1. 神などはいるもんかと言う。
――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことによって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。
2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。
――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形になる。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。
3. 神は 精神だと言う。
――けれども 精神は 人間のもの。自然本性としてそなわったもの。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。
人びとはどうして神のことが分からないのか?
No.48ベストアンサー
- 回答日時:
どうも回答が錯綜されているようですね。
いくつかの公準(要請)を定めて回答を求めてはいかがでしょう。
哲学的には、以下の公準が想定されますね。
1.非知が存在する。
2.非知は、理性にとって二律背反である。
3.神は非知である。
これだけでスタートして論理的に神がどう扱われるべきかがわかるのではないでしょうか?
なお、以下の自明な公準も補足しておきます。
A.認識とは、ある実体を像として、他の実体と区別する事である。
B.知覚とは、感性が対象を感知する事である。(認識している必要は無い)
C.無知とは、文字通り、対象を一切知覚しない事である。(=認識もしていない)
D.対象の実在性と実体は不可知である。
E.可知できるのは、対象の現象である。
それ以外にも必要な公準があるのならば、補足してください。
けんかの当事者が交通法規を出しても 話はうまく進まないと思われるところ 成敗の交通整理をありがとうございます。
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
1.非知が〔☆ 非経験の場という想定にもとづきその性質の説明として〕存在する。
2.非知は、理性にとって二律背反である。
〔☆ 2-1. 経験事象としての有る無しを超えていて因果関係から自由な場ないしチカラとして《非経験の場》を想定する。
2-2. これは 人間の知覚(感性)や認識(理性・思考)にとって《知り得るか知り得ないかが知り得ない》という非知なるナゾである。
2-3. 次項(3)のようにこの非知を《一般に神とよぶもの》に当て 思考や認識の問題〔でないにもかかわらず仮りに認識の対象〕として扱おうと思えば 《神はある》とも《神はない》ともどちらとも言える。非知 非知とばかり言っていないで仮りの表現として補助線を引いたわけである。
2-4. ちなみにこの《補助線》の領域ではいくらでもと言うほど自由にいろんな補助線が派生して来る。
2-5. 擬人化されて創造主なる一説明が得られそこから大きな物語までもが編まれた。これには 無神論が対抗する。どちらも 自由であり互いに対等・同等である。〕
3.神は非知である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
F. 経験事象は 認識にとって主観と客観との問題である。ところが 非経験の場は 非知として それが不可知である(=公準D)ところの客観の問題を超えている。
F-1. すなわち神は かえって 主観の問題であるところに行き着く。
F-2. 誰にとってであるかを問わない場合の《われ》にとっての《われが最もわれなる固有の時》に言わばわれにおとづれる超認識またはヒラメキである。ただし めちゃくちゃな内容であり得る。
F-3. よって 世の中には 片や《おれは神を見た》と言って来る場合もあれば 片やそういうマボロシを見ることを人間にとって最大のアホバカ扱いをする場合もある。
F-4. 共同主観(コモンセンス)は 神をめぐるほかの主観をもふくめてそれぞれの主観を分析・検証し 《わが固有の時》の自由ととうとさを侵さないかぎりで交通整理をつねにして行く。和をめざす。
F-5. この神の名は 問題ではない。
No.49
- 回答日時:
#45です。
> (て)★ ~~~~~~~~~~~
意志の無い事象
意志を持つ存在
こうした分類はできますか?
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これこそが
★ 論議の本線を無闇にずらして喜ぶ
☆ です。分からなければ 出すな。
:
???
意志の無い事象
意志を持つ存在
という分類が必要なんで、それを前提に話を進めていいですか?
と聞いているのですが。
これは、
★★(回答№41) ~~~~~~~~~
★ 事象と存在
☆ とをあなたは分けている。つまり 互いに互いを独立させている。そんなことがあるのですか? という問いです。
:
あるでしょう。
というやりとりから始まっていますよね。
事象=存在でないのだから「あるでしょう」は『お前の間違いだ、見苦しい』とおっしゃったわけですが、論議の本線は、あくまで、
意志の無い事象
意志を持つ存在
についてなのですから、いちいち、そんな重箱の隅をつつくようなことを言われてもねえ・・・という意味で、まあ、そう言いたければ言ってください、と申し上げた次第。
いずれにせよ、本線の
意志の無い事象
意志を持つ存在
という分類が可能かどうかについては、全くおっしゃっていません。
それで聞いたわけですが、それに対して『分からなければ 出すな。』ですか。
どうもわかりませんね、何をお考えなのか。
まあ、答えたくないなら無理にとは申しません。
> (と) (か)をめぐって:あなたは 《絶対》を知らない。説明してもバカの壁が阻んでいる。
:
あなたは 《絶対》をご存知だ、とおっしゃるわけですね。
まあ、突っ込みどころは満載ですが、やめときましょう。
> (な)★(き) 規定されなければ「神」という言葉自体存在できない。
☆ 神については規定をしても それは《仮りの説明》に過ぎない。補助線を引いただけのこと。ゆえに《規定し切った》ということには成り得ない。
:
《規定し切った》とは申し上げてませんけどねえ。
> (に)★(さ) 「この世」の定義にもよるでしょうね。「認識可能な範疇でのこの世」なら、おっしゃるとおりでしょう。
☆ あなたの狂気が分かりました。自分のマチガイを指摘されて それを自分の有利になる条件づけをつけて みとめる。自分は間違っていなかったと思いたいし じつはそう思い込みつづけている。らしい。これが バカの壁。《負け》をみとめると 脳が溶けてでもしまうのかい?
:
自分の意に沿わないことは「マチガイ」だったり「分かってない」とすぐ決め付ける傾向がお強いようで。
本線とは関係ないのでこれ以上は触れませんが、この記述は自己投影の典型例と思います。ご参考まで。
> (ぬ)★(そ) 人間は、《超越的》である【と想定した】象徴を欲しがるものでしょう。
☆ 《魚》は キリストの象徴と言われますがそのことは 哲学としての神の定義にとって本筋ではありません。あなたは中身の分からない《宇宙の摂理》を象徴だと言っているんですよ?
:
何をおっしゃりたいのか、意図が良くつかめませんでした。
>いくら説明しても・納得したようであっても みとめない。延々と同じ問題をいじくるか あるいは 別筋の問題へと逸れて行く。それについて説明しても 同じパタンがつづく。
:
「同じパタン」とは思いませんが、仮に、そう感じるなら、説明する側にも一半の要因があるかもしれない、とは全く考え付きもしませんか。
『いくら説明しても・納得したようであっても みとめない』
そりゃあ、納得できれば同意もするし認めもしますよ。
しかし、同意してもらうことが目的じゃあないですよね?
たとえ意見が食い違ったとしても、見解の相違と言えるところまで冷静に話し合う。
これがコミニュケーションじゃないんですかね。
捨て台詞、恫喝を駆使して強引に自説を認めさせようというのは、あたかもチンケな新興宗教の教祖みたいに思われてしまい、損ですよ。
>★ 宇宙の摂理
☆ とは何か? この問い一点にしぼっても こちらとしては よいです。
:
質問なさっているのは、そちらですから、どうぞご自由に。
> こちらが出した命題はすべていくら説明しても のらりくらりと躱すことしかしないからです。
:
などという言い訳をする必要はありません。
こちらが指摘している矛盾点は平気でスルーするのに、よくそういうセリフが出るものだ、と感心しますよ。
> いかにあなたは哲学に向いていないかを みづから確認することができるように説明して差し上げましょう。
:
有り難いお言葉をどうも。
それで、一点に絞りたいんですよね?
まあ、これもすでに述べているんですが・・・。
以下、#41のとおりです。
これに対するご感想はまだいただいていませんでしたね。
★ 宇宙の摂理
☆ とは何か? と問うておきましょうか。つまり そのキモは 概念で説明されうる経験事象であるなら それは神ではないはずだという含みを持っているところにあります。
:
これは本題に応じる中で触れることにもなると思いますが、特に問題はないでしょう。
そういうものが存在しなければ宇宙はバランスを失って存在し得ないわけですから。
じゃあ、それは何だ?という問いでしょうが、中身は不問で構わない。
「宇宙の摂理」が無ければ宇宙もない。
しかし、宇宙はある。
ゆえに「宇宙の摂理」もある。
「はず」とすべきかもしれませんが、「ない」「ある」と断定しても論理整合性に破綻はきたさないでしょう。
「宇宙の摂理」が無ければ宇宙もない。
しかし、宇宙はある。
ゆえに「宇宙の摂理」もある。
ご回答をありがとうございます。
あきれてものが言えません。
もうすでに誰が見てもその判定のはっきりしたやり取りが出来ています。
負けをみとめないのは そこまでの――ゆがんだ――プライドだと思っていましたが ひょっとすると知らず知らずのうちにそのような考えと振る舞いをおこなっている・・・のかも知れないと思うようになりました。
ここまででしょうね。やさしい言葉がありうるとすれば。
No.47
- 回答日時:
No38です
お礼を見ました
bragelloneさんは言葉の使い方に関して混乱してるように見受けられるので
老婆心ながら整理してさしあげようと思います
>《いない》という認識は 経験事象です。科学的な事柄です。
「いない」という言葉は経験事象であって経験事象ではありません
というのも「いる」の否定としての意味もあるからです
つまり神がいないと言った時、神は経験事象で捉え得ない、または神は経験事象ではない
という意味も含むからです
更にいうと「いない」という概念は科学では扱えません
科学的に「いない」ことは証明できないためです
ただ、「いる」ことが分かっている対象に対しては「いない」という言葉を用いることができます
例えば以前観測された天体をもう一度確認した時にその天体がなかったならばその時点においてその天体は
「ない」と言えますが
未だ確認されたことがないある天体が存在しないということは科学では言えないのです
なぜならどれだけ探して確認できなくとも未だ探してないところにあるかもしれないし、将来に
その天体が生まれるかもしれないから
そのため確認されてない事柄をないと言うことは科学的な事柄ではないのです
なので「いない」という言葉は経験事象も表現できますが経験事象の否定も含み、また経験事象に属する言葉で
表現されているからといって科学的とは言えないのです
>《神は経験事象であるということを》言っていますよね。
これは言葉の使い方ではなくコミュニケーションの問題ですが
精神は経験事象であるから神は経験事象だということを言っているという論理ですよね
bragelloneさんには難しいかもしれませんが一応解説をいれると
神は精神であるとは神の否定を意味するのです
というのも精神は神ではないから、神は精神であると表現すると神の否定になるんです
別の言い方をすれば神とは神ではないものであるという意味で
その心は神という全知全能で天国という超次元に存在する超自然的存在はたかだか140億個の脳細胞が作り出した
幻想であるということを言っているのだと思いますよ
つまり神なんてものはいないのだと
バカ正直に字面だけを見ていたら言葉の真意は理解できないという意味で
皮肉の使い方とちょっと似てるかもしれませんね
ご回答をありがとうございます。
★ つまり神がいないと言った時、神は経験事象で捉え得ない、または神は経験事象ではない / という意味も含むからです
☆ ふくみません。前半の《経験事象で捉え得ない》または経験思考としての認識で捉え得ない場合というのは 不可知の場合があるからです。不可知は 経験事象です。
後半の《経験事象ではない という意味を含む》のは 可能性としてはそのとおりですが 《神がいない》と言うだけではそのようには確定しません。可能性が絶たれます。つまり
☆☆ 《いない》という認識は 経験事象です。科学的な事柄です。
☆ だから 《いる・いないを超えたところの非知の場について その内の〈いない〉を選択した場合》というふうにきちんと言わなければ通じません。言えば なるほど《経験事象ではない という意味をあらわす》ものです。
言わない場合には そこで扱っていることがらは 科学的なことです。
★ 神は精神であるとは神の否定を意味するのです / というのも精神は神ではないから、神は精神であると表現すると神の否定になるんです
☆ なるほど そこまでは考えませんでした。ですが だとしたら その――《神は精神である》という――命題は 端からマチガイであるものです。間違った命題を持って来て 《神の否定になる》表現に当てた。それだけのことです。いちおう言ってみたが 無視してかまわないですよと みづから言っているようなものです。取り上げるに足りません。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
別の言い方をすれば神とは神ではないものであるという意味で
その心は神という全知全能で天国という超次元に存在する超自然的存在はたかだか140億個の脳細胞が作り出した / 幻想であるということを言っているのだと思いますよ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そういう論理につながるでしょうね。そしてその全部が 無意味です。土台がまぼろしだからです。
No.46
- 回答日時:
神は人間の中に在るので 外にはない。
だから神といっても人それぞれ違う。アラーもあればエホバもある、ヤハウェもゼウスもゴッドも今や違う神と言っていいのかもしれなし神を信じる人も言う。「おお私の神よ」オーマイゴッド!
私の神とあなたの神は違う。まして無神論者は内にも外にも神はない。神が分かる筈がない。
神を信じる人は 例えば天照大神が中心だと思う。しかし他の人は そうじゃないと言う。絶対の神なんてない
絶対と言えるものは 過去にも未来にもただ一つ 真理だけです。でも人には分からない。
★ 神は人間の中に在る
☆ それをあなたは見たんか? こういうときには 《・・・と想定される》と言いなさい。
★ だから神といっても人それぞれ違う。
☆ 想定された神なら ただひとつの普遍神であるよりほかない。それをどういう名前で呼ぶか。これが違うだけではないのか。
つかれた。
人でなしの応答とします。
ご回答をありがとうございます。
No.45
- 回答日時:
#43です。
>☆(あ) だから 《非対象》であると説明しています。
:
信仰は対象がなくとも成立する、ということですね。
>(い) 辞書は定説に 何の検証もなく従うことは 哲学の道ではありません。この問題には それが大事です。
:
なるほど。
「信仰は対象がなくとも成立する」とは思いもよらなかったので検証の必要性を感じませんでした。それは「信仰」とはまた別のものだという気がしますけどね。
論議していく過程で結果的に検証されることになるでしょう。
> ☆ (う) ヒラメキは 人が自分でそれを起こそうとして生じるものではないこと。その内容じたいも 人間がすでに考えていたり想像していたりしたものではないこと。この二点が大事です。
:
興味深いご見解ですが、わたしとは全く異なりますね。
たしかに「意識的に」起こすのであればヒラメキとは言いません。
しかし、「人間がすでに考えていたり想像していたりしたもの」であるからこそヒラメクのであって、本人の脳に全く存在しない要素がヒラメクことはあり得ないでしょう。
> (お)
★ 存在が事象でない、とは言っていません。また、事象が存在ではない、とも言っていません。
☆ 見苦しい。:
★★(回答№41) ~~~~~~~~~
★ 事象と存在
☆ とをあなたは分けている。つまり 互いに互いを独立させている。そんなことがあるのですか? という問いです。
:
あるでしょう。
~~~~~~~~~~
:
なるほど。
まあ、見苦しい でもよろしいでしょう。
ただ、私の言いたいことは理解していただけましたか?
論議の本線を無闇にずらして喜ぶのも構いませんが、そのあたりはしっかり押さえていただきたいものです。わかっているかどうか、肝心の点が不明なので再掲します。
意志の無い事象
意志を持つ存在
こうした分類はできますか?
できませんか?
> (か) ★ あくまで『人間が思考可能な範囲での《絶対》』にならざるを得ません。
☆ ちがう。神については ならない。思考としての・概念としての《絶対》は あくまで神の属性を仮りに人間のことばで説明するとしたらということで 近似値またはタトヘとして用いるもの。に過ぎない。その限りで 神本体のことをなぞって比喩として言っているということ。だけれど 神は 神として 《絶対》という言葉が指し示す内容であることにいささかも変わりはない。《非思考》なるナゾのまま。
:
実は、ここが最も肝心な点でしょうね。
おっしゃることは間違っていないと思います。
ただ、切り口が異なるのでしょう。
【あらゆる「他」を認識することは不可能だからです。
つまり、絶対であるかどうかわからないものに対して、絶対を意味する「神」という名を与えたことになります。】とも述べました。
神と言っても、そもそも、こうした背景で誕生したにすぎないわけですから、『神は 神として 《絶対》という言葉が指し示す内容であることにいささかも変わりはない。』と大上段に振りかぶられてもねえ・・・。
見解の相違、ということになりそうですかね。
> (き) だから 神について何を人間が言おうが その発言や規定によって神が変わることはなく 規定されることすらあり得ない。人間の思惟や行動が 神を神として定めるなどということは あり得ない。これが 《絶対》。
:
「発言」によって変わることはない、というのはわかります。
しかし、「規定されることすらあり得ない」は違うんじゃないでしょうか。
なぜかというと、規定されなければ「神」という言葉自体存在できない。
> (け)★ 《絶対》なものとしてこしらえた、ということに別に問題は無いでしょう。
☆ 根本的なマチガイ。絶対や無限は 人間が言葉をとおして発見した概念。相対的な能力が 絶対をつくったなら それも相対的なものにとどまる。無限は 二で割っても三で割っても その商はやはり無限です。そういう無限=絶対を 人間がつくったのだろうか。概念として見つけたもの。概念も 単なるタトヘ。その無限を見せてみろと言われて 指し示すことができるか。神は 人間の能力を超えている。
:
『相対的な能力が 絶対をつくったなら それも相対的なものにとどまる。』
おっしゃるとおりでしょう。
ですから、(か) に戻りますが、
あくまで『人間が思考可能な範囲での《絶対》』にならざるを得ません。
と申し上げたわけです。
矛盾が生じているようです。
【《絶対》なものとしてこしらえた】は、「《絶対》なもの(であるはずだ、という相対的思考の結果)としてこしらえた」のようにお考えください。
『神は 人間の能力を超えている。』
もちろん、そうです。
「人間の能力を超えているもの」と規定(想定、とするほうが良いかもしれませんね)して「神」という言葉を人間が作ったからです。
> (こ)★ 『《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。』については、よく分かる気がしますし、間違ってはいないでしょう。
☆ この狂信としての自信。これが いっさいを物語っている。上の(か)~(け)が分かっていないのに。これは 人格批判です。
:
そう考えたい、という気持ちはよく分かる、と申し上げただけですが、ダメでしたか?
「上の(か)~(け)が分かっていないのに。」とのことですが、「分かっていない」を「同意していない」という意味でお使いのようですね。
おっしゃりたいことは理解した上で反論しているつもりです。
わからなければ、すでにご経験済みのように、しつこく聞き返していますしね。
もし、おっしゃる内容を誤解して受け止めている点があれば、ぜひご指摘ください。
余談ですが、ひょっとして、ブラジュさんはキリスト教徒でいらしたんですか?
> (さ)★ 「どうすることもできない」という感覚が《絶対》に通じている、と言っても良いのではないかと思います。
☆ この世の現象はすべて 相対。絶対は 相対世界から自由ならば・自由なのだから じつは 相対をつつみこむことも出来る。ならば すべての相対的で経験的な事象が けっきょく神のシルシであり得る。というところまで命題をみちびくのが 哲学。だから 雷の事例だけを特殊視することはない。《どうすることもできる》事例をめぐっても 神のシルシはそうだとすれば 感じることがあり得る。
:
「この世」の定義にもよるでしょうね。
「認識可能な範疇でのこの世」なら、おっしゃるとおりでしょう。
>(し)★ この部分なのですが、#43でも冒頭触れましたように、私の感覚とは少し違いますね。
☆ 違うと感じるから 人びとは対話する。批判する。この前提を出さなければ語れないのは おかしい。
:
「少し違いますね」と感想を述べたまでです。
『この前提を出さなければ語れない』ということではありませんよ。
> (す)★ 「神はいる」と言っても「神はいない」と言っても、どちらも正しいとは言えない、ということ。
☆ 誰も《正しい》とは言っていない。有る神にしろ無い神にしろ どちらでも自由にえらんで非思考の庭がわが心に成ることを自由に享受しうる。そういう自然本性として人は生まれて来ている。というに過ぎません。
:
『「神はいる」と言うことも「神はいない」と言うことも、どちらもできる』とおっしゃっている(ですよね?)ことに関して、
「私の感覚とは少し違いますね。」「私流に表現すれば」という注釈付きで、私の考え方としては、こうなります、と述べた箇所です。
> (せ) それをあなたが嫌だと言ってもよっしゃその与件を崩壊させてやると言っても 自由ですが 絶対をどうにかすることは出来っこなし。
:
「絶対をどうにかすること」を考えているわけではありません。
「何を」絶対とするのか、という点については考えます。
人間の言葉である以上、すべて(と言っていいと思いますが)は末尾に「~と(わたしは)思う」とならざるを得ないものだと思います。
それぞれの「思う」をぶつかり合わせることで、新しい「思う」が生まれることも可能性としてはあるでしょう。
> (そ) 《象徴》は よほど但し書きをしない限り 経験事象であるゆえ 《超越的》という概念とは相い容れない。再問。
:
人間は、《超越的》である【と想定した】象徴を欲しがるものでしょう。
それを責めることは難しいような気がします。
ホンモノでないものをホンモノと思いたがるということです。
思いたいなら、本格的に思わせてやろう。
これが「策謀」の意味ですね。
ご回答をありがとうございます。
(た)★(あ) 信仰は対象がなくとも成立する、ということですね。
☆ 違います。それは 《無対象》です。非知・非思考の《非》を参考に。
(ち)★(う) 本人の脳に全く存在しない要素がヒラメクことはあり得ないでしょう
☆ たとえそうであっても そのことを事前に知っていたということはありません。
(つ)★(お) まあ、見苦しい でもよろしいでしょう。
☆ そういう態度を取る人格は 信用なりません。
(て)★ ~~~~~~~~~~~
意志の無い事象
意志を持つ存在
こうした分類はできますか?
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これこそが
★ 論議の本線を無闇にずらして喜ぶ
☆ です。分からなければ 出すな。
(と) (か)をめぐって:あなたは 《絶対》を知らない。説明してもバカの壁が阻んでいる。
(な)★(き) 規定されなければ「神」という言葉自体存在できない。
☆ 神については規定をしても それは《仮りの説明》に過ぎない。補助線を引いただけのこと。ゆえに《既定し切った》ということには成り得ない。
★(け) 『人間が思考可能な範囲での《絶対》』にならざるを得ません。
☆ というのが それ。成らざるを得ないからと言って 規定し切ったことにならないことも 見落としてはならない。仮りのシルシを提示したに過ぎないから。《『人間が思考可能な範囲での《絶対》』》なる概念内容をとおして 《絶対》の本体を見通そうとするのです。ただし 見通し切ることも出来ません。
(に)★(さ) 「この世」の定義にもよるでしょうね。「認識可能な範疇でのこの世」なら、おっしゃるとおりでしょう。
☆ あなたの狂気が分かりました。自分のマチガイを指摘されて それを自分の有利になる条件づけをつけて みとめる。自分は間違っていなかったと思いたいし じつはそう思い込みつづけている。らしい。これが バカの壁。《負け》をみとめると 脳が溶けてでもしまうのかい?
(ぬ)★(そ) 人間は、《超越的》である【と想定した】象徴を欲しがるものでしょう。
☆ 《魚》は キリストの象徴と言われますがそのことは 哲学としての神の定義にとって本筋ではありません。あなたは中身の分からない《宇宙の摂理》を象徴だと言っているんですよ?
No.44
- 回答日時:
1. 神などはいるもんかと言う。
――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことによって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。
:
たしかに正論かもしれません。
おっしゃるように、神は《絶対》です。
しかし、《絶対》という規定は、神という語が造られた際に、人間が与えたもののはずです。
つまり、いくら『《絶対》なのだから。』と言ったとしても、それは、あくまで『人間が思考可能な範囲での《絶対》』にならざるを得ません。
ですから、「神などはいるもんか」は「神などという絶対的なものなどはいるもんか」という意味として成立しますし、すなわち、そう言う人にとっては、「神はいなものと決まる」ということであり、その内容に対する反論なら別ですが、『《絶対》なのだから、神が決まるなどということはあり得ない。』という論理はおかしいでしょう。
2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。
――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形になる。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。
:
1と同様ですが、《絶対》なものとしてこしらえた、ということに別に問題は無いでしょう。
もっとも、人間にしたって、自分たちの頭で《絶対》を包括的に理解しているとは思っていないはずで、ですから(少なくとも良心的な宗教であれば)神は人々の前に、その真の姿を現さないのだと思います。
3. 神は 精神だと言う。
――けれども 精神は 人間のもの。自然本性としてそなわったもの。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。
:
この表現の正確な意図は知りませんが、おそらく文脈の問題ではないでしょうか。
精神自体が神だと言っているなら、たしかにおかしいですが、「神は それを精神で感じるときにこそ神として顕現されるのであって、つまり、神を感じているときの精神は神に他ならない。」といったニュアンス。多少強引でしょうかね。
「神は 精神だと言う。」の意図が曖昧なので、この項から離れて、もう少し述べてみたいと思います。
------------------------------------------------------------------------
『《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。』については、よく分かる気がしますし、間違ってはいないでしょう。
今回のご質問の内容を端的に表わしている箇所のように思います。
ただ、《絶対》と文字にした段階で、これは、『有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象』しか得られない人間という存在が想起しうる概念であることも事実でしょう。
つまり、《絶対》という概念に対して、人間は、それなりの規定をかけていることに(結果的に)なるはずで、それまで否定するなら、そもそも「神」という言葉や概念自体も存在できなくなるように思います。
たとえば、太古の洞穴で我々の先祖が、雷を聞いて、天にいる何者かが何かに怒っているのだと怖れおののいた。
自分たちにはどうすることもできない何者かが、そこにはいる。
この「どうすることもできない」という感覚が《絶対》に通じている、と言っても良いのではないかと思います。
それを『有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験』しか持てない人間が、《絶対》などという概念を振り回すのはおかしいだろう、と言われているような気がするのですが、これは、ちょっと違うのではないか、ということ。
「いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことによって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。」
これは、まあ、言ってみれば原石という印象ですね。非常に貴重ではあるが、それだけで通用させるには無理がある、という意味で。
「《絶対》なのだから。」が蛇足ではないか、という印象を受けます。
ここに関連すると思うのですが、以下の記述(#40お礼欄)を再掲し、もう少し論じてみたいと思います。
>
★ 要するに、いるかいないかわからないのだから、いるとかいないとか言うのはおかしいんじゃないの?
☆ ではなく いるかいないか分からないのだから《神とわれとの関係》としては 人が自由に《いる神》か《いない神》かをえらぶことができる。です。
信仰は――非思考の庭にあって しかもそこから思考や感性の分野に自己表出するときには―― 有神論か無神論かという具体的なかたちを採る。
それは 《非知》は 経験事象としての《有る・無し》を超えているからです。
:
『いるかいないか分からないのだから《神とわれとの関係》としては 人が自由に《いる神》か《いない神》かをえらぶことができる。』
この部分なのですが、#43でも冒頭触れましたように、私の感覚とは少し違いますね。結果的には同じようなものかもしれない、という印象も受けますが。
私流に表現すれば、【神に関しては、いるかいないか分からないのだから、人が自由に《いる》とか《いない》とかをえらぶことはできない。】のようになる。
そして、これは事実だろうと思います。
つまり、「神はいる」と言っても「神はいない」と言っても、どちらも正しいとは言えない、ということ。
ただし、あくまで「論理的には」です。
なぜかというと、「神」という言葉がなぜ発生したのか、という点に着目すべきだと思うからです。
これは、「絶対を求める心」が生み出したものだと言えるように思います。
[ 絶対 ] とは、
1 他に比較するものや対立するものがないこと。また、そのさま。
2 他の何ものにも制約・制限されないこと。また、そのさま。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/124610/m1u/ …
などという意味なのですが、人間は、「他に比較するものや対立するものがない」とか「 他の何ものにも制約・制限されない」ということを知る術を持たないはずです。
あらゆる「他」を認識することは不可能だからです。
つまり、絶対であるかどうかわからないものに対して、絶対を意味する「神」という名を与えたことになります。
ですから、論理的には、絶対であるかどうか、いるかいないか(あるかないか)を論じるのは無意味だということになると思うのですが、どうでしょうか。
もし論じるなら、論理は別の棚にあげて論じるしかないのではないか、ということ。
その場合、「神」という言葉を生み出したという [ 行為自体 ] に着目すれば良いと思います。
つまり、「神」はいる、と言わざるを得ないのでしょう。
問題となるのは、どのような形態で「いる(ある)」のか、ということ。
辞書を基にした「世界や人間の在り方を支配する超越的・究極的な最高存在としての象徴足り得る宇宙(自然)の摂理」が、もっとも妥当でしょう。
本来「象徴」であるはずのものに対して「意志」や「人格」を与えようとするのは、それを行なうものの策謀以外のなにものでもない、というのが私の基本的な考え方です。
つづきます。
(か) ★ あくまで『人間が思考可能な範囲での《絶対》』にならざるを得ません。
☆ ちがう。神については ならない。思考としての・概念としての《絶対》は あくまで神の属性を仮りに人間のことばで説明するとしたらということで 近似値またはタトヘとして用いるもの。に過ぎない。その限りで 神本体のことをなぞって比喩として言っているということ。だけれど 神は 神として 《絶対》という言葉が指し示す内容であることにいささかも変わりはない。《非思考》なるナゾのまま。
(き) だから 神について何を人間が言おうが その発言や規定によって神が変わることはなく 規定されることすらあり得ない。人間の思惟や行動が 神を神として定めるなどということは あり得ない。これが 《絶対》。
(く) だけど こういうことは いろはのい。
(け)★ 《絶対》なものとしてこしらえた、ということに別に問題は無いでしょう。
☆ 根本的なマチガイ。絶対や無限は 人間が言葉をとおして発見した概念。相対的な能力が 絶対をつくったなら それも相対的なものにとどまる。無限は 二で割っても三で割っても その商はやはり無限です。そういう無限=絶対を 人間がつくったのだろうか。概念として見つけたもの。概念も 単なるタトヘ。その無限を見せてみろと言われて 指し示すことができるか。神は 人間の能力を超えている。
(こ)★ 『《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。』については、よく分かる気がしますし、間違ってはいないでしょう。
☆ この狂信としての自信。これが いっさいを物語っている。上の(か)~(け)が分かっていないのに。これは 人格批判です。
(さ)★ 「どうすることもできない」という感覚が《絶対》に通じている、と言っても良いのではないかと思います。
☆ この世の現象はすべて 相対。絶対は 相対世界から自由ならば・自由なのだから じつは 相対をつつみこむことも出来る。ならば すべての相対的で経験的な事象が けっきょく神のシルシであり得る。というところまで命題をみちびくのが 哲学。だから 雷の事例だけを特殊視することはない。《どうすることもできる》事例をめぐっても 神のシルシはそうだとすれば 感じることがあり得る。
補足へ続く。
No.43
- 回答日時:
#40、#41です。
> ★ 要するに、いるかいないかわからないのだから、いるとかいないとか言うのはおかしいんじゃないの?
☆ ではなく いるかいないか分からないのだから《神とわれとの関係》としては 人が自由に《いる神》か《いない神》かをえらぶことができる。です。
信仰は――非思考の庭にあって しかもそこから思考や感性の分野に自己表出するときには―― 有神論か無神論かという具体的なかたちを採る。
それは 《非知》は 経験事象としての《有る・無し》を超えているからです。
:
なるほど。
私が正確には理解していなかったようですね。
ここで、念のため大辞泉を確認してみます。
[ 信仰 ]
【1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「―が厚い」「守護神として―する」
2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への―」「ブランド―」】
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/114011/m1u/ …
無神論も信仰のうちに組み入れておられるようですが、辞書によると、また、私の感覚としても信仰と呼ぶのが妥当とは思われません。
神云々を論じる場合に、無神論も信仰のうちだとする解釈は紛れを生じるでしょう。
たとえば、無神論は、「世界や人間の在り方を支配する超越的・究極的な最高存在としての象徴足り得る宇宙(自然)の摂理」としての神の存在は認めています(おそらく殆どが)。
しかし、これは「信仰」ではありません。
2の語釈に含まれるように思えるかもしれませんが、「特定の対象」に「神がいないこと」を当てはめるのは、やはり強引すぎると思います。
>
★ 「(神は)どのような方法で 元気づけるのですか?」
☆ 《人がそれぞれおのれがすでに自然本性として元気づけられていることを心で受け容れるようにそのヒラメキをあたえるといった方法で》。
:
「元気づけられていることを心で受け容れるようにそのヒラメキをあたえるといった方法」ですね。
[ 閃き ]
【3 すばらしい考えなどが瞬間的に思い浮かぶこと。直感的な鋭さ。】
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/188505/m1u/ …
という意味でお使いになっておられるのでしょう。
ただ、これは「閃く」という自動詞の名詞形ですから、そもそも他から与えられるものではありません。
とすれば、「ヒラメキをあたえる」というのは、神が人間の心を操作しているという意味にならざるを得ないと思います。
本題に応じる過程でまた出てくるかもしれませんが、ここではこれ以上、特に拘らないでおきましょう。
> ★ ~~~~~~~~~~~~~
意志の無い事象
意志を持つ存在
事象は意志を持たない、という前提は不可ですか?
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 意志がなくったって 事象が起きているのなら そこにモノゴトがある。存在している。存在が運動している。
意志を持つ存在は 動かないのですか? いや 存在しているだけで それは 大きく《事象》です。
:
『存在しているだけで それは 大きく《事象》です。』
まあ、それはそうでしょうね。
よく読んでいただきたいのですが、存在が事象でない、とは言っていません。また、事象が存在ではない、とも言っていません。
まあ、このへんは口頭の会話でない弱点かもしれませんね。
「事象」「存在」が、意志の無い、意志を持つ という言葉で修飾されている点にご留意ください。
前も例に挙げたと思いますが、雷を単なる自然現象(意志の無い事象)と捉えるか、神様(意志を持つ存在)が怒った結果だと考えるか、の違いを端的に表現しただけです。
このようにご理解いただければと思います。
本題に関しては項を改めさせていただきます。
ご回答をありがとうございます。
★ 「特定の対象」に「神がいないこと」を当てはめるのは、やはり強引すぎると思います。
☆ (あ) だから 《非対象》であると説明しています。
(い) 辞書は定説に 何の検証もなく従うことは 哲学の道ではありません。この問題には それが大事です。
★ 「ヒラメキをあたえる」というのは、神が人間の心を操作しているという意味にならざるを得ないと思います。
☆ (う) ヒラメキは 人が自分でそれを起こそうとして生じるものではないこと。その内容じたいも 人間がすでに考えていたり想像していたりしたものではないこと。この二点が大事です。
(え) 《神が操作する》というのは あんたは見たんか? あくまで比喩としてそう言うだけ。哲学としては 《非知なるナゾ と 人間たるわれ との関係・その動態》として起きるヒラメキの問題だということが 肝心だし それでじゅうぶん。
(お)
★ 存在が事象でない、とは言っていません。また、事象が存在ではない、とも言っていません。
☆ 見苦しい。:
★★(回答№41) ~~~~~~~~~
★ 事象と存在
☆ とをあなたは分けている。つまり 互いに互いを独立させている。そんなことがあるのですか? という問いです。
:
あるでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
No.41
- 回答日時:
#34です。
補足質問に対する返事を忘れていたので、とりあえずこれだけ。
> ★ 事象と存在
☆ とをあなたは分けている。つまり 互いに互いを独立させている。そんなことがあるのですか? という問いです。
:
あるでしょう。
意志の無い事象
意志を持つ存在
事象は意志を持たない、という前提は不可ですか?
>
★ 宇宙の摂理
☆ とは何か? と問うておきましょうか。つまり そのキモは 概念で説明されうる経験事象であるなら それは神ではないはずだという含みを持っているところにあります。
:
これは本題に応じる中で触れることにもなると思いますが、特に問題はないでしょう。
そういうものが存在しなければ宇宙はバランスを失って存在し得ないわけですから。
じゃあ、それは何だ?という問いでしょうが、中身は不問で構わない。
「宇宙の摂理」が無ければ宇宙もない。
しかし、宇宙はある。
ゆえに「宇宙の摂理」もある。
「はず」とすべきかもしれませんが、「ない」「ある」と断定しても論理整合性に破綻はきたさないでしょう。
後は日を改めます。
つづきます。
★ ~~~~~~~~~~~~~
意志の無い事象
意志を持つ存在
事象は意志を持たない、という前提は不可ですか?
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 意志がなくったって 事象が起きているのなら そこにモノゴトがある。存在している。存在が運動している。
意志を持つ存在は 動かないのですか? いや 存在しているだけで それは 大きく《事象》です。
★ 後は日を改めます。
☆ とのことで。いちいち復唱するのが こっちが恥づかしくなる。どこが哲学か。
この時点で もうまともには相手にしない(することが誰であっても出来ない)ということを 明らかにしておきましょう。
すみやかに元気づけられたし。
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№44お礼欄からの続き。
(し)★ この部分なのですが、#43でも冒頭触れましたように、私の感覚とは少し違いますね。
☆ 違うと感じるから 人びとは対話する。批判する。この前提を出さなければ語れないのは おかしい。
(す)★ 「神はいる」と言っても「神はいない」と言っても、どちらも正しいとは言えない、ということ。
☆ 誰も《正しい》とは言っていない。有る神にしろ無い神にしろ どちらでも自由にえらんで非思考の庭がわが心に成ることを自由に享受しうる。そういう自然本性として人は生まれて来ている。というに過ぎません。
(せ) それをあなたが嫌だと言ってもよっしゃその与件を崩壊させてやると言っても 自由ですが 絶対をどうにかすることは出来っこなし。
(そ) 《象徴》は よほど但し書きをしない限り 経験事象であるゆえ 《超越的》という概念とは相い容れない。再問。
省エネ投法にて。
いくら説明しても・納得したようであっても みとめない。延々と同じ問題をいじくるか あるいは 別筋の問題へと逸れて行く。それについて説明しても 同じパタンがつづく。
★ 宇宙の摂理
☆ とは何か? この問い一点にしぼっても こちらとしては よいです。
いかにあなたは哲学に向いていないかを みづから確認することができるように説明して差し上げましょう。
この一点をなぜ持ち出したかと言えば かんたんです。それは そちらから出して来た定義の中の鍵語のようだからです。
こちらが出した命題はすべていくら説明しても のらりくらりと躱すことしかしないからです。