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北条氏討伐後、家康の関東移封が大盤振る舞いすぎたのではないでしょうか。
250万石に及ぶ大領でなくとも、武蔵相模下総3か国120万石程度でもよかったのではないでしょうか。もちろん長年の領主を失った関東を治めるのは大変なことであり、家康の統治力もあって250万石を盤石にした面もありますが、結果ライバルをより強大化させてしまいました。
120万石程度であれば、秀吉の死後家康が突出することもなかったと思います。

A 回答 (7件)

難しい問題ですね。


ただ、徳川家康は関東転封の前に5カ国約100万石の領主でした。
小牧長久手で局地戦に勝った上での転封ですので、120万石では
足りないでしょう。
ということで、動かせるまとまった土地は北条氏の治めていた関東
しかありません。当時の江戸は寒村で、現在のような巨大都市になる
予想は無かったのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
小牧長久手直後と、九州に次いで関東も降した後では大きな差があると思います。120万石で充分と思うのですがいかがでしょうか。
(いかがと言われても、当時の秀吉は250万石が相当と判断したんですけどw)

お礼日時:2015/08/02 15:25

徳川幕府も、外様は所領が広い代わりに江戸より遠方で妥協してますから、失策と断定は出来ないでしょう。


 毛利家なんか、関ヶ原のペナルティで削られるまでは、もっと広い所領のままですし。
 秀吉プランの朝鮮出兵が成功していれば、半島にもっと広い領土を持つ大名が出来たかも知れませんね。
 秀吉のミスは、晩年、自身がボケて正常な判断ができないことを自覚せず、秀次排除、朝鮮出兵などの失策を重ねたことでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

バランスの問題かなぁ、と。関ヶ原後の50万石前後の大名に天下を仕切る程の力はないでしょうが、これが200万石(動員兵力5万以上!)を超えてくると一大勢力となります。
毛利、上杉、前田あたりが100万石前後なのに徳川だけ突出して250万石。これが秀吉没後の独走を許した大きな原因だと思います。

関東統治失敗を見越して100万石程度に減封するつもりだったのかもしれませんが。

お礼日時:2015/08/02 15:56

そう思います。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/08/02 23:05

歴史の流れをちゃんと見ましょう。


関東の検地は領地替えの後です。
関東がどの程度か誰も分らない状態での転封です。
120万石程度に試算していたかもしれません。

北条は農民にやさしく、税が軽かったと言います。
家康はしっかり取っての250万石で、北条時代で試算すればもっと少なかったはずです。
それも家康統治での開拓分も大きいはずです。

家康の250万石も東芝の水増し利益の様に、他大名へのハッタリで言っていた可能性もあります。
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この回答へのお礼

それは違うと思います。
動員兵力からある程度の石高は逆算できるし、そんな短期間で120万石が250万石に開拓できるはずがありません。

お礼日時:2015/08/04 07:12

大事なところだけもう一度。


歴史の流れをちゃんと見ましょう。
太閤検地は家康が関東に入ってからです。

秀吉は領地を与えただけで、250万石を与えたわけではありません。
石高は後から出てきた数字で、秀吉が250万石を与えたわけではありません。

質問は大盤振る舞いすぎたのではないでしょうか。ですね。
北条を簡単に潰せた秀吉からすれば、その関東を与えても、同じように囲める。怖くない試算だったのでしょう。

太閤検地の後の転封ならもっと領地は少なかったはずです。
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う~ん、失策ですか。



個人的には、秀吉としては三河など5ヶ国から家康を追い出したかったんじゃ?と言う気がしなくもありません。大坂や京都により遠い関東に家康を追い出すことで、豊臣政権の中心地を"距離の防御壁"のようなもので守ろうとしたんじゃないかなーと。

その証拠、ではありませんが旧・徳川領には豊臣派的な大名を詰め込んでますし。家康に調略を面倒にするためか、かなり細切れに配置してますよね。まー配置された大名は関ヶ原ではほぼ家康方になるわけですが、そこは秀吉を責めちゃいけない気がします。


というわけで、家康を関東に移封すれば上方の安全確保に繋がる、と秀吉が考えた場合、なんとかこの実力者のヘソを曲げることなく引っ越してもらうには、大盤振る舞いも止む無しではないでしょうか。本拠地移転やそれに伴う家康の家臣への言い訳?の為にも。


>結果ライバルをより強大化させてしまいました。
豊臣政権の繁栄、まではいかなくても存続を最優先にした場合、家康なんか肥らせとけばよかったんです。いくら肥ろうと大坂城の西の丸に入ろうが、ほっときゃよかったんです。あんな挑発をしている内は「豊臣家の筆頭大老」でしかなく、豊臣家の実力者ではあっても日本のトップには登れなかったんだから。

寧ろ挑発に乗った方々こそ、家康に日本のトップになるチャンスを進呈した方々。結果から見れば挑発に乗りやすい面子を除けなかったことが、秀吉の失策な気がしますが。

結果論でしかないのは重々。長文失礼。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
新たに配置された親豊臣大名は家康を防ぐには小粒すぎましたね。

お礼日時:2015/08/04 18:25

250万石であったがゆえに、家康が政権を取ったというわけではありません。

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この回答へのお礼

政権を取った大きな要因というのは疑う余地はありません。

お礼日時:2015/08/08 22:48

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