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外様大名は幕政に一切関与できなかった、という説をネットではよく見かけますが、これは正しいですか。
間違いとする説もあります。

事実、老中になった大名もいます。
脇坂安董
http://kotobank.jp/word/%E8%84%87%E5%9D%82%E5%AE …

他にも大番頭、奏者番、若年寄に就任した例がありますが、wikiでも外様は要職に就くことができない、とされていますがなぜでしょうか。
wikiは信頼できないと言えばそれまでですが。
よろしくお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

元来の脇坂家は外様だった



が代を重ねるに従い、譜代の家から養子を入れたりしていた
どうやら、準譜代的な位置づけだったとのこと

で、時の将軍様の覚えも目出度く、将軍のたっての引き立てで出世街道にのった

世の中にたった一つの例外も無いとは言わない、でも一般的に言えば『外様大名は幕政に関与できなかった』と言うのもまた然り
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>世の中にたった一つの例外も無いとは言わない、でも一般的に言えば『外様大名は幕政に関与できなかった』と言うのもまた然り

将にそのとおりだと思います。
“一般的に言えば”とか“原則的には”とかの文言があれば例外もあるのだろうと推定できます。
しかし、「外様大名は幕政に“一切”関与できなかった」と断定した回答を以前に見たことがあるので、疑問に思って質問しました。

お礼日時:2014/03/08 14:07

1番さんの言う通り、脇坂家は譜代席に改められています。



幕政は譜代に連ならねば、決して口出しは出来ませんでした。

純粋な外様(それも雄藩)大名が幕政に口を出したのは、幕末の阿部正弘の一時代だけだと記憶しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>脇坂家は譜代席に改められています。
>幕政は譜代に連ならねば、決して口出しは出来ませんでした。

ここが疑問なのです。
譜代席に改めたのはいつ?という疑問です。
役職を与えると同時に外様大名の詰める柳間?から譜代の詰める部屋に移したのでしょうが、それでも外様と解釈してよいのでは、と思います。

お礼日時:2014/03/08 15:15

すいませんが阿部正弘は譜代ですが…



外様で幕府要職に就いた人物としては黒羽藩の大関増裕がいます
講武所奉行・陸軍奉行・海軍奉行を歴任の後に若年寄

江戸城に乗馬したまま入る事を許され、幕府に断髪を容認させた大名
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

Wikiには「外様の小藩ながら幕末には15代大関増裕が海軍奉行や若年寄など幕府要職を歴任」とありますね。
参考になりました。

お礼日時:2014/03/08 15:27

PENPENMAKKYさん、良く読んでください。



阿部正弘老中時代という意味です。

この時代のみ、薩摩島津家、佐賀鍋島家、筑前黒田家、宇和島伊達家が阿部正弘の後見?で江戸城内で発言をしています。

更に言えば、大関増裕は譜代大名の遠江横須賀藩主・西尾忠善の孫で、大関家に養子として入ったものです。

更に西尾忠善の母は松平乗祐の娘です。

力いっぱい譜代です。
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譜代・願い譜代は幕府内での席次の事であり、大名の当主本人の出自が譜代出身であろうと外様大名の後を継げばそれは外様大名です。



それで幕府の要職は幕末の一時期以外譜代ではないと就けないのは事実ですが、外様であっても譜代扱いに格上げすることができます(願い譜代)。

他の例としては京極高久が若年寄になってますね。ほかにもあると思います。
京極高久
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5% …

願い譜代
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%96%E8%AD%9C% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

京極高久はすごいですね。

wiki には
「大坂青屋口の加番や大番頭を勤めた後の天明8年(1788年)、若年寄に任じられて寛政の改革期の幕政に参与した」とあります。

幕府の大番頭とは、wikiには

「武家における番頭とは、主に江戸幕府にあっては大番頭と呼ばれ、平時は江戸城大手門をはじめ、江戸城の警備隊長として、また有時及び行軍に際しては幕府軍の備並びに騎馬隊指揮官(侍大将)として、番方(武官)で最高の格式を誇った。5000石以上の旗本または、1万石クラスの譜代大名から複数が任じられた」とあります。

たいへん参考になりました。

お礼日時:2014/03/08 15:53

>wikiでも外様は要職に就くことができない、とされていますがなぜでしょうか。


最後まで良くお読みください。
以下ののように記載されています。
「就けない」と断定してはいません。

○外様大名は一般に老中などの幕閣の要職には就けないとされていたが、対馬国の宗氏は伝統的に朝鮮との外交に重きを成し、また江戸後期になると松前氏のように要職へ就く外様大名も現れた。また、藤堂氏は徳川氏の先鋒とされ軍事的には譜代筆頭の井伊氏と同格であり、池田輝政は親藩と同格とされ大坂の陣の総大将を勤める予定だったといわれる。
また、同じ外様大名でも比較的早い時期から徳川家と友好関係があった池田氏・黒田氏・細川氏などと関ヶ原の戦い後に臣従した毛利氏・島津氏・上杉氏などでは扱いが違ったとの説もある。
なお、血縁関係や功績などにより譜代に準ずる扱いを受けている外様大名について、便宜的に準譜代大名と呼ぶこともある。松平の名字を授与されることもあった。また、外様大名の分家・別家で1万石以下の旗本から累進して諸侯に成った場合、菊間縁頬の詰席を与えられ、譜代大名として扱われた。

譜代として扱われるというのは、役職に就くことが可能な者として扱われるという意味です。

徳川一門、譜代大名、旗本が目白押しになっているのに、敢えて登用するほど有能な外様大名がめったにはいなかったということでしょう。
さらに、幕府というのは、徳川家が大名を統制するための組織ですから、牽制管理すべき外様から登用する積極的な理由を見つけるのは相当に難しかったでしょう。
譜代と外様の違いで一番大きいのは、譜代は幕命一つで領国を点々と移動する転勤族です。
(宇都宮藩や川越藩の藩史を御覧下さい)
外様は懲罰とし転封される以外は、江戸時代開闢以来明治迄領国に留まり続けました。
譜代であれば、幕府の役職が上がればそれ相応の石高の領国へ移動させられますが、外様は簡単に移動させることが出来ませんでした。
結果として、外様が原則的に幕閣になれないというのは、制度というよりも習慣法であったと考えたほうが判り易いかと思います。

>これは正しいですか
上記しましたように、正しくもあり間違っているとも言えるかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

疑問の発端は、外様はいくら優秀であっても幕閣に入れないのか、という疑問です。
柳間席の大名(外様)は、最幕末に72家あったそうですから、藩政で実績を上げ評判のよい大名もいたはずです。
譜代より能力があった外様もいたはずです。

綱吉の時代に外様からもかなり幕閣に入れています。
三河以来という親の七光りで譜代席でのほほんとしている大名よりも、実力を見込んで外様を登用したのでしょう。
出世コースの登竜門である奏者番の定員は20-30名だそうです。
全員を譜代、旗本で固めることができたのか、疑問でした。


質問が拙かったのでお許しください。
「他にも大番頭、奏者番、若年寄に就任した例がありますが、wikiでも外様は要職に就くことができない、とされていますがなぜでしょうか」と書きました。
これは、大番頭、奏者番、若年寄など(他に大坂城代)のwiki を見ると、全て「譜代」でした。
なぜ「外様が就任した例もある」としないのだろうという疑問です。
Wiki にとやかく言っても仕方がないですが。

#7の方のお礼欄にも書きましたが、
小川恭一翁の「柳営談」では
「外様でも1万~2万石クラスの大名で幕府の大番頭、大坂城番、奏者番、若年寄などに就任した例は “枚挙にいとまがありません” 」
と語っています。

お礼日時:2014/03/08 21:17

kouki-koureisyaさん、こんにちわ。




比較的に石高の小さい10万石以下の外様の大名は幕府の役職に就くことがありました。願い譜代とか、准譜代と言われた家格を持つ大名です。
真田氏も老中を出しています。しかし、江戸時代250年余りの間にそんな実例はホンの少数例であり、原則として外様大名は幕府の要職に就き、幕政に参与される例はないというのが本当でしょう。幕末のころ、島津斉彬、山内豊信といった外様雄藩が幕府に対して意見を言うようになりますが、それが結果的に幕藩体制の崩壊を招いたことからも禁止していた理由があきらかなはずです。

准譜代大名
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%98%E3%81%84% …

真田氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>原則として外様大名は幕府の要職に就き、幕政に参与される例はないというのが本当でしょう。

そうだと思います。
「原則として」という一言があれば、例外もあるのだろうと推定できますから納得できます。

小川恭一翁の「柳営談」では

「外様でも1万~2万石クラスの大名で幕府の大番頭、大坂城番、奏者番、若年寄などに就任した例は“枚挙にいとまがありません”」
と語っています。

これをヒントに「外様が幕府の要職に」のフレーズで検索し、確かめてから質問しました。

小川恭一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D% …

「願御譜代」の制度があるということは、優秀な外様を譜代扱いにして幕閣の要職に就かせるためという一面も考えられるのではないでしょうか。

質問が拙かったですが、幕末は国難の時代ですから、外様、譜代と言っている場合ではないので、幕末を除くと書くべきでした。

お礼日時:2014/03/08 17:37

別に禁止されていた訳ではない


幕府が親藩・譜代を優先・重用していたのは当然であり
外様ってのはかつて敵だった大名家です
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/03/08 21:18

0fool0様



阿部正弘は戦国時代から三河徳川家のバリバリの譜代ですが…

初代・阿部正勝は家康が竹千代時代から労苦を共にし、今川の人質の際には用心棒として同行し、その後の徳川家の合戦全てに参加した忠臣ですけど…

江戸時代に入り、毛利を監視する為に備後福山に城を構えていたんですけど…
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PENPENMAKKY様へ。



・・・え・・っと・・・。

私は阿部正弘が外様だなどとは言っていないのです。

阿部正弘が老中首座の時代に、初めて外様雄藩(大身外様)が幕政に発言をした事を言っているのです。

私の書き込み方が判り難かったのならば、申し訳ありません、謝罪します。


ついでに補足

江戸期を通じた幕政の基本方針は、幕政は石高(兵力)の少ない物に任せ、石高の多い家には関らせないと言う物です。

豊臣政権下の五大老への反省ですかね?w

例外が会津松平家と井伊家でしょうか。
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