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後三条天皇が院政を始め、白河、鳥羽、後白河、高倉、後白河、後鳥羽と続き、承久の変で後鳥羽上皇が隠岐島に流されて終っている。その間に藤原氏の内部抗争、源氏と平氏の抗争、平家の滅亡、平泉藤原氏の滅亡、鎌倉幕府成立、北条氏執権の確立。
日本史の中で激動の時期であるが非常にわかり難い。NHK大河ドラマ「平清盛」を見ても、平清盛は白河上皇が祇園女御の下女にはらませた子だとしか判らなかった。天皇家が伊勢平氏の財力を奪うのが目的であるかのように思えた。
後三条は天皇家支配を強めるために院政を始めたと思うのだが、結果は逆効果のように思える。何が失敗の原因であったのだろうか。

A 回答 (12件中11~12件)

titelist1さん、こんばんは。




そうですね。院政を引いている白河、鳥羽、後白河、後鳥羽という上皇はてとてもプライドが高く、とてもわがままな感じがします。朝廷の権力、ひいては自分の院政の役所である院庁の権限の拡大のためにという感じの政治を行います。そのために天皇にも強い意見を述べたりします。もっと民草のことを一生懸命考えるべき人たちなのに自分の血統が天皇になることを望み、自分の死後の極楽浄土を願い、お寺を建てる以外のことをしませんでした。これでは人気がないといってもおかしくありません。

詳細は下記のURLを参照ください。




院政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E6%94%BF
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この回答へのお礼

天皇が好き放題をするために院政を始めたとは思えません。後白河上皇は近衛天皇の後、天皇に復帰し、3年後に二条天皇に譲位して院政を再開しています。院政には明らかな政治的意図があるのです。

お礼日時:2014/08/21 08:28

院政なんてのはややこしい



法皇-上皇-天皇と権力者が3人もいる体制は混乱を招く
院政下では法皇の「院宣」が最も強い命令であるが
後白河法皇のとき以仁王が「令旨」を発して それが結果平家滅亡に繋がっているので
必ずしも院の力が絶対だったとも言えないが…
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この回答へのお礼

ややこしいので興味があるのです。院の力が絶対でないので、保元・平治の乱が起こったのです。以仁王の平家追討の宣旨をあたかも後白河法皇の宣旨であるかのように頼朝が偽装したのです。
これが失敗の原因の一つと言えるかもしれません。

お礼日時:2014/08/21 08:21

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