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存在というと ハイデッカーとか出てきて、ややこしくなりますが

此処に酸素分子が存在する。という時の酸素分子という存在、つまり存在者 とは何か?

を定義できる人いますか?

人間存在も存在者ですよね、太陽も存在者です(私は存在者とは言わず「存在」と呼んでいます)

つまり存在とは何かを定義できなければ 我々が如何に存在しているかも説明しにくいと思うのです。

ぜひご自分の意見として 簡潔にお書き下さい。どういう語感なんですかねえ 存在って?

よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    私は自分もそうである人間存在を考える時に 自分という存在は在る 地球と言う主体、エネルギーの塊、一形態は在る。水素原子という核と電子が調和した主体は在る。亀と言う、キリンという主体性を持った動物はいる。人間と言う体と精神を持った存在は在る 雷と言う一現象は在る。そのような個性ある性質を持ったエネルギーはこの宇宙の場(量子場や重力場 電磁場など)に在ると考えます。 アイデンティティを持った存続する存在は在ると考えます。直感的にそう考えるより他ありません。

      補足日時:2015/10/23 20:52
  • うれしい

    ただそこに何を持って存在と言えましょう 全ては変化し続け一定のものはありません では存在を認めなければすべての存在は一切皆空となり 確かにあると思えるものさえ実体が無い事になります しかしこの宇宙のエネルギー(物質もエネルギーで出来ている)は法則に則り様々ゆらぎや波としての個性を示してくれます もしすべての存在が法則無く同じものもなければ一切皆空でもカオスでもいいでしょうが この個性は光を光として 酸素分子を酸素分子として キリンをキリンとして 雪の結晶を六角形の個性ある存在と位置付けてくれるのです つまり空即是色です。 尤もエネルギーは性質が同じならば同じものです(全く同じものは在りませんが)。 人間にしても動物の種にしても物質にしても個性を認める人は多いでしょう、なので個に性質はあるのです。関係性にも性質は左右されますが 個にも性質があるということです。

      補足日時:2015/10/23 20:53

A 回答 (17件中1~10件)

残念ながら私は定義できません。

申し訳ございません。質問文では「酸素」と「太陽」が例として挙げられてゐますので、それから推測いたしますと、存在者とは「生命を抹殺する者」と言へます。


酸素とは毒ガスであり、太陽から来るのは殺戮光線です。生物の体は絶えずこの攻撃と戦ひつづけ、傷ついた部分の修復に励んでゐます。(もうひとつの敵は「水」です。)一般向けの簡素な書物には、地球上での生命の誕生、化学進化についてあまりにも楽天的に記載されてゐますが、決して単純なものではないと思ひます。聖書の創造説を支持する人たちがたくさんゐるといふ話題が哲学カテゴリでもときどき取り上げられますが、この化学進化がいかに困難なものであるかを理解してゐれば、そのやうな状況にも少しは納得がいきます。

酸素は有機物を破壊します。食品に厳重な包装がなされるのはそのためです。酸素があると生命の自然発生はありえないので、もともと地球には遊離した酸素はほとんどなかつたと仮定されてゐます。現在のやうな空気は生命誕生からはるか後に光合成によつて作られたといふのが定説です。植物は光合成によつて生産される毒ガス、つまり酸素に対抗するために、抗酸化作用のあるビタミンCやポリフェノールなどを備蓄します。人間も同じです。酸素は巨大な敵です。おもしろいのは、この毒ガスの力をエネルギーとして利用してゐることです。また体内の有害物を酸素で退治します。まさしく毒ガスの化学兵器として人間は体内で使用してゐるのです。

太陽も似たやうなものです。天気予報などで紫外線の危険性については周知されてゐます。波長の短い電磁波は大きなエネルギーを持ち、有機物を破壊します。特に遺伝子には致命的です。地球上の生命の起源の問題でしばしば取り上げられるのは、酸素と紫外線のパラドクスです。酸素があると、生命は誕生しません。反対に酸素がないなら、同素体のオゾンもありません。オゾンがなければ紫外線が大量にふりそそいで、生命の誕生もありません。つまり酸素があつてもなくても、生命は誕生しません。だからこそ、創造説を主張したり、生命は宇宙から来たと唱へたりする人もゐるのです。


といふことで、「存在」とは「殺戮」です。
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この回答へのお礼

うーん・・・

何だかややこしい話ですねえ。

酸素、水、太陽光が無ければ 人間は生存できませんよねえ。

それが逆に生命体の害になると、いう面を持つという事でしょうねえ。

私は「存在性」という言葉を使うのですが

酸素も人間を生かす存在性になることもあれば、活性酸素などで酸化すると生命の害にもなりますね

太陽も人間の活力の元となるATPを作る反面 熱中症の原因になったり、紫外線の害があります。

酸素過多。砂漠に太陽も悪魔となります。諸刃の剣ですね。

しかし存在と言うものの定義になっているのでしょうか?

「存在」とは「殺戮」です。と言うのは?パラドックスですね どうもありがとうございます。

お礼日時:2015/10/22 19:55

おじさんです。


「つまり存在とは何かを定義できなければ 我々が如何に存在しているかも説明しにくいと思うのです」
→確かにそうですが。
存在という定義が、そんなに難しいものなのでしょうか。
宇宙物理学の視点で問うているのでしょうか。
どういうことを論議しようとしているのか、よく分りませんが。
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この回答へのお礼

ありがとう

例えば酸素分子という存在にしても、電子雲や二つの核にしても、一瞬一瞬を見ればその空間に何が在るのでしょうか?

核にしても果たしてどの様な存在 なのでしょうか?

そのスカスカのエネルギーの回転運動?が存在なのでしょうか?

或いは人間存在と酸素分子の存在は同違い、どう同じなのでしょうか?

果たして存在とは何か? 何を持って存在と言えるのか? 人間とは生命体か?精神か?何だろう?

と言うような 存在とは何か と言う問いです。

如何でしょうか 定義できますでしょうか?

どうもありがとうございます。

お礼日時:2015/10/22 20:06

こんにちは。

ID変わりました。よろしくお願いします。
 
存在という言葉は自明であり定義する必要はありません。しかし、存在物とは何か、存在者とは何か、は定義することが出来るかもしれません。
人間とは何か、物質とは何か、星とは何か、それらは観ることによって一定の定義も可能でしょう。存在物とは何か、も、この世にあるありとあらゆる色形、と表現、定義することが出来ます。存在者についても、自意識を持った存在、命ある者などと、仮に表し定義することが出来ます。議論を通じてもっと多様で確実な定義も可能でしょう。

ですが存在とは何か、となると、あまりにも範囲が広すぎて、その言葉がすべてを満たしてしまうために、それをそれ以上説明することが出来ないのです。
大きな概念は、より微細な概念や別種の概念の複合体によって説明することが可能ですが、存在という概念はあまりにも広いために、それを説明しようと思えばこの世の全てを投入して説明しなければなりません。それは不可能な話です。分かったことだけでも膨大ですが、この世には分からないこと、未知なることも更にたくさんあるからです。

もし、あえて存在を定義するなら、それはこの世の全て、という定義が可能かもしれません。この世の全ての有り様を説明するのに、どのような言葉が適切でしょうか。私にはまだわかりません。ハルさんにとっては自身の存在性思想が有効かもしれませんが、ハルさんにとって存在とは何か、一応の定義はあるのですか?
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この回答へのお礼

ありがとう

こんばんは あほな先生。これからもよろしくお願いします。

ところで先生はまず冒頭

>存在という言葉は自明であり定義する必要はありません

と書かれまして。その後

>この世の全ての有り様を説明するのに、どのような言葉が適切でしょうか。私にはまだわかりません。

と書かれました。 言葉としての「存在」が自明で「存在」の定義がよく分からないというのは

どういう事なのでしょうか?自明と思える「存在」という言葉の定義が「よくわからない」

そこを考えて欲しかったのです。存在という言葉は何を表しているのか。

ちなみに私も存在は定義しています。何度か書きましたが

存在とは(○○ある)●○を持った●●●●ー(物質) ーはマイナスではないです。

と言うような定義をしています。どうもありがとうございます。

お礼日時:2015/10/22 20:23

「存在」という概念については、随分昔に考えたことがあります。



厄介なのは、存在・実在という概念自体、科学・哲学等の視点にて複数の概念が交錯するということです。
哲学系で特に難解になるのは「超越的存在」と「超越論的存在」の差異等でしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E8%B6%8A …

科学的な存在・実在については「素朴実在論」が有名でしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%9C%B4 …

個人的には、「全体」からあらゆるものが派生している(逆に言えば、完全に切り離されて独立している物は存在しえない)というところに落ち着いています。
端的に言えば、「存在」を関連性抜きで単独で語ることはできないということです。

総体(全体)と個と。。。
http://jinen.exblog.jp/1714917

下記は、上記に至るまでの思考過程の一部になります。

私の考えの「にこごり」。。。
http://jinen.exblog.jp/488421
「にこごり」の続き。。。
http://jinen.exblog.jp/499654/
「にこごり」。。。別の視点。。。
http://jinen.exblog.jp/501221/
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『逆説のplapoti』をニックネームとして、私がプレゼントしたお方の回答がすごいですね。


この凄すぎる回答をharuさんがどう捉えて"返球"するのか興味津々です。

また、逆説はイコール"逆転"であるのか、と云う疑問も発生してこれも興味深いです。

私の極フツーの当たり前の平凡な考えは・・・
いきなりの究極、と云うことになりますが「無」に対しての「有」、これが"存在"です。

haruさんは"存在"に意味を持たせようとして居る様ですが、それ以前にただただ"有る"だけの物、それを"存在"と定義します。

でも、それじゃあつまらないので意味とか意義を"存在"に見出そうとする訳で、そしてそれは有るはずなので見出せると思います。

いや、私は見出しているのです。

活動。
存在は活動して居ます。活動そのものです。

活動は無気質から有機質へ、物質から生命へと。
"進化"は生命のみに当て嵌められる訳ではありません。
物質の変化も進化そのもの、と云ってよいと思います。

そして、だから、その先に生命が誕生し、その生命は精神として高等な生物「人間」を生み、人間は自身の精神を自ら高めようとして居ます。

なぜそうした意力があるのか。
それが不思議ですが、ここに存在の意味を見出すことが出来ると思います。

☆ 尻切れトンボの様ですが、疲れたのでとりあえず、これで投稿しておきます。
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この回答へのお礼

ありがとう

どうもわざわざありがとうございます。

存在って考えれば難しいですねえ。

私は「性質」と「エネルギー」という言葉を使って説明しました、定義ですね。

逆転のパラドックスは存在という言葉がいかに難しい?かを語っている様ですね

僕は存在性という言葉で色々説明していたので 存在の定義は自然と出てきました。

どんな答えが出るか楽しみです。どうもありがとうございます。

お礼日時:2015/10/22 20:39

そもそも「存在」を明確にせねば、「存在とは何か」と


いう問いは、成り立ちません。
あなたが言っている「存在」とはどれの事でしょう?
存在を明確にしようとすると、「存在」は不確定性原理
によって無限不確定に発散し(=無)、「明確」は不完全
性定理によって矛盾(Aと非Aを同時に導く=無限不確定)
に帰着します。

実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との
相対によってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っ
ています。
客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。
認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。
その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数h
の収束の時系列化=物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば、
相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我
仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識するという訳です。
無=不確定性無限の潜在としての認識可能性(感受表面での
量子相互作用=光速=現在)からの、自我仮説(時間の流れ
=記憶=過去=超光速)と空間仮説(空間の広がり=予測=
未来=光速下)の対発生。

即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の
相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」
という無の射影として、量子=存在は生じていると言えます。
無いとは分からない事が有なのです。
「存在とは何か?存在者とは何か?を定義でき」の回答画像6
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この回答へのお礼

ありがとう

>認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。
その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数h
の収束の時系列化=物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば、
相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我
仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識するという訳です。
無=不確定性無限の潜在としての認識可能性(感受表面での
量子相互作用=光速=現在)からの、自我仮説(時間の流れ
=記憶=過去=超光速)と空間仮説(空間の広がり=予測=
未来=光速下)の対発生。<

この部分が分からないんです。というか 何か変なのです。

>無いとは分からない事が有なのです。

無いとはわからないけど無という事はないのでしょうか?
存在論は難しいですねえ。僕は個性を持って存在の単位と考えています

どうもありがとうございます。

お礼日時:2015/10/23 20:59

No.2です。


ご質問も、お礼コメント内容も抽象的でよく分りません。
というのは、目で見て、手で触って、存在を確認するだけでは満足できないのでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとう

満足するのはいいのですが いろいろ考えていると

存在というのは哲学の天皇陛下の様なもので 分からないでは困ることに気づいたのです

我々には天皇陛下が何者か分かりませんが、国家としては大きな存在^^の様です。

すみません。とにかく存在とは何か分かった方が理解が進むんです。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2015/10/23 20:05

取り急ぎ。


その意味は自明であるが、あえて定義しようとすれば定義不能となるということです。定義不能となる理由は、存在という言葉自体があまりにも広いからです。
しかしそれでは質問者が納得しないであろうと思い、存在とはこの世の全て、この世の全ての有様とはどのようなものだろうか?と提起をして前回答を終えました。
この世の全ての有様とはどのようなものか?
これは難解な問ですよ。世のすべてを観察しないといけないのですが、そのような視点を持つことが無理です。従って、自分の視野ではこうである、と言う事になってしまいますが、それでは存在の全てを説明することにはなりません。
もし、この説明をするために存在を定義するなら、その定義は説明のためのものになってしまい、十分に意図的なものであり、作為的なものになってしまって普遍性を欠きます。
 
また、ハルさんの存在性理論で言う事が可能なものは、存在者及び存在物であって存在そのものではないのです。

存在とは、全てを満たしているのです。この意味がわかるでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとう

「存在」という言葉の問題もありますよね。人間存在、あほな先生は存在じゃないのか?

存在者、カニでもビー玉でも歯車でも存在者です。おかしいなあ

カニが存在するんぼなら カニは一つの 存在では?ないのでしょうか?

存在という言葉が訳の分からない言葉になってしまっています。そんな言葉が必要なのでしょうか??

私の考える存在の単位は「個性」です。「カニ」という個性です。「ビー玉」という個性です。

人間一人一人の個性です。その個性を単位に存在と考えれば 存在は無数にあり、この方が意味があります。

どうでしょう?どうもありがとうございます。

お礼日時:2015/10/23 20:13

存在というものを定義することは現在ではできないということ


だと思います。
学問において解明されていないからです。そういったものは、
「不可知」(非知という人もあります)として、追求すべきでな
いとする立場すらあるようです。

私流に表現すれば、久遠の昔からあり、未来永劫まであり続け
るもの、ミクロでは、素粒子から原子、細胞、人体、マクロで
は、地球、太陽系、銀河系、大宇宙まで、重層的に存在するも
のーー
これが「存在」即ち「宇宙」、「生命」ということになろうか
と思います。

自然科学がこれを解明することは、将来もないと思います、哲
学において、これを解き明かし、人々に認知されることは、あ
りうると思います。

「存在性思想」はこの生命観を志向しているように私には感じ
られます。
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この回答へのお礼

Thank you

どうも毎度ありがとうございます。

みなさん存在を考えるとどこまでも繋がってるから宇宙全体とかおっしゃいますが

それはそうとは思うんですが、それじゃあ存在という言葉の意味もあまりないですねえ。

そこで私はno.8のお礼で書いたように カニなら「カニ」という個性を単位に存在と認めます

カニが存在しているのです。TVも個性があると思うので「TV」という個性を存在と認めます。

人間も精神的存在と思いますが それも「存在」「人間存在」と認めます。

そこには理屈があるのですが、物質やエネルギーには性質があります。属性と言われてきた性質ですが

性質は物質が変化すれば真理に則って現れます。精神も脳内の物質やエネルギーの持つ様々な性質が成しています

従って人間とは生命という体の脳に宿った性質としての存在 精神なのです。

これは私のHPを読んで下されば分かります。どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2015/10/23 20:37

名称した時点でそれが存在することは自明です。

しかし、それと言うものは代名詞であり非個性です。機能上そうなっているのです。
蟹と言うだけでは、蟹一般を指す事になり、これも非個性です。蟹と海老を比べる様な事態に立って初めて蟹の特徴が論じられ得、この蟹と、そっちの蟹を比べる様な事態において初めて、その蟹の個性が論じられ得る訳です。従って、蟹に個性などはありません。ただの蟹なのです。しかし、「この蟹」には個性はあり得ます。甲羅に独特の傷があって、とか、生息地はどこでとか、オスかメスかとか、色々の限定事項によって個性が論じられ得るのです。

同じ様に私と言う存在は個性ではありません。一般です。しかし、あほなは個性であります。分かりますね?
私は私であるとか、私はあるとか、ただそう言う文言があるだけでは、意味が無いのです。
何かのシチュエーションにおいて初めて、私は私なんだ、他の人とは違う!とか、私は私なんだ、あなたとは違う!などという風に意味が生じるのです。

取り敢えずここまで。

存在とは何かについてはまた後ほど回答します。
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この回答へのお礼

うーん・・・

この世に自分と全く同じ人間がいない様に、蟹も全く同じ蟹はいません。

人間も双子三つ子と居る様に、蟹は何百子か知りませんが違う個性を持ったカニです。

一般のカニとか 一般の人間なんて 現実には存在しません。

そういう訳で そう反対ばかりしないで 時には認めて下さいよ。

お礼日時:2015/10/26 22:22

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