期に、下部が鋳鉄製で、上部が木製の五右衛門風呂が作られたといいます。
長州風呂に対する五右衛門風呂の利点は、より安価にできる事でしょうか?
五右衛門風呂ができて、安く手に入るようになり、庶民にも普及したとみていいでしょうか?
両者の価格比較はできますか?現在、作った時の価格比較で結構です。

C3)長州風呂ができてから五右衛門風呂ができるまでに、約500年かかっていますが、
両者を接続するが難しかったからでしょうか。それとも需要がなかったからでしょうか?
五右衛門風呂ができてから、風呂の普及率は、何倍になったのでしょうか?

C4)該接続部からの水の漏れを防ぐために、何か工夫があったのでしょうか?
たとえば、粘土、膠、皮、しっくいのような物で、漏れを抑制したとか。

C5)古代から大きな土器も作られ、死者がその中に葬られているものもあります。
大きな土器を使って、長州風呂のような風呂は使われなかったのでしょうか。
土器の方が安くできたと思いますが。
使われなかったとしたら、なぜですか。
土器だと、下から火で熱しても、割れないと思います。
一人用の小さな風呂なら出来そうに思いますが。
そういう記録や遺跡はないのでしょうか。

C6)昔の城の大きな石を見ていると、石に穴をあけて、お風呂に使った例はないのでしょうか?
石風呂も、下から火で熱しても、割れないと思います。、

お風呂の歴史を読みましたが、これらがよく理解できませんでした。
風呂の歴史について、詳しい方にお聞きします。

A 回答 (5件)

NO3です


再度補足でご質問を頂戴しましたが、お風呂そのものに関する知識は皆無です。
ただ申し上げましたように、陶器などの焼き物(窯業製品)としての耐熱ショック性や江戸時代の風俗習慣に関して多少の知見があるだけです。

弥次喜多話しも、いろはがるたに「月夜に釜をぬく」という諺がありますが、恐らくこれを借用した洒落でしょう。
江戸の文化というのは、洒落、見立て、やつし、などという表現方法と言いますか文化がありますので、作者も読者も判る奴は判る、解らないのは野暮とします。
余り技術問題として追及されない方が宜しいかと思います。

五右衛門風呂は関西の方が多いというのはご指摘で初めて知りました。
考えられるのは
気象条件や生活習慣の違いがどの様に影響しているか?という点ではないのでしょうか
江戸の町というのは、全国的な視点で見ると極めて特殊な町です。
全国の大名家が屋敷を構え、中央官庁である幕府があったことから、武家と町民の人口比がほぼ半々でした。
更に農民がほとんどいませんでした。
関八州と呼ばれる現在の関東平野には、他の地域のような大名領というものはなく、大名の支配地と旗本の支配地、幕府の直轄地がモザイク状に入り乱れていました。
領主に相当する武家は全員江戸在勤で、家臣が代官として勤務するか、農民である名主(庄屋)が差配していました。
これに対して地方の大名領は武家が数%で、かつ、武家は自由には城下町の外へ出られませんでした。
領民と武家が接触するのは極めてまれで、かつ限定されていました。
人口比も圧倒的に農民が多いというのがごく普通の形態です。
一方大阪は町民が主体で武家は極めて少人数でした。

つまり、江戸を初めとして関東地方というのは、他の地域とは異なり武家と町農民が文化や価値観を共有していました。
大名が使用していた木製の風呂が関東に広まったのにもこの影響があるのではないのでしょうか。

江戸時代は現在よりも冷涼な気候で、江戸の町にも毎冬雪が積もるのは普通の気象でした。
温暖な関西以西と関東では、住居を密閉する期間と必要性に違いがあったのかも知れません。

江戸を中心とする関東が発展したのは1600年以降です。
長州風呂、五右衛門風呂のいずれも関西以西に名称の由来を持っています。
おそらく風呂の形式の普及に文化経済の発展の早い遅いが影響しているのではないのでしょうか?
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この回答へのお礼

五右衛門風呂、長州風呂についてはまだ沢山分らない事がありますが、ここは一旦これで締め切り、改めて、質問させて頂きます。色々有難うございました。

お礼日時:2013/12/22 16:44

NO3です


わざわざ補足を頂戴しましたので、お考えになられる参考に二三情報を提供させて頂きます。

江戸時代の風呂の普及に関して五右衛門風呂のみをお考えになられておられますか?

十返舎一九の東海道中膝栗毛に弥次喜多が旅先で五右衛門風呂なるものに初めてお目にかかって大騒ぎする光景が書かれています。
これからすると、江戸庶民にとっては五右衛門風呂はお目にかかる機会が少なく、地方での風呂形式だったのではありませんか?
焚き釜を備えた檜の風呂の方が一般的だったのではありませんでしょうか。
参勤交代の大名は殿様専用の風呂を携行していました。
幾ら荷役人足が担ぐにしても、陶器製や鉄製のものより木製のほうが軽便です。

焚き釜を備えた風呂は何時頃から発達したとお考えでしょうか

普及率の推定ですが、江戸時代の推定総人口3000万人の内、武家階級は2%~3%弱でした。
江戸時代は、金銭的には町人階級が最も裕福でした。
武家は借金の固まりでした。
貴族階級というのは江戸時代の検討には不適切な用語かと思います。

尚、ただでかいだけの土甕であれば、便所の糞尿を溜める容器は土甕です。
糞尿は貴重な肥料ですから大切に扱われました。
屋内での飲料水の貯蔵容器は土甕です。
土甕のでかいだけで良ければいつでも手に入りました。

現在の家庭用土鍋を基準にして耐熱ショック性を推定されると誤判断される恐れがあります。
念の為に植木鉢を直火で加熱して見て下さい。
陶器の耐熱ショック性を向上させるにはそれ相当の技術と手間が必要です。
陶器なら屋根瓦も鍋も一緒だろうと見做すのは危険です。

日本人は古代から温泉というものは知っていましたから湯あみは別に珍しいことではありません。
温泉には治癒効果がありますから、古くから愛用されていました。

個人の住宅で水を大量に沸かすための必要設備と労力を今一度お考え下さることをお薦めします。
現代のように水道栓をひねって後はガスでポンという訳にはいきません。

一度風呂桶にバケツで水を満たしてみて下さい。
井戸は戸外にありますから、その距離を想定して運んでください。
井戸で水を汲まれた経過はおありでしょうか。
更に必要量の薪割りもしてみて下さい。
農作業や仕事の合間に簡単にやれるような作業ではないことが実感できるかと思います。
このように作業や事物を再現使用してみるのを実験考古学といいます。

大寺院で王朝が金をかけて施作した設備をもって一般化されるのは如何なものでしょうか。

お風呂というのは、設備としての住居の構造、生活習慣と深いかかわり合いがありますので、住居の構造などからも調べられてはいかがでしょうか。
さいわい、庶民の住居を描いた絵画は多数残されています。
なぜ日本では木造家屋が発達して西欧のような土石建築が発達しなかったのかということもヒントになるかと思います。

御研究が進まれますことをお祈りします。

この回答への補足

よくご存じんなので、もう少しお聞きします。

F1)調べた所、金属製の釜と木の樽の接続部は、漆喰(炭酸Ca=生石灰)で防水していたようです。漆喰は、縄文時代のかまどにも使われていて、昔から耐熱性、不燃性の接着剤として多用されていました。お城の城壁の白い壁にも使われていました。

F2)五右衛門風呂は、主に関西で使われ、鉄砲風呂は主に江戸、関東で使われたといいますが、やじきた道中で、小田原宿で五右衛門風呂があったという事は、関東でも使われていたという事。やじきたさんは、江戸の人で、五右衛門風呂を知らなかったので、江戸では殆ど使われていなかったのでしょう。

F3)五右衛門風呂に下駄を履いて入ったら底が抜けたというのは、具体的にどのように底が抜けたかを言わないと私には理解できません。鉄製の釜に、人が乗っただけで、穴は開きません。缶ビールの缶程に薄い鉄板だったという事ですかね。鉄がぼろぼろに腐食していたのでしょうか?

F4)五右衛門風呂は煙突が付いてないので、煙突の付いている鉄砲風呂よりも煙たいと思います。鉄砲風呂の方が、断然有利と思います。それなのに、関西で五右衛門風呂が多かったのは、なぜですか。

F5)東大寺の風呂は、現存しているそうですが、大きな釜に深さはどの程度のお湯を入れていたのでしょうか?

補足日時:2013/11/27 18:38
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分かる範囲で。



>風呂の普及率

これは永遠に分からないですよ。だって、人口でさえろくに調査されなかった時代にどれだけ風呂が普及していたかだなんて調べた人はいないでしょうから。そういう統計資料というのが普及するようになったのは、せいぜいここ100年くらいです。また、そういった庶民文化、つまり民俗学というのは柳田国男先生が確立したもので、柳田先生がそういった活動を始めたのは大正時代になってからです。それまでは庶民文化というのは低俗でくだらないもので学術研究の対象には相応しくないと考えられていたのです。

>土器風呂

理科の授業をお忘れですか。水は1リットル1キロです。現代の一般的な家庭にある湯船にはるお湯の量はだいたい180リットルです。一人用の風呂というとドラム缶風呂ですが、ドラム缶が200リットル入りなので、少なくとも150リットル以上の水は必要になろうかと思います。それに体重50キロの人が入れば200キロの重さに耐えられる入れ物じゃないといけないということになります。
土器じゃそんな重さに耐えられないでしょう。焼き物(土器)そのものだって重いので、それに150キロの水が入ったらどうやって持ち運び及び水抜きをするのさ。ドラム缶は鉄だから乱暴に倒しても壊れないけど、それだけの大きな土器を乱暴に倒したら確実に割れますよ。底に穴を開ける?水漏れ対策は?あと、底から火をかけるなら、熱対策も必要です。それを中世のテクノロジーでどうやれと。現代はゴムという便利なものがありますが、ゴムだって熱には弱いしね。

>岩石風呂

石の熱伝導率をお考えですか。これも小学校の理科の時間にやったでしょ。岩石や焼き物は温まりにくく、冷めにくいのです。
最大の問題は、どうやって綺麗に中をくり抜くかです。しかも、中世の道具でね。現代の旅館の石のお風呂だって板状の岩石を耐水性の接着剤でくっつけて四角い形に作ってるんだから。え?そしたら同じように板状にして貼り合わせればいい?接着剤は?当時は耐水性の接着剤ってのはないですよ。膠?あれは60度の熱で溶け始めるから下から直火をがんがん当てれば溶けてしまうでしょう。

焼き物で作ったらとか、岩石で作ったらとか、たぶん思いついた人は昔にもいただろうし、行動力のある人もいたと思うんですよ。だけど残ってないってことは、失敗したんだと思いますね。あるいは、作れたことは作れたけどあまりに手間がかかるとかね。
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>長州風呂に対する五右衛門風呂の利点は、より安価にできる事でしょうか?


>五右衛門風呂ができて、安く手に入るようになり、庶民にも普及したとみていいでしょうか?
価格差の問題よりも、取扱い(据え付け時の重量)と
入浴時の壁面への肌触り、更に、今でも檜の香りのする風呂は喜ばれることを勘案すると、利用者の嗜好の方が大きかったのではないのでしょうか。
安いから普及したというよりも生活に余裕が出てきた方が影響は大きいのではないのでしょうか。
燃料である薪を入手する手間や費用を考えると、相当贅沢な生活用具になります。
井戸から水を組上げて運ぶだけでも労力として相当な負担です。
風呂は都度清掃して清潔にしておく必要がありますから、これも相当な負担になります。

>五右衛門風呂ができてから、風呂の普及率は、何倍になったのでしょうか?
統計という概念がなかった時代の事柄を数値で比較するのは無謀です。
人口数ですら推定値しか存在しません。

>両者の価格比較はできますか?現在、作った時の価格比較で結構です。
難しいでしょう。
ざっと考えると、材料としての鉄よりも木材の方が安かったでしょうから、五右衛門風呂の方が安上がりだったでしょう。
現在は桶職人が極めて限られていますから、現在のままで比較したら五右衛門風呂のほうが断然高くなるでしょう。

>両者を接続するが難しかったからでしょうか。それとも需要がなかったからでしょうか?
>該接続部からの水の漏れを防ぐために、何か工夫があったのでしょうか?
檜を太目の糸状にしたものを使った和船用の防水技術を使えば左程には難しくありません。

鉄というのは、元来、農具、武具、炊事用具に使われる素材です。
風呂のように単品で大量の鉄を使うには素材の確保という意味で相当な余裕が必要です。
木材は全国で簡単に手に入りますが、鉄は採取地が限定されます。
鉄は現在よりも貴重な素材でした。
丁寧に扱われ繰り返し使われていました。
現在の経済感覚のように、需要があるからハイ作りましょう、という訳にはいきません。
社会全体の底上げがあって初めて新しい習慣や用具が作られていきます。

>古代から大きな土器も作られ、死者がその中に葬られているものもあります。
大きな土器を使って、長州風呂のような風呂は使われなかったのでしょうか。土器の方が安くできたと思いますが。
「風呂」という字からも判りますように、古代から長い間蒸風呂形式でした。
熱した石に水をかければ簡単に蒸気は得られます。
それを密閉した部屋でやればいいだけですから、極めて簡便です。
温泉のようにお湯につかるのは「湯」とよばれて相当後の時代からです。

大型の土器を高温で焼いて作るのは難しいので、木材を土器の周りに積み上げて焼くという簡便な方法をとります。
現在でも東南アジアではこの手法で作られています。
この程度の焼成では温度変化や衝撃に対しては極めて脆弱です。(簡単にヒビが入ります)
大量のお湯を沸かすのには、結果的にやってみても上手くいかなかったのでしょう。

>昔の城の大きな石を見ていると、石に穴をあけて、お風呂に使った例はないのでしょうか?
石風呂も、下から火で熱しても、割れないと思います
石を鑿一丁で風呂の形の大きさにするのには相当な手間がかかります。
壁面を薄くしない限り恐ろしく熱効率が悪いです。
又、石というのはガラスと同じように温度変化にたいしては脆弱です。(割れやすい)

お風呂というのは、場所もとりますし、燃料を大量に消費するので相当な贅沢品です。
普通は盥にお湯を入れた行水形式で済まされていました。
結果的に天然のお風呂である温泉は全国で大切にされました。
江戸や大坂のような都市部では「湯屋」すなわち銭湯が盛んにつくられて利用されていました。
逆に庶民は、燃料を大量に消費するお風呂は持ちませんでした。

この回答への補足

E1)調べてみると、BC1700年頃のテラコッタ(焼き粘土)製の浴槽がエーゲ海クレタ島で出土した。クノッソス宮殿の女王が使っていた。
E2)鎌倉時代以前に、土器製の風呂も作られた。
という記載があります。

E3)屋根瓦も、土器ですが、屋根職人が屋根の上で歩いても、そんなに簡単に割れません。
現在でも、大きなかめで、黒酢などを作っています。
耐久性はあるように思います。
実際の剛性率(せん断弾性率)値を当てはめて計算してみます。

E4)普及率は、上級支配層のみとか、下級貴族まで普及していたとかの記載があります。そういう表現でもよいです。
そうすると、当時のそれらの人の人口比率が大体分りますから、おおよその普及率も分ります。
世界や日本の推定総人口の経時変化のグラフがあります。
江戸時代の人口は、3000~4000万人でした。

E5)我が家では冬には、よく大きな土鍋で水炊きをやりますが、10年以上使っていますがいまだに割れずに健在です。
火で熱してすぐに割れたりしません。

E6)1239年に建てられた東大寺に、大きなおふろがあり、
大きな鋳鉄製の窯(2000~3000L)に湯を入れて入ってたそうです。蒸気浴と併用していた。
参拝客に開放していた。これで多くの人が、お湯につかる風呂を体験していたそうです。
昔は蒸気浴だけだったというのは、言い過ぎかな?

補足日時:2013/11/25 21:37
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価格の違いとか、水漏れとか、普及率とかは、よくわからないので、ko6917の疑問に対する明確な回答かどうかは自信ありませんが、C5とC6の問いに関しては、日本人のお風呂の習慣が大きく関わっていると思います。



湯船にお湯をはって、そこに入る…いわゆる、現在のお風呂と同じ形式の物は、有名なところでは、「東大寺の大湯屋」や長州の「田尻阿弥陀寺の切石風呂」などがありますが、これが1部の例外であって、それ以外の日本人のお風呂の入り方は、基本、蒸し風呂です。

源頼朝のお父さんである義朝が、お風呂に入ってる時に殺された話は有名ですが、このお風呂も蒸し風呂です。

日本人(一般の庶民)が、現在のような湯船にはったお湯の中に浸かるようになるのは江戸時代以降とされていますので、それ以前に、土器の風呂や石の風呂は必要無かったという事だと思います。
必要なければ、それを造る技術も、1部の例外をのぞいては発達しなかったという事ではないでしょうか?

日本最古の浴室は光明皇后の造った法華寺の浴室だと言われています。
http://naraclub-naraclubpart2.blogspot.jp/2010/0 …

まぁ、天然温泉には入っていたと思いますが…
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