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天皇陛下は平成13年12月、翌年の2002年サッカー・ワールドカップ日韓共催に関連し「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されている」と述べられた。

古代には日本が百済に援軍を送ったり、明日香地方にに沢山の百済人が住み着いたり、日本と朝鮮の間には言葉の壁がなかったような感じなんですが、大和の言葉と朝鮮の言葉は一応はっきりと別れていて、通訳を介してコミューニケーションを取っていたのでしょうか?

それとも、当時は互いにバイリンガルでどちらの言葉も喋ることが出来たのでしょうか?

中国の鑑真和上なども日本に移住しましたが、日本語を理解出来たのでしょうか?

宜しくお願いします。

A 回答 (7件)

言葉は1年も暮せば覚えられます

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まぁ日本語だって元々は半島から伝わったものを独自に進化させて日本語になってますからね


もちろん当時から韓国と日本は言語が分かれてます

そしてちゃんと通訳が居ました
小野妹子が隋に渡ったときも通訳が同行してます
鑑真が日本に来たときも通訳は同行してるし 鑑真自身唐に居た日本の僧侶から日本語も教わっていてある程度理解していたようです
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

通訳が付いていたということ。

お礼日時:2014/02/25 10:36

正確には言語学の研究を待つしかありません。


日本語は、万葉集の研究から当時は現在と相当に発音が違っていたことが判っています。
朝鮮語は残念ながら、表音文字がなかったことから推定が非常に難しくなっています。
日本が統治するまでの長い期間、文書は全て漢文で書かれていました。
表音文字であるハングルは1443年に創作されましたが、下賤の文字とされて正式な文章には使われませんでした。

ご指摘のようにバイリンガルとまでもいかなくとも、両方の言葉を使える人は沢山いたのではないのかと思います。
中国語とは違い文法(言葉の配列)が酷似していますので、日常的に接していれば短期間でマスターできたのではないのでしょうか。
ただ、知識層の場合にはお互いに漢文での筆記が出来ましたので筆談は充分可能だったと思います。
平安時代に高句麗の後裔である渤海から使節が来た際に、当初は朝鮮語の通訳を使っていて中期以降中国語の通訳に替えたことは分かっています。

>中国の鑑真和上なども日本に移住しましたが、日本語を理解出来たのでしょうか?
来日当初は無理だったでしょう。
遣隋使や遣唐使の例でも分かりますように、知識階級を形成していた僧侶は漢文が使えましたので、筆談で済ませることは可能でした。
仏典は漢文で書かれていて音読みしますから、さほど不便はなかったのではないのでしょうか。

>「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されている」と述べられた。
百済の王族に関する伝承は日本の各地にあります。
宮崎県児湯郡木城町の比木神社は百済から亡命したと伝わる「福智王」を合祀していて現在も祭礼がおこなわれています。
百済のみならず高句麗の末裔も関東地方に大量に移住したことが判っています
高麗という地名も新羅を憚ってつけたので、本来は高句麗だったと言われています。
大阪周辺には新羅神社(白木神社)も沢山あります。
江戸時代には将軍が替わる度に朝鮮使節が来日していました。
両民族間でギョクシャクが始まるのは明治以降です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

色々と参考になることありがとうございます。 

お礼日時:2014/02/25 11:07

日本語は孤立語とも、アルタイ諸語ともいわれます。


アルタイ諸語はトルコ、モンゴル、朝鮮、日本語などまで。


日本語の起源はタミル語がどうとか、リンガフランカがどうとかいろいろあります。

現在、はっきりしてない以上やはり共通の言語から派生したという確証というのは存在してなくて説どまりです。

語順がにていて、文法がかなり近かったり、現在でもある文字を変えたら日本語からハングル語なるとか確かに近いみたいです。

朝鮮から陶器など職人が昔から日本に来てたと思います。ハングル文字が李氏朝鮮の時代からなので、昔は漢文ですね。文字の障害はなかったと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/25 11:12

>日本語を理解出来たのでしょうか?



いきなり聞いて分かる、という訳にはいかないです。現在も同じ。
ただ韓国語と日本語は、文法が非常によく似ている事が知られています。日本と韓国の人は、半年も経つとそれぞれの言葉が話せるようになる(日本と中国では1年以上掛かる)と言われるほどです。○○方言みたいな程度の違いに近いようです。

日本と百済はある程度親密だったので人々の交流は多かったようです(日本が半支配してたとか、反目してた時もあるとか、色々あるようです、よく分かりません)。白村江の戦いで負けたときなどは、数万人単位の百済人が日本にやってきたと考えられています。
百済(くだら)・新羅(しらぎ)の語源も百済語と言われています(もともとの国名はヒャクサイ、シンラみたいな読み方だったはず)。知られない百済語語源の言葉も、まだあるのかも知れません。


言語学的なことを言うと、上記のように日本語と韓国語では文法が非常に似ているので、なんらかの繋がりがあると考えるのが妥当でしょう。アルタイ諸語という、トルコからモンゴルに掛けての言語との共通性が見られることから、日本語もアルタイ諸語と考えられています。韓国語もアイヌ語も同じ。
ただ日本語と韓国語とでは、単語レベルでの対応がほとんど見られない、逆に日本語とオーストロネシア諸語(台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島あたりの言語)との共通点が見出される、という点で、日本語をオーストロネシア諸語と考える人や、アルタイ諸語とオーストロネシア諸語の混合語と考える人も居ます。
残念ながら言語学のほうは、これ以上のことは良く分からず、なんとなく30年くらい停滞している感じです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>白村江の戦いで負けたときなどは、数万人単位の百済人が日本にやってきたと考えられています。

そうですね。韓国語と日本語はお互いに直ぐにマスターできそうですね。

お礼日時:2014/02/25 11:11

古代~近世まで、日本の知識人には漢文の素養がありました。

東アジアの国々も同様です。なので、言葉が通じなくても、中国語が話せなくても、漢文での筆談なら可能でした。

日本は狭い国土の割には方言のバリエーション多すぎ!で、知らない方言で早口でしゃべられると聞き取り不能ですが、書き言葉(文語)であればたいてい通じますね。
また、私は50歳ですが、子供の頃、近所に住んでいる祖父母世代の会話はほとんど理解できませんでした。

いつの時代でも、外国語、方言、世代間などの言葉の壁はあり、それなりに対処してきたのでしょうね。

蛇足ですが、古代の朝鮮3国は言語が違っていた可能性が高く、百済では王族と庶民でも言語が違っていた可能性があるそうです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

お礼日時:2014/02/25 11:17

 結論を先に言えば通訳と漢文の存在で意思疎通です。


どなたかも仰るように日韓の言葉は似ており、九州の
お年寄りが普通に話しているのをぼんやり聞いていると
韓国語ととして聞き取ろうとするほど語調が似通って
います。

 現代は遺伝子情報の解析で日本人のルーツがほぼ明か
ですが、それ以前は言葉の共通性で解析せざるを得ず、
悩まされました。だって文法は99%朝鮮韓国語と共通なの
にそして文化面でも共通面が多いのに、漢語由来を除く
単語に一切の共通性がない。要は南洋系の言葉を話す原住
民の上を朝鮮韓国語を話す(多くは)百済系の人々が移住
し混ざり合って成立したのが日本人ということですよね。

 言葉というのは面白いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

遺伝子情報でのルーツ解析が面白そうですね。

お礼日時:2014/02/25 11:16

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