六角氏は信長に、あっという間にやられてしまった大名というイメージです。
ですが、実態はかなりの勢力があったと思います。
六角は南近江の大名というイメージですが、勢力範囲は伊勢・大和・伊賀にも
相当あったのではないでしょうか?
伊勢の関氏の六角氏の重臣、蒲生氏と通婚しています。当然重臣の家臣は
主君の許可がいるでしょうから、蒲生と関氏は同格の上、関氏は六角氏の息がかかっていると
思います。逆に、南の北畠氏と単独では対抗できませんから、六角氏を頼ったのでしょう。
伊賀三郡も六角氏の間接支配です。
近江は太閤検地では77.5万石と高い石高です。伊賀も支配、伊勢も石高が高く
近江は北近江に浅井がいるとはいえ、相当な領域支配、動員が可能だったと思います。
ついては、六角氏の勢力範囲と敗退原因についてどう考えるか、お書きください。
(1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?
(2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったが
ただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかった
のでは?
どのように考えますか?
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
>(1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?
●回答・・・その可能性はあります。
六角氏の最盛期を築いた六角定頼の晩年と、その子、六角義賢が当主になった初期には、もしかしたら100万石程度はあったかもしれません。
六角定頼の弟は北伊勢の梅戸氏(南近江に接する北伊勢を領地にする国人)に養子に入っていますし、関氏なども六角氏につきましたから北伊勢にもかなりの勢力があったでしょう。
一つの目安として1560年に六角義賢は浅井氏と「野良田の戦い」を行いましたが、ここで2万5千人の兵力を動員しています。
豊臣政権での軍役制度では一つの目安として、1万石あたり250人の動員をしました。
ただし、戦場に近い場所の武将は兵を多く動員し、遠い場所の武将は兵を少なく動員するのが普通であり、100石あたり4人とか、5人を動員する場合もありました。
六角氏も他方面への備えから全力を浅井氏に当てる事はできないでしょうから、この2万5千という兵力から考えれば、この頃は100万石程度はあったかもしれません。
ただし、この「野良田の戦い」で六角義賢は敗北しますから、その勢力を減退させた可能性があります。
また、織田信長は南近江侵攻前に北伊勢に侵攻しています。
それにより北伊勢八郡を信長の支配圏にしていましたから、北伊勢での六角氏の影響力は無くなったと見てよいと思います。
ですから、六角氏最盛期には100万石程度はあったかもしれませんが、信長侵攻時にはかなり勢力を減らしていたと思います。この時は既に100万石は無かったのではないかと思います。
>(2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったが
ただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかった
のでは?
●回答・・・いつもの戦略とは思いませんが、観音寺騒動等で家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかったという考えには賛成です。
実際、観音寺城の戦いで主力は和田山城に6千。義賢自身は千しか率いていません。唯一戦いになった箕作城の兵が3千。
他に支城に兵を配備していたにしても、1560年に浅井と戦った時に動員した2万5千や、1562年に京で三好勢と戦った時に動員した2万人に比べると、例え北伊勢を既に失っていたにしても、主力の数があまりに少なすぎるように思います。
やはり、1563年の観音寺騒動の影響と、織田信長の調略が大きく響き、対抗できなかったのではないかと思います。
観音寺城より南に大きく六角氏の領地はあったわけで、その南近江の南方で信長に抗戦する事なく、伊賀まで六角親子が退いたというのは、やはり国人衆に裏切られていたからではないかと思います。
実際、永原氏などは信長の侵攻五ヶ月前から信長と誼を通じていたと言われますが、永原だけが信長と通じていたというよりも、他の国人衆にも信長が調略をかけていたと考える方が自然な気がします。南近江の国人衆は殆どが信長と戦う事なくその傘下に入っていますし。
○六角親子と同じような負け方をした大名に今川氏真がいます。
「薩埵峠の戦い」で今川の国人衆の多くが戦う事なく兵を退いて武田信玄に付き、それを見た今川氏真は駿府で戦う事なく逃亡を余儀なくされました。武田の調略が良かったのか、氏真が酷すぎたのか、両方かもしれませんが。
六角義賢と義治も今川氏真と同じく、結局、器量の問題で国人衆に背かれたのではないかと思います。
まぁ尾張、美濃、北伊勢を手中にし、三河の徳川と、北近江の浅井と同盟している織田信長と戦っても勝ち目は無いと思った南近江の国人衆が多くいても不思議ではないかと思います。
何せ、六角氏親子は浅井長政とだけ戦う時でも、浅井を滅ぼす事ができませんでしたから。
No.5
- 回答日時:
#2です。
織田家と六角家では、かなり家中の雰囲気は違ったと思いますよ。
信長軍団というのは、この頃にはもうかなり信長子飼いの家臣団となっています。信長という人はおそらく日本史上不世出の独裁者だったので、権力は全て自分に集中するような組織を苦労して作りました。
尾張統一戦の頃の信長はかなり苦戦しています。それは、有力な家臣や親戚筋を頼らずに自分独自の軍団を作ることにこだわったのでその家臣団が一人前に育つまでは大変苦労しました。家老平手政秀が切腹したことは有名ですが、巷間ではあれは諌死ということになっていますが、その真相は謎です。一説には、平手一族は織田家中でかなりの発言力を持っており、権力の一極集中を望んだ信長と対立した、ともいわれていますね。ちょっと話が横道にそれますが、信長は政秀の菩提を弔うために大きなお寺を建立していますが、神仏を信じなかったどころか後に「御神体は俺だから俺を拝め」と言い出した信長が盛大に弔ったってのが返って怪しい。平手家は後に織田家中でその名を見ることは非常に困難になっているので、「盛大に弔ってやった。だからもう過去の人だ」と隅に追いやられたような気がしないでもありません。
そして六角家と信長が対立する頃には、信長は「あの今川義元を討ち、美濃の斉藤家を滅亡させて足利義昭を迎えたやつ」なわけです。近畿周辺の勢力はみな「時代は今織田に風が吹いている」と思っていたでしょうね。ただまだ周囲には強力な大名がいたので推移を慎重に見守っている人が多かったでしょうけどね。
読売ジャイアンツの第一次原政権のときだったかな。フロントが今の西武の監督の伊原さんをヘッドコーチにすえたことがありました。それは原監督の意向ではありませんでした。伊原さんつう人はかなり権力志向が強い人(と私は見ています)で、自分は原監督より上の立場の人から頭を下げられて呼ばれたものだから、内心「次のジャイアンツの監督は俺も視野に含めてる」と思ってたんじゃないですかね。スポーツ新聞の記事なんかを読む限りでは原監督の「部下」として振る舞わずにさも自分が監督であるかのように振る舞っていたそうです。
原監督は伊原さんに対して個人的な交友があったわけではないから、どうしても遠慮があります。かくして選手たちは原監督のいうことを聞くべきか、伊原さんの顔色を伺うべきかで右往左往することになります。こういう組織で働いたことがある人なら分かると思うのですが、こういう組織って絶対に上手くいきません。
信長の家臣団というのは、プロ野球チームなら信長監督自らがスカウトして二軍から育ててきたような人たちが中心です。もちろん柴田勝家のような譜代の家臣てのもいるんですけど。ずっと後の話しになりますが、信長は譜代の家臣だった林通勝を何十年も昔の話しを蒸し返して追放処分にしていますよね。彼はそういう家臣は一掃したかったんだと思います。
こうなると、信長のトップダウンで即決できる組織と、何事も合議で家臣団の意見を聞かないと決められない組織では勝敗は明らかです。
六角家が落ちぶれていたというより、六角家はいかにも保守的で当時としては一般的な組織であり、織田家は時代の先を行く組織を作り上げていたといえるのではないでしょうか。当時としては一般的な組織の延長線上にあった浅井、朝倉家や武田家が信長の先進性の前に敗れていったのもある意味時代の必然だったのかもしれません。
No.4
- 回答日時:
織田も六角も、当時の大名は明確な家臣というより協力チームみたいなもんでしょう。
↓
はい、その通りです。
その通りだから「おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?」という設問に対して、「戦国時代なので「領域」とか「家臣団」を設定するのがおかしいかなと。」とNo1で回答いたしました。
一時の六角氏の勢力を考えると、あまりにあっけない気がします。
↓
(2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったがただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかったのでは?
後付ではそのように説明できますが他の大名でも似たような戦略を取って成功しているところもある。
六角氏が戦国期の大名としては普通の形態で、「根絶やしにしてやる」という信長が異常だったのだと思います。
宇喜多直家
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C% …
天文3年(1534年)、祖父・能家が島村盛実らによって暗殺されたとき、わずか6歳だった直家は父・興家と共に放浪の人生を送ったという。成人すると天神山城主・浦上宗景に仕え、浦上家臣団の中で頭角を現す
長宗我部国親
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97% …
通説では、永正5年(1508年)、父兼序が本山氏などに攻められ居城の岡豊城で自害した際に、国親は落ち延びて[2]、一条房家に養育された[3]。永正15年(1518年)、一条房家の仲介により本領の江村・廿枝郷を戻されて岡豊城に復帰し、以後は長宗我部家の再興に尽力した[4]。
しかし近年の研究によると、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲っている
龍造寺隆信
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%80%A0% …
天文14年(1545年)、祖父・龍造寺家純と父・龍造寺周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺される。隆信は曽祖父の家兼に連れられて筑後の蒲池氏の下へ脱出した。翌天文15年(1546年)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興する
三好長慶
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD% …
その勢威を恐れた晴元達及び一族の三好政長・木沢長政らの策謀で蜂起した一向一揆によって、享禄5年(1532年)6月に殺害されてしまった。当時10歳の長慶は両親と共に堺にいたが、一向一揆襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ逼塞した
No.3
- 回答日時:
まぁ六角氏はあの当時としちゃ強かったでしょう
近江という土地柄 京にも近く 家臣の佐々木氏は公家や朝廷との結びつきも強かったために
足利将軍家や朝廷の後ろ盾も得やすかったわけです
まぁ それでも77万石でしょ?
信長なんか尾張・美濃で100万石超ですよ?(尾張54・7万石 美濃48・5万石)
それに六角氏は定頼は強かったが息子の義賢がクソですからね 笑
今川家が氏真で滅んだのと同じ原理です
お家騒動や内紛が起きたって主がしっかりしてりゃ強いんです
伊達家なんて天分の大乱があったにも関わらずあれだけの大勢力を維持してたわけだし
No.2
- 回答日時:
この当時の「支配領域」ってのは、ゲーム的あるいは近代的に完全支配しているわけではなくて、名目上の家臣にもかなりの自治権があったんですね。
だから実質的には支配領域というより、影響範囲といったほうが実態に近いと思います。この当時の近畿地方は、小領主が林立していた時代です。各地に割と小規模な勢力が独立勢力として活動していて、強い影響力を持った大名がいなかったのです。
現代で例えると、いくつかの小さな政党が合併してできた政党みたいなものですよ。維新の会みたいなものです。橋下さんは名目上は党首ですが、現実に彼の命令に完全に従うのは大阪維新の会系の人たちだけで、自民党や民主党やみんなの党からやってきた人たちや太陽の党の人たちは橋下さんの命令には従いませんよね。それみたいなものです。
だから、今の橋下さんが石原のおじいちゃんの顔色を窺わないと何事も決められなくなっているように、強い基盤を持たない戦国大名も家臣団の意向を無視して自分の好きなようにはできなかったのです。
だから六角氏も、「戦さをするぞ。みんな、集まれ!」といっても割に合わないとか納得できないという家臣がいたら、彼らは「お腹が痛いのでお休みします」とか「なんか向かい風が強いから行けません」とかいってやってこなかったりするのです。
名目上は六角氏の家臣でも、織田信長の勢力圏に近いところの人だったらとばっちりでやられるのも嫌ですから、「いやあ、ちょっと今回は色々あって参加できないけど検討を祈ってます。兵隊の代わりにお見舞いの品物を贈ります」なんてやるわけです。それで織田が勝ったら「いやあ、織田さんお強いですねえ。私は織田さんに決して逆らわなかったのでそこんとこよろしく取り計らってくださいまし」とやるわけです。もし六角が勝ったら「ええ、私は六角さんが勝つと思っていましたよ。ちゃんと贈り物を贈りましたのでよろしく」となるわけです。
伊賀なんかは完全に独立国家でしたから(後に散々織田信長の攻撃を受けた)支配下といっても名目上というだけだったでしょうし、伊勢方面は交通の便が悪いので支配権も行き届かなかったのではないかと思います。
自分の思い通りになる範囲となったら、実質的には観音寺城周辺地域のみだったと思いますよ。
この回答への補足
ご回答ありがとうございます。
織田も六角も、当時の大名は明確な家臣というより協力チームみたいなもんでしょう。
ただ、それは戦国の大名は皆同じです。
そうなると、同様だった六角氏が簡単に負けた理由が不思議ですね。
もう衰えて、観音寺城周辺だけしか勢力範囲がなかったんでしょうか?
信長の侵攻前に、かなり味方が切り崩されていたんでしょうか。
No.1
- 回答日時:
長宗我部元親夫人ってのもあるが。
浅井長政の正室は六角氏の家来の娘
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95% …
秀吉の天下統一の前の段階で、大名家の支配領域云々というのは、不正確かなと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%89%8B
どっちにも所属している場所が結構あった。
また、その時の勢いで付いたり離れたりというのが当たり前。
上杉謙信の小田原攻城戦での兵力をもって、上杉謙信の支配領域が関東一円に広がったなんて言えない。
それと同様に、その時その時の勢いで参戦する国人が多かったり、少なかったりするのが戦国時代です。
最大手の国人に中小の国人が離合集散していたのが、戦国時代なので「領域」とか「家臣団」を設定するのがおかしいかなと。
>>最大手の国人に中小の国人が離合集散していたのが、戦国時代なので「領域」とか「家臣団」を設定するのがおかしいかなと。
当時はどこの大名も、そうでした。六角氏だけがそうだったわけではありません。
武田だって上杉だって、同じような状況で、家臣なのか同盟者なのかあいまいな状態でした。
武田氏の最後は、あっけない幕切れでしたが、今川家にしても、しばらく持ちました。
一時の六角氏の勢力を考えると、あまりにあっけない気がします。
大名の支配領域云々が不正確というのはよくわかりますが、それは、どこの大名でも
同じこと。ならば、六角氏の簡単な敗北には理由があるように思えるのです。
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