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万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は申された。

「ここにいるあなたがた皆に言っておきます。
あなたがたは神を信じようともがいても無駄である。
神を信じようともがいたところで決して神を信じることは出来ないのである。
何故なら神は信じるものではなく、感じるものだからである。
だから神を感じることが出来ないのであれば、なおのこと神を信じることなど出来るはずはない。
あなたがたは神を信じようともがいている限り、神が何かまるで分かっていないのである。
神が何かも分からずその神を信じようとしている。
何かも分からぬ神を信じることが出来るわけがない。
あなたがたは神が何かまるで分かっていないのである。
それが故にあなたがたは神を信じようなどと愚かなことを考えるのである。
神が何であるかまず知りなさい。
ここにいるあなたがた皆にはっきりと言っておきます。
宇宙の法則が神である。
そして万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないし、また存在し得ないことを知りなさい。
そうすれば神を信じようともがく必要はなく、神を感じることができるようになるのである。」

アルケーの神はこのように申された。
それでもあなたがたは神を信じようと願いますか。
 

 

A 回答 (16件中1~10件)

愛し信じることで理解が可能になるのだ。


私は君のアルケーちゃんをそんな風におちんちんで愛し、それにアルケーちゃんはアンアンと答えた。
だからアルケーちゃんの事は理解している。
こういう感じ方だ。
すでに任信したアルケーちゃんは、君にとって不実の証である俺様の子供を託す。
君はそうして、せっせと私の教えを守り、自らの死の証として、不実を全うするのだ。
君は痴漢だよ。
アルケーちゃんは君に目を付けられたりしなかったら、私とずっと幸せだったんだ。
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この回答へのお礼

 
悪いが君の痴漢変態趣味にはいい加減付き合ってられんね。
近くの小学校へ行って小学生の前でV字開脚してきなはれ。
 

お礼日時:2014/10/28 20:59

「宇宙の法則が神である。

」ならば、人類が解明して来た自然科学の「現象」はそれが全て神である、と言うことですか?

文末の「それでも」とは、直前の「アルケーの神はこのように申された。」に反論してまで「神」を信じますか? という問ですか?
アルケーの神の言う事を信じて「神は感じるものだ」とするならば、アルケーの「神」を信じた事になり、矛盾ですよね。

「信じようと願いますか」は日本語としておかしい。

こう言う文面を私は知っている、との自慢でしかないような…
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この回答へのお礼

 
>アルケーの神の言う事を信じて「神は感じるものだ」とするならば、アルケーの「神」を信じた事になり、矛盾ですよね。


えーと、変に捻じ曲げよーなどと考えてはいけません。
上の文を正すとこうなります。
アルケーの神の言う事が分かって「神は感じるものだ」とするならば、アルケーの「神」を理解できた事になり、矛盾しないですよね。
だね。
 

>「信じようと願いますか」は日本語としておかしい。

おかしくないです。
何故なら信じることとは願うことに等しいからです。


 

お礼日時:2014/10/27 23:21

人の道さま、こんばんは。




>「アルケーの神はこのように申された。
それでもあなたがたは神を信じようと願いますか。」

・・・取捨選択するんじゃない?
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 こんにちは。




 ★ 神は感じるものである
 ☆ この《万物の根源、宇宙の法則、アルケー》なる神を感じたときには どんな感じでしたか?

 ことばで表わすことは出来ますか? 




 

 たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった対話があります。

 けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。

 すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。

 ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?



 在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。

 さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》こともおこなう。


 《非在》とは 何のことか?
 感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?


 あるいは逆に《宇宙の法則》とは 何か?
 それは 感じることが出来るとおっしゃる。どういう感じなのか?
 その感じを悟性で認識して言葉に表わすことは出来るか?
 その言葉をつかって考えることが出来るのか? (ふつうは 出来る)。


 《宇宙の根源》とは 自然科学の探究するところではないのか? 
 なるほど《感じる・考える》ものである。




 《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。

 宇宙の法則――たとえば勝手に解釈すれば 因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。

 この宇宙の法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。
 あるいは ○○さんであって 同時に△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。


 《非在》という想定は 何を言おうとしているのか?
 《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?

 ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。ここにもあれば 同時にあそこにもある。という存在(つまり非存在)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。



 非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。


 この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。
 出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。分かったと宣言する人が出て来ても ほかのひとにおいても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから ある程度の人数の《崇拝者》が出る余地がある)。

 この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。
 ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。

 だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。

 一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じない・すなわち《無い神を信じる》と言う。
 《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。
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この回答へのお礼

 

> 一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じない・すなわち《無い神を信じる》と言う。
 《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。

正しくはこうです。
「有神論は神の存在を信じ、無神論は神の存在を信じない」です。
《無い神を信じる》は日本語として間違いである。
これは単なる言葉の荒らしに過ぎない。

ではアルケーの神についてはどうか。
人の道においては神は間違いなく存在します。
その神とは万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神です。
そして宇宙の法則の存在を実感することにより神は存在すると結論できるのです。
実感とはこの世界のあらゆる出来事は宇宙の法則に従い寸分の狂いもなく営まれていると実感することです。
神を感じるとはこのようなことです。
 

お礼日時:2014/10/28 19:06

と言う事は、貴方はアルケーを感じているけど信じて居ないという事ですね。


信じていない者の言葉をなぜ伝えるんでしょうね。

「万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないし、また存在し得ないことを知りなさい。」を感じる必要はあるけど信じてはいけないということですね。
ハナから信じては居ませんけど、なにか?
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この回答へのお礼

 
>と言う事は、貴方はアルケーを感じているけど信じて居ないという事ですね。


信じるとは感じるの前段階に過ぎません。
信じるとは願望であり、願いの段階に過ぎない。
信じるとは信じたいと願っているのである。
だから感じることができれば、それは既に信じるを超越しているのです。
もはや願う必要はなく、信じようとあがく必要などありません。
神を感じていれば神に対する一切の迷いも、一切の疑いも入り込む余地はありません。
アルケーの神は存在する。
神を感じていれば一切の迷いも、一切の疑いもなくこのように断言することが出来ます。 
 
 

 

お礼日時:2014/10/28 18:46

 ★ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~


 実感とはこの世界のあらゆる出来事は宇宙の法則に従い寸分の狂いもなく営まれていると実感することです。
 神を感じるとはこのようなことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは:


 ○ (アルケーの神とは?) ~~~~~~~
 神とは 宇宙の法則です。

 神とは 神を感じることです。

 神を感じるとは あらゆるものごとが宇宙の法則のままに現象していると実感することです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ちゃんちゃん!
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この回答へのお礼

 
やっと神が何か分かったよーだね。
ずいぶん長くかかったが、おめでとう。
 

 

お礼日時:2014/10/28 23:57

「ここにいる・・・


・・・なるのである。」
と、
アルケーの神が本当に言ったのですか?

これは、hitonomichiさんの考えではないのですか?

ただ、アルケーについての自身の考えを表明したに過ぎないのではないか。

アルケーの神を信心しても、アルケーの神にお祈りしても、超自然的な、奇跡的な利益をもたらしてくれるわけじゃなし、
また、
信心しなくても、人は宇宙の根本原理・アルケーに適っていない、アルケーに反する行動をとれるわけじゃなし
───もし取ることができるのであれば、アルケーは宇宙の根本原理や法則ではなくなってしまう───、
アルケーなんてどうでもいいじゃん。

人がイエスの奇跡という与太話を信じるのも、その行動がアルケーに適っているんじゃないの。
違うの?
違うとしたら、アルケーには例外があるということで、エラいことになってしまう。

アルケーが存在するのであれば、
アルケーの存在を信じようが信じまいが、
いやいや、それを感じようが感じまいが、それすらどうでもいいことじゃん。
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この回答へのお礼

 
>アルケーの神を信心しても、アルケーの神にお祈りしても、超自然的な、奇跡的な利益をもたらしてくれるわけじゃなし、
また、
信心しなくても、人は宇宙の根本原理・アルケーに適っていない、アルケーに反する行動をとれるわけじゃなし
───もし取ることができるのであれば、アルケーは宇宙の根本原理や法則ではなくなってしまう───、
アルケーなんてどうでもいいじゃん。

アルケーの神を知ることによって、我々は我々自身と宇宙についての深い理解が得られるのである。
これが真理の探求である。
真理の探求は無意味なことではない。
真理の探求はどうでもいいことではない。
真理の探求は人を人たらしめる最も尊い行いである。 
 

お礼日時:2014/10/29 09:44

 あなたは 《神は神である》と言っているだけなのであるが もうこれ以上合理的な説明の仕方をもとめても無理なようだ。



 それに 神は神であるという表現は わたしはわたしであるという命題と同じように 説明能力が低くてもそこに実質的な意味があると言うことも出来る。
 (そういう公理なのだと考えられる。すでに《わたし》についての現実があるという意味で。そのわたしに神も その主観にあって現実であると考えられるので)。




 残る問題は この神について《アルケー》を持ち出し しかも――その名づけまではよいとして――そのアルケー以外に神はいないと言っていること ここにある。

 議論を省こうと思えば これでは 創価学会・日蓮とちっとも変らないということ。これを助言として進ぜよう。(これまでにもさんざん言って来ているのだが)。
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この回答へのお礼

>あなたは 《神は神である》と言っているだけなのであるが

《神は神である》とは言っていない。
神は宇宙の法則であると言っている。
《神は神である》≠《神は宇宙の法則である》


>残る問題は この神について《アルケー》を持ち出し しかも――その名づけまではよいとして――そのアルケー以外に神はいないと言っていること ここにある。


宇宙の法則は唯一つなのであるから、神は万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神を除いて存在しないと結論できる。
故に《神は宇宙の法則である》ことが分かれば、《神は万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神を除いて存在しない》ことも直ちに分かるはずである。
何一つ間違いはない。
 

お礼日時:2014/10/29 09:36

 ★ (No.8お礼欄) 《神は神である》≠《神は宇宙の法則である》


 ☆ これをわたしが等号でむすんだのは 《宇宙の法則》について説明が無いことを大目に見るとすればという条件をつけてのこと。

 説明は 《宇宙の法則は 宇宙の法則である》と言っているに過ぎない。



 ★(同上) 宇宙の法則は唯一つなのであるから、神は万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神を除いて存在しないと結論できる。
 ☆ 宇宙の法則の問題は措いておいて あとは 《アルケーの神を除いて 神は存在しない》という命題が 妥当ではないということ。

 それは あなたの頭の中でだけ通用するに過ぎない。

 わたし〔や 一般にほかの人も〕は その名づけに問題はないが その名のみが排他的に神の名づけだとは見ていないということ。

 だから 一人ひとりの主観にあって 《神は神である》となるのが 信仰の内実です。これが 一般理論です。これを分かって 創価学会の行き方から抜けてください。
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この回答へのお礼

 
>《宇宙の法則》について説明が無い

宇宙の法則について確かなことはある。
それは宇宙の法則は唯一絶対であり、永遠不変であるということである。
我々が経験する全ての物事、全ての現象は変わりゆくものであり唯一の例外を除いて永遠不変ではない。
その唯一の例外とは宇宙の法則である。
宇宙の法則は唯一絶対であり、永遠不変であり、永遠不滅であり、永遠無限である。
それ故に宇宙の法則は神なのであり、また宇宙の法則を除いて神は存在しないし、また存在し得ないのである。
それがつまり万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神である。
 

お礼日時:2014/10/29 10:37

 ★ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~


 宇宙の法則について確かなことはある。
 それは宇宙の法則は唯一絶対であり、永遠不変であるということである。
 我々が経験する全ての物事、全ての現象は変わりゆくものであり唯一の例外を除いて永遠不変ではない。
 その唯一の例外とは宇宙の法則である。
 宇宙の法則は唯一絶対であり、永遠不変であり、永遠不滅であり、永遠無限である。
 それ故に宇宙の法則は神なのであり、また宇宙の法則を除いて神は存在しないし、また存在し得ないのである。
 それがつまり万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ふたつの問題。

 1. 神を《アルケーの神》と呼ぶのは 問題がない。たとえばあなたの嫌いなアッラーフ(もっともこれは神という意味の言葉であるが)やヤハヱーと名づけても そのことには問題がないのと同じである。

 けれども その名が――つまり神のその名が―― ただひとつ神の呼び名であって ほかにはないと決めつけるのは 人間の成すところではありません。それは 創価学会・日蓮やほかの決めつけ新興宗教と同じです。どうか 目をさましてください。

 2. 神の説明で けっきょく《宇宙の法則は宇宙の法則である》《唯一絶対は唯一絶対である》《永遠不変は永遠不変である》《神は神である》と繰り返し述べているに過ぎません。

 あとの三つにかんしては それなりに自同律としての意味はあります。《わたしはわたしである》という自己了解するときの現実性が この神とわれとの関係を述べることで やはり確認されるという意味があるからです。人間の存在という有限性とそして神についての無限性との関係が 現実に意味を持つと考えられます。

 ただし 《宇宙の法則》については あいまいなままです。宇宙の法則を感じるから宇宙の法則であるとか 宇宙の法則はマチガイのないものだから 宇宙の法則であると言っているに過ぎません。どうかそこのところも 理解してください。

 


 これら二点の問題をクリアして ほかの神学よりもさらに妥当な説明を提示することができたなら そのおっしゃるところのアルケーの神を みなが内に省みることになりましょう。
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この回答へのお礼

 
>ただし 《宇宙の法則》については あいまいなままです。

ところであなたは神が何か分かっているのですか。
わたしは神は宇宙の法則であるとはっきり述べています。
相変わらず神は分かるか分からないかが分からないナゾのなんたらかんたらだと繰り返すのでしょうか。
これだとあいまいなままどころの話ではありませぬ。
結局神は何だと言っているのか最後まで明らかにすることは出来ないのですか。
 

 

お礼日時:2014/10/31 00:13

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