長年、疑問に思っていたことですが、質問させてください。研究を論文として発表しない大学教員は、教育者としてきちんとやっていけると思いますか? 私は以下の特徴があると思います(人文科学)。
・当人は研究している。研究室は本で埋もれていることが多い。
・しかし論文にしない。
・完璧なものを求めるためである。
・これを学生にも求める。
・その結果、学生を潰してしまう。
私は完璧な論文など、この世に存在しないと思っています。だから「こりゃ不完全だ」と思っても、ある程度のところで発表に踏み切らないとなりません。そこで誤解を恐れず言えば、「不完全ながらも、ある程度の体裁をつける技術」こそ、論文の技だと思っています。学生の論文など不完全なものであって、この技術が無いと成立しません。
さて、完全を求めるが故に論文を全く発表していない教員は、技を修得していないわけであって、教育者としてやっていくことができないと私は思っています。どうでしょうか?
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
>完璧なもの・・・を学生にも求める
そりゃあ,「うまくいけば学生が期待に応えるかもしれない」と思えるような,水準が高い大学・大学院のはなしじゃないですか 笑。かつ,10年にひとりくらいは実在する(そして,その文化を伝承する?)としたら恐ろしい。
いまの時期は卒・修論でみな青くなっている時期ですが,ぼくの指導は「手元にあるデータでどうカッコがつくか考えんと,間に合わねえよ。前書きなんてのは,結論にあわせて最後に書くもんだ。最初の予定(前書き)どおりに研究が進むなんて思ってんの? おれたちゃ,半分はごまかしの技術で生きてんだぜ」。だからヤクザもんしか育たない 笑。
周囲の同僚で,「指導学生がかわいそうだな」とか,「こういう人には師事したくねえなあ」と思うタイプは,
・教授会などで流れを見ないトンチンカンな発言をする。
・発言内容がくどいうえ,文が切れずにだらだら続く。
・一般教育でも大学院講義でも,講義内容が同じ。
・妙なところで精神論をたれる。理不尽に怒る。
・人事で書類を見ると,大学院時代からテーマがおなじ。
論文の発表頻度とは,かならずしも相関関係はないと思います。
この回答への補足
多分、私がある数人を念頭に置いて考えている(=イライラしている)から、こういう判断になったんでしょうね。「数人」には、私が院生だった頃の教授も含まれます(笑)。
補足日時:2013/12/20 16:46ありがとうございます。
>手元にあるデータでどうカッコがつくか考えんと,間に合わねえよ。
まさに我が意を得たり、です。おっしゃるタイプの先生は、研究しているかどうかじゃなくて、性格とか社会性に問題がありそうですね。こう指摘されてみると、全てを論文発表の有無に帰結させるのは、暴論といえそうです。
ところで「大学院時代からテーマがおなじ」の弊害は分かりにくい点があります。補足していただけませんか。
No.3
- 回答日時:
>おっしゃるタイプの先生は(注:No.2の「師事したくない」)、研究しているかどうかじゃなくて、性格とか社会性に問題がありそうですね。
No.2に列挙したことは,「独善的・融通がきかない」と集約できるかもしれません。そういうタイプの人は,論文を書くのにも向くかなあ,と思ってはいますよ。しかし,その相関がどのくらい高いかはわかりません(いちいち他人の業績を調べたりしたことがないので)。なお,人文系では査読論文よりも著書を重視しますから,その点で(自己)満足が実現できる側面もあるのかなとも思っています。
>ところで「大学院時代からテーマがおなじ」の弊害は分かりにくい点があります。補足していただけませんか。
視野が狭いんじゃないかということです。教員の暖簾を出せば,一般教育教養科目も,初年次科目も,学部共通科目も,実習系科目も,専門科目も,大学院科目も担当することになりますが,「そんなに持ちネタがあんのかい?」とよけいなお世話で心配になります。ぼくの持ちネタの数は,90分授業を1席と数えると,六代目三遊亭圓生なみですよ 笑。
卒論題目などの一覧表をみても,指導教員からそんなにそれないテーマが並んでいると,「無理矢理に型にはめてんじゃないかなあ」とも思えます。いっぽう,「よくこんな雑多なテーマを扱えるなあ」という教員もいます(そしてぼくとは仲がいい)。指導者というものは,多少は素人のほうが「あとは自分で考えな」みたいな緩さがあって,むしろいいとぼくは思っています。なまじ「その道ひとすじ」という人から指導されると,逃げ場もなくきゅうくつじゃないですかね。このように書くと,「半素人が他人を指導する(授業もふくむ)とは不遜だし無責任だ」という批判も受けることは,承知しています。
ここではなしを大きくすると,ぼくは日本的な「道を究める」という概念が嫌いです。理系ではメシが食えず文転さえしたおれは,どうしてくれるんだよ 爆。「半素人めが」という軽蔑に対する反発もあります。だからある特定の同僚にたしいて「テーマが変わってないじゃん」と批判しているというよりも,日本的概念を敵視しているのです。
ありがとうございます。いや、お恥ずかしい話、私はずっと同じテーマをやり続けています(笑)。ただし完全に同じということではなくて、いろいろと混ぜてはいますね。前に分けの分からない分野の研究者だとお伝えしたことがありますが、院生の頃からそうでした。
>このように書くと,「半素人が他人を指導する(授業もふくむ)とは不遜だし無責任だ」という批判も受けることは,承知しています。
いや、私はそう思いません。昨今の大学だと教養学部の延長線上の研究科が増えています。知識を伝授することより、考える力を養うことが重要視されているように思います。だからpさんは、とてもいいんだと思いますよ。
>ぼくは日本的な「道を究める」という概念が嫌いです。
言われてみると、海外はもっと緩いですね。そんなに糞真面目ではないです。私は特に国文学が嫌ですね(笑)。どうもあそこは道を究めると思っている節があります。日本文学と言わず、国文学という呼称を恥じない点からして、私は御免被ります。妙な精神主義になると、サバサバと研究ができなくなります。
No.4
- 回答日時:
補足。
>ぼくの持ちネタの数は,90分授業を1席と数えると,六代目三遊亭圓生なみ
ぼくの担当教員名でシラバス検索をすると,今年度は13科目がヒットします。共担や実習を割り引くと10科目相当くらいでしょうか。それぞれ15回なので150席。大学を移ったり,改組でカリキュラムが変わったり,興味が変わって廃止したために,すでに開講していない科目もその半分くらいありますから,220席。
ぼくは講義ノートは作りません(教科書やプリントは使います)から,これをすべて暗記しています。教員でさえ暗記できないものを,学生に覚えろとはいえません。しかし近年は,授業中に出てこなくて詰まることがあります。八代目桂文楽は,高座で詰まって「勉強しなおして参ります」と降りてしまい,もう二度と高座にあがることなく死去しました・・・おれの記憶力よ,定年まで保ってくれよ 笑。
お礼が前後して、お詫び致します。220席ですか。私の分野だと、短い論文1本を引き延ばして7席くらいに相当します。1本で15席やってしまう人もいますが、これだとダレて来てしまいますね。
220という数が、大変なものだとよくわかりますよ。私はとてもとても。文献を一緒に読んだりすれば、別に記憶していないでも良いわけでして・・・。
>高座で詰まって「勉強しなおして参ります」と降りてしまい
かつて学生に予習の状況を最初に聴いて、「すいません、こんなに勉強していない学生が来ていると思わなかったんで、今の準備だと対応できません」と言って、コマそのものを返上してしまった先生がいました。
No.5
- 回答日時:
理系の者です。
私の周辺で論文を書かない教員は、以下に分類されます。----
(1)好奇心満足型
実験を行い、結果が出たところで自己の知的好奇心が満たされてしまい、論文を書こうとしない。実験結果を学会発表し、反響を得た段階でその研究を終了し、知的好奇心を満たすべく次のテーマに移ってしまう。
(2)多忙型
まだ助教なのに6人ものM2を抱え、さらに大型プロジェクトにも参加して研究会のコーディネートも任されている。結局自分で論文を書く時間が無くなり、10年経っても助教のまま。
(3)温和型
性格的に人と争うことができない。査読者との激しいバトルを避けるため、少し批判されるとすぐに論文を取り下げてしまう。
(4)理想追求型
若い頃、世界的に有名な論文を書いており、本人は国際的に有名である。常に理想を追求し、妥協を許さないため、学生は疲弊していて、研究室としては論文が少ない。
----
以上(1)~(3)の人は、学生指導はしっかりやっているようです(学位取得の段階で論文書きのノウハウは身につけているので)。質問者さんが上げた例に近いのは(4)でしょうか。
ただ私の分野は論文の粗製乱造が多く、個人的には(4)のタイプを尊敬しています。
*分野が全く違うので、参考にならなかったらすいません。
ありがとうございます。書けない人にも様々なタイプがいるというご指摘ですね。私の分野だと、1と3は生きていけませんね。人文科学は予算が少ないから、淘汰されるのでしょう。2はありえます。
>学位取得の段階で論文書きのノウハウは身につけているので
原則はおっしゃる通りです。しかし、実態はそれで十分ではないと私は感じています。人文系は少し特殊なのかもしれません。
No.6
- 回答日時:
僕自身の考え方としては、学部生も院生も「同じ机を並べる仲間」ともいえる間柄ですね。
むしろ学部に入りたての若々しい感性から提起される質問には本質的な部分を突いていると呼びうる部分も多く、そうした素朴な疑問に出会うほど、自らの未熟さを検証し直す拠り所となることでありがたいと感じもします。それに「完全なるもの」があると考えるならば、それはこれまでに当該の専門領域がなぜ発展してきたのかを否定する材料にもなってしまい、自らの研究領域での研究史総括を行う意義を見いだせなくなってもしまうことになるはずで、それは同時に全てが何れは研究し尽くされるとの結論にもなってしまうことにもつながりかねません。
完璧などない、これは学問に携わる者の全てが本来は肝に銘ずべき原点でしょう。僕は元々社会人学生として改めて大学の門をくぐりなおしてもいますから、大学でしか通用しない或いはその専門領域でしか通用しない言葉にも少し疑問を持ち続けてもいます。
「保証」なり「権利の譲渡」といった問題に関していえば、「保険会社」が顧客に販売するのは一通の契約書だけです。その契約書の内容に関しての見直しなどがあれば、それを変更した時点で「権利裏書」と呼ばれる契約内容に関する変更内容と期日が契約書の裏面に書き加えられもします。
日本の古代および中世史学もしくは法制史の領域では、そうした「契約内容の変更」を示す史料を発毀文などとも呼び、最初の所有者から次の所有者に権利が委譲される時に「最初の契約書」に「毀」もしくは「×」といった証が書き加えられ次の契約者に手渡されていきます。それがAからBそしてCなどへ転売されていく度に元々は「Aが所有していた」との券文を含めた全ての契約関係に関するものが「手継ぎ」として新たな所有者のものになっていく形です。その時には「最新の所有者」に至る以前の所有権者の証文には全て「毀もしくは×」が付加されている形になり、こうした形式を手継売券文などと呼んでいます。
現在ならば「権利裏書」で済む事も日本の古代や中世社会でも類似する行為を既に行っていたとの部分一つを巡っても企業社会に身を置く者と学問に身を置く者では180度異なる事もこうした部分から垣間見ることができ、とても興味深いものもあります。
不完全な形での発表が意味するものも含めて考えて然るべきでしょうね。この部分にはまだ検討の余地があり、それをたぐり所として次への展開とするならば、それは専門領域にとっても刺激となるはずですから、大いに結構な事であると存じます。
大元を辿っていけば、学問との営みが「一つの事象を言葉によって、どの様に定義づけるか」との部分に派生すると僕は考えており、その定義の仕方が研究者それぞれの分析視角やら方法論の選択によって異なりもし、それによって議論が起こり新たなステージへと昇華していくとの相乗作用の繰り返しと考えております。僕自身もまだまだボコボコにされるケースもあり、学生に対しても大きな事など言える立場でもありませんから、むしろ対外試合の経験を多く踏ませる様にアドバイスし続ける日々です。批判を恐れていては、自らの研究課題に対し何のメリットもデメリットも見出すことは叶わない。むしろ批判される点こそが今後の強みにもなっていくと言える、と僕は考えております。
前期後期もしくは年度末の試験では「このままでは流石に単位を認めることは難しかろう」と判断される以外はそれなりに許容もしますが、余りにもひどい場合には直接にその学生と話し、双方で理解と納得に達した時点でやむなく「不可」を付けてもいます。撃墜王などとこのサイトでは揶揄もされているようすですが、それなりに理由もあり、鬼や悪魔などと呼ばれてもそれは必ずしも悪逆非道な行為ではないことも付加させていただきます。いずれはその言辞を賜ったご当人がこの質問にも参加してくる可能性がありますから。
「国文科」などの呼び方は僕自身も好きではなく、類例は嘗ての東大にあった「国史学科」にも見られます。何かドメスティック的な「内輪の論理」との印象が引っ掛かりを感じます。
D先生やP先生からすればまだまだ青二才にも満たない者がこの様なことを申してご不快にさせてしまったならばお詫びを申し上げる次第です。
気合いの入った回答、どうもありがとうございます。
>完璧などない、これは学問に携わる者の全てが本来は肝に銘ずべき原点でしょう。
完璧など無いから、他人に優しくなれる人もいます。しかし完璧など無いけれどそれを目指すべきだと考えて、自他ともに厳しくなる方もいらっしゃいます。この差が大きいのやもしれません。
>撃墜王などとこのサイトでは揶揄もされているようすですが、それなりに理由もあり、鬼や悪魔などと呼ばれてもそれは必ずしも悪逆非道な行為ではないことも付加させていただきます。
それはそれは(笑)。苦労なさいましたね。でもT先生は、喝を入れることが多いようだから、潰してしまう危険もあるでしょうね。しかしT先生は現役で、まだまだ論文をたくさんお書きになっているのでしょう?
No.7
- 回答日時:
また「相聞歌」になってきて叱られそうですが・・・まあ,話がとりとめもなく広がったということでかんべんしてもらいます。
大学教員は,ほんらいはこういうサロンを持たなきゃいけないんだが・・・寄るとさわると予算だ入試だ人員削減だ,なんだこりゃ。>昨今の大学だと教養学部の延長線上の研究科が増えています。知識を伝授することより、考える力を養うことが重要視されているように思います。だからpさんは、とてもいいんだと思いますよ。
ありがとうございます。救われます。なぜかというと,改組で学際の候のとペンキ塗立ての研究科をたてたとき,おおかたは旧来の学問体系を守ろうとし(いわば国体護持),教員の数合わせのスケープゴートとしてぼくを使ってきたのですね。理系でも文系でもカウントできるから 爆。
もっとも,最初の職である東大教養学部助手のときに,ぼくはその精神を引き継いでいます。だから,逆説的にそんな「便利屋」であることの矜持もあります。
>私は特に国文学が嫌ですね(笑)。
以前に,「議事録草稿を文献系の人に見せるとうるさい」ということに通じますね。「記録は正確に残さないと後世に申し訳ない」。いったい未来の誰が「第5回教務委員会議事録」を見るってんだよ! 国文学は全国学会が脆弱で,大学ごとに学会誌をだしていることも,穴にこもる性格をもつかもしれません。あんまり声高に言うと,隣の研究室から壁をたたかれる 笑。
>教員の数合わせのスケープゴートとしてぼくを使ってきたのですね。理系でも文系でもカウントできるから
いやはや、pさんはすごい人ですね。私はいろいろ手を出したけれども、2カウントされるまでにはとても到っていません。文転というのは、伊達じゃないですね。
>「記録は正確に残さないと後世に申し訳ない」。
そりゃあ、困りましたね。この理由だと、頭がいかれているとしか思えません。私も細かいことを議事録で言うけれど、それは闘争関係にある場合です。あとあと「あの時には口頭でこういう約束をしたはずだ」という話をするために、議事録はちゃんと書いてくれと言います。ホント、こういう話が始まっているということは、会議は最悪な事態になっていますね。
>国文学は全国学会が脆弱で,大学ごとに学会誌をだしていることも,穴にこもる性格をもつ
私は古典が好きですが、どうにも国文学者と聞いた時点で逃げ出します。喧嘩になるのが目に見えているので。特に海外の理論を口にしたがる国文学者がいると「海外の借り物のふんどしで相撲とらずに、あんたが自分で理論を作れよ」っていう皮肉を言ったりもします。無論、私の方が詳しいので、「あんたの理論の適応は間違っています」などとも揚げ足取りを始めます。きっとどこかに立派な国文学者はいるのでしょうが、まだ出会ってはいません。
No.8
- 回答日時:
>研究を論文として発表しない大学教員は、教育者としてきちんとやっていけると思いますか?
やっていける場合もあると思います。
論文発表と教育は、本来無関係。
>どうでしょうか?
どうも思いません。
自分のスタイルと教育は、本来無関係。優れた研究をしているけど、論文発表はほとんどしていなくて、ビジネスとして教育しているヒトとかいるかもしれないしね。
「場合もある」「かもしれない」。すべて推定ですが、根拠はどこにあるのでしょうか? xx大学の誰それとか、事例が挙がりますか?
>論文発表と教育は、本来無関係。
そりゃ、ソロバン塾とか英語塾なら関係ないでしょうね。あはは(笑)。
No.9
- 回答日時:
分野が違うので、一概にどうこうは言いにくいですが
>研究を論文として発表しない大学教員は、教育者としてきちんとやっていけると思いますか?
本来は研究で得たものを教育に反映するのが大学とは思いますが、自分の場合も、教育の面では
ほとんどが既知事項ですから実際には関係ありません。しかし、本来の大学の目的から言うと
どうかなとは思います。
>私は以下の特徴があると思います(人文科学)。
>・当人は研究している。研究室は本で埋もれていることが多い。
>・しかし論文にしない。
>・完璧なものを求めるためである。
ここまでは、うちの分野にもいます。
今年3月に准教授で定年になりましたが、なんと10月から研究生として復帰してきました。
在勤中ほとんど論文を書かなかったのに、今さら、何をするのかなという感じです。
研究自体はしているのだが、とにかく論文を書かない。
>・これを学生にも求める。
>・その結果、学生を潰してしまう。
私の周りの論文を書かない教員にはこれはありません。
>私は完璧な論文など、この世に存在しないと思っています。
そうは思いたくないけれども、そうかもしれません。しかし、最善は尽くすべきでしょう
>だから「こりゃ不完全だ」と思っても、ある程度のところで発表に踏み切らないとなりま
>せん。そこで誤解を恐れず言えば、「不完全ながらも、ある程度の体裁をつける技術」こそ、
>論文の技だと思っています。
ここまではどうかなと思いますが、まあ、ここは納得します。
>学生の論文など不完全なものであって、この技術が無いと成立しません。
卒論は卒論であって、本来の論文とは別物ですから。
>さて、完全を求めるが故に論文を全く発表していない教員は、技を修得していないわけで
>あって、教育者としてやっていくことができないと私は思っています。どうでしょうか?
別にそういうわけではなくて、その時点では、自分で納得していないからかもしれないと
思います。それでも論文発表した方がよいとは思いますが。
教育者としては、別問題と思います。
まあ、私は理系なので考え方が違うかもしれません。
ありがとうございます。しかしおっしゃることはよくわからないです。よかったら補足を頂けませんか。t先生は懇切丁寧に投稿を下さる方だと考えているので、敢えて疑問をぶつけてみます。
>教育の面ではほとんどが既知事項
私は知識を教えるのではなく、考える力を養うところが大学だと思っていました。少しショックを受けました。
>卒論は卒論であって、本来の論文とは別物ですから。
卒論は単位を取るもので、ジャーナルに掲載される論文は社会に広く読まれるものですね。しかし「別物」というほどの問題ではないと感じています。私が指導した学生の論文は、文章が稚拙であったにせよ、ジャーナルに投稿できる水準を目指しています。必ず一つ以上は小さな発見をしてもらいます。
>別にそういう[今あるデータで論文をまとめる技術がない]わけではなくて、その時点では、自分で納得していないからかもしれないと思います。
よくわかりません。今手元にあるデータをまとめ直し、新しい観点から書くことが出来ないということでしょう。そういうのを技術が無いと呼んだのですが。私の言葉足らずかもしれませんが、不完全なものを納得しない形のまま、提出することなどありえません。不完全なものを納得できる形に整形し直します。さもなくば査読を通過して、ジャーナルに掲載されないと思うのですが・・・。
どうやらご投稿をまとめると、次のように類推できます。
・既知の知識=教科書通りの知識を伝達するのが教育。
・故に教育者の研究能力はそれほど問題ではない。
・卒論とジャーナルは全く異なる。
卒論とジャーナルの差がわかりませんが、卒論とは既存の知識を学習したことを証明するものなのかもしれません。だとすれば、これはこれで一貫しています。既知の情報を伝えることが教育だとすれば、指導者の研究能力の有無は問題はありません。しかし、これでは高校の延長ではないか?と感じたとお伝えします。
大学・大学院とはデータを整理し、そこから仮説を導き出す方法を教えるものだと思っていました。また同時に、仮説がデータと合致しなければ、仮説を修正し、論文として形を作る技術も教えるものだと思っていました。知識の伝達は本を読めば書いてあるので、二の次と思っていました。これは文系も理系も同じだと思っていました。
理系と言っても、念頭に置いていらっしゃるのは、技術者を養成するような教育ではないでしょうか。
No.10
- 回答日時:
No.9です。
お礼に対して回答します。No.9が言葉足らずだったかもしれません。>>教育の面ではほとんどが既知事項
> 私は知識を教えるのではなく、考える力を養うところが大学だと思っていました。少しショックを受けました。
ここで書いたことは、学部向けの講義についてです。残念ながら、学部で持っている時間数ではこれが精一杯です。私の所属する大学は、学生のレベルは低いのでこのような状況にとどまっています。
卒研ゼミなどでは考える力を養うような教育をしていますが、これは基本的に自分の研究室内向けのみです。
>>卒論は卒論であって、本来の論文とは別物ですから。
> 卒論は単位を取るもので、
結果的にはそう(単位をとるもの)かもしれませんが、私が書いた意図はそうではありません。4年生が1年間の間にやったものを書くもので、例えばジャーナル論文のように審査しているものではない(可能な限り学生に考えさせますが、時間の制限もあるので)という意味です。
>ジャーナルに掲載される論文は社会に広く読まれるものですね。しかし「別物」というほどの問題ではないと感じています。
上述した意味で別物と書いただけで言いたいことはそれほど違いません。
>私が指導した学生の論文は、文章が稚拙であったにせよ、ジャーナルに投稿できる水準を目指しています。必ず一つ以上は小さな発見をしてもらいます。
内容的には私の場合もそうです。卒論何年分かをまとめて、もちろん学生が思いつかないことはありますが、私の考えも加えて、ジャーナルに投稿しています。
>>別にそういう[今あるデータで論文をまとめる技術がない]わけではなくて、その時点では、自分で納得していないからかもしれないと思います。
> よくわかりません。今手元にあるデータをまとめ直し、新しい観点から書くことが出来ないということでしょう。そういうのを技術が無いと呼んだのですが。私の言葉足らずかもしれませんが、不完全なものを納得しない形のまま、提出することなどありえません。不完全なものを納得できる形に整形し直します。さもなくば査読を通過して、ジャーナルに掲載されないと思うのですが・・・。
これは、論文をほとんど書かなかった、特定のある研究者の話です。
彼(すでに定年になった年齢です)の場合は、「今手元にあるデータをまとめ直し、新しい観点から書くことが出来ない」わけではなくて、完璧を求めるためであり、技術がないわけではないのです。
これを私が書いたのは、彼自身は、完璧なものでないと論文に書かないから論文を書いていないけど、そのことは教育には影響していないということです(あくまで学部の講義としての教育)。
もちろん彼の研究室の学生の研究者としての教育上は問題だったかもしれません。ただしそこまでは、私も把握しておりません。
> どうやらご投稿をまとめると、次のように類推できます。
以上、私の言葉足らずが原因の誤解はあると思います。
>・既知の知識=教科書通りの知識を伝達するのが教育。
>・故に教育者の研究能力はそれほど問題ではない。
>・卒論とジャーナルは全く異なる。
これらについての私の考えは、上述のとおりです。
> 卒論とジャーナルの差がわかりませんが、卒論とは既存の知識を学習したことを証明するものなのかもしれません。
上述したようにそういうことではありません。卒論は1年間という時間制限付ですので、どうしても、ジャーナルのような厳しい審査はできないという意味で書きました。
>だとすれば、これはこれで一貫しています。既知の情報を伝えることが教育だとすれば、指導者の研究能力の有無は問題はありません。しかし、これでは高校の延長ではないか?と感じたとお伝えします。
これは、私の所属する学部での講義に関してです。確かに高校の延長で、少なくとも3年生までの講義は既知(高校のということではありません。世の中のという意味)の内容を教えることに終始しています。残念ながら、高校で落ちこぼれた学生が多数在籍しておりますので。学部でやる本当の意味での新しい内容は、4年次の卒業研究、およびゼミのみといっていいでしょう。まあ、正確に言えば、導入教育などで、限られた時間の中で、研究の話をすることもありますが、あくまで興味を持たせるための限られた時間です。
> 大学・大学院とはデータを整理し、そこから仮説を導き出す方法を教えるものだと思っていました。また同時に、仮説がデータと合致しなければ、仮説を修正し、論文として形を作る技術も教えるものだと思っていました。
このようなことは、上述したように、4年生、大学院生については当てはまります。
>知識の伝達は本を読めば書いてあるので、二の次と思っていました。これは文系も理系も同じだと思っていました。
残念ながら理系の3年生までは、少なくともうちの大学についてはそうです。
> 理系と言っても、念頭に置いていらっしゃるのは、技術者を養成するような教育ではないでしょうか。
うちの大学の学部の目的は技術者養成です。ただし私はそれに飽き足らないので、研究室では他大学に伍していけるようにやっています。
とある学会で、私の研究室の学生が発表するときに、始める前に若干のざわめきがあったことがありました。近隣の旧帝大の学生たちと思しき集団からです。あの大学のやつが発表するの、という感覚だったようです。発表が始まったら静かになりました。
この回答への補足
もう一つ思ったことがあります。t先生は下積みに耐え忍んだのだから、教授になってから研究をやらないなどありえない、とどこかで書いておられたと思います。
工学系が知識重視ということを念頭に置くと、この意味がよく分かります。やっと手に入れた自由なのだから、それを行使しないわけは無い。
文系などは、特に器物の扱うにあたっての知識を得るので苦労はしません。本を買ってきて読めばいいのですから。だから修士の段階から創造的なことが始まります。故に教授で、もう嫌になったとやめる人がいたとしても、おかしくはない側面があります(本当に稀にしかいないが)。
やはり研究というものに対して、一概には言えないのかもしれませんね。大変勉強になりました。
ありがとうございます。ご回答を読めばそれで明確なので、私の方で引用は致しませんが、じっくり読ませていただきました。
もう一つ、工学系だからだという理由もある気が致します。大学院のカテに投稿された院生の投稿を見て、そのようなことを感じました。
>あの大学のやつが発表するの、という感覚だったようです。発表が始まったら静かになりました。
素晴らしい指導力だと感服致しました。
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