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 長年、疑問に思っていたことですが、質問させてください。研究を論文として発表しない大学教員は、教育者としてきちんとやっていけると思いますか? 私は以下の特徴があると思います(人文科学)。
・当人は研究している。研究室は本で埋もれていることが多い。
・しかし論文にしない。
・完璧なものを求めるためである。
・これを学生にも求める。
・その結果、学生を潰してしまう。

 私は完璧な論文など、この世に存在しないと思っています。だから「こりゃ不完全だ」と思っても、ある程度のところで発表に踏み切らないとなりません。そこで誤解を恐れず言えば、「不完全ながらも、ある程度の体裁をつける技術」こそ、論文の技だと思っています。学生の論文など不完全なものであって、この技術が無いと成立しません。

 さて、完全を求めるが故に論文を全く発表していない教員は、技を修得していないわけであって、教育者としてやっていくことができないと私は思っています。どうでしょうか?

A 回答 (14件中11~14件)

理系の者です。

私の周辺で論文を書かない教員は、以下に分類されます。
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(1)好奇心満足型
 実験を行い、結果が出たところで自己の知的好奇心が満たされてしまい、論文を書こうとしない。実験結果を学会発表し、反響を得た段階でその研究を終了し、知的好奇心を満たすべく次のテーマに移ってしまう。

(2)多忙型
 まだ助教なのに6人ものM2を抱え、さらに大型プロジェクトにも参加して研究会のコーディネートも任されている。結局自分で論文を書く時間が無くなり、10年経っても助教のまま。

(3)温和型
 性格的に人と争うことができない。査読者との激しいバトルを避けるため、少し批判されるとすぐに論文を取り下げてしまう。

(4)理想追求型
 若い頃、世界的に有名な論文を書いており、本人は国際的に有名である。常に理想を追求し、妥協を許さないため、学生は疲弊していて、研究室としては論文が少ない。
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以上(1)~(3)の人は、学生指導はしっかりやっているようです(学位取得の段階で論文書きのノウハウは身につけているので)。質問者さんが上げた例に近いのは(4)でしょうか。

ただ私の分野は論文の粗製乱造が多く、個人的には(4)のタイプを尊敬しています。

*分野が全く違うので、参考にならなかったらすいません。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。書けない人にも様々なタイプがいるというご指摘ですね。私の分野だと、1と3は生きていけませんね。人文科学は予算が少ないから、淘汰されるのでしょう。2はありえます。

>学位取得の段階で論文書きのノウハウは身につけているので

 原則はおっしゃる通りです。しかし、実態はそれで十分ではないと私は感じています。人文系は少し特殊なのかもしれません。

お礼日時:2013/12/20 23:23

補足。



>ぼくの持ちネタの数は,90分授業を1席と数えると,六代目三遊亭圓生なみ

ぼくの担当教員名でシラバス検索をすると,今年度は13科目がヒットします。共担や実習を割り引くと10科目相当くらいでしょうか。それぞれ15回なので150席。大学を移ったり,改組でカリキュラムが変わったり,興味が変わって廃止したために,すでに開講していない科目もその半分くらいありますから,220席。

ぼくは講義ノートは作りません(教科書やプリントは使います)から,これをすべて暗記しています。教員でさえ暗記できないものを,学生に覚えろとはいえません。しかし近年は,授業中に出てこなくて詰まることがあります。八代目桂文楽は,高座で詰まって「勉強しなおして参ります」と降りてしまい,もう二度と高座にあがることなく死去しました・・・おれの記憶力よ,定年まで保ってくれよ 笑。
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この回答へのお礼

 お礼が前後して、お詫び致します。220席ですか。私の分野だと、短い論文1本を引き延ばして7席くらいに相当します。1本で15席やってしまう人もいますが、これだとダレて来てしまいますね。

 220という数が、大変なものだとよくわかりますよ。私はとてもとても。文献を一緒に読んだりすれば、別に記憶していないでも良いわけでして・・・。

>高座で詰まって「勉強しなおして参ります」と降りてしまい

 かつて学生に予習の状況を最初に聴いて、「すいません、こんなに勉強していない学生が来ていると思わなかったんで、今の準備だと対応できません」と言って、コマそのものを返上してしまった先生がいました。

お礼日時:2013/12/20 23:53

>おっしゃるタイプの先生は(注:No.2の「師事したくない」)、研究しているかどうかじゃなくて、性格とか社会性に問題がありそうですね。



No.2に列挙したことは,「独善的・融通がきかない」と集約できるかもしれません。そういうタイプの人は,論文を書くのにも向くかなあ,と思ってはいますよ。しかし,その相関がどのくらい高いかはわかりません(いちいち他人の業績を調べたりしたことがないので)。なお,人文系では査読論文よりも著書を重視しますから,その点で(自己)満足が実現できる側面もあるのかなとも思っています。

>ところで「大学院時代からテーマがおなじ」の弊害は分かりにくい点があります。補足していただけませんか。

視野が狭いんじゃないかということです。教員の暖簾を出せば,一般教育教養科目も,初年次科目も,学部共通科目も,実習系科目も,専門科目も,大学院科目も担当することになりますが,「そんなに持ちネタがあんのかい?」とよけいなお世話で心配になります。ぼくの持ちネタの数は,90分授業を1席と数えると,六代目三遊亭圓生なみですよ 笑。

卒論題目などの一覧表をみても,指導教員からそんなにそれないテーマが並んでいると,「無理矢理に型にはめてんじゃないかなあ」とも思えます。いっぽう,「よくこんな雑多なテーマを扱えるなあ」という教員もいます(そしてぼくとは仲がいい)。指導者というものは,多少は素人のほうが「あとは自分で考えな」みたいな緩さがあって,むしろいいとぼくは思っています。なまじ「その道ひとすじ」という人から指導されると,逃げ場もなくきゅうくつじゃないですかね。このように書くと,「半素人が他人を指導する(授業もふくむ)とは不遜だし無責任だ」という批判も受けることは,承知しています。

ここではなしを大きくすると,ぼくは日本的な「道を究める」という概念が嫌いです。理系ではメシが食えず文転さえしたおれは,どうしてくれるんだよ 爆。「半素人めが」という軽蔑に対する反発もあります。だからある特定の同僚にたしいて「テーマが変わってないじゃん」と批判しているというよりも,日本的概念を敵視しているのです。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。いや、お恥ずかしい話、私はずっと同じテーマをやり続けています(笑)。ただし完全に同じということではなくて、いろいろと混ぜてはいますね。前に分けの分からない分野の研究者だとお伝えしたことがありますが、院生の頃からそうでした。

>このように書くと,「半素人が他人を指導する(授業もふくむ)とは不遜だし無責任だ」という批判も受けることは,承知しています。

 いや、私はそう思いません。昨今の大学だと教養学部の延長線上の研究科が増えています。知識を伝授することより、考える力を養うことが重要視されているように思います。だからpさんは、とてもいいんだと思いますよ。

>ぼくは日本的な「道を究める」という概念が嫌いです。

 言われてみると、海外はもっと緩いですね。そんなに糞真面目ではないです。私は特に国文学が嫌ですね(笑)。どうもあそこは道を究めると思っている節があります。日本文学と言わず、国文学という呼称を恥じない点からして、私は御免被ります。妙な精神主義になると、サバサバと研究ができなくなります。

お礼日時:2013/12/20 18:24

一般人には難しいご質問ですね。



大学の教員世界では「完全を求めるが故に論文を全く発表していない教員」はどのように評価されているのかですね。
ご質問の問いを読んでいると、やはりある程度の期間に一度は論文発表しなければならないという規則があってもよさそうに思えるのですが。
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この回答へのお礼

 コメント、ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/20 16:20

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