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織田信長を裏切った人物で、私が知るのは……

・織田信行
・浅井長政
・松永久秀
・荒木村重
・明智光秀

……なのですが、他にも裏切った人物がいたら教えて下さい。

A 回答 (10件)

本願寺光教


朝倉義景
杉森禅師坊
イエズス会

織田信重
織田信清
織田信安

岩倉の織田家はほぼ信長に反旗を翻してます
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この回答へのお礼

イエズス会と本願寺って信長に下っていたんですか?
この二つの組織の動きはあまりよく知らないのですが……。
それに朝倉義景は初めから信長には下っていなかったと思っていたのですが……。

ただ他の面々は初耳の面々ばかりです。
ご回答ありがとうございました。

イエズス会なども全て改めて詳しく調べてみます。

お礼日時:2014/01/03 19:53

tapaさん、こんばんわ。



三木城主別所長治はいかがでしょうか?

詳細は下記のURLを参照してください。


別所長治
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E6%89%80% …
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この回答へのお礼

これはしっかりと裏切っているようですね。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/01/03 19:54

毛利元就

この回答への補足

んん……?
毛利元就は、ほとんど信長と接点がないはずでは?
確か、尼子経久を信長が支援していましたし……、むしろ最初から敵対関係だったような……。
それとも私の記憶違いでしょうか?

補足日時:2014/01/03 20:11
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こんばんは。



信長のボディーガード
『弥助』
信長は自刃しましたが弥助は生き残った。

この回答への補足

弥助は本能寺の後の消息ははっきりとせず、そのまま死んだという説もあるはずですが、まあ、生き残ったとしたら広義で裏切ったと言えなくもないですね。
ただ質問の意図としては、しっかりとした叛意を持って、信長を殺そうとした人物について問わせていただいています。

補足日時:2014/01/03 20:15
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 裏切った等の情緒的表現が適切であるとは必ずしもいえないでしょう。

信長はそれまでのあらゆる秩序に対向しうる新たな秩序を求めたのですから、全てが彼に対しては守旧派勢力だったともいえます。
 明智光秀を反逆者ととらえる俗説もありますが、本能寺は必ずしも明智一人でなし得た事象ともいえないでしょう。明智でなくとも誰かが何れはやったはずです。
 また松永弾正にしても然り。個別レベルのミステリーを求めてもそれは歴史像全体との関連が説明されなければ何の意味もありません。

この回答への補足

なにやら歴史をしっかりとした所から見つめられている方のご回答でありがたく、また歴史像全体をしっかりと見ろというご説明も理解できるのですが……、
なにせ私は興味本位でしか歴史を見ることが出来ず、また歴史全体を見る時間もないので、今回のような質問にいたりました。
すみません。

補足日時:2014/01/03 21:08
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お礼ありがとうございます



一度でも同盟もしくは和睦をした後離反 という意味での裏切りも含めるものと解釈していました
なので本願寺と朝倉を挙げたのですが
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この回答へのお礼

なるほど。合点がいきました。
信長包囲網の辺りについては、私はよく知らなかったので。

改めて説明いただき、ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/03 21:12

 本願寺をはじめ南都の東大寺そして興福寺もあるかもしれませんね。

でも本願寺は組織内部での対立による分裂と解体もありますから必ずしも一枚岩とはいえず、興福寺も実質的に大和を一円支配していましたから戦国大名と同じ扱いになります。
 他にあるとすれば、「雑賀衆(さいがしゅう)」ですかね。雑賀衆は元々鉄砲集団として知られていました。信長と三好三人衆との対立では組織が二分され骨肉の争いともなりましたが、その後は一貫して本願寺の支持に回っています。
 その本願寺との攻防に於いて信長は自らも負傷し大敗を喫するとの局面もあり、そのため信長は本願寺攻略のため、先ずは雑賀衆を配下に置くとの手段を選択し、河内から紀伊に掛けてを攻略すると共に雑賀衆に服属を誓わせましたが、すぐに彼等は本願寺支援に乗り出しもします。そうした意味からすれば文字通りの二枚舌ともいえるでしょうね。
 本質的に信長の遺志を継いだといえば秀吉も家康も嘘になります(新たな秩序の構築を求めてもいませんから)。それが実現したのは明治維新もしくは1945年以後の話になるでしょうか。
 難しいところですね。
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この回答へのお礼

なるほど、雑賀衆ですか。
そういえば雑賀孫市が主役の小説も読んだことがありました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/03 21:59

柴田勝家…織田信秀の後継者を信長の弟信行にしようと画策し叛旗を翻すも、1556年に稲生の戦いで敗北し、1558年の信行の死後、家臣に復帰する


林秀貞…信秀の時代から織田家の筆頭家老であったが、勝家と同様に後継者を信行にしようとし信長に敗北、その後は、許されて信長に仕え引き続き、文官・家老として活躍する
波多野秀治…1576年に叛旗を翻し、黒井城の戦いで明智光秀の軍勢を撃退、1579年に光秀に降伏し処刑される
別所長治…1578年に中国攻めの総大将が羽柴秀吉であることに不満を持ち、波多野秀治に呼応して裏切るも、1580年に三木城攻めで切腹する

波多野秀治と別所長治は家臣ではありませんが…

参考になれば幸いです
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この回答へのお礼

波多野秀治は初めて聞く名です。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/04 08:08

織田信勝(信行)…織田一門での反乱


明智光秀…織田家中での反乱
浅井長政…外交関係での敵対
松永久秀・荒木村重…織田従属下での反乱
といろいろなケースでの裏切りを挙げられていますので、それに応じてこれまでに上がっていない人物を回答します。
信長の従属下から反乱を起こしたということでなら、各国の国衆(別所長治・小寺政職)など山のようにいます。
浅井長政のような外交関係の裏切りも含めるなら、足利義昭・三好氏・本願寺などこれまた大勢います。武田信玄の裏切りなど、結局信長が和睦を求める武田勝頼を許さない原因となるほど信長の深い恨みとなっていたようです。
いずれにしても、周辺の中小勢力を従属化に置きながら勢力を拡大した結果、周辺の大勢力と敵対関係となり、従属化にあった境目の中小勢力も敵対勢力となることは、信長に限らずどの大名でもよくあったことです。むろん、一族内での反乱も家中内部での反乱も珍しくありません。この点で信長が特異ではないということに注意が必要です。
なお、毛利元就はどちらかというと信長と親しい勢力です。
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この回答へのお礼

私は一言に裏切りと言ってしまいましたが、それぞれ形が違うものですね。
言われるまで分かっていませんでした。
(毛利元就も親しかったとは、やはり私はよく分かっていないようですね。反省です)
詳しい説明もしていただき、ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/04 16:22

最大の裏切り者は光秀または秀吉。


光秀はご存じの通り本能寺の変の張本人。
秀吉は天下の権力を織田家から奪い取って自分のものとした,信長の目から見れば最大の横奪者,とすれば最大級の裏切り者。今日で云う火事場泥棒です。
織田一族からすれば,両人の内どちらが罪が重い事やら。
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この回答へのお礼

うーむ。やはり秀吉も裏切りと言えますか。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/05 08:19

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