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 恥ぢなるテーマを しつこく問い求めます。

 1. 知らないと他人に知られたら それは 恥づかしいことか?

 2. 知らないのは その無知を知らないでいることが恥ぢなのであって 他人に知られたくらいで どうして恥ぢなのか?

 3. 聞くは一時の恥ぢ 知らぬは一生の恥ぢとは言いますが。

 4. けれども 高い見地に立つなら 既知と未知とは けっきょく両方が相い俟って 互いにそのときの対話を成り立たせるのではないか?
 
 5. 《現実》は ナゾを容れてこそ何ごともよくコトがはこぶ。未知なる状態を活用すべし。それが おのれの固有時――または人格――の高さなり。

 ▲ (《バガワ゛ッド・ギーター》2・46)~~~

 あたり一面が洪水に見舞われた。
 そこに池もおおわれた。

 ならば ブラフマンにとって 
 あらゆる知識(ヱ゛ーダ)は
 この池のようなものである。

 〔紀元前五世紀ごろ。辻直四郎訳 〕
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 6. 知らないことをあざけり笑うのは 自国の同類の事態について見て見ぬふりをして隣国の戦時下の制度を非難するのと変わらないではないか?

 7. ナゾについて抱く我が心におけるきよらかなおそれを わすれるべきではない。はずだ。

 8. 哲学の徒は すべからくバカ丸出しですすむべし。ではないか?

A 回答 (13件中11~13件)

B様、こんにちは。




>「哲学の徒は すべからくバカ丸出しですすむべし。ではないか?」

「バカ」とは?
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この回答へのお礼

 こんにちは K さま。ご回答をありがとうございます。


 ★ 「バカ」とは?
 ☆ この場合は 一般に世間にあってあいつはその振る舞いにおいて《バカ丸出しではないか》といったように受け取られる事態を指して言っています。

 中身も問題でしょうが むしろ自分の外で人びとがどう捉えるかで決まると思ってください。

 これでよろしいでしょうか?

お礼日時:2014/07/03 12:43

知らないと他人に知られたら恥ずかしい、と感じるのは、その感じる本人が「知っていないといけない」「知っているべき」と思っているからです。


そこに価値判断を加えているから。

自分が何も思っていなければ、別に恥ずかしく思わないと思います。ただ事実として、「自分はそれを知らない」というだけで。

何かを知らない人をあざけり笑う人も、「知ってて当然だろ」という判断基準があるから、知らない人を笑うのでしょう。
「知らない人もいて普通」と思っている人だったら嘲笑しません。

または、知っている自分はスゴイという優越感。

もしかしたら劣等感の裏返しの虚勢。
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この回答へのお礼

 ちゃてらさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。まづ 相手のことは できるだけ問わないとしたいとは思っています。相手が どうあれ(どういう態度を採るかにかかわらず) 自分自身のこととして問題をとらえる。この姿勢です。
 つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 何かを知らない人をあざけり笑う人も、「知ってて当然だろ」という判断基準があるから、知らない人を笑うのでしょう。
 「知らない人もいて普通」と思っている人だったら嘲笑しません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という事態を いまは出来るものなら捨象して欲しい。どうでしょう? 

 捨象することなど出来るわけないぢゃないかということでしたら その旨を再度お知らせください。(再回答がない場合も そういうご趣旨であると受け取ることとします)。





 さて 相手の思わくにはいっさいかかわらない場合も 次のような事態はあり得ると思われます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 知らないと他人に知られたら恥ずかしい、と感じるのは、その感じる本人が「知っていないといけない」「知っているべき」と思っているからです。
 そこに価値判断を加えているから。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうしますと:
  
 (あ) とうぜん知っていてふつうだというような価値判断を加えるな。というお考えでしょうか? そうすれば 恥づかしさなんか 出ないし 出ても気にしないのだと。

 (い) でもその人は やはり《これこれの知識は 知っているべきだった。くやしい。残念》というふうに思っているとしたら どうこの事態をとらえるのがよいか?

 (う) ということは 《価値判断》というよりは・確かに微妙ではありますが その相手が知っていた知識ないし理論は 自分が相手とだいたい同じ知識の蓄積があると思っていたからには 自分が見出したとしてもおかしくはなく 従って先を越されたかという思いのくやしさに 恥づかしさをおぼえる。という場合もあるのではないでしょうか?
 
 (え) ですから その新説を打ち出した相手も 何もこちらを見下してやろうと思って その理論を得るために努力したわけではない。という場合が じゅうぶんあり得ます。

 ――こういった話の前提で 考えていただくとよいのではないかと思うのですが どうでしょう?

お礼日時:2014/07/03 12:40

知る事は楽しい。


知らない事は、たくさん知る事がある=たくさん楽しい
思いができるというワクワク以外ない。
だから世界中をまわってきた。
「知らない事が恥ずかしい」というのは、知識を自己顕示
の道具にしている証しだ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 第一印象は 総じて言って やや極論であるように質問者としては 感じました。


 ☆☆(趣旨説明欄) 3. 聞くは一時の恥ぢ 知らぬは一生の恥ぢとは言いますが。
 ☆ というようにおそらく一時的な恥づかしさがあって それが おそらく一時的で一過性のものだと思われるにもかかわらず けっこう重くわが心にのしかかる。おまえ 知らないのかと見られてしまうことに 恥づかしさは先立つ。ということも ふつうではないでしょうか。


 ★ 知る事は楽しい。
 ☆ とすれば だからこそそのとき その知ることを相手に先を越されてしまったと思えば 何がしかのくやしさも先に立つのかも知れません。

 ★ 「知らない事が恥ずかしい」というのは、知識を自己顕示の道具にしている証しだ。
 ☆ というような自己顕示の問題より前に意外とおのれの存在理由を――けっきょく行き過ぎたかたちにおいてでしょうが――その知恵その知識を得ることにかけていたという場合がなきにしもあらず。ではないでしょうか。


 自己顕示の機会を逃したと この場合も 採られる余地はありますが そうではなく 自分が勉強に励んできた道筋がひょっとすると間違っていたのではないかと 自省を迫られるなら このときには 恥ぢを感じるものと思われます。

 すなわち
 ★ 知らない事は、たくさん知る事がある〔ことだ〕
 ☆ というとき その知り方の問題になる場合があるのではないでしょうか?





 もう少しこだわってみますと:
 これこれの知識は どこそこの文献や資料をしらべれば誰でも分かるといった知識の無さではなく そうではなく おおよそ前提となる知識は 互いに同じ程度にすでに持っている にもかかわらず あいつは一般とは別の見方としてしかじかの知識また理論を繰り出して来た。――というような場合に 何が起きるか?

 そのあたらしい見方に 自分自身も納得が行ったとするなら けれどもその知らなかったことを新説の提唱者に知られることは こまった・やばい・くやしい・この憤慨は どこから来ていかなるものか? と自問しなければならないほどの恥づかしさを感じる。という場合もなきにしもあらずではないでしょうか?



 したがって
 ☆☆ (趣旨説明欄) 4. けれども 高い見地に立つなら 既知と未知とは けっきょく両方が相い俟って 互いにそのときの対話を成り立たせるのではないか?
 ☆ といった〔まだ荒削りの〕議論につなげようとしています。





 まとめてみますと:
 もし
 ★ 知識を自己顕示の道具にしている
 ☆ のなら 
 ★ 知らない事は、たくさん知る事がある=たくさん楽しい思いができるというワクワク以外ない。
 ☆ と知ればよい。恥づかしさなんて 吹っ飛ぶはずだ。――となる。

 自己顕示のために得る知識という思想でない場合が もしあるなら どうすればよいか?

 これが 問いになります。

 恥づかしさをおぼえるのは すべて自己顕示目的の知識欲の場合に限る。でしょうか?

お礼日時:2014/07/03 12:23

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