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定年退職後、暇に任せて日記を書くことにし、粘着体質のせいか殆ど毎日書きながら一年経ちました。

最近、書きながら妙な感慨を抱くようになりました。書いてどうなるのか? 誰かに読まれることを想定していないなら、日記を書く作業は意味があるのか? もし死後家人が読んだらどう思うのだろうか? 読まれても大丈夫なのだろうか?

どなたか日記を書いている方、日記に就いてどう思いながら日々書いているのか? お考えをお聞かせ下さい。

追伸: 2年位前、20代~30代の頃の日記を見つけ、字も汚く、内容も恥ずかしいので廃棄処分したことがあります。

A 回答 (8件)

永井荷風じゃない普通の人は、人に読ませるために日記は書かないと思います。


まあ読者は唯一自分だけじゃないでしょうか。

これは、あとになって、あのだれそれが来たのはいつだったっけ、とか、何かみやげものもってきたっけ、ということが確認したいときに力になってくれます。
しばしば來る人の場合、それぞれの回、何かもらったのか、どういう話題だったか、が記憶の中ではごっちゃになります。
この件は別のあの件より前だった、後だった、ということがわかるだけで恥をかかないで済むと言う場合もあります。

友人知り合いで、物故されることがありますけど、いつまでは生きていたということが確かめたくなることがあります。
そして、A君とB君はどちらが先に旅立ったのか、が知りたいこともあり得ます。
時に別の友人からそれを訊かれることもあります。
残された家族はいなかったから家は絶えたのだけど、墓参りをしたい。命日はいつだったか、とか、寺はなんていう名だったか、なんて。
自分の親族でないかぎり、このような情報は書いておかないと覚えていることはまずありません。

そんなことに使うでしょう。
文学作品として書くわけではないから、自分の死後に家族が読むか捨てるかなんてどちらでもいいじゃないですか。
生きている間にデータバンクとして使えるメモ帳で十分ではないですか。

所感だとか感動の記録、思考論理の保存、なんてやったら、読み返すのがいやらしくなり、恥ずかしくなりますから、そういうことはあまり書かないほうがいいと思いますよ。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

重要なことは別に記録しています。書かない方がいいことがあるということが参考になりました。

お礼日時:2015/01/19 09:23

私の親父も几帳面に、毎日日記を付けていました。



随分長い事日記を付けていたはずなのに、亡くなった時は一冊の日記帳も有りませんでしたね。

やはり親父も、死んでから息子に日記を読まれるのが恥ずかしかったので、処分したのかも知れません。

或いは、近所の同年代は死に行き、日記に書く事柄すら無くなったのでしょうかね。

私もじじいにはなりましたが、日記はどうも苦手です。
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この回答へのお礼

体験談有難うございました。

日記をつけている人は稀でしょうね。ですから付けている方の意見を聞きたくなりました。

お礼日時:2015/01/19 09:25

 私の場合、毎日ノートすることは考えません。

「自分が書きたくなったら書く」。そんなスタンスです。

〉書いてどうなるか、書くことに意味があるかどうか

 その問い自体に意味はあるのでしょうか?
 もともと、人生そのものが 「生きてどうなるのか? 生きていることは意味があるのか?」 という問いに値するもので、それより瑣末な行為の意味を問うことは更に意味が無いことではないか? 私にはそのように思えます。

 「私はこれを書きたい、書いておきたい」。それだけでよいのではないでしょうか。
 ノートが習慣的な行為になっているとそのような自問が生じ易いかもしれない、そのようにも思えましたが、e-toshi54さんはどのようにお考えでしょうか (^_^)v
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

「書いてみたいことを書いてみる。」それ以上を望むことはないのでしょうね。

最初の直接的動機は、漢字検定受検のための漢字の勉強の一環だったかも知れません(記憶が明確でない^^;)

お礼日時:2015/01/19 09:31

 


 右顧左眄 ~ ケース・スタディ vs マイ・ルール ~
 
 わたしは、通算2000日の過去日記、約3000冊の書籍目録、約5000通の
Q&Aを公開・投稿・保存しています。もとは中学生の頃から自叙伝を
書く決心をして、非公開こそが文学の命題ではないか、と考えたのです。
 
 ようやく中年を過ぎて着稿すると、おなじ着想の作品に遭遇しました。
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B0 …
── オーウェル/吉田 健一&瀧口 直太郎・訳《一九八四年 1950‥‥ 文芸春秋新社》
 |
…… カレンダーは禁書となり、手がかりとなる「日記」が密売されて
いる。── Orwell, George《Nineteen Eighty-four 1949‥‥ England》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19840404 禁暦日記 ~ 一九八四年四月四日 ~
 
 いわゆる“日記文学”を論じる人は、つぎのように分類できます。
 4:3:2:1の順位か、40%:30%:20%:10%の比率で存在する
と空想されます。ときに、読まねば書けない、という空論もあります。
 
4.読んだり書いたりしない人々(最大多数の人々)。
3.読んでも書いたりしない人々(この質問の既回答)。
2.読んだり書いたりする人々(与太郎こと、わたし)。
 |
1.読まずに書きつづけた人(コールドウェル)。
 Caldwell, Erskine 19031217 America 19870411 83 /
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19650720 立読み
 
 書かない人や、読んでくれない人たちの意見は、参考になりません。
…… 読まない者とは語れない、読んだ者とは争えない ~
http://q.hatena.ne.jp/1368251442#a1200703(No.1 20130511 18:31:49)
 
 非公開や生存証明の関連回答(質問者の追伸は削除された)。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
(No.1 20150116 12:30:36)
 |
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n162750(20140421)
…… 傾老の日々 ~ 書くべきか、打つべきか、読むべきか? ~
http://q.hatena.ne.jp/1213751742#a835994(No.2 20080618 11:21:36)
 
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

参照URLは適宜参照してみます。

お礼日時:2015/01/19 16:05

55のときに、あと10年で定年だということで、ただのノートに5年日記としました。


書くことは、ほとんどただの日常。
仕事上の移動とか、多少のもめごととかも。
趣味の和裁で何を縫っていて、どこまでやったか、スポーツジムでのトレーニングのあれやこれやは、
書いてます必ず、そして、体重も。

なので、体力的にも、どれぐらいできていたのかとか、健康上のチェックポイントとか、
季節の変わり目での、体調の変化とか、それはもう、すでに8年たってますから、一読すると、
同じ日にちで何をどうしたかが、比較検討できる。

そして、落語を5年前から趣味にしてますので、誰の何を聞いたかをかいておくと、
脳内DVDが勝手にリピートしてくれるので、面白かったというのは、いつでも、’あーそうだった’と楽しめる。

昨年12月には、15年ぶりにホノルルマラソンにエントリーして完走してきました。
志したのは、年初の駅伝を見たから。
息子と行こうね!と約束して、一緒に練習して・・・なのに、数か月で息子リタイア。
その後の予約とか、変更とか、いろいろ、今になって読むと、トレーニングとしても
自分の体力を管理するのに、丁度いいものです。

特に、活動記録としての、運動歴とか、体重、季節変動などは残しておくと、
3年もたつと、非常に役に立ちます。
何より、’漢字’を自筆するので、忘れない。
書けない・・・・となれば、辞書でちゃんと調べる。

仕事を辞めれば、日常記録も残す意味がますます重要です。
日々の食事のメニューも書いておこうと思ってます。
分量的には、B6サイズのノート見開き2ページが5年分としてかいてますから、行数にしても、10行あるかないか。
あんまり古くなると、日常カルテ?としても意味なくなりますからどこかで廃棄はしますね。
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この回答へのお礼

体験談ありがとうございます。

体重と血圧・体温は別途エクセルに記録して7年経ちます。日記には、書き始める時刻とその時の外気温(外気温度計設置)を記録していますが、まあ大した意味はないでしょうね。

「ある時期に破棄」=参考になります。

お礼日時:2015/01/20 16:49

50歳主婦です。


結婚してから30年間、日記を毎日書き続けています。

>書いてどうなるのか?

私は記憶の整理や忘れるために書いているので
記憶の更新に役立っていると思っています。
書いて忘れて眠って、次の新しい一日を迎える繰り返しです。

>読まれても大丈夫なのだろうか?

あえて読まれることは意識していませんが読まれても構いません。
もっと言えば家人だけでなく誰に読まれても大丈夫です。

意義というなら
人生と同じで毎日休まず積み重ねていくことだと思います。
何を積み重ねるかは人それぞれ異なるでしょうが、
振り返った時 その積み重ねがどうであったか何であったかが
わかるような気がします。

いえ・・すみません。たぶん本当はわからないかもしれません。
わからないでしょう・・そんな経験は何度もあります。
答えを求めて必死にゴールを目指してもその場所に答えなどない。
それでも何も積み重ねずにはいられません。
これもまた私の生きた証だからでしょうか・・・

昔 実家の蔵の中で古い書物をみつけ
子供ながらに読みふけっていたことがあります。
実際には読めませんから 
そのミミズ文字を眺めながら心躍らせ空想にふけっていました。
毎日を記録したものですが余白部分に書き損じや試し書きしたような跡が幾つもあって
今 思い出してもワクワクします。
祖父の祖父が江戸時代に書いた日記、記録です。
几帳面な人だったようです。

亡くなった私の父も毎日日記を欠かさない人でした。
同じように日々をただ休みなく綴り続けた人です。
父の膨大な書き物からは母の目線にはない父の姿が見えました。
ペンや筆で書かれた文字というものは
読む者に内容とは別の感動を与えてくれるものです。

私たち夫婦には子供はいませんが
もしも子供や孫がいたら日記を残しておいてやりたいと私は思うでしょうね。
そこから何を読み取るかはそれぞれですが
それによって伝えていけるものがあると思います。



*但し20代の頃の日記は私も恥ずかしいです。
これは私も間違いなく処分対象ですね(笑)
新婚で甘えばかりで愚痴が多くて、自己中の塊みたいな内容です(笑)
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この回答へのお礼

体験上のご意見ありがとうございます。

自分の場合を考えてみると、確かに孫以降の人間に読まれる分には平気ですし、読んで欲しいくらいです。但し、女房に読まれるのはちょっと・・・^^;

お礼日時:2015/01/21 08:59

書き方や書く内容にもよりますが、


【日記は平凡な毎日の中に潜む非凡に気づかせてくれる
       橋本武『日本人に遺したい国語』 101歳最後の授業】
という、長年、灘校で教えていた橋本先生の言葉を信じて、私は
ここで、皆さんにおススメしております。
まぁブログなど、ネットで公開しているような日記は、
読まれても差支えのない内容しか書かないでしょうから、
他の人が読んでもあまり意味がないと思われるのですが、
紙に書かれた日記は、書体の味なども含めて、価値が
有るのではないでしょうか。

私は、まだ文章を書けない言葉は、曜日やお天気などにして、
(英語を除く)複数の外国語で書いていますので、
後々読み返して、水準が上がっていれば文章を書き換えることが
できますし、勉強になっています。色違いの記号で記している
その日の出来事もありますので、それも自分では
オモシロイです。私の日記は、暗号のような代物ですので、
誰にも興味持たれることはないでしょうけれど。

古書店で誰かの日記を買って、それをテーマに
書かれた小説を読んだ記憶があるのですが……質問者さまは
自身の日記に取材して、小説を書いてみるのも
オモシロイかもしれませんよ。
少なくとも多少のボケ防止効果はあるでしょうから、
書く意義など小難しいことを考えずに
よかったこと、うれしかったことだけでも
書きつづけませんか。
公民館やカルチャーセンターなどの文章教室の人に
質問者さまの日記を提供して、それを題材にして、
小説を書いて貰うという方法もありますね。
(多少のボケ防止効果と書きましたのは日記では
自身が知っている漢字しか書かないので書写等よりは
効果が薄い、ということからです。
このことからもブログなどに書くよりも紙のノートに
書く方が諸種の利点があるということになりますね)

お求めの内容にならずに、また、
参考にもならない駄文で、
ごめんなさい。

CiaoCiao!
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

「書くという行為以上のものを求めない」という感覚でいいのかなという気がして来ました。

一時小生の英語の勉強の足しに、英語で日記を付けたりしましたが、後で日本語以上に読むのが嫌でした^^; まあ、それを「失敗」というのでしょうね。

お礼日時:2015/01/21 09:04

私はブログを日記にしています。



携帯電話のメールでさえ、風呂に入っている間に不幸にも家人に見つかってひと悶着。

ブログに書き込み始めて10年が経ちます70歳、逆に人様に読んでもらえ数字として或いは書き込みがあって反応が出てくるだけに励みにもなります。
どこの誰が書き込んだかもわからない、ほとんど写真すらない、変哲もない私の日記。
それでも目に留めてくれる人が居る、だから励みにもなるし・・・

そのままこの世から去ることがあっても、親族の誰一人にも気づかれることなく、見知らぬ人とは逆に共有できる、この時代の最たる手段。
ID とパスワードがなければここにたどり着けないシステムに 心地よく愚痴も書き込み、楽しかった孫たちとの日々のことも書き込み、人生の午後と言われる毎日を過ごしています。

17歳の頃に書いた日記は既にその地を離れる時に 風呂の焚き火とともに煙になりました。
しかし、10年前から書き込んだブログは私の宝物です。
そして見てくれる人たちの心を惹きつける何かを会得したようにも思えて書き込むことすら楽しくなってきます。
年齢を何度も書き込んでいます。
それでも見てくれている人が居ることに私は、生ある限りブログという日記を大切にしたいと思います。

間違っても紙には一言たりとも残しません。
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この回答へのお礼

ブログと言う日記、或いは社会参加という方法もあるのですね。納得です。

小生の場合、このサイトに真摯に書き込むことで、何かしらの自己確認をしています。多少なりとも誰かの心の琴線に触れれば、今現在の自分の存在価値を感じられるからです。

お礼日時:2015/01/21 22:25

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