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秀吉は、家康を関東に改易しましたが、
その際に、江戸という地名に言及しましたか?

A 回答 (6件)

言及したようですね。


「関東を貴殿に与える代わりに、それまでの貴殿の領地はもらう。この小田原は東国支配の重要地であるから、家臣の中から信頼できる者を選んで守らせ、貴殿は江戸に本城を築かれるのがよろしかろう」
出典リンク↓
https://toyokeizai.net/articles/-/411934
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<江戸に本城を築かれるのがよろしかろう」と言及しているのですね。
江戸を選んだ家康も立派だが、アドバイスを与えた秀吉も先見の明が感じられますね。

お礼日時:2023/04/07 18:29

武蔵国豊嶋郡江戸郷に太田道灌の江戸城があったので、そのあたりを念頭に入れていたのではないでしょうか。



関東全域とか武蔵国全域を与えるとは言っていないかと。

武蔵国の国府は多磨郡(多摩郡)にありますが、豊嶋郡はそれに次ぐほどの大きな郡だったので。

武蔵国=埼玉県全域+東京都全域+神奈川県の一部(川崎市全域+横浜市東部)
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<江戸郷に太田道灌の江戸城があったので>言及した可能性があるのですね。
善意で言及したのか、ある思惑でなのか、興味があります。

お礼日時:2023/04/10 18:20

当然、江戸のことは言及したでしょう。


もし、秀吉が家康の立場だったのなら、秀吉は真っ先に江戸に眼を付けたでしょう。

秀吉は武将というよりも豪商といったほうが良い人物です。
だから秀吉は、山城が多かった時代にあって、大阪城という大河川と大きな湾に面した平野に巨城を築き、大商業都市に発展させました。

秀吉の眼からすれば、江戸に拠点の城を造れば、大阪に匹敵する大商業都市に発展すると思われたのは当然かと思います。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
大阪は<大商業都市に発展>しましたが、地理的に好都合な土地なのですね。
重商主義の秀吉は、重農主義の家康が江戸に目を付けるかどうかを見ていたのですね。

お礼日時:2023/04/08 18:32

鎌倉や小田原を選ぶかどうかで、家康の本心を探ってたといわれてます。


家康がその候補地を避け、ただ広いだけの場所を選んだことで、ほっと一安心。
上水道の完備や湿地帯の埋め立てなど、かなりの土木工事をしなければいけない土地でした。
太田道灌の持ち城だったことは調べればわかるでしょうが、まさか廃屋状態だったことは、秀吉も知らなかったかもしれません。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
秀吉は江戸に言及し、<家康の本心を探って>みて、<ほっと一安心>なのですね。
秀吉は策略家ですね。

お礼日時:2023/04/08 18:24

秀吉は家康の力を削ごうと、江戸を与えた。

家康にも、秀吉にも先見の明があったわけではないし、家康が選んだのでもありません。

僻地においやられた家康は腐らずに、徹底して、北条の小田原をベンチマークし、信長の大阪構想に学び、荒れ地の田舎江戸をゼロから作り直したのです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<家康の力を削ごうと、江戸を与えた>のですね。
江戸を名指しで。

お礼日時:2023/04/08 09:25

江戸氏の領土を与えたのではなかったですか?湿地帯の荒れ地でしたから。

その場所を選んだのは家康です。秀吉は小田原や鎌倉でも何処でも良かったのです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<江戸氏の領土を与えた>のですね。
そして、家康は江戸という場所を選んだのですね。
すこしややこしいですね。

お礼日時:2023/04/07 18:33

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