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こんにちは。
成立が700年代で邪馬台国が3~400年頃なので記紀に邪馬台国の記事が無い、
のは不自然かと思いますが、もし畿内説を取るのであればもっと不自然でして、
意図的に隠蔽された可能性も考えられる訳ですが、この点について畿内派は
どのように説明しているのでしょうか?それとも記紀において何かそれと想わせる記事、
又は間接的に別な国を見立てたような暗に含んだような記事があるのでしょうか?
記紀が邪馬台国に触れていないのはなぜでしょうか?

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A 回答 (5件)

質問の意図がわかりかねるというか....



畿内派とは、ヤマト政権=邪馬台国 のことであるので、記紀の記述そのものがヤマト政権のことである以上、
同時に邪馬台国の記述になります。
邪馬台国 という記述が無いのは、日中での国の呼び名の差異にすぎないので、記述する必要が無いので
邪馬台国に触れていないのは当然だと思うんだが....
たとえば、現代中国語で、ドイツは「徳国」、アメリカは「美国」 という差異があるんだが.....
他にも、イギリスといっていいのか?(イングランド、スコットランドほかの連合なので、正式には「連合王国」。)
現代でもこういうことやってるので、ヤマトと邪馬台国の表記の差異は、普通気にしません。

だから、「説明するまでもなくて自明なこと」なので、たぶん、畿内説のかたたちは、誰も説明していないと思います。
したがって、卑弥呼は、記紀の人物のうちいったい誰なのか? というのが話題になり、
話題の課程で、
神武天皇と応神天皇は同一人物(2人とも、ハツクニ(初国))であって、歴史を水増しするためにループした
というような説もあり。
上記にかかわらず、天皇の代を信用したとします。それでも、天皇の1代は約10年だから、

・記紀における卑弥呼らしき人物(神功皇后、百襲姫)では年代が合わない。天照大神ならつじつまが合う。
 天照大神は、神武東征前の人(神?)だから、記紀の記述を信ずる以上、邪馬台国は畿内のはずが無い

などというツッコミを北九州派から受けます。(安本美典説)
まあ、天皇の1代は約10年 の部分にツッコミ返すか、そもそも記紀は信用できない(=記紀の記述よりもっと代を重ねている)
というような反論はあるけど、
技術屋さん(=歴史には門外漢)が安本美典説とその反論を読むと、ツッコミ返しのほうの説得力は皆無だったりする....
でも、歴史学者に統計学に詳しい人なんてほとんどいないので、安本さんは涙目状態。

で、卑弥呼=神功皇后 は、 年代の無理がひどく、 百襲姫のほうがマシです。それでも、統計に詳しい人から見れば
明らかに異常事態であって、安本美典説以外はありえないのですが....
※壱与(台与?)さんのほうが天照大神かもしれませんが、たった1代差なので、統計学では判別不能。
※※安本美典説では、邪馬台国=朝倉(甘木市)ですが、今回回答は、卑弥呼=天照大神 までの部分とします。
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この回答へのお礼

畿内派としては当たり前に邪馬台国の話だから説明する必要が無い訳ですね。
そうするとあとは時系列をうまく説明出来れば良しと。
万世一系とすれば一代10年は短いですね。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/04/19 15:13

先に「古事記」が天皇家のご先祖様が日本の国を作り、近畿で大和朝廷が出来るまでが神話として書かれています。


後に対海外向けに書かれた「日本書紀」で中国の史記とのつじつま合わせに苦労しています。
当然、魏志倭人伝など大陸の史記も読んで作成したはずです。
卑弥呼の時代には、日本には漢字が無いため、発音を参考に勝手に漢字を当てはめられています。
当然、そのまま使用は出来ません。
邪馬台国、卑弥呼、奴国、狗奴国 そのまま漢字を使用して記述する事はしなかったのですが
神話や神代の天皇時代に組み入れています。
魏志倭人伝に登場する女王 卑弥呼の国 邪馬台国があります。
邪馬台国畿内説では、南水行10日陸行1月の部分を、奴国を出発点として東へ水行10日陸行1月と
解釈します。
つまり、3世紀前半に邪馬台国が近畿にあり、後のヤマト朝廷である説です。
もろに邪馬台国=大和朝廷(ヤマタイ=ヤマト)、卑弥呼=天照大神等に比喩していると思います。
もちろん、天皇家に都合の悪い、魏の国へ貢物贈った、親魏倭王の金印をもらった等は削除されています。
他にも、邪馬台国が出来る前の漢委奴国王の金印を貰う大国 奴国、伊都国など記述もありません。
大和朝廷(邪馬台国)以前に国があったり、大陸へ貢物を贈るなど決して書けませんよね。
逆に、神功皇后の三韓征伐など威厳を出す部分は思いっきり記述してあります。
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この回答へのお礼

神武さんて天照大神の7代下でしたっけ。
そうすると卑弥呼=天照大神は隔たりが千年近い?
こんな無理しなくても。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/04/19 15:20

私の考えで申し訳ありませんが、次のような理由だと思っています。



邪馬台国の書かれている魏志倭人伝には、南の狗奴国と戦っている(攻められている)という記述があるように、2度目の魏使が帰った後ほどなくして狗奴国に滅ぼされたのだと考えています。狗奴国はその後九州を支配下に治め、記紀には筑紫王や熊襲健(クマソタケル)として出てきます。畿内ヤマト王権からしたら、狗奴国たる彼らは直接的にやりあってるので出てきますが、邪馬台国はその前に狗奴国に滅ぼされているから出てこないのだと思います。

ただ全く出てこないかというとそうでもなく、神武天皇の話に出てきていると思っています。神武天皇は宮崎から畿内に行っていますが、宮崎では明け方に夜襲が来るからと夜明け前に逃げ出しています(話が逸れますが、襲ったのは狗奴国ではないかと私は思っています。)。そして北の国に保護されています。大分とも宗像とも言われていますが、この保護した北の国が邪馬台国連合の国の1つだと思っています。この邪馬台国連合は北九州から岡山あたりまでの国々だったらしく、それより東の大阪あたりの土地は好きに取っていいよ言われ、そこに居た豪族に返り討ちに合っています。それでさらに東に行こうとして和歌山あたりで難破して、山賊家業をやってるうちに、(敵対する豪族を)一緒に殺らねーかと声を掛けられ殺って、おこぼれで奈良の南の小さな土地(アスカ)をもらって~、という話になっています。

大雑把に、魏志倭人伝は西暦250年ころの話で、神功皇后の三韓征伐は西暦で380年ころの話なので、間は130年くらい。夫の仲哀天皇が14代天皇なので、その間に記紀に書かれていることがおおよそ150年程度のものと見るのが良いのではないかと私は思っています。


ああ、畿内説ですか。畿内説はもう支離滅裂で、魏志倭人伝はデタラメだらけで邪馬台(ヤマト)国は畿内ヤマト王権で疑わず、記紀が正しく創造神から天皇1本道が日本の支配者だって言う、幼稚な主張です。こんなのに騙されるのもどうかと思うのですが・・。
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この回答へのお礼

そうすると神武さんは九州を逃げ出して来て、
どんどん辺境に追いやられて、
なんとかいじめられない所に落ち着いた、と言う事でしょうか?
それじゃカッコ悪い、でも最後は勝ち組だったのですよね。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/04/14 18:55

日本書紀の編纂にあたっては、初代大帝神武天皇と皇祖天照大御神をどう位置づけるかが最大のポイントでした。

 ところが、数多くの中国古文書を見た日本書紀の編者達は、中国古文書に頻繁に出てくる著名な女帝卑弥呼が、皇祖天照大御神の人物像と一致し、同一人物であると認識せざるを得ませんでした。 ここで、日本書紀の編纂に重大な障害が生じました。 第一の障害は、卑弥呼=皇祖天照大御神とすると、天照大御神が3世紀の人物となるが、日本建国を太古の時代と設定したい大和朝廷にとって、これは是認しがたいことでした。 日本書紀は大和朝廷=天皇家による日本支配を正当化し、大和朝廷の起源と発展を国内外に知らしめ、また後世に残すために国家的事業として作られた歴史書です。 このような政治的意図にもとづき、日本建国を中国に劣らず古い時代に設定する必要から、初代人皇神武天皇の即位を、推古天皇九年辛酉(紀元601年)から1260年(1蔀=21元)を溯った紀元前660年としました。 これは、古代中国の辛酉革命の思想にもとづいたものです。 このように、神武天皇の即位を紀元前660年に設定すると、皇祖天照大御神すなわち卑弥呼は、それ以前の人としなければなりません。 ところが三国志をはじめとする中国側歴史書には卑弥呼・邪馬台国が頻繁に出てきており、卑弥呼が3世紀の女帝であることが歴然としています。 このように、中国側であまりに有名な女帝卑弥呼を無視できず、日本書紀の作成にあたっては、中国側歴史書との整合性を意識せざるを得なくなりました。 第二の障害は、卑弥呼と中国魏王朝との地位関係です。
卑弥呼は日本神話・伝承では皇祖天照大御神として、神聖不可侵の存在でした。 ところが魏志倭人伝は卑弥呼と魏王朝を対等の関係に扱っていません。 もちろん、3世紀邪馬台国時代の倭国は中国魏王朝の従属国ではありませんでした。 卑弥呼は魏王朝から親魏倭王に制せられています。 これは、同時代に中央アジアからインドにまたがる大国の大月氏の国王波調が、同じく明帝より230年に授与された親魏大月氏王と同格であって、倭国は実質的には魏王朝の友好国でした。 しかし魏の皇帝から卑弥呼への詔書は、中国の天子が臣下に与える内容で、たとえば卑弥呼を「汝」と呼び捨てにするのが13ヶ所も出現します。 また、「是れ汝の忠孝にして我甚だ汝を哀れむ」 「勉めて孝順を為せ」 「国家の汝を哀れむを知らしむべし」 「汝に好物を賜うなり」とある。このような表現は、対等な国家間の国書とは到底言いがたいものです。 このことを後の7~8世紀の日中関係と比較すると大きな差があります。 たとえば、聖徳太子が607年に隋の煬帝に送った国書の 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや、云々」 の表現は全く対等です。 また663年の朝鮮・白村江の戦いでは唐帝国と正面から戦戈を交えています。 つまり7~8世紀の大和朝廷にとっては、日本と中国はまったく対等との意識であって、このような状況下で日本書紀が編纂されたのです。 従って、卑弥呼が親魏倭王に制せられ魏の友好国としても、日本書紀の編者すなわち大和朝廷は、卑弥呼・邪馬台国を正面から認めることが出来ませんでした。 以上の二点の障害から、日本書紀の編者は邪馬台国・卑弥呼の取り扱いに苦慮したと推定されます。 そこで考案されたのが架空の人物 「神功皇后」です。 天照大御神の実体は卑弥呼・台与ですが、これを実像とすれば、日本書紀はこの実像を神武天皇以前----すなわち紀元前660年以前の神代に送ったのです。 さらに虚像・神功皇后を3世紀邪馬台国時代に設定するとともに、神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけて、中国側歴史書と年代の整合性をとったのです。 もう一つ注目すべき点は、日本書紀は神功皇后をあくまで皇后とし、天皇(女帝)とは扱っていないことです。 神功皇后は仲哀天皇の皇后でしたが、仲哀天皇の崩御後2 01年に摂政となり269年まで続きます。 この69年間は天皇空位の神功による摂政の時代です。 従って、神功を第15代の天皇とする学説があるくらいです。 しかし、日本書紀は神功をあえて天皇としませんでした。 その理由は、日本書紀は神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけようとしたからです。 しかし、神功を第15代天皇の女帝と設定すると、後世の歴史家が神功と卑弥呼・台与を完全な同一人物と断定する危険性が生じます。 その場合は、第15代神功天皇が中国魏王朝に臣従していたことになります。 このよう な事態を避けるため、日本書紀の編者は細工をしました。日本書紀は神功紀に魏志と晋起居注を引用しながら、卑弥呼・台与・邪馬台国との表現を一切避けて、単に年代を合わせるにとどめたのです。 そして神功皇后の人物像と治績は卑弥呼・台与とまったく異なります。 このようにしておけば、神功が卑弥呼・台与であるような無いような微妙になって、あいまいにしておけるからです。 日本書紀は、神功皇后が卑弥呼・台与とは断定していません。 また魏志および晋起居注を引用しながら、卑弥呼・台与・邪馬台国について一切記述していません。 更に、神功を天皇とはせず、あえて皇后にとどめ、後世の歴史家が万一神功=卑弥呼・台与と断定しても、日本の最高指導者・天皇は中国に臣従していない、との伏線を張ったのです。 日本書紀の編者は、後世の歴史家が神功紀と魏志などの漢籍を比較考証することを想定 していたと考えられます。 そのため、神功皇后の人物像と治績を卑弥呼・台与とは全く異なるものとし、神功皇后=卑弥呼・台与と断定出来ないようにしました。 そうすると、 卑弥呼・台与は時代こそ神功皇后と同じ3世紀でも神功皇后とは別人で、それこそ九州の女酋が中国魏王朝に臣従していたことになり、大和朝廷の権威を守ることができると踏んだのです。

以上、鷲﨑 弘朋著「邪馬台国の位置と日本国家の起源」より引用。
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この回答へのお礼

ちょっと隠し過ぎのような気がします。
魏志にはしっかり書かれているのに、
普通に記紀を読むと大和朝廷と邪馬台国は全く関係のない、
(て言うか出て来ない)国同士のように取られますね。
卑弥呼=神功皇后は推定出来てもその国自体が抹殺されている。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/04/14 18:49

>記紀に邪馬台国の記事が無い、のは不自然かと思いますが、もし畿内説を…



古事記も日本書紀も、日本の歴史を後世に伝えるために作られた書物ではありません。
天皇家の正当性を自己主張するため、創作されたものです。
したがって、当時の天皇家にとって都合の悪いことは書かれていません。

>記紀が邪馬台国に触れていない…

確かに古事記は全く触れていませんし、日本書紀も邪馬台国という言葉こそ出ていませんが、魏書 (魏志倭人伝) に日本についての記述があることは触れています。
日本書紀では、卑弥呼 = 神功皇后としています。
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この回答へのお礼

卑弥呼 = 神功皇后
なのに卑弥呼の国が抹殺されている。
そんなに都合が悪かったのですね。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/04/14 18:37

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Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

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死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

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江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

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きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

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そこで気になったのですが、当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??
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どなたか詳しい方に教えていただきたいです。よろしくお願いいたします。

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>当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??

現代日本のように正確な戸籍がなく、また全ての人が役所に登録していたわけではないので正確な人口はわかっていません。他の回答者の方が仰る通り3000万人~5000万人と推定するのが妥当でしょう。

>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

コミックや小説などの描写はたいてい嘘なので本気にしないでください。
最大規模の戦闘となった赤壁戦で両陣営合わせて十万を少し超える兵数です。それすら両陣営ともやや盛った数なので十万に届いていたかどうか。

>何十〜100万の兵
この数は当時の人にとってはSFファンタジー設定でした。
近代の戦争でやっと兵数「数十万」規模の戦闘が記録に登場します。古代と現代の人間の数がこれだけ違うことを考えれば、十万~100万の兵数がいかに思い切った架空設定であったか理解できるはずです。
あり得ない数で架空のお話を創って当時の観客を驚かせたのでしょう。なんでも派手なほうがエンターテイメントとして客を呼べますからね。

なお小説やコミックの『三国志』は三国時代以降に民間で演じられた舞台劇をもとにしたフィクションです。
小説家やマンガ作家の中にも現実を全く学ばずに書いている人が多いですから、あまり本気に受け取らないことです。


>また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」で描かれているような民間人も暮らすような場所

他の方が回答されている通りです。
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城を攻略することはすなわち街を攻略することになります。
「●●城が陥落した」という表現があれば、日本では「江戸が陥落した(江戸城ではなく)」というイメージになります。

>当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??

現代日本のように正確な戸籍がなく、また全ての人が役所に登録していたわけではないので正確な人口はわかっていません。他の回答者の方が仰る通り3000万人~5000万人と推定するのが妥当でしょう。

>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

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焦りまして、英国に追いつけ、追い抜けという
競争が始まり、
それが帝国主義へと発展しました。
追いつかないと侵略されるからです。


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一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを
拡大するため、あるいは新たな領土や天然資源などを獲得するために
、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、
さらにそれを推し進めようとする思想や政策。


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オーストリア・ハンガリーなどと同盟を結びます。
イギリスはドイツの進出に脅威を感じ、それに対抗するため
フランスやロシアなどと協定を結び、後に連合国を形成しました。
こうして、ヨーロッパの列強は二つに分かれて対立していきました。

そうした中で、オーストリア・ハンガリーの帝位継承者夫妻が
セルビア人の青年に暗殺されるという事件が起き、
これがきっかけで第一次大戦が始まりました。

米国は当初は中立だったのですが、ルスタニア事件を
口実に参戦し、英仏に味方しました。

英仏に味方したのは、イギリスやフランスが負けると、
大量の貸付が焦げ付くことになり、資金の回収が困難になるからです。
第一次世界大戦では、ドイツに勝ってもらうよりは、
イギリスやフランスに勝ってもらう方がアメリカには
都合が良かったわけです。
この戦争で米国は大儲けをして、一躍世界一の
大国に躍り出ることになりました。


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一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを
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構想から大衆向けの商品になるまでに、10~15年位かかっても不思議はないと思いますよ。
NASAは国家威信をかけた事業であった筈ですから、費用は青天井だったと思います。

Q卑弥呼が住んでいた邪馬台国って、今で言うとどこになりますか? 教えて下さい。

卑弥呼が住んでいた邪馬台国って、今で言うとどこになりますか?
教えて下さい。

Aベストアンサー

久留米あたりです。九州ですね。
魏志倭人伝ってのに書かれています。ネットで検索すれば原文と和訳とがすぐに見つかります。読んでみれば、久留米あたりであると分かります。

魏志倭人伝を読んだこともない人が沢山いて、そういう人たちが回答しています。ぜひ、自分で読んでみられることをおすすめします。


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