初めて聞いた瞬間から、違和感を感じていたのですが、ドラマのタイトル「愛し君へ」って、文法的に変ですよね? 「愛し」という古語の連体形は「愛しき」ですよね。だから、後ろに「君へ」が付くときは「愛しき君へ」じゃないと間違いですよね?
「へ」がなくて「愛し君」だったら、「愛しいよ、君が」という意味の倒置と好意的に解釈できなくもないですが、「君へ」だったら、「愛しき」以外ありえないと思うのですが、いかがでしょうか?
何で誰も指摘しないんだ~とストレスがたまる今日この頃です。

A 回答 (10件)

#7です。


何か気分を害されたようで申し訳ありません。

>PORTFOLIOさんの感じられた違和感も、そのあたりから来ているところももしかしたらあるかもしれませんね。
と書いたのは、PORTFOLIOさんの感じられた文法的な違和感について否定する意図はありませんでした。私自身がこのタイトルを聞いたときに、文法的なものより先に、語感についてテンポの悪さを感じたものですから、もし語感が良ければ文法的なものには気付かず(もし気付いてもそれほど気にも留めず)過ごしただろうなあと思い、あのような表現になりました。

>曲名や書名に「いとし○○」とたくさんあるのは存じていますが
割と古い曲や詩に使われることが多い表現なので、お若い方でしたらご存知ないかもしれないと思って説明を加え、URLも載せました。ちょっとおせっかいだったかも知れませんね、失礼しました。

>皆○○は名詞ですよね?
「○○」の部分は名詞で終わる語句の場合もありますし、そうでない場合もあります(先ほどの参考URLの中でいえば「いとし君故」など)。そして「○○」が「へ、ゆえ」などの助詞で終わる場合はもちろん、PORTFOLIOさんが好意的に解釈されている名詞で終わる場合の中にも『愛し(終止形)+○○』ではなくて、『「愛しき(連体形)+○○」の「き」(あるいは「愛しい」の「い」)を省略したもの』が少なからずあるのではないかと思います。(あ、これもPORTFOLIOさんの考えを否定する訳ではありません。そこまで考えを巡らされる読解力はすばらしいと思いますし、実際そういうものもあると思います)

また長々と書いてしまいましたが、#7で私が伝えたかった本筋は、
・「愛し君へ」という言い方は字面または発音を重視した表現だと思われ、PORTFOLIOさんがおっしゃる通りに文法的には間違っていると思う。
・#1さんがおっしゃっている「愛し君」を一つの言葉とする捉え方はおかしいと思う。
の2点です。言葉足らずと配慮不足の点、改めてお詫びいたします。

この回答への補足

>文法的には間違っていると思う。
知り合いの国語学者に確かめたところその通りでした!
ありがとうございました。

補足日時:2004/07/07 08:24
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この回答へのお礼

御丁寧な御説明、ありがとうございます!

気分害してないですヨ。でも、簡単に説明すると誤解を招くし、詳しく説明すると怒っているみたいだし、文章って難しいですね~。

こうなったら、知り合いの国語学の大家(たいか)に意見を聞いてみようと思います!!
結果を「補足」にて御報告するので、楽しみに待っていて下さいね~。

お礼日時:2004/05/19 15:56

再び#7です。


yousayさんごめんなさい。私が改めて、
>#1さんがおっしゃっている「愛し君」を一つの言葉とする捉え方はおかしいと思う。
なんて書いてしまったので、気分を害されたのでしょうか。

私はあくまでyousayさんの意見に対する自分の意見を述べただけで、yousayさんや回答されたこと自体を否定したり、おとしめたりしようとした訳ではありません。#5さんの補足で、質問者さんがyousayさんの考え方に対する意見を#5さんに求められていたので、横からではありますが、私もちょっと自分の意見を述べさせてもらった次第です。
それに私は今回の件に関しては自分の考えが絶対的に正しいとも思っていません。私の知らないところで「愛し君」という言葉があるのかもしれませんし、私の勘違いの可能性だって十分にあります(そういった意味での「自信なし」でした)。分かっていただけるかどうか分かりませんが・・・。

とにかく今回は本当に全く意図していなかったこととは言え、結果的に場を穏やかならぬ雰囲気にしてしまい、この場を借りてPORTFOLIOさんやyousayさん、その他の回答者の方々に深くお詫びします。ごめんなさい。
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この回答へのお礼

いえいえ全く!!
no.10は削除されちゃってますね。とんでもない発言だとサイトが認めたわけです。s_yoshi_6さまの優しさだけが心に残りましたよ~。

お礼日時:2004/05/19 16:00

#5です。



「いとし子」ならぬ「いとし君」という語なのだとの説明には納得できなくて、色々と検索した結果、歌詞などには「愛し君」が結構使われていることがわかりました。メロディにあわせる都合なのかもしれません。

#7さんの、文法よりも「字面や音の美しさ」を優先したのだろうというお考えには納得できました。

(実際に「愛しき君」よりも「愛し君」のほうが、字面や音が美しいかどうかは、個人的にはまだ疑問が残りますが)
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この回答へのお礼

いえ、「愛し君」(「へ」なし)なら「君、愛し」の倒置法と思えば間違いとも言えないと申し上げたのですが。
御投稿ありがとうございました。

お礼日時:2004/05/19 15:50

「愛し(いとし)○○」という言い方は、歌のタイトルや詩などには昔から使われています。


http://www005.upp.so-net.ne.jp/tsukakoshi/kayoud …
ですから間違ってタイトルを付けてしまった、ということは少なくともないと思います。

ただ文法的にどうかといえば、やはり間違っていると思います。その点、#1さんとは違う意見になります。#1さんが例に挙げられている「愛し子」という言葉は、確かに正しい日本語ではありますが、「愛し+子」という組み合わせは、あくまで「愛し子」という一つの単語の中で慣用的に使われているだけであって、それを他の一般的な語に置き換えることはできないと思います。

例えば「幼子(おさなご)」という言葉があります。これは「幼き子」または「幼い子」というのが、文法的に見た正しい言い方になると思います。ただ「幼子」という一つの単語として使う場合は、辞書にも載っていますので日本語としては正しいものです。
ただし、だからと言って「幼い子供」のことを「幼子供(おさなこども)」というのは日本語として正しくない、というのと同じです。

「愛し君」という言葉は、今のところ(将来的には一般化して、正しい日本語として辞書に載る可能性もあるかもしれませんが)慣用的に使われる語句にはなっていないと思います。

ということで文法的には間違いだと思いますが、しかしながら番組や本、歌などのタイトルを考える場合、文法よりもその字面や音の美しさが優先されます。おそらくタイトルを考えた人は、以前から「愛し○○」という言い方があったことはもちろんご存知で、なおかつ「愛しき君へ」とした場合の「きき」という音の発音しにくさや耳障りの悪さを考慮して「愛し君へ」とされたのではないかと私は推測します。あるいは「愛し君へ」というフレーズが何かの詩か歌に使われていて、それから取られたのかもしれません。

ただ参考URLの曲名リストをご覧になると分かると思いますが、「愛し(いとし○○」の形のものは、ほとんどが後半の「○○」の部分がひらがなにして4文字です。これは日本語としてテンポの良い「七音」にあわせるために、「いとしい(いとしき、いとしの)」ではなく、あえて3文字の「いとし」を使っていると考えられます。
その点「いとしきみへ」は6文字ですから、何となく収まりの悪さを感じます。PORTFOLIOさんの感じられた違和感も、そのあたりから来ているところももしかしたらあるかもしれませんね。

参考URL:http://www005.upp.so-net.ne.jp/tsukakoshi/kayoud …
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この回答へのお礼

いえ、そんな、なんとなく収まりの悪さを感じたなどというあいまいなものではありません。文法的にちゃんと考えての結果です。
最初に言ったように、「いとし○○」の○○が名詞なら、倒置法と考え、「いとし」を終止形と考えれば、間違いとも言い切れないが、「いとし君へ」と「へ」があるから終止形とは考えられない、というのが私の説です。曲名や書名に「いとし○○」とたくさんあるのは存じていますが、皆○○は名詞ですよね? だから、それらは間違いではないが、「いとし君へ」は間違いではと思う次第です。
そういう誤解がないように最初に説明したつもりなのですが・・。
いずれにせよ、ご投稿ありがとうございました。

お礼日時:2004/05/16 11:27

私も「変だなぁ」と思っていました。



(「古語」じゃなくて「文語」のつもりで制作者は使っているのだと思いますが)

もっとも最近は「文語」と「書き言葉」を混同するような、文語に関する無知が横行しています。
この程度の間違いが行われてもやむを得ないでしょう。なにしろ、学校教育で「文語」はほとんどまったく教育されていませんから。

この回答への補足

国語学者に確認したところやっぱり間違いとのこと。NO.6様のお考えは正しかったです。
こんな世俗的話題を国語学者に聞くのはと思ってためらっていたのですが、聞いてすっきりしました。

補足日時:2004/07/07 08:22
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この回答へのお礼

そうですよね。これが一番自然な見解のような気がします。ありがとうございました。

お礼日時:2004/05/16 11:28

わたしも最初タイトルを聞いたとき、「え?」と思いました。



無理やりこじつけると、「愛し」は「君」にかかっているのではなく、「愛し。君へ」で、「愛しいよ。君へ(○○をささげよう)」のように、「君へ」のあとに何かが省略されているとか……。

全然説得力ありませんね(^_^;)。間違えてしまったのか、わざと間違えたのかわかりませんが、わたしもやっぱり変だと思います。

この回答への補足

やっぱり間違いですって。
no.5様の言語感覚は正しいです。

補足日時:2004/07/07 08:21
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この回答へのお礼

「間違いでは?」の意見に同意してくださり、ありがとうございます。
しかし私はNo.3さまの意見を聞いて、「間違いじゃないようだ」と思い始めましたが、No.5さまはいかがでしょう、それでもやはり間違いだとお考えになるかどうか、お聞きしたい気もします。

お礼日時:2004/05/14 23:53

>愛しき」以外ありえないと



愛しの でも 愛しい でも文意は合うし文法的にもOK
ではないかと。
まあ質問とは関係ないですが。

文法的にはわかりませんが、愛し子という言葉はありますので愛し君でも良いのではないかと思います。

自信はありませんが...。

この回答への補足

やっぱり間違いですって。TVってホントいい加減!!
せっかくここを読んで下さる方に少しでも正しい知識を持っていただきたく、念の為しつこく補足させていただきます。
(「補足する」を押そうとしたらうっかり「参考になった」を押してしまいました・・・)

補足日時:2004/07/07 08:20
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>>「愛しき」以外ありえないと
これはそういう意味で言ったのではなく、「愛し」の古語としての活用の中では、という意味です。現代語だったら、おっしゃるとおり愛しのでも愛しいでももちろんokですよね。

お礼日時:2004/05/14 23:48

#1です。


分かり辛かったようですね。
「愛し子(いとしご)」という言葉をご存知ですか?
もちろん現代語です。
それと同様で「愛し君(いとしきみ)」という言葉+「へ」という意味です。
>後ろに「君へ」が付くときは
ではないということです。

この回答への補足

知り合いの長老の国語学者にやっと聞くことができました。
やっぱり文法的に間違いだそうです。
御参考まで。

補足日時:2004/07/07 08:13
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この回答へのお礼

なるほど!! それなら納得です。間違いだとしたら、それが故意であれウッカリであれ嫌だなーと思っていたのですが、そういうことなら安心しました。
でも、ほとんどの人がそこまで気付いてないだろうなと考えると情けないです(私もですけど^^;)。

お礼日時:2004/05/14 23:45

間違ってても良いんじゃない?



絵画の”抽象画”や書道の”楷書”・”草書”のようにあえて崩した形式を用いる事で、インパクトを得ようとする手法でしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そこまで考えているならいいんですが・・・。作り手も、視聴者も。

お礼日時:2004/05/14 23:25

「愛し・君へ」じゃなく「愛し君・へ」ですね。


これなら文法的にも合ってますよ。

この回答への補足

ご投稿ありがとうございます。
すみません、意味が分からないのですが、どういう意味でしょうか? 「いとしくん(人名)へ」じゃないですよね? 番組紹介で「いとしきみへ」と発音しているのを聞きましたし。

補足日時:2004/05/14 23:23
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「愛」と「哀」が同音異義語である事。「悲しみ」と「哀しみ」が同音異義語である事。また、「哀」には「哀れ(あわれ)」という意味もある事。
哀れ『goo辞書引用』
1.強い心の動き
2.かわいそうな状態
3.底知れないような趣。情緒。ものがなしさ。
(以下略)

特に、この場合は「3.」の意味合いが強いように思われます。
要するに、日本における「哀」には、「愛」「悲しみ」「日本的な情緒、即ち『しみじみ?』」が含まれていると推量されます。

具体的に考えてみると、桜を見て、その見た目の美しさに「愛」を感じますが、いずれ儚く散り行く様に春の終わり、「悲しみ」を覚えるのだと思います。しかし、それは同時に夏の到来、そしてまた次の年に来る春をも意味するのではないでしょうか。

そういった「季節的流動性」に、水のような「流れ」を意識する包括的な情緒、気持ち、そして最終的にそういった気持ちを意識出来る「自己」の美意識、自然への同一観、一体感などを「哀れ」と表したのだと考えます。

また、悲しみは英語の「sad」つまり涙を流したり、否定的な感情になったりなど、比較的生理的な意味合いが強いと思います。 
一方哀しみは、悲しみという感情に悲しみを引き起こした対象に対する哀れみ、愛情など、情緒的な意味合いが含まれていると思います。「悲」という言葉に「愛」を含んだのが「哀」でしょうか。

さらに、悲しみは自らの心に雨が降るようなもので、哀しみは降った雨が土に浸み、心の土壌となって花や木を育むようなものだと思います。つまり、悲しみによって哀しみを覚え、時間をかけてより人間的な成長が促されるのだと考えます。

ご教授の程、よろしくお願いします。

「愛」と「哀」が同音異義語である事。「悲しみ」と「哀しみ」が同音異義語である事。また、「哀」には「哀れ(あわれ)」という意味もある事。
哀れ『goo辞書引用』
1.強い心の動き
2.かわいそうな状態
3.底知れないような趣。情緒。ものがなしさ。
(以下略)

特に、この場合は「3.」の意味合いが強いように思われます。
要するに、日本における「哀」には、「愛」「悲しみ」「日本的な情緒、即ち『しみじみ?』」が含まれていると推量されます。

具体的に考えてみると、桜を見て、その見た目の美しさに...続きを読む

Aベストアンサー

”哀”という概念については、人の成長による感覚の変化が根底にあるのだと思います。



喜怒哀楽は、現実から生じる悩みや、その解決から生じていますが、

これを自分で解決したり、再現できない幼い頃は、

主観としての感情表現になります。

翻弄される時代ですね。

しかし、現実と向き合い、幻想を捨てて合理性を理解しだしますと、

気負わずに自在に手に入れられるようになり、

憧れを失うかわりに、実利を得ます。

全ての物事は手間により制御が可能であると知ったとき、

畏怖や恐怖、焦燥は無くなりますが、神秘も消えてしまいます。

しかし、例え合理によって作り出されたものでも、

幼い時に感じていた喜びや、実際的な良さは変わらないと知り、

心から良かったと感謝するようになります。


これらの考えが定着しますと、

翻弄されるよりも、制御しようとする自分が主体(=成長)と成ります。

しかし、あるとき、

芸術や文学に触れて、自分が幼かった時の感覚を思い出し、

その世界観を(嘘だと知っていても)素敵だと感じます。

こういうときに、思うことは、

物事を制御できても、その成果を味わう感覚が消えてしまったら、

全くの無駄であり、勿体無いということです。

苦労してでも、

翻弄されていた時代の感覚を呼び覚ましたいと思うわけです。

それが無ければ、全体で意味が薄れるという合理的な発想からです。


たまには失敗をし、悲しみや怒りを感じないと、

その感覚を生きている間に使い倒せないと、知るわけです。

ですのでこれらも制御をして、味わうようになります。

ところが無駄に失敗をすることも、無駄と感じて出来ませんから、

何らかの偶然や不注意により生じた事件を大事にして、

悲しさや怒り、解決できた喜びを味わいます。

つまり、これらも自分の機能の一つであり、忌むべきことではなく、

生きているうちに楽しまないと損であると言う考え方に変わります。


この様に成ると、本来の自分の感情は、楽しむという”楽”しかなく、

他の感覚は、意図して呼び起こしたり、他の人に共感する場合のみ

使用するものになるのです。


”悲しい”は主観としての表現です。

ですから、もっと客観的な感情、”哀しい”に変わります。


例えば、

自分の知る因果により結果が見えており、先に結果を知ってしまう。

しかし、それらを知らず未来を信じて活動する人々の様を見たとき、

未来との同時性により、哀しいと思うわけです。

また、思わぬ縁により哀しい未来を変えた人がいて、その喜ぶ姿を見て、

喜ばしいと感じます。

更に、既に知っている人の愚かさを聞き及び、

知っていはいるし、仕方のないことだと分りつつも、

許せないと言う感情が沸き起こったとき、怒りを感じるとなります。

怒るではありません。

総じて、主体としての感覚は”楽しい”しか残らなくなり、

その状態になれば、仏像の様に微笑んでいるでしょう。


愛と言うのは、これらの合理を得て、謎が少なくなり、神秘がなくなり、

欲求が減ってきても、

「では辞めようか?」

と問われたとき、躊躇無く、「それはない。」と答える強い核の様なものです。

哀と言葉が似ていても、違うものです。


合理は、存在する法則を探求し、利用するために使用する道具です。

しかし、そこに既にある物に対しては使用できません。

「だってそうなってるんだもん。」

と言うものは事実そのものであり、

事実から派生したもので説明することは出来ません。

順番が逆になるからです。


愛とは始めから存在する物です。


全ての生物、または自然界の天体であっても、

継続するという強い力が先にあります。

これに理由を求めると、謎が深まります。

疑問と言うのは、継続するためにはどうすれば良いのか?

と言う限定された目的にしか使用できないものであり、

自由に適用できるものではないのです。

何故、継続しないといけないのか? と言う疑問を持つためには、

もっと本来の目的となる継続対象が無いといけません。

xxを続けるために、○○を継続しないといけない。

と言う答えしかないからです。


人は翻弄されますと、「何かの継続が危ぶまれる」と直感し、

そのときに様々な感情が沸き起こり、悩みが生じます。

この感情を強く受け取ってしまい、付随物であるもの

(二次的に引き起こされる現象)愛として理解し、

付随物を追い続けて、本末転倒になることが多くあります。


例えば我が子と共にいて喜びを感じたとき、

これを愛だと思ったり、

仲間や恋人と時を同じくして、喜びを感じ、これを愛と思ったりします。


しかし、これでは喜びが薄れたときに、愛がなくなったと錯覚します。

悲しみが訪れたとき、愛がなくなったと錯覚します。

本来は、「では辞めるか?」と問うたとき、躊躇する僅かな核が愛なのです。


例えば、ハリーポッターを育てた叔父さん夫婦は、

目の悪いハリーにメガネを与え、

個室を与え、食事を与え、教育を与えています。

喜びが無くなり、悲しみと怒りを抱えて別れる恋人同士よりも、

ハリーを愛していた事になります。


体裁が悪いとか、辞めるほうが面倒だ?という気持ちから生じたものかもしれません。

しかし、ここに躊躇があり、「では辞めるか?」と言う問いに、

仕方なく継続を選択しています。

これが長期に続くものほど(継続が本質であるため)愛の強さであり、

我が子ではない(育てる理由にならない)ハリーを愛していたという証明になります。


可愛いと感じたり、好きだと感じる感情も、二次的なものです。

これを愛だと思ってしまえば、

憎らしいと感じたり、嫌いだと感じたら、容易に継続を断念するでしょう。


例えば、

嫌いあっている家族が、家族を半年続けて辞めてしまえば、愛が薄いでしょう。


しかし、

子供が大人に成るまで続けていたら、そこには愛があるのです。

愛とは、個々人がそのとき感じる意思や感情とは無縁であり、

主観が認知する以上に強い制約です。

本人の思考や感じ方・気持ちと言うのは、

継続に関しての不満や不安を指しているだけであり、

(既に継続が前提にあり、これがあるから生じる感覚である)

こちらを優先すると、因果が逆転しますから、不幸になるのも当然なのです。



継続を前提に、その不安要素を取り払うように頭脳を使うことを賢いといい、

一過性の物として扱って、他に逃げようという意思が働いたまま、

頭脳を使うとズルイと表現されます。


人の本当の知能は、前者のときしか向上せず、

全ての偉人(普通の人の日常もですが)は、継続を前提に考えをめぐらしており、

全ての犯罪者は、妨害や阻止、断念や回避、攻撃と逃走を前提に考えをめぐらしております。

ここにも愛の有無が違いとして存在しています。


そして、継続を断念する他人の姿に哀を感じ、継続を断念した過去に哀を感じるわけです。

自らが継続を断念する予感や不安から生じた悲しみとは別のものです。


例えば、自分や他人が持つ、嫉妬や劣等感、優越感、ねたみは全て、

「それほどまでに自らを継続したいのだね。

 それほどまでに、善を自ら成して、他人に喜ばれる姿を求めているのだね。」

と言う強い望みがあるわけですから、

その姿を見てショックを受けずに、落ち着いて考えると、

その姿の中に愛があることが分ります。


人はこれを知ることで、愛しいと感じます。

忌むべきものの様に感じられるのは、これらの本来の感情の使い方になれておらず、

愛から生じていると考える習慣が無いからです。

一方で、恨みや憎しみは、他人を滅して継続を断念させる意思があります。

つまり本来は愛であったのに、

望みが強すぎて苦しくなり、反転してしまったことになります。

八つ当たりですね。

これらは知識として知ってはいても、

やはり有っては成らないことと感じますから、

躊躇無く、滅すると考えるべきです。

この強い炎が本来の正しい怒りです。

しかし、当人が恨みを捨てて、泣き言をいい、嫉妬の気持ちに戻ったときは、

これを愛しいと感じて、助力をする。

これを愛するといいます。



悪しき感情であっても、愛であるものと、愛とは反対になったものでは大きく違い、

ここに線を引いて考えることが、愛(継続)に対して忠実であるとなります。


また、これらの線引きが出来ていませんと、合理性に欠ける行動が多くなり、

自らの消耗が激しくなり、自らの継続が困難になります。

愛とは自らの主観ではなく、根底にある法則であり、継続を指します。

主観を優先すると、それは愛ではありません。

気持ちを無視して継続をしていれば、そこには強い愛があるのです。


幼い時は、自らの継続が不安であり、他人が頼りです。

ですので、世話を焼いてくれるときの相手の表情や感情を覚え、

それを得られるように考えて、それを大事にしてしまいます。


しかし、大人に成れば世話を焼く側になるのですから、

気持ちや感情を大事にしすぎる必要は無く、その時代の後遺症か、郷愁であるとし、

あまり深追いをせずに、継続(=愛)にのみ強いプライドを持てば良いと思います。


ですが、

そうした感情を持てる今現在は、自分の”継続”が続いており、愛が続いています。

これは是非楽しんで、使い倒したいですね。


以上、ご参考に成れば。

”哀”という概念については、人の成長による感覚の変化が根底にあるのだと思います。



喜怒哀楽は、現実から生じる悩みや、その解決から生じていますが、

これを自分で解決したり、再現できない幼い頃は、

主観としての感情表現になります。

翻弄される時代ですね。

しかし、現実と向き合い、幻想を捨てて合理性を理解しだしますと、

気負わずに自在に手に入れられるようになり、

憧れを失うかわりに、実利を得ます。

全ての物事は手間により制御が可能であると知ったとき、

畏怖や恐怖、焦燥は無くなり...続きを読む

Qカオスって…?

ネットで時々「テラカオス」みたいな文面を見るんですが
カオスって、(よくわからないですが)天と地を作ったもの?
みたいな神様ですよね?
ネットで使われているカオスとは意味が違う気がするんですよ。
「テラカオス」って何のネタなんですか?

Aベストアンサー

意味を考える時は「テラ」と「カオス」で区切ってくださいね。

テラは単位です。
HDD容量等で使われてるのを見たことないですか?
100MB、100GB、1TB、とか。(右に行くほど大きい)

って事で、テラってのは、凄く大きい感じを表してます。

なので、物凄くカオス、って意味だと思ってください。

カオスも考えるなら、物凄くぐちゃぐちゃになってる、って感じでしょうかね。
もう、収集が付かなくなっててどうしようも無い感じだと思えば良いです。

Q「愛すべく」?「愛すべき」?

今、本のタイトルを考えているのですが、「愛すべく」と「愛すべき」の違いを教えてください。

Aベストアンサー

こんにちは

まず、「べく」と「べし」の違いですが、


「べく」…「べし」の連用形 
     
     「~すべく~する」というような表現の仕方になる

      例:新大陸を発見すべく航海に出る(新大陸を発見しようと航海に出る)

「べき」…「べし」の連体形

     「~べき○○(名詞)」というような表現の仕方になる

      例:驚くべき事実(誰もが驚くはずの事実)


という感じでしょうか。


「べし」という助動詞には、様々な意味があるのですが、

「べく」となった場合は、「~しようとする」という、意志や目的といった意味が強くなります。

一方「べき」となった場合は、「~するはずだ」という、当然の意味が強くなります。


ということで考えていくと、

「愛すべく」→ 愛そうとして、愛するために

「愛すべき」→ 愛して当然の、愛さなくてはならない、愛してやまない

といったニュアンスになるかと思います。 

      

Qカオス

具体的に「カオス」ってどういう意味ですか?
(「彼の頭はカオス」を分かりやすく言うとどういう意味ですか?)

Aベストアンサー

カオスって、混沌とした状態を指す言葉ですよね。
彼の頭がカオスというのは、頭の中が混乱していて無秩序な感じ、
もっといえば頭の中がめちゃくちゃで、まともに物を考えられない
様子のことを言っているのだと思います。

Q「香炉峰の雪、いかならむ」の「む」は終止形か連体形か

枕草子に出てくる、「香炉峰の雪~」の段。この「いかならむ」の「む」を終止形としている解説書と、連体形としている解説書があります。どっちを取るべきなのでしょうか(複数の説がある以上、どっちとも言えないのでしょうが)。特に高等学校で学習する場合。

「終止形」というのは、文末だからそのまんま終止形・・・っていうのはわかります。

「連体形」というのは、疑問の副詞の呼応・・・あたりが根拠になるのでしょうか。しかし、「む」の上に来ているのは「いかなり」という形容動詞ですよね。「いかなり」の連用形には副詞的な用法もあるみたいですが今回は未然形。
疑問文というのも分かるのですが、なんかこう、すっきりとした説明ができません(見つけられません)。

どう解釈したらよいでしょうか。

Aベストアンサー

 いや、単なる世代交代で。
 他の例では、「いと」を「とても」と訳してはいけませんでした。「とても」は「とてもそんなこと出来ない」というように、「打ち消し」とセットで使うのが本来の形だから、ということです。「たいそう」と訳さねばなりませんでした。
 他には、二重敬語は二重敬語で訳していました。「気づかせたまふ」なら「お気づきあぞばされる」などと。
 そうすべき、と言っていた人が退職し、大学入試の採点者からも消え、学界からもこの世からも去ったのです。


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