私は、中2です。歴史の宿題でわからないところがあったので教えてください。
室町時代の関所と江戸時代の関所の違いを教えてください。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

中世と近世の関所はまったく性格の違うものです。



室町時代の関所は、もっぱら私的・公的な権力者(前者は幕府や公家、後者は荘園領主や地方豪族など)が交通の要地に置いて通行税を徴収するために設けたものです。
つまり権力者のお金もうけの算段だったのですね。
日野富子が京都・七口の関の関銭を内裏修復の名目で集め、実際には私費を肥やすのに流用した話は有名です。
これらの私利のために乱立された関は交通や物流をさまたげ、民衆の生活や経済をいちじるしく圧迫したので、打ち壊しの恰好の標的になりました。

これに対し江戸時代の関は「入り鉄砲に出女」の言葉に象徴されるように、
・江戸に武力を寄せつけないこと
・参勤交代の武家の子女を江戸から出さないこと
をもっぱらの目的に設置されました。
だから特に守りの厳しかった関は江戸を囲む天然の要害の地、すなわち箱根・新居・碓氷・小仏など(今でも高速道路や鉄道の長いトンネルで有名ですね)を固め、容易に江戸に攻め込まれないよう、巨大な防衛線として機能していたのです。

宿題にするなら、より詳しいことは百科事典などの項目を参照したほうがいいでしょう。
とくに吉川弘文館の国史大辞典がおすすめ。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとうございます。とてもわかりやすい説明で嬉しいです。

お礼日時:2001/06/24 17:56

 とりあえず、ヒントのみにしておきます^^;


 一応宿題と言うことで^^;

参考URL:http://www.enet.ne.jp/estudy/se/sagawa/01_his.html
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q釜飯の中身って結局、鳥飯ですか?

お店によって違うでしょうけど鳥飯などを釜で
炊くから釜飯という呼び名でしょうか?

味付けとかが炊き込みご飯と釜飯とは違う
んですか?

Aベストアンサー

まあ、一番ポピュラーなのが鳥飯ですが。。。

栗ごはん、松茸ごはん、キノコごはん、豆ごはん等、釜で炊けば釜飯になります。

味付けもいろいろありますよ。

こちらは釜飯屋のメニューです
http://www.kamatora.jp/
http://www.kamanoya.com/
http://www.ekamameshi.com/
http://www.kama-ichie.com/system001/menu/#rice

Q【歴史・日本の箸文化】日本の箸文化は江戸時代に英語のチョップスティックから箸という文化が日本に根付い

【歴史・日本の箸文化】日本の箸文化は江戸時代に英語のチョップスティックから箸という文化が日本に根付いたというのは本当ですか?

チョップスティックは英語なので、日本の箸文化の前にアメリカかイギリスに箸で物を食べる文化があったということですよね?

なぜアメリカかイギリスの英語圏の国はチョップスティック文化からフォークとナイフ文化に移っていったのでしょう?

今は逆文化としてなぜか江戸時代から使い始めたに過ぎない日本の浅い箸文化をアメリカ人が逆輸入する形になり、アメリカ人たちは自分たちが昔にチョップスティック文化があって箸を使って食べていたという歴史を忘れているのでしょうか?

日本は江戸時代前まではお米もおむすびなどにして手で食べてたんですか?

それとも茶碗に入れて手づかみですか?

チョップスティック文化はアメリカ?イギリス発祥?

いつなんでしょう。

Aベストアンサー

日本の箸の文化は、聖徳太子の時代の遣隋使が隋から箸を持ち帰ったことに始まります。当時の隋はかなりな上から目線で日本に接していました。それ以前の日本は手掴み式の食事スタイルで、これは隋の風習からすると野蛮な行為とされ、ますます日本が見下される恐れがありました。 支那ごときに日本が野蛮国家と見られることは耐えがたき屈辱でした。 よって、支那の使節団が日本に来た時に、立派な国家であると認めさせることは、安定した国家運営を目指す上での最優先事項でした。そこで、支那の使節を招待しても、日本が近代国家として認められるように(支那にバカにされないように)、取り急ぎ朝廷内での食事に箸を用いるよう下命し、これは即実行に移されました。 それが急速に一般庶民にも広がっていたわけで、「江戸時代に英語のチョップスティック云々」という話しは聞いたこともないし、あり得ません。

Q江戸時代の関所って関所を通らなくてもよかったのでは

江戸時代の関所ですが、別にそこの関所を通らなくても迂回することは可能ですよね?例えば箱根の関所ですが、やる気になれば街道から一歩山の中へ分け入り、そこから関所を越すという感じでやれば関所を通らなくてもOKのような気がします。もちろん道なき道をわけいるのは面倒で勇気のいることだとは思いますけど、やってやれないことはないと思います。

入り鉄砲・出女と言われますが、鉄砲商人だったら死ぬ気でやれば見つからずにできたと思います。今みたいに山の中へ入ったら装置が作動して電気が付くなんていう事もできなかったと思いますし。あと時代劇とかで出女が関所を通るときに身分を偽って顔を隠すみたいな事をしていますが、これも関所を通らずに別のルートで出て行けたような気がします。

そこで質問ですが、関所はそれなりに機能はしていたと思いますが、本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

Aベストアンサー

>本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

士農工商のうち、農工商については通行手形なしで旅をした人もいるくらいで、回避方法はいくらでもあったようです。
例えば、厳しくて有名な箱根の関所の場合、関所近くの間道にも小さな番所が設けられていたり、森の中に鳴子(ヒモに触れると音が出る)を張ったりしていました。
が、箱根自体を通らず、北の方から迂回するルートはあり、そこの関所をこっそり抜ける道を案内する仕組みはあったそうです。
もっとも、こんな仕組みができるようになった頃には、関所自体、あまり取締が厳しくなくなっていた現実もあるようです。

でも、士分はそうはいかない。
入り鉄砲・出女は武士を対象にした規制ですが、例えば(こんな例はないと思いますが)、大名の妻が江戸から国へ帰った場合、関所を通ったという記録が残っていないと後が大変です。
幕府と戦をするつもりがあると見られてもしょうがない。

身分に関係なく、江戸を出る時は許可を得る必要がありますし、
大名の場合は大目付によって妻子が江戸藩邸にいるかどうかチェックされていましたので、入り鉄砲・出女は関所だけがチェック機関だったわけではないのです。

ただし、幕末になると妻子を国に返してもかまわない、ということになり、出女については意味がなくなっています。
討幕運動が一気に盛り上がれた要因の1つかもしれません。

>本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

士農工商のうち、農工商については通行手形なしで旅をした人もいるくらいで、回避方法はいくらでもあったようです。
例えば、厳しくて有名な箱根の関所の場合、関所近くの間道にも小さな番所が設けられていたり、森の中に鳴子(ヒモに触れると音が出る)を張ったりしていました。
が、箱根自体を通らず、北の方から迂回するルートはあり、そこの関所をこっそり抜ける道を案内する仕組みはあったそうです。
もっとも、こんな仕組みができるよう...続きを読む

Q守護霊が室町時代の武士の軍勢とか 言われましたけど歴史とか勉強してなかったのでわかりません。 なんで

守護霊が室町時代の武士の軍勢とか
言われましたけど歴史とか勉強してなかったのでわかりません。
なんですかね?室町時代の武士て?

Aベストアンサー

1318年に後醍醐天皇が即位した頃、鎌倉幕府の力は衰え、悪党とよばれる武士の集団が荘園を襲い、年貢を奪ったりしていた。
後醍醐天皇は幕府を倒す計画を立てたが、失敗して隠岐に流された(元弘の変という)。しかし、この事件をきっかけに悪党や有力な御家人が挙兵を行なう。
悪党の出身である楠木正成は大阪の赤城城と千早城で幕府軍と戦い、足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼし、新田義貞は鎌倉を攻めて、北条氏を滅ぼし、1333年、鎌倉幕府は滅亡することになった。
隠岐に流されていた後醍醐天皇は京都に戻り、年号を建武として天皇自ら政治を行い、これを建武の新政という。後醍醐天皇は天皇中心の政治を目標としたため、鎌倉幕府滅亡に貢献した武士よりも、公家に多くのほうびを与えたので、武士の不満を高めることになった。
1336年、足利尊氏は建武の新政に不満をもつ武士を集めて京都を攻め、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れた。これにより、建武の新政はわずか2年で終わった。
後醍醐天皇は吉野で朝廷をつくり、南朝とし、足利尊氏は光明天皇をたてて、京都で朝廷をつくり、北朝とし、このような状態は3代将軍の足利義満が合一するまで約60年間続き、南北朝時代という。
1338年、足利尊氏は征夷大将軍に任命され、京都に幕府を開き、室町時代が始まる。室町幕府は3代将軍の足利義満のときに京都の室町に花の御所をつくってその体制が整った。

http://www.hello-school.net/haroreki008.html

1318年に後醍醐天皇が即位した頃、鎌倉幕府の力は衰え、悪党とよばれる武士の集団が荘園を襲い、年貢を奪ったりしていた。
後醍醐天皇は幕府を倒す計画を立てたが、失敗して隠岐に流された(元弘の変という)。しかし、この事件をきっかけに悪党や有力な御家人が挙兵を行なう。
悪党の出身である楠木正成は大阪の赤城城と千早城で幕府軍と戦い、足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼし、新田義貞は鎌倉を攻めて、北条氏を滅ぼし、1333年、鎌倉幕府は滅亡することになった。
隠岐に流されていた後醍醐天皇は京都に戻り、...続きを読む

Q陶芸で釜飯の釜は焼けますか?

七輪に続いて質問です。

陶芸で釜飯の釜は焼けるでしょうか?
2合炊き程のお釜で
釜飯を炊いてお釜のまま食卓に出したいのですが。

Aベストアンサー

>知りませんでした。
家庭用機器の範囲内として、炊飯が可能な電気オーブンでたしか120-150度で1-2時間放置です。
温度と時間の違いは内容物と機械の違いです。電気オーブンの「ご飯の炊き方」に順じてください。
ただし、私の機械の場合、メーカー付属金属せい容器よりも10-15分程度時間をかけた場合がうまくいきやすかったです。

ハイドは、磁器土(焼き締め温度SK8-10用)に1-2割(磁器土によって変化)炭酸マク゛ネシウムを混ぜてください。熱衝撃にある程度強くなります。しかし、成型はかなり困難になります。

Qもう嫌です。 絶望的で何もしたくないです、 元はと言えば私が原因なんですけど… 私は夏休み中に宿題

もう嫌です。
絶望的で何もしたくないです、

元はと言えば私が原因なんですけど…
私は夏休み中に宿題が終わらず、
社会科新聞と写生会の絵を終わらせていません。この前みんなで登山をしに1泊2日で行き、登山記というかんそうみたいなやつを書かないと行けないし、やることたくさんでもうイライラしてきます。やらなきゃいけないと頭でわかっているのに、
体が全く動きません。
なまけでしょうか?
先生に怒られるのも恐くて
学校に行きたくありません。
部活も上手く行かず、合唱コンクールの指揮も上手くできず、陰口は言われ、彼氏と大喧嘩して、宿題やるのが精一杯で、やること山々で…
ストレスで押しつぶされそうです。
このままやらないでいると高校が心配で…
死にたくなります。
なにもしたくありません。

Aベストアンサー

お望みの回答にはなりませんが以下、参考まで:
そのような質問者さまは、おそらく教科ごとの
最適な勉強方法や適切な問題(≒課題)処理の方法が
確立されていないのではないでしょうか。
だとしたら、勉強方法に関しては公立図書館等で、
『偏差値29の私が東大に合格した超独学勉強法』
『妄想娘、東大をめざす  偏差値48からの東大合格奮闘記』
『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』
などを読んで、教科ごとにベストな学習方法を編み出しませんか。

問題処理の方法には「手順」等があるのですが…「感想」を書くのは
小学校時代からかなりの回数で、そうした機会があった筈ですので、
中学生時代や小学生時代の自筆の感想文を取り出して、読んで
みることをおススメします。先生のコメントを併せて読めば、
ヒントが見つかる筈ですよ。

[質問者さまは、発達障害ということはないですよね。
来年の夏休みの宿題は、7月中に済ませるようにキッチリ
自己管理してくださいませな]

私は、
【人が希望に至るのは絶望に導かれてです】という言葉が好きなのですが、
【絶望は我々の力を倍加する。 イギリスの諺】
も、いいですね。質問者さまが現状のような暮らし方をしている
というのは恐らく、いまの高校は不本意入学なのでしょうから、
スパッと自主退学して「高認」をクリアする道をチョイスしませんか。
退学すれば、嫌な先生/宿題/部活etc.との関係性を
断つことができますよ。

「大検」の時代に、高校に行かずに、それぞれ、
東大と京大に進んだ兄弟がいました。質問者さまも
自分に負けないで、自学自習を行えば、お望みの大学に
進めるでしょう。

Good Luck!

お望みの回答にはなりませんが以下、参考まで:
そのような質問者さまは、おそらく教科ごとの
最適な勉強方法や適切な問題(≒課題)処理の方法が
確立されていないのではないでしょうか。
だとしたら、勉強方法に関しては公立図書館等で、
『偏差値29の私が東大に合格した超独学勉強法』
『妄想娘、東大をめざす  偏差値48からの東大合格奮闘記』
『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』
などを読んで、教科ごとにベストな学習方法を編み出しませんか。

問題処理の方法には「手...続きを読む

Q峠の釜飯だと思う…

先日あさま1号で長野に行ったのですが
乗った車両が悪かったのか車内販売がきませんでした…
以前新幹線に乗った時は釜飯を売っていましたが
最近は高崎のだるま弁当しか見かけません…
車内販売の人に聞くと「あぁこの電車○○駅に停まらないから…」
と言っていましたが…
峠の釜飯は今も新幹線あさま車内で買えるのでしょうか?

もう一つ
JRA夏競馬のCM今やっていますがどう見ても不自然なんです。
CMは、競馬場に行く途中の電車内という設定なのですが
そこでこの釜飯が出てくるんです。(どう見ても新幹線車内で峠の釜飯でした。)
が!、夏競馬は新潟か福島なんですよ…
長野からの上りなら「競馬場へ行かれるんですか?」と言う会話も変かと…
長野→直江津→新潟競馬場へもおかしいですよね…

しっくり来るのは…
東京→新潟の車内で峠の釜飯を売っているor
高崎駅で停車中に峠の釜飯を買ってきた…
となるのですが、この2つの状態はどうなのでしょう…
暇な時で良いので回答ください。お願いします。

Aベストアンサー

おぎのやのサイトによりますと
「長野行き新幹線開通高崎・軽井沢間にて釜めし車内販売開始(日本レストランエンタープライズさん通し)」
とのことです。

CMの件ですが…そこまで考えてなかったんだと思います^^;
もしくは軽井沢で1泊してから新潟に向ったとか…

参考URL:http://www.oginoya.co.jp/fanclub/profile.html

Q!江戸時代の10大事件!

江戸時代の出来事の中で、あなたが重大だと思うことを理由付きで教えてください!!その事件の前後で何が変わった、その事件が後の時代にどのように影響したか、その事件はどのような点で特筆にあたいするかなどを添えてどしどし教えてください!!

Aベストアンサー

時系列的に見ての第一は、
・秀忠の将軍襲名(1605)
理由:
徳川家が将軍職を世襲する意志を天下に知らしめた
その後の影響:
秀忠による大名鉢植え政策、和子入内等の政略とあいまって徳川家の絶対的な力を決定付け、他の武将や皇族貴族等への徳川家支配の端緒となった

・武家諸法度・禁中公家諸法度・諸宗諸本山法度 発布(1615)
理由:
武家・皇室貴族・宗教を徳川支配下に置く事を宣言した
その後の影響:
天皇家に対して法規制を行うという考え方を生み出した

・家康の神格化(1617)
理由:
家康を神にする事で、徳川家の支配に対する絶対的根拠を生み出した
その後の影響:
天皇親政と同様、決して他者による代替が出来ない政治形態成立を印象付けた

・鎖国完成(1639)
理由:
海外交易を幕府独占にした
影響:
徳川家支配のための重大な資金的根拠になった
また、交易による最新技術の独占も支配に大きな力を与えた(家継の正徳新令も参照)

・日米修好通商条約に調印(1858)
理由:
その後現代にまで影響を与える日米の不平等条約調印によって、遠くは、第2次大戦勃発の遠因ともなった
影響:
(アジア拠点を与えた事によって)アメリカによる世界支配の礎の1つを作った(?)

・大政奉還(1867)
理由:
徳川独裁の終焉
影響:
維新功労者による政治形態成立を促し、軍事的外交の時代を作った

以上6つが特に大きな出来事ではないかと思います

時系列的に見ての第一は、
・秀忠の将軍襲名(1605)
理由:
徳川家が将軍職を世襲する意志を天下に知らしめた
その後の影響:
秀忠による大名鉢植え政策、和子入内等の政略とあいまって徳川家の絶対的な力を決定付け、他の武将や皇族貴族等への徳川家支配の端緒となった

・武家諸法度・禁中公家諸法度・諸宗諸本山法度 発布(1615)
理由:
武家・皇室貴族・宗教を徳川支配下に置く事を宣言した
その後の影響:
天皇家に対して法規制を行うという考え方を生み出した

・家康の神格化(1617)
理...続きを読む

Q関所

箱根の関所以外ではどこに関所があったのでしょうか?
箱根は小田原藩が管理していた様ですが、他の関所は誰が管理していたでしょうか?

Aベストアンサー

関所は主要なものでも35ヶ所、山間の小さなものを含めれば50ヶ所ほどもありました。
そのうち重関所については、管理者は時期により変わっている場合もありますが、1742年では次のようになっていました。
関所名  場所  管理者
碓氷  上野国碓氷郡  安中藩主板倉伊予守
猿ガ京 上野国吾妻郡  稲垣藤四郎
大戸  上野国吾妻郡  布施孫三郎
大笹  上野国吾妻郡  布施孫三郎
杢ケ橋 上野国群馬郡  高崎藩主松平右京亮
五料  上野国那波郡  前橋藩主松平大和守
関宿  下総国葛飾郡  関宿藩主久世大和守
房川渡中田 武蔵国葛飾郡  竹垣三右衛門
金町松戸  武蔵国葛飾郡  小野田三郎右衛門
小岩市川  武蔵国葛飾郡  小野田三郎右衛門
新郷川俣  武蔵国埼玉郡  忍藩主阿部豊後守
小仏  武蔵国多摩郡  伊奈友之助
箱根  相模国足柄郡  小田原藩主大久保加賀守
根府川 相模国足柄郡     〃
福島  信濃国筑摩郡  山村甚兵衛
関川  越後国頚城郡  高田藩主榊原式大輔
今切(新居) 遠江国敷知郡  三河吉田藩主松平伊豆守
気賀  遠江国引佐郡  近藤石見守
柳ガ瀬 近江国伊香郡  彦根藩主井伊掃部頭

関所は主要なものでも35ヶ所、山間の小さなものを含めれば50ヶ所ほどもありました。
そのうち重関所については、管理者は時期により変わっている場合もありますが、1742年では次のようになっていました。
関所名  場所  管理者
碓氷  上野国碓氷郡  安中藩主板倉伊予守
猿ガ京 上野国吾妻郡  稲垣藤四郎
大戸  上野国吾妻郡  布施孫三郎
大笹  上野国吾妻郡  布施孫三郎
杢ケ橋 上野国群馬郡  高崎藩主松平右京亮
五料  上野国那波郡  前橋藩主松平大和守
関宿  下...続きを読む

Q江戸時代の庶民の船での行動

どうして、昔の人は公の交通手段としての船のなかで
踊りを踊ったり、歌ったり、かくし芸をしたり、念仏を唱えたりするのでしょう?
現代では貸切のときに、そういったことをするときがありますが、
まったく見知らずの人の前ではそんなことできませんし、しません。
楽しくしたいといっても、見たくない、聞きたくないという人もいたはずです。
(下手だったりすると)
無事に現地に着くようにという祈願かな?とは思うのですが
ネットで調べてもなかなかいい答えには出会えません
どなたか、知っている方がおりましたら
教えていただけないでしょうか?

Aベストアンサー

#2です。補足ありがとうございます。
『世間胸算用』の該当部分を読みました。(巻4 3「亭主の入替り」ですね)
〔ふだんなら芸事をしない人はないのに、その日に限って盛り上がらず念仏を唱えている人などがいてしんみりした様子なのに、一人浮かれて歌っている男がつらにくい〕というところですね。
この記述を見る限り、江戸時代であっても、「場に合わない行為をしていればみんなに迷惑がられる」というのは変わらないように思います。
普段の舟では、みんながにぎやかに芸をするのが普通だからみんなで騒いで盛り上がり、この舟では、暮の算段がうまくいかない人ばかりが乗り合わせて落ち込んでいるのに、一人だけ浮かれているので、他の客は苦々しく思っているのでしょう。

で、この場面で移動に使った船、「三十石船」について調べてみました。

ぶらりおおさか漫歩(参考URL)

三十石船とくらわんか舟
http://www.shinkin.co.jp/hirakata/hira44.html

三十石船 
http://www.asahi-net.or.jp/~PU7T-KMR/aki570.htm

などによると、船にかかる時間は、上り12時間、下り6時間だそうで、夜の上りは寝ているうちに京都に着くので人気だったそうです(そういう船ではみんなが寝ていたので、騒がないでしょうね)。また30人乗りくらいだそうですから、マイクロバス程度の小集団です。座席も横並びや向かい合わせで、落語「三十石」には、「一人で3人分や5人分の席を買って足をのばす」などもあり、相当狭かったようです。くっつきあってすわっている状態ですね。
長時間くっつきあっている時、黙って緊張状態でいるよりは、話しかけて知人扱いにしたほうがお互い気が楽だと思います。また、連れがいる場合が多いでしょうから、話をしているうちに、それを聞いて話に入ってくるとか。
よその地方の珍しい話なども聞けたでしょう。それが、旅の開放感から、いろんな芸が飛び出してくるのだと思います。
あまり「公の交通機関」という意識もないと思いますがどうでしょうか。

上方落語「三十石」は、大阪から三十石船に乗って京都に帰る様子を描いたものですが、人の会話もすごくにぎやかだし、物売りは来るし、船頭さんが舟歌を歌う場面もあります。中には下手な船頭さんもいたかもしれないけど、それもまた旅の風物として楽しめる余裕があったのではないでしょうか。

また、以下の本に、現代の旅と江戸期の旅の違い、西鶴の旅が名所より人事の観察に興味を持ち今の旅に近いことなどが出ていました。

『江戸のこころ-浮世と人と文学と-』 谷脇理史 新典社

また、旅は必ず複数でするもの、船旅は思わぬ楽しみ など、江戸期の旅の様子が以下の本に出ていました。

『図説 浮世絵に見る江戸の旅』 佐藤要人 監修 河出書房新社 ふくろうの本

参考URL:http://www.daishodai.ac.jp/frmdocs/manpo/burari.html

#2です。補足ありがとうございます。
『世間胸算用』の該当部分を読みました。(巻4 3「亭主の入替り」ですね)
〔ふだんなら芸事をしない人はないのに、その日に限って盛り上がらず念仏を唱えている人などがいてしんみりした様子なのに、一人浮かれて歌っている男がつらにくい〕というところですね。
この記述を見る限り、江戸時代であっても、「場に合わない行為をしていればみんなに迷惑がられる」というのは変わらないように思います。
普段の舟では、みんながにぎやかに芸をするのが普通だからみんな...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報