限定しりとり

1. 神などはいるもんかと言う。
 ――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことによって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。

 2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。
 ――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形になる。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。

 3. 神は 精神だと言う。
 ――けれども 精神は 人間のもの。自然本性としてそなわったもの。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。




 人びとはどうして神のことが分からないのか?

質問者からの補足コメント

  • №44お礼欄からの続き。
     (し)★ この部分なのですが、#43でも冒頭触れましたように、私の感覚とは少し違いますね。
     ☆ 違うと感じるから 人びとは対話する。批判する。この前提を出さなければ語れないのは おかしい。

     (す)★ 「神はいる」と言っても「神はいない」と言っても、どちらも正しいとは言えない、ということ。
     ☆ 誰も《正しい》とは言っていない。有る神にしろ無い神にしろ どちらでも自由にえらんで非思考の庭がわが心に成ることを自由に享受しうる。そういう自然本性として人は生まれて来ている。というに過ぎません。

     (せ) それをあなたが嫌だと言ってもよっしゃその与件を崩壊させてやると言っても 自由ですが 絶対をどうにかすることは出来っこなし。

     (そ) 《象徴》は よほど但し書きをしない限り 経験事象であるゆえ 《超越的》という概念とは相い容れない。再問。

    省エネ投法にて。

    No.44の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/08/18 17:52
  • いくら説明しても・納得したようであっても みとめない。延々と同じ問題をいじくるか あるいは 別筋の問題へと逸れて行く。それについて説明しても 同じパタンがつづく。


     ★ 宇宙の摂理
     ☆ とは何か? この問い一点にしぼっても こちらとしては よいです。

     いかにあなたは哲学に向いていないかを みづから確認することができるように説明して差し上げましょう。

     この一点をなぜ持ち出したかと言えば かんたんです。それは そちらから出して来た定義の中の鍵語のようだからです。
     こちらが出した命題はすべていくら説明しても のらりくらりと躱すことしかしないからです。

    No.45の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/08/18 21:13

A 回答 (49件中31~40件)

No.17です。


ご説明ありがとうございます。
そうですね。
私の場合は、天照大神以来、国家神道までの歩みには興味がなく、縄文以前の山や森、川、海と共に暮らす人々の自然に対する畏敬の念が私の信ずるところです。
すみません。
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この回答へのお礼

★ 縄文以前の山や森、川、海と共に暮らす人々の自然に対する畏敬の念
 ☆ 縄文時代とそして弥生時代をも――さらには古墳時代の初期をも――ふくめてよいと思うのですが。

 古神道とよぶ場合もあるようですね。

 アマテラスが主宰神であるのは 古墳時代の中期からでしょうね。
 400年ごろ 応神ホムダワケ(および神功オキナガタラシヒメ)の頃からだと見ます。
 
 その前の――四世紀の――崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトの時代は まだなお自然の息づいた神道だと思います。

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2015/08/16 23:07

お礼ありがとうございます。


証明も反証も出来ない命題ですから、不可知ですね。
ヴィトゲンシュタインの言葉の後半の確率的な話は、私の言説ですから、ヴィトゲンシュタインは信仰と科学との関わりを話していると思います。
ヴィトゲンシュタインは信仰者でありながら哲学者でもあるので、哲学者としての言説と宗教の言説の関わりを話しているんでしょう。
もちろん、理性により正しい判断を出来ると考える事も出来ますが、科学的には理性の判断も仮説でしかないと言う事です。
人智を超えた存在を認めた瞬間に盲信がそこに生まれると言えます。
盲信が人類にとっては、善であるか悪であるかは無関係と言えるでしょう。(盲信は無条件に受け入れると言う意味で使用しています)
あくまで、宗教という範囲にとどまるならば、それは盲信を導きだすと言う事です。(神を絶対的な存在と認知した瞬間にそれは受け入れられると言う事です)
宗教が個人でなされるか、集団でなされるかも、関係は無いでしょう。
個人でも、集団でも盲信しなければならない部分が存在すると言う事です。
ただ、ここら辺は宗教学で研究すべき問題で哲学的な問題では無いとは言えます。
信仰と宗教を分離出来るかは、難しい問題でしょう。(一人でも宗教であれば、信仰と宗教は同値になります)
非知である神がどのように人類に関わるかが難しいですね。
それは、預言や啓示によるのでしょうが、それを受けていない人には理解が難しいでしょう。
神学(これは特定の宗教のものに限定しません)的に、預言や啓示の有効性は審査されるとは言えます。
個人の場合は、やはり個人の理性と言えなくもないですね。(それが幻覚や幻聴でない事を理性で判断できるかが問題ですね)
そうなると、理性の限界を考えなければいけなくなります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。つづきますね。

 ヰトゲンシュタインについての情報をありがとうございます。(その著書は 途中で読むのを止めた口です)。

 ★ もちろん、理性により正しい判断を出来ると考える事も出来ますが、科学的には理性の判断も仮説でしかないと言う事です。
 ☆ ですね。
 ★  人智を超えた存在を認めた瞬間に盲信がそこに生まれると言えます。
 ☆ 《非思考の庭》としての信仰は つねに《盲信》です。つまり いっさいの思考から自由に無条件に受け容れることですから。

 ただし 赤子にしても 無条件に何の憂いも無く母親に甘え 頼って行きます。
 ものごころが着いた者にとっては きよらかなおそれとして《盲信》です。

 でも ここで《盲信》というのは 宗教のほうにかかわっているかと考えます。
 考えるべき内容としてのオシへをむしろ無条件に――しばしば ヒエラルキアの権威にそれこそ《盲目的に》従って――そして非思考ではなく無思考において鵜呑みにすることを言うのではないかと考えます。


 ★ (神を絶対的な存在と認知した瞬間にそれは受け入れられると言う事です)
 ☆ これは シュウキョウのほうだと思います。
 信仰にあっては 《絶対的な存在と認知する》といった思考過程はありません。(別様に自己確認のため考えることはありましょうが)。

 アミターバ・ブッダが何がしか 無防備な姿で甘えて行ってよいという感じがしたら 信じるでしょう。
 キリストという名の感じが――あるいは その香りが――よさそうだと思ったら 何がしか畏れを感じつつ あとはすべて丸飲みするのではないでしょうか 信仰としては。


 ★ 信仰と宗教を分離出来るかは、難しい問題でしょう。
 ☆ いちばんの違いは 《おしへ》にあると考えます。信仰は 非思考であり あくまでオシへ以前だと思います。
 またそれゆえに 主観の内にとどまります。外に出たら アウトです。その自己表現を示したというところまでだと思います。

 それゆえに 組織をともなったかたちでの信仰はあり得ないとも考えます。
 自己表現したものは すでに思想です。オシへというかたちですが。
 《考える》と《信じる》とは まったく別のことだと捉えますから。
 《信じる》を説明するために《考える》ことはあり得るわけです。

お礼日時:2015/08/16 22:55

No.14です。


「ここに 神道関係のことを書きました」
→そうでしたか。
実は、私は神道でないのです。
神道が出来る以前の祠の伝えを神社を通して後世に残すために活動している者です。
申し訳ございません。
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この回答へのお礼

記紀神話の記事から 神道と思われる内容を取り出したものです。

 そのあと 別様に国家神道が作られたのだと思います。

 磐座をめぐる信仰も 仏教の影響を受けているところがあるようです。つまりあるいは 神仏混合でしょうか。

 いえ 別に話題として取り上げてみました。

 信仰のあり方は 普遍神をめぐるそれと そう遠くはないと思って触れてみました。


 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2015/08/16 22:25

お礼ありがとうございます。


ゲーデルの不完全性定理ですね。
第1不完全性定理「 自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。」
第2不完全性定理 「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。」
限定された範囲ですが、非知な部分が存在する事を証明しています。
また、ヴィトゲンシュタインですが、以下の言葉を残しています。
「神が人間をどのように裁くか、我々には想像できない。神がそのさい誘惑の強さと人間の弱さを本当に考慮するなら、一体誰を地獄に落とせるだろうか。しかし神がそれを考慮しないなら、この二つの力の結果として、人間に予定されていた目標が生じてくる事になる。つまり人間は二つの力のせめぎあいによって勝利をうるか敗北するか、そのために創られている事になる。しかしこれは総じて宗教的な思想などではなく、むしろ科学的な仮説である。
だから、宗教の領域にとどまりたいなら、戦うしかない」
これは、解釈が難しいですが、意味としては、宗教を信じるならば(宗教の領域にとどまるならば)、神の意思や存在に無関係に誘惑に打ち勝つ為に戦わなければいけないと言う事でしょう。
同様に、存在が確証されていないあるものによって、何らかのルールを守らないと、何かが起こると予想された場合に、人類がどう行動するのが有利かを考えた場合は、ルールを守る事が論理的帰結から有利な事がわかります。(存在した場合は、ルールを破れば損害を受ける可能性があるならば、ルールを守った方が有利な可能性があると言う事です)
単純化すれば、これは一種の保険と言えるでしょう。
ただし、この事は、宗教の領域には必ず盲信を含む事を意味します。
非知なものを認識する事と盲信する事が同値なのかどうかは、難しい問題です。(見掛け上、それを区別するのは困難でしょう)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ★ ゲーデルの不完全性定理ですね。[・・・]限定された範囲ですが、非知な部分が存在する事を証明しています。
 ☆ ん? 《不可知》ではないのですか? いえ わたしは分からないのですが。

 ★ ヴィトゲンシュタインですが、以下の言葉を残しています。
 ☆ これは 確率(統計学)と論理学の問題ではないでしょうか。《宗教》は含まれるかも分かりませんが 《信仰》とは別だと いま捉えたのですが。

 ★ 宗教の領域には必ず盲信を含む事を意味します。 / 非知なものを認識する事と盲信する事が同値なのかどうかは、難しい問題です。
 ☆ 次のように考えます。

 (あ) 信仰とは?
  ――わたしは 自分がわが心の《非思考の庭》においてやすらぎを得ているときには――いわゆる《自由》であって―― 自分をも他人をもころすというようなことはしないと思う。というような内容を ヒラメキとして得ている。

 (い) 宗教とは?
 ――われは 《なんぢ ころすなかれ》なるオキテを堅く堅く心に刻んでおり理性によって何のうたがいも憂いもなく守り通すつもりである。 

 ☆ つまり 宗教は 文字通り守るべきオシへなのであると考えます。(あとは 組織という問題があり その権限関係が厄介なものだと見ます)。

 そして この・当然のごとく考えるべき対象であるオシへを どう血迷ったか 信じなさい(無条件に受け容れ従いなさい)というのは 《盲信》でありすでに精神錯乱に落ち入っていると考えます。

 宗教は 個人の信仰という蝉の抜け殻である。と考えます。百害あって一利なしだとも見ます。(教典をまなぶだけの分には 中立でしょうが)。

お礼日時:2015/08/16 21:43

私は神のことが分かりませんのでこの質問に答えるのにうってつけだと思います


神とは何でしょうか?教えてください
bragelloneさんの答えによって私がなぜ神のことが分からないのか考えてみます
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 №8のお礼欄にかなり踏み込んだ内容を書いています。

 そうですね。次の質問の趣旨説明欄を かかげてみます。と思ったら お礼欄は 千字制限でした。リンクのみです。

 【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8074286.html
 
 【Q:《信じる》を哲学として定義せよ】
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8081389.html

 ☆ あと 次の信仰の類型は 役に立ちますか。

 A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)
   無梵:空・シューナター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

 C. ブディズム:仏仏一如(有神論)
   仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

 D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

 E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

 F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

お礼日時:2015/08/16 21:23

No.13です。


「では 《神とは何か?》 どうでしょう? つまり哲学カテですから」
→そうですね、哲学カテですからお答えします。
私は神社総代の身ですが、困った時、悩んだ時には今は亡き祖母に語りかけます。
その理由は、私の話をきちんと聞いてくれたからです。
つまり、参拝、祈願は神でなくてもいいのです。
もちろん、神があれば多くの人が合掌できるので、それもいいと思います。
願い事をする、参拝する、合掌する相手は神でもいいし、神でなくてもいいのです。
テレビやラジオ、車に向かって合掌しても心は穏やかにならないでしょう。
その対象はそれぞれの人達の心の中にあるからです。
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この回答へのお礼

わたしは オホモノヌシの神の三輪山が好きです。

 ○ 【Q:神道を神学するにあたっての手法はなんですか?】
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/6862707.html
 
 ここに 神道関係のことを書きました。



 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2015/08/16 21:11

No.9です。


「もし《分かっている》なら その内容をみなに分かるように伝えて欲しいという願いをふくめて問うています」
→そういうことですか。
私は地元の400年を少し超えた古い神社の総代をしています。
神社は参拝する人たちが心を落ち着かせるために存在します。
もちろん、祈願する人もいますが、祈願したから叶えられるものではありませんね。
あくまでも参拝することによって、心が落ち着き、穏やかになれるということです。
そういう人達のために神社は存在しています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 そうでしょうね。たとえば山岳信仰というのもあります。古くからのナラハシであり伝統のひとつですね。

 そしてそれらの伝統の信仰には 次のような実態が 同じくあると思います。:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 あくまでも参拝することによって、心が落ち着き、穏やかになれるということです。
 そういう人達のために神社は存在しています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ でも ただしけっきょくは 広く一般には《たましづめ(鎮魂)――つまりそこでは たまふり(魂振り=元気づけ)をふくみます――》の問題であるかと思います。

 そこでは 神を信じることから来る心の清めと同じハタラキがあるかとも見られます。

 では 《神とは何か?》 どうでしょう? つまり哲学カテですから。

お礼日時:2015/08/16 18:47

>《精霊》が どうして神なのですか? 《絶対》ではないでしょう?


神、とは言っていないですよ、どう読めばそんな理解になるのかな?、国語の理解能力がなければこんな話通じません。
あなたの前提は神が存在する!、これを他人に押し付けようとしているだけです。
絶対、なんてものは言葉の上で存在するだけです、絶対=神を信じたければ、信じるのは自由です、ただし他人に押し付けても無駄です。
絶対、ではありませんが真実とは、結局、われ思う故に我あり、だったとか、最初に期待した内容とはずいぶん違った結果だったらしい。
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この回答へのお礼

★ われ思う故に我あり
 ☆ の《われ》は 形而上の存在を――当のデカルトは――言っているのだそうですよ。つまりは さしづめ《アートマン=霊我》のごとき存在です。

 その証拠に ひとつの派生形態として ドイツでは〔ですが〕 《それが考える。( Es denkt. )》という議論の筋が現われたそうです。
 意識し自覚している《われ》のことではないという解釈のようです。

 でも この事例などは 考えるに けっきょく意図はどうあれ《神を人びとに押しつけようとしている》かに見られます。

 そういった事件や事情について この質問では 哲学としてしっかりと説明し交通整理ができればよいと思っています。

 精霊を神だとまちがって受け留めましたか。申し訳ありませんでした。

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2015/08/16 18:56

それは神のみぞ知るからです。

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この回答へのお礼

ふふ。

 ご回答をありがとうございます。


 でも №8と№10におけるやり取りをごらんください。

お礼日時:2015/08/16 18:39

お礼ありがとうございます。


懐疑者については、あくまで神の存在を確証出来ない存在として記載しています。(懐疑者の意思までは規定していません)
純粋に神が存在するか存在しないかを判断していない存在だと言う事です。(立場としては、非知又は未知でしょう)
ただ、神が存在する事が証明されれば、存在を確証出来る事は求めています。(そういう意味では、懐疑者自体も仮想的実体です)
不可知は、絶対性を持ちますが、絶対性→不可知となるかは議論の場になるでしょう。(実際それを前提として、神の存在証明を行った例もあります)
神→不可知→絶対、絶対→不可知→神となるかが、ひとつの哲学的課題になります。(これはある意味解決済みかもしれません)
さらに、神→非知→絶対、絶対→非知→神と論理的に持っていけるかが難しいです。
ヴィトゲンシュタインの初期の思想ならば、「語りえぬものについては、ひとは沈黙に任せるほかない」で終ってしまいます。(非知であれば、沈黙するしかない)
ヴィトゲンシュタインの場合は、経験則だけですから、自然にそうなります。(非知については語り得ない)
問題としては、非知の存在を認識する論理的飛躍が可能かどうかでしょう。
他者に説明する必要が無ければ、非知である事と絶対信仰は同値(もしくはそれを抱合する)と言えそうですね。
ただ、それは証明を要しない事を受け入れなければ成り立ちません。(信仰者はある意味、それを受け入れているとも言えます)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ★ 懐疑者については、[・・・]純粋に神が存在するか存在しないかを判断していない存在だと言う事です。(立場としては、非知又は未知でしょう)
 ☆ でしたか。ううーん。でも だとすると わたしから言わせれば それは《懐疑》していませんね。考えてはいるでしょうけれど 答えを出さないということのように思われます。
 へんな類推になりますが 《無記》みたいですね。 神については いるとも居ないとも言わない。判断しない。という。

 でも 神――非知なるナゾ――については とどのつまりでは 有るか無いかのふたつにひとつをえらぶことになると思います。《絶対なるナゾとわれとの関係》を 最終的な結論として《有るとも無いとも言わない・判断しない》という無記の立ち場は採れないと思うのです。受け容れる(信じる)か受け容れない(信じないと信じる;無い神を信じる)のいづれかの立ち場しかないと思われます。なにしろ相手は 《絶対》なのですから ちょっとタイムを取るということは出来ても 二者択一しかあり得ないと見られます。

 ★ 神の存在証明
 ☆ は出来っこないと考えます。出来たら それは 人間の理性のおよぶ範囲内の観念か何かになりますから。

 ★ 不可知
 ☆ は わたしは詳しくないのですが 数学の定理か何かで 《知り得ないということが証明された》という命題(つまり 不可知)があるやに聞いていますが。

 ★ (非知であれば、沈黙するしかない)
 ☆ これに異議をとなえてみます。《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》であるなら ひょっとすると人間は知り得るかも知れない。そして あくまで主観の範囲内に限るなら 《おれは神を見た》という自己表現をする人が出て来るかも知れない。そこまでは 《非知》なるナゾは 許容していると思われるのです。《神を見ることなどあるわけないぢゃん》という自己表現も同じ程度に 主観内において ゆるされている。と。

 ★ 問題としては、非知の存在を認識する論理的飛躍が可能かどうかでしょう。
 ☆ これはわたしは 虚を突かれたかも知れません。取りあえず留意します。

 ★ 他者に説明する必要が無ければ、非知である事と絶対信仰は同値(もしくはそれを抱合する)と言えそうですね。
 ☆ これが 主観内面における自由なのでしょう。

お礼日時:2015/08/16 18:37

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