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万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は申された。

「ここにいるあなたがた皆に言っておきます。
あなたがたは神を信じようともがいても無駄である。
神を信じようともがいたところで決して神を信じることは出来ないのである。
何故なら神は信じるものではなく、感じるものだからである。
だから神を感じることが出来ないのであれば、なおのこと神を信じることなど出来るはずはない。
あなたがたは神を信じようともがいている限り、神が何かまるで分かっていないのである。
神が何かも分からずその神を信じようとしている。
何かも分からぬ神を信じることが出来るわけがない。
あなたがたは神が何かまるで分かっていないのである。
それが故にあなたがたは神を信じようなどと愚かなことを考えるのである。
神が何であるかまず知りなさい。
ここにいるあなたがた皆にはっきりと言っておきます。
宇宙の法則が神である。
そして万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないし、また存在し得ないことを知りなさい。
そうすれば神を信じようともがく必要はなく、神を感じることができるようになるのである。」

アルケーの神はこのように申された。
それでもあなたがたは神を信じようと願いますか。
 

 

A 回答 (16件中11~16件)

 ★ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~


 実感とはこの世界のあらゆる出来事は宇宙の法則に従い寸分の狂いもなく営まれていると実感することです。
 神を感じるとはこのようなことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは:


 ○ (アルケーの神とは?) ~~~~~~~
 神とは 宇宙の法則です。

 神とは 神を感じることです。

 神を感じるとは あらゆるものごとが宇宙の法則のままに現象していると実感することです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ちゃんちゃん!
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この回答へのお礼

 
やっと神が何か分かったよーだね。
ずいぶん長くかかったが、おめでとう。
 

 

お礼日時:2014/10/28 23:57

と言う事は、貴方はアルケーを感じているけど信じて居ないという事ですね。


信じていない者の言葉をなぜ伝えるんでしょうね。

「万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないし、また存在し得ないことを知りなさい。」を感じる必要はあるけど信じてはいけないということですね。
ハナから信じては居ませんけど、なにか?
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この回答へのお礼

 
>と言う事は、貴方はアルケーを感じているけど信じて居ないという事ですね。


信じるとは感じるの前段階に過ぎません。
信じるとは願望であり、願いの段階に過ぎない。
信じるとは信じたいと願っているのである。
だから感じることができれば、それは既に信じるを超越しているのです。
もはや願う必要はなく、信じようとあがく必要などありません。
神を感じていれば神に対する一切の迷いも、一切の疑いも入り込む余地はありません。
アルケーの神は存在する。
神を感じていれば一切の迷いも、一切の疑いもなくこのように断言することが出来ます。 
 
 

 

お礼日時:2014/10/28 18:46

 こんにちは。




 ★ 神は感じるものである
 ☆ この《万物の根源、宇宙の法則、アルケー》なる神を感じたときには どんな感じでしたか?

 ことばで表わすことは出来ますか? 




 

 たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった対話があります。

 けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。

 すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。

 ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?



 在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。

 さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》こともおこなう。


 《非在》とは 何のことか?
 感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?


 あるいは逆に《宇宙の法則》とは 何か?
 それは 感じることが出来るとおっしゃる。どういう感じなのか?
 その感じを悟性で認識して言葉に表わすことは出来るか?
 その言葉をつかって考えることが出来るのか? (ふつうは 出来る)。


 《宇宙の根源》とは 自然科学の探究するところではないのか? 
 なるほど《感じる・考える》ものである。




 《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。

 宇宙の法則――たとえば勝手に解釈すれば 因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。

 この宇宙の法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。
 あるいは ○○さんであって 同時に△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。


 《非在》という想定は 何を言おうとしているのか?
 《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?

 ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。ここにもあれば 同時にあそこにもある。という存在(つまり非存在)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。



 非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。


 この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。
 出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。分かったと宣言する人が出て来ても ほかのひとにおいても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから ある程度の人数の《崇拝者》が出る余地がある)。

 この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。
 ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。

 だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。

 一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じない・すなわち《無い神を信じる》と言う。
 《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。
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この回答へのお礼

 

> 一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じない・すなわち《無い神を信じる》と言う。
 《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。

正しくはこうです。
「有神論は神の存在を信じ、無神論は神の存在を信じない」です。
《無い神を信じる》は日本語として間違いである。
これは単なる言葉の荒らしに過ぎない。

ではアルケーの神についてはどうか。
人の道においては神は間違いなく存在します。
その神とは万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神です。
そして宇宙の法則の存在を実感することにより神は存在すると結論できるのです。
実感とはこの世界のあらゆる出来事は宇宙の法則に従い寸分の狂いもなく営まれていると実感することです。
神を感じるとはこのようなことです。
 

お礼日時:2014/10/28 19:06

人の道さま、こんばんは。




>「アルケーの神はこのように申された。
それでもあなたがたは神を信じようと願いますか。」

・・・取捨選択するんじゃない?
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「宇宙の法則が神である。

」ならば、人類が解明して来た自然科学の「現象」はそれが全て神である、と言うことですか?

文末の「それでも」とは、直前の「アルケーの神はこのように申された。」に反論してまで「神」を信じますか? という問ですか?
アルケーの神の言う事を信じて「神は感じるものだ」とするならば、アルケーの「神」を信じた事になり、矛盾ですよね。

「信じようと願いますか」は日本語としておかしい。

こう言う文面を私は知っている、との自慢でしかないような…
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この回答へのお礼

 
>アルケーの神の言う事を信じて「神は感じるものだ」とするならば、アルケーの「神」を信じた事になり、矛盾ですよね。


えーと、変に捻じ曲げよーなどと考えてはいけません。
上の文を正すとこうなります。
アルケーの神の言う事が分かって「神は感じるものだ」とするならば、アルケーの「神」を理解できた事になり、矛盾しないですよね。
だね。
 

>「信じようと願いますか」は日本語としておかしい。

おかしくないです。
何故なら信じることとは願うことに等しいからです。


 

お礼日時:2014/10/27 23:21

愛し信じることで理解が可能になるのだ。


私は君のアルケーちゃんをそんな風におちんちんで愛し、それにアルケーちゃんはアンアンと答えた。
だからアルケーちゃんの事は理解している。
こういう感じ方だ。
すでに任信したアルケーちゃんは、君にとって不実の証である俺様の子供を託す。
君はそうして、せっせと私の教えを守り、自らの死の証として、不実を全うするのだ。
君は痴漢だよ。
アルケーちゃんは君に目を付けられたりしなかったら、私とずっと幸せだったんだ。
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この回答へのお礼

 
悪いが君の痴漢変態趣味にはいい加減付き合ってられんね。
近くの小学校へ行って小学生の前でV字開脚してきなはれ。
 

お礼日時:2014/10/28 20:59

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