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下記のウィキの記述について、仏教素人にもわかりやすく教えてください。
[ 十二因縁の展開 ]
その生活こそ生老死を苦とする根本であり、それを有という。生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であり、取による有といわれる。その取こそ愛によるのである。
経典は、この愛について三を説いている。
有愛(bhava-taNhaa) - 存在欲。生きることを渇望する心。
非有愛(vibhava-taNhaa) - 非存在欲。有愛がはばまれる時に起こる、死を求める心。
欲愛(kaama-taNhaa) - 刺激欲。感覚器官からの刺激を求める心。思考やイメージなど、自分の心(意根)で生み出す刺激も含む。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C …
これは結局のところ、だからどうだ、と言っているのですか?
全体的に解説していただけると有りがたいですが、特に「その取こそ愛によるのである」という箇所について。

A 回答 (4件)

宮元啓一による解釈および解説をかかげます。



▲ (宮元啓一:ゴータマのさとり) ~~~~~~~~~~
§ 四諦

四聖諦(ししょうたい)・・・〔四つについて省略します〕。《諦(サッチャ)》
とは《真実》という意味です。

§ 苦諦

〔四諦の最初の〕苦聖諦・・・〔に四苦八苦がありその八番目の〕五陰盛苦(ごお
んじょうく)(また 五取蘊苦)は 執着の対象となる自分の身心を構成する五つ
の集まり〔色受想行識〕そのものが苦であるということ これより簡潔に言えば 
この世に 今 生きていること自体が苦だということです。

§ 渇愛・無明・生存欲

苦に満ちた輪廻的な生存をもたらす根源的な原因は渇愛だと指摘されます。そして
渇愛には三種あると説かれます。

《欲望の渇愛》(kaama-taNhaa)というのは 十二因縁に出て来る《愛》に相当す
るもので 執着の直接の原因と位置づけられます。
《生存の渇愛》(bhava-taNhaa)というのは 根本的な生存欲のことで 《無明》
《癡(ち 痴)》と同義です。
《虚無の渇愛》(vibhava-taNhaa)というのは みづからを空無にすること(自死)
へのやみがたい思いということです。フロイトの心理学で言えば タナトスに相当
します。

§ 《生存の渇愛》

最も重要な渇愛は 《生存の渇愛》です。ゴータマ・ブッダの頭の中では これを
《無明》と置き換えて 無明から苦に至る因果関係の鎖(その骨格となるのが十二
因縁)を順に考察しているわけです。

(宮元啓一:『仏教かく始まりき――パーリ仏典『大品』を読む』2005 pp.
76-78 )

§ 《根本的な生存欲》

ゴータマ・ブッダは 輪廻の根本的な原因は欲望ではなく その欲望の奥に そ
のさらなる原因としての根本的な生存欲があることを発見しました。これは お
およそ ショーペンハウアーがいうところの《盲目的な生への衝動》と同じだと
みてよいでしょう。

この根本的な生存欲は ほとんど自覚することが不可能なので《無明》とか《癡》
と呼ばれ また それゆえほとんど抑制不可能な衝動であるため《渇愛》と呼ば
れました。この根本的な生存欲が手づかずであるかぎり 欲望が消え去ることは
ないのです。

§ 渇愛と向き合う《智慧》

そして ゴータマ・ブッダは その根本的な生存欲は それをしっかりと知り
それと正面から向き合うことによって滅びると考えました。そして そうやって
しっかりと知ることを《智慧》と呼びました。智慧の発見は ゴータマ・ブッダ
の大きな功績です。

§ 智慧としての此縁性

それからゴータマ・ブッダは 《此縁性(しえんしょう)》という因果関係確定
法を発見しました。これは 《これがあればかれが成立し これが生ずればかれ
が生じ これがなければかれが成立せず これが滅すればかれが滅する》という
関係が確認されたならば 《これ》が原因で《かれ》が結果であることが確定で
きるとするものです。

§ 智慧としての縁起説

そして ゴータマ・ブッダは その此縁性という因果関係確定法を駆使して 根
本的な生存欲から苦である輪廻的な生存に至る因果関係の鎖を精緻に探索しまし
た。そうした因果関係の鎖のことを《縁起》と呼びます。

その因果関係の鎖は実際にはおびただしくあるのですが 成道の直後に ゴータ
マ・ブッダはそれらを十二支に要約して十二因縁(十二支縁起)とし それを順・
逆に繰り返し観じました(順観・逆観)。

§ 縁起の順観と逆観

すなわち 無明に縁って行が生じ 行に縁って識が生じ 識に縁って名色が生じ
名色に縁って六処(六入)が生じ 六処(六入)に縁って触(そく)が生じ 触
に縁って受が生じ 受に縁って愛が生じ 愛に縁って取が生じ 取に縁って有
(う)が生じ 有に縁って生が生じ 生に縁って老と死と愁いと悲しみと苦と憂
慮と悩みとが生ずる と見るのが順観で 無明が滅すれば云々と見るのが逆観で
す。

そして およそ生ずる性質のものは滅びる性質のものであるという真理を ゴー
タマ・ブッダは発見しました。
・・・

(宮元啓一:『インド人の考えたこと――インド哲学思想史講義』 2008 
pp.74-76 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ この思想をわたしは摂るものではありませんが この解説が割り合い分かり
やすくそれとして納得の行くものだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

珍しくわかりやすかったですね。

お礼日時:2016/02/21 17:26

12縁起もしくは、12因縁は、仏教でも宗派により解釈が異なるようです。


単純に、原始仏教の苦が生じる縁起の説明と解釈すれば、1無明→.....→12老死の順番で縁起が形成されると言う事でしょう。
それぞれの段階の名称とその説明はwikiの説明でほぼ間違い無いと言えます。
言っている事は、その順番で苦が生じる縁起が連鎖すると言う事でしょう。
愛は、何かの対象を気に入ると言う状態と考えて良いです。
気に入ると、それを手に入れたいとかなどの執着の感情が生まれます。
これが、取という状態だと言う事です。
何故、取が起こるのかと言えば、それの原因が愛だと言う事を言っているだけでしょう。
1~12に至る縁起の流れを分析もしくは、考察する事を順観(順番に見ていく、考察する事)、12~1へ、逆に原因を考察する事を逆観(逆から、縁起の元を考察する事)とよんでいるようです。
仏陀は、順観、逆観を繰り返す事により、縁起の考察を深め、その法則を会得したと言われています。
宗派により、これは一生を意味するのでは無く、前世、今生、来世を含めた三世の輪廻を意味すると解釈する場合もあります。
また、1~12を円環の縁起と解釈したり、これを外縁起(現象の縁起)、内縁起(心的現象の縁起)と解釈する場合もあるようです。
ここら辺は、宗教的な内容になるので、直接各宗派の解釈を見てみるのが良いでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/02/21 17:26

ここで使われている“愛”を私なら“求め心”と受け止めます。



[十二因縁の展開]に付いては良し悪しという観点から見るのではなく、心の仕組みを表しているのだと云う解釈で済ますべきです。

生にまつわる苦が生物のより良く生きようと努力する動機となるのです。

望み、は人それぞれピンからキリまであり、その精神的究極が神仏への憧憬です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/02/21 17:21

こんにちは、はこぶるさん。

素人です。




なんだかリビドーとかタナトスの話っぽいね。
その3つの愛っての、例外なく当たり前に
誰でも持ってるね、っていうか【出る】ね。
人によって分泌量に差がありそうだけど。




>その取こそ愛によるのである
:これはたとえば自分や他者や
自分や他人の時間空間環境他いろいろ
に対する関心・興味・好奇心・
配慮・気配り・考慮・配意・心遣い・留意、
なんかのことなんぢゃないかな。





>これは結局のところ、だからどうだ
:聴聞した本人に任せるということかと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/02/21 17:21

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