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不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

質問者からの補足コメント

  • つづき。

    けっきょく:
    ★ 【 因α(非知)⇒ 果β(既知)】という構図
    ☆ は つねに一人の人間のその主観であるにとどまるということになります。

    そこでは:
    ★ [ 果α > 果β ] / という関係性になっている
    ☆ ことがあるはずです。たしかに。

    そしてその主観――つまり神の摂理はこうなんだぞ――を他の人にも自由に自
    己表現していいわけですが(表現の自由) それが みなの共通の了解事項と
    はなることはありません。

    もともとの大前提の《絶対のへだたり。あるいは 直接的な因果関係ではない》
    が控えています。いくら《敬虔な信徒》の得た啓示であったとしても この因
    果ないし摂理の関係は 主観の外には出かけません。(旧約聖書の時代はそれ
    としてあり得ました)。

    これは タテの関係(非思考)とヨコの関係(思考・感性)の問題でもあると
    思います。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/14 18:54
  • №30への補足つづき。

    ★ ~~~~
    わたしとしては、
     ★「人間が存在する(という事実)」=果β
    だけについて考えたい、と思っている、・・・
    ~~~~
    ☆ 限定しなければならないとは思いませんが 取り上げる主題ないしその
    条件として 異なっているとは思っていません。

    非連続説では 《普遍神とわれとの関係》が この場合のいちばんの派生命
    題だと考えます。

    ★ わたしが非知説そのものを否定しているわけでないことは以前から申し
    上げているとおりです。
    ☆ そうでしたか。ただし 次の神の想定では 少し違うということでしょ
    うか。

    ★ しかし、その実体はわからないにせよ、自ら生み出したところの「神」
    という概念について考察する場合に「非知」はそぐわないだろう、というこ

    ☆ じつは神は 概念〔のみ〕ではないんです。概念という経験事象を超え
    ているのですから。ゆえに 非知なんです。

      補足日時:2017/05/14 19:03
  • №35を振り返って このあと どうしましょう?

    おっしゃるように一たん 休みますか?

    主題を変えて出直しますか?

    もう一ぺんだけ ご回答ください。

      補足日時:2017/05/15 18:32
  • №47お礼欄をおぎないます。

    けっきょく《不可知》は きわめて特殊な場合だけではないかと推理し
    ています。

    ただし 神の定義に用いられることがありますが この場合は 例外と
    して しっかりと問題として扱わなければならない。と考えます。

    こういう姿勢で 特に差しさわりはないと考えます。

    No.47の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/17 16:45

A 回答 (81件中61~70件)

云い湯加減のお風呂に入って気持ちいいのは、温度差があるから。


"差"が無ければ何も感じないはず。

主観と客観との"差"が「思考」を生み出す。

ブラジュロンヌさんの「式」は、、、
「非知」ー「不可知」ー「未知」ー「可知」
と、なる。

いったい、不可知ってなんでしょう。


※ こう云うのはどうでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 云い湯加減のお風呂に入って気持ちいいのは、温度差があるから。
"差"が無ければ何も感じないはず。
☆ なるほど。これは 一本取られました。

違和感がないというのは 温度差が適度にあってそう感じるってこと
ですか。なるほど。




★ 主観と客観との"差"が「思考」を生み出す。
☆ 片っ端から文句を言いつづけますが 《客観》は 曲者です。

たぶん 《そのものごとの内部にある要素要因も そして外部の情況
も さらには当事者の人それぞれについても ぜんぶ知ってその上し
っかりとした・誰にも非を指摘されることのない判断をほどこす》と
いうその認識と判断のことを言うのでしょう。

そういった《客観視》が出来ると仮定してそのような想定じょうの真
理の視点を イメージとして人びとは 描いているのかも知れません。

ということは:
★ 主観と客観との"差"
☆ というのは われがわが主観をつねにみづからうたがい その間
違いの可能性に注意を払っているといったことを 実際には意味する
のでしょうか。

そこから 確かに《思考》を できるだけ柔軟な開かれた内容のもの
として 生みます。




★ ~~~~~~~~
ブラジュロンヌさんの「式」は、、、
「非知」ー「不可知」ー「未知」ー「可知」
と、なる。

いったい、不可知ってなんでしょう。
~~~~~~~
☆ それぞれの図式的な理解としては 回答№7キサラギさんとのや
り取りで お礼欄に書きましたよ。



不可知は 知り得ないと知り得たことだとすれば 《知り得た(証明
し得た)》というからには そのことが(その観念のかたちが) 経
験事象ですから その経験事象であることの内におさまります。

答えは知り得ないのだけれど これこれこういう理由で知り得ないと
知り得た(そこまでは人知が及び得た)・・・わけですから この経
験世界の中におさまります。

未知も既知も――つまり可知も―― そうです。(経験事象を・そし
て人知のおよぶ経験事象のみをあつかっています)。

経験事象の中で 知り得ないと知り得たという不可知なるものは 特
殊なことなのだと考えます。

そうして この可知・不可知を超えるもの・つまりは 経験事象を超
える場を 非知として さらに区別することになるのだと思います。

お礼日時:2017/05/11 13:22

考えてみました。



温度。
人は自分の体温と同じ温度の"客体"にはその"温度"の存在は認識できない。"経験"から同じだと推測するばかりである。
あるいは重さ・大きさ・硬さなども同様に同じならば、重さ・大きさ・硬さなどは無い事になる。
これらのことは「不可知」と云えるのではないでしょうか。

このことをブラジュロンヌさんは精神に当てはめようと、いや当てはめているんでしょう。
差がない事、同質であること、等。

自我が現れる前の、生まれ落ちたばかりの幼子の心。この心は"神"の精神とは同質である、と想定するところからこの"親と子"の関係を「不可知」という言葉で表現しているのだと思います。

可知・・・主体と客体との差異ある故。
未知・・・主体と客体との差異ある故。
不可知・・一体であって、差異なき故。

こんなふうに。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わいわいえいとさんが 言おうとするところは だいたい分かります。

ただし 表現はつたない。はっきり言ってという緩衝器もつけません。

★ 人は自分の体温と同じ温度の"客体"にはその"温度"の存在は認識
できない。
★ 不可知・・一体であって、差異なき故。
☆ つまりお風呂(浴槽)に入ってちょうどよい温度というのは 熱
すぎず温(ぬる)すぎずということなのでしょう。

要するに違和感を感じないほど 適度である。ということ。



ここには 不可知は使いませんよ。

一般に可知(既知および未知)は 対象が経験的なものごとであるな
ら 何らかの方法を用いて・何とかして 知ろうとしますから 推定
としてでも まづはそう(つまり 可知だと)すでに決めています。

すでに知っているものもあるし 知らなくてもまだ知らないだけだと。

では 不可知とは どういうことか?

わたしの定義は 何らかのかたち(証明ということがのぞましい)で
知り得ないと分かったことというものです。




★ 自我が現れる前の、生まれ落ちたばかりの幼子の心。この心は"神"
の精神とは同質である、と想定するところからこの"親と子"の関係を
「不可知」という言葉で表現しているのだと思います。
☆ 《聖なる甘え》ですね。

神は 《非知》と定義していますよ。

親と子との理想的な・と言っても生まれつきそなわった自然本性にも
とづく普通の関係は なぜそれほど居心地がよいのか?
 
★ 差がない事、同質であること
☆ のごとくにも感じられる。

そして なぜそうなのか? それが 分かるか分からないかが 人間
には分からない・・・というほどである。

ゆえにそれは 神とわれとの――われの側におけるヘソの曲がる以前
のほどよい――関係にも似て 《非知》っぽい。と思われて来ます。

こんな感じでしょうか。




不可知は 知り得ないと分かっている(証明できている)ということ
ですから 神については使いません。だって 主観の内面にあっては
知り得るかも知れないからです。

ひょっとして知り得るかもというのが 非知です。

お礼日時:2017/05/11 07:40

なるほどたしかにそうかもしれません。

絶対にAであるというのは、A以外の可能性を100%排除しているわけではないですね。訂正しましょう。文章としては不自然になりますが、絶対にAである。そしてBでもある。というのは無理ではないような気がします。

一点補足ということですが、未知と不可知の違いについて。
知ることができないと証明された、と付け加えなければ、不可知について主観の判断に過ぎなくなってしまうということですね。
そうですね、証明というか、なんと言えばいいのでしょうね。知ることができないと定義した、ということになるのかな。いや、証明でもかまわないですね。ここは証明ということにしておきましょう。

他の方とのやり取りは少し見物させていただきますね。
ありがとうございました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ そうですね、証明というか、なんと言えばいいのでしょうね。
知ることができないと定義した、ということになるのかな。いや、
証明でもかまわないですね。
☆ 《知り得ない》という判断が 社会の基本的な思想を形成す
るほどにみとめられているなら――それが間違っている可能性は
あるのですが それでも一応―― 不可知が成り立つ・・・と言
えるかも知れないですね。

つまり 《証明し得た》という条件を緩和しようとした場合です。



★ 他の方とのやり取りは少し見物させていただきますね。
☆ げんみつに言えば 規約違反のうたがいが濃くなりますが
ご見解がありましたら――そのほうが 質疑応答の場における互
いの情報交換なる精神に合っていると思いますので―― どうぞ
投稿をお寄せください。

むろん基本は ご自由になさってください。

お礼日時:2017/05/11 00:08

#16です。



>ですが 《原因ないし因果関係》というのは あくまで経験世界における
事柄であり問題なわけです。

非連続と見ている非経験の場には この経験事象としての因果関係を持ち
込まないのですし 持ち込めないという大前提があります。連続していな
いと仮説しているからです。

それでも 因果応報説やら摂理観やらを持ち出すことがあるというのは 
あくまで非経験の場なる非知のほうからの われわれの世界へのハタラキ
カケ(その推理)としてのみです。

そうなのでしょうね。
その論理はわかるつもりでいます。
しかし、すべての論理は、結局のところ、「なぜなら、非連続なのだから、非経験の場なのだから、」が大前提として背景にあるだけ。
それを大前提とする根拠が必要なはずですが、つまり、なぜ非連続なのか?という点についての妥当な根拠説明が無い。
単に、「神」あるいは「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)」なるものによって経験事象が(連続的に)引き起こされている、という証明はできないのだから、と言っているにすぎないはずです。
つまり、あくまで帰納的な判断による消去法にすぎない。結果として非知・非経験は、消極的なスタンス、つまり曖昧性を払拭できないと言わざるを得ないのではないでしょうか。
わたしとしては、
★原因が新たな未知となって(常に)浮上する
のは事実というより、論理的な整合性を備えている命題だと思うからです。
であるなら、それは、
★『最終的原因』というものは見つからない
とする証明にならないはずがない。
とわけで、一応演繹の形にはなるのではないか、と思っているのですけどね。

>非連続の立ち場に 連続説の論理をあてはめておられる。この一点が問題
です。

これは、勘違いでしょう。
それぞれの成り立ちを分けて検証した上で対比的な批判を試みているだけです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ なぜ非連続なのか?という点についての妥当な根拠説明が無い。
☆ これは 直観に拠っています。ですから 連続説とは 見解の
相違になります。

論理による説明としては 《絶対と相対との対比》です。両者のあ
いだが連続しているとするなら 人間の理性や感性が 絶対の領域
にも通じているということになります。それはないだろう。という
のが 直観です。(人知のおよぶところではないという直観です)。


いや 連続しているはずだと言うのも おそらく直観に拠っている
のでしょう。

つまり 両者は 対等であるというのが 哲学の態度だと考えます。

もちろん 納得が行かない場合には さらに批判をすすめてくださ
い。

★ 単に、「神」あるいは「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理
(=あらゆる事象をバランスさせる力)」なるものによって経験事
象が(連続的に)引き起こされている、という証明はできないのだ
から、と言っているにすぎないはずです。
☆ これは 違います。非連続だという仮説を 真っ先に置いてい
るのですから この連続説にもとづく仮説の内容を 検証するとか
否定するとか そういう扱い方には なじまないのです。


★ ~~~~
わたしとしては、
 ★原因が新たな未知となって(常に)浮上する
のは事実というより、論理的な整合性を備えている命題だと思うか
らです。
~~~~~~
☆ という因果関係は 切れているとこちらは仮説しているからに
は この命題の検証という作業は やはりなじまないのです。

★ ~~~~
であるなら、それは、
 ★『最終的原因』というものは見つからない
とする証明にならないはずがない。
とわけで、一応演繹の形にはなるのではないか、と思っているので
すけどね。
~~~~~
☆ あくまで連続説という前提でのご議論である。と見るわけです。

わたしの見るところでは 連続説も 同じく直観に拠っているのだ
とは思っています。(余計なひとことです)。

連続説・非連続説の:
★ それぞれの成り立ちを分けて検証した上で対比的な批判を試み
ているだけです。
☆ とは いまのわたしの説明が採り入れられていないと思うから
には 思えないという疑問をのこします。

見解の相違を容認されていないように見られます。

お礼日時:2017/05/10 23:59

こんばんは。


NO.7でのやりとりで、
★ 実際には絶対的な隔たりがある空間が存在するのかどうかは未知で
あるけれど、あると仮定して
☆ 用語を当てるのは 《非知》なのだと考えるからです。

この黒星に対する白星の応答の意味がちょっとわからなくてですね、以後の非知と絶対に関する文言も意味を把握しかねたのですが、まず絶対という言葉について少し話そうと思います。
絶対という言葉は、それ以後に続く意味を100%確定する作用があるのだと思います。

・絶対にAである。←これは、A以外の可能性を全く排除しています。
・絶対にAではない。←これは、Aである可能性を全く排除しています。

要するに断言する、ということだと思います。

そして、非知という言葉ですが、こちらは知に非ずということで、絶対という言葉よりはわかりやすいかと思います。
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)ということですが、知ることの範疇の外という意味で知に非ず、非知でいいと思います。不可知は、知ることができない、未知は、未だ知られていない、非知は、知に非ず、ということですね。
未知、不可知、非知と話してまいりましたが、絶対という言葉がキーワードになったのかなと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ええっと。わたしはヘソが曲がっていますから げんみつにまいります。

★ ~~~
(あ)・絶対にAである。←これは、A以外の可能性を全く排除しています。
(い)・絶対にAではない。←これは、Aである可能性を全く排除しています。
~~~~~~
☆ これらは いづれも:
★ 要するに断言する、ということだと思います。
☆ とわたしも思います。ただしその中身は (あ)で違っています。

(あ)は 《Aである》ことが 間違いないと言っています。ですが ほかに
《Bである》可能性も 同時にあり得ます。

つまり・ですから:
(あ-1)・絶対にAだけである。
と言わないと 《A以外の可能性を全く排除してい》ることにはならないと思
います。





★ 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)ということですが、知
ることの範疇の外という意味で知に非ず、非知でいいと思います。不可知は、
知ることができない、未知は、未だ知られていない、非知は、知に非ず、とい
うことですね。
☆ ありがとうございます。

一点:《不可知》は 知ることができないと証明された だと思います。

そうでないと 未知との違いがはっきりしません。
別の言い方をすれば 《知ることができない》という説明だけでは ただわれ
の主観がそう考えたというだけの定義になってしまいませんか?




★ 絶対という言葉がキーワードになったのかなと思います。
☆ おっしゃるとおりだと思います。

そして ちょっと触れるならば はこぶる氏とのやり取りでは この絶対なる
領域とわれわれの住む相対的な経験世界とのあいだが 連続しているか・それ
とも非連続かで 見解が分かれている・・・このように考えています。

お礼日時:2017/05/10 22:17

#15です。



だいぶ煮詰まってきたように思いますので、応じる点を絞ります。
飛ばした中で応答を必要とするものがあればおっしゃってください。


《不可知と思う》という定義の仕方でも持ちこたえることが出来る
はずだという根拠は 人間の経験世界が そこから超経験の神の世
界にまで――人間の思考や想像の能力によって認識しうるかたちで
――連続しているという仮説が敷かれているからではありませんか?

☆連続している
ことは証明できませんから、仮説と言われればそれまでです。
しかし、たとえば、体外受精による代理母を想起します。
体外受精という技術が発見されるまでは、「彼女が生んだ」という事実は、「生まれてきたのは彼女の子供であること」の証明となり得ていたように思います。
つまり、彼女が生んだのだから彼女と子供は連続している(彼女の子供に決まってる)、と誰もが思っていたが、体外受精によって、それは連続の証明足り得ないことが判明したわけです。
たしかに、こうした事態にならないという証明はそれこそできません。
しかし、決定的な違いがあるとわたしは思います。
★原因が新たな未知となって(常に)浮上する
のは事実というより、論理的な整合性を備えている命題だと思うからです。
であるなら、それは、
★『最終的原因』というものは見つからない
とする証明にならないはずがない。

ところが、bragelloneさんが、おっしゃるのは、この証明に対して、
☆けれどもその証明が間違っていたと分かった。
という事態が起こり得ると考えるわけですよね。
ここにあるのは、事実と論理の取り違え、あるいは混同ではないでしょうか。
どうもそういう気がします。
「体外受精による代理母が子供を生んだ」という事実が「彼女が子供の母親であること」の証明となるかならないか、という問題と、
「人類の存在の原因を辿るなら、どこまでいっても★原因が新たな未知となって(常に)浮上する」という(あえて事実という表現を避けますが別に事実でも構いません)論理命題が「★『最終的原因』というものは見つからない」ことの証明となるかならないか、という問題を同列に捉えていることになる。
これは、到底納得できませんね。この意味で見解の相違と言わざるを得ない。

>ちょっとむつかしい部分については こりゃあ不可知っぽいと言っ
ておくこと それもありなのだ・・・ということになっているので
は?

上に申し上げたような理由で、
☆不可知っぽい
という表現は当たりません。
仮に、そう言っても良いのですが、それは、あくまで謙虚な表現として捉えるべきでしょう。どこが謙虚だとおっしゃるかもしれませんが、では、あくまで非連続という立場を貫ぬき、

「人類の存在の原因を辿るなら、どこまでいっても★原因が新たな未知となって(常に)浮上する」という(あえて事実という表現を避けますが別に事実でも構いません)論理命題が「★『最終的原因』というものは見つからない(=不可知)」ことの証明となる

ということを否定なさるのでしょうか?
であれば、謙虚に申し上げるなら、ここが最終的な見解の相違点になるのかもしれません。有体に申し上げるなら理解に苦しみます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


ここに到って まさに見解の相違なのです。連続か否かが決め手です。

★ ~~~
 ★原因が新たな未知となって(常に)浮上する
のは事実というより、論理的な整合性を備えている命題だと思うからです。
であるなら、それは、
 ★『最終的原因』というものは見つからない
とする証明にならないはずがない。

ところが、bragelloneさんが、おっしゃるのは、この証明に対して、
 ☆けれどもその証明が間違っていたと分かった。
という事態が起こり得ると考えるわけですよね。
~~~
☆ おそらく連続説に立てば この論理とその切り込み方で完璧であると
いうことなのでしょう。皮肉でも何でもなく。

ですが 《原因ないし因果関係》というのは あくまで経験世界における
事柄であり問題なわけです。

非連続と見ている非経験の場には この経験事象としての因果関係を持ち
込まないのですし 持ち込めないという大前提があります。連続していな
いと仮説しているからです。

それでも 因果応報説やら摂理観やらを持ち出すことがあるというのは 
あくまで非経験の場なる非知のほうからの われわれの世界へのハタラキ
カケ(その推理)としてのみです。




人間の世界には 能力の差があります。これを連続説において神の領域へ
とあてがうならば 神は 全知全能だということになるのでしょう。

ですが 非連続説では 神の属性は何かと――勝手に大胆にも人間が――
考えたとき それは 愛憎を超えた慈愛であり 善悪の彼岸であり 生死
を超えた永遠のいのちであり 能力差を超えた全知全能だという派生事項
が得られるという場合に限られます。



連続説で因果関係を神のほうへと延ばすなら 最終的原因あるいは《不動
の動(みづからは動かずして他のものを動かす第一原因)》という精神的
な地続きの理論が得られるという寸法なのです。

これらは まさに見解の相違です。

ですが 《見解の相違》についての見解が わたしたち双方では互いに違
っている。ということにもなっています。

おっしゃっている見解の相違点には わたしは同意しかねます。少なくと
も両説は 互いにかみ合っていないという点で一致しているかも分かりま
せん。

非連続の立ち場に 連続説の論理をあてはめておられる。この一点が問題
です。

お礼日時:2017/05/10 20:12

#12です。



1.

x 不可知だと思っていた
○ 不可知だと思っただけではなく 一応の理論づけた証明を成した。
けれどもその証明が間違っていたと分かった。
☆ ゆえにそのとき かつての不可知説を取り下げる。となります。

先の#14をご覧になっておられるでしょうから、それで答えになっていると思いますが、少しまとめると以下のように。
常に
★原因が新たな未知となって浮上するわけ
であり、それは、
★『最終的原因』というものは見つからない
とする証明と言えるはずだ。
この証明に対して、
☆けれどもその証明が間違っていたと分かった。
という事態が起こり得ると考えるのが妥当なのか否か、ということになるでしょう。
むろん、仮に、不可知説を取り下げるとしても、そのこと自体に何ら問題があるわけではない、というスタンスは変わらないわけですが。
やはり、見解の相違でしょう。

2.

★ 〔未知か既知かの・あるいは 可知かどうかの〕検証ができる性
質のものではない
☆ というのであれば・つまり《可知なのかどうなのか》を問題とす
るのであれば すでにそのとき 《可知》と《そうでないもの》との
区別が出来ていてもよいわけです。

つまり 推測で言うならば それは《事実であるかないか》という判
定基準でしょうか?

いえ、そうではなく、
《可知》⇒知り得ると思うもの。
《そうでないもの》⇒知り得るとは思わないもの。つまり不可知。
というだけの区別です。
また、
☆未知か既知か
という点について、「検証ができる性質のものではない」とは言ってませんので、誤解なきようお願いいたします。

3.
>《事実であるか無いか それが分からない》というのであれば 経験
事象であることを超えているのですから 非経験の場を想定し それ
は非知だという区分になります。

お立場からは、やはり、そういうことになるでしょうね。
その論理構成自体はわかります。

>これに代わる分類を示していただくことになるかと思います。もし不
可知を別の内容で定義するという《見解》の場合にはです。

#14をご覧頂けばわかることですので、あえて繰り返しません。

>《不可知と思う・思わない》の主観性を超えて一般性を主張するとい
う場合には 《事実であるかどうか》を問う問題をクリアなさること
が 重要ではないでしょうか?

ここもおっしゃりたいことはわかるのですけどね。
ただ、仮に(あくまで仮に、です)、
☆《事実であるか無いか それが分からない》
のだとしても、不可知と仮説することに、特に弊害が生じるとも思えないのですけどね。根拠さえ述べているのなら。少なくとも、
☆事象であることを超えているのですから 非経験の場を想定し それ
は非知だという区分
を設定するよりは、です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
★ ~~~~
常に
 ★原因が新たな未知となって浮上するわけ
であり、それは、
 ★『最終的原因』というものは見つからない
とする証明と言えるはずだ。
~~~~~
☆ すでに前回(№14)の末尾で 超経験は経験世界と《連続か
非連続か》で 見解が分かれると述べました。

非連続の立ち場では 《最終的原因》という設定は――超経験の属
性として派生させたとしても―― 神と人間世界との《直接の》原
因としては見ていないわけです。

つまり それが見つかる・見つからないの問題ではないわけです。
そういう見解の相違に――この場合にこそ―― なります。


2.
★ ~~~~~
《可知》⇒知り得ると思うもの。
《そうでないもの》⇒知り得るとは思わないもの。つまり不可知。
というだけの区別です。
~~~~~~
☆ おそらく経験合理性にもとづく推論ややり取りは その定義で
は無理だと考えます。《思う・思わない》を好きなように設定でき
るのだからです。論者によって千差万別です。

これが 見解の相違ではなく 趣味の相違なのだと思います。


3.
《不可知と思う》という定義の仕方でも持ちこたえることが出来る
はずだという根拠は 人間の経験世界が そこから超経験の神の世
界にまで――人間の思考や想像の能力によって認識しうるかたちで
――連続しているという仮説が敷かれているからではありませんか?

ちょっとむつかしい部分については こりゃあ不可知っぽいと言っ
ておくこと それもありなのだ・・・ということになっているので
は?

これは 見解の相違です。
人間の能力が 神の世界にとどくとは 仮説としてでも思わないと
いう立ち場の者にとっては そうなります。

お礼日時:2017/05/10 16:53

#13の続き。



4.

a.★ 「未知ではあるがいずれ可知となるはずのものだ(と思う)」
という立場の相手と見解の相違に至ることができる。
☆ 未知は 《可知となる はず》ではないです。もともと《可
知》であり その未知が既知と成り得ると言うに過ぎません。

☆もともと《可知》であり
とおっしゃいますが、そんなこと、誰が決めたのですか?
そもそも、
☆もともと《可知》
であるなら、人間が知り得ないことは本質的に何もない、ということになりますよね。

b.《見解》の相違には到っていないと思いますよ。趣味嗜好として
の主観は違うでしょうが。
そういった議論に限定されるなら不可知を使ってはいけないと思
います。

これも、おそらく、不可知に対する見解の相違ということになるでしょう。
そもそも、「不可知と思う」と言うことが許されない、ということ自体が不思議です。
議論というものは、所詮「~と思う」の応酬ではなかったんですかね。
不可知を否定するのは、単に「非知」に日の目を当てたいため【だけ】の、bragelloneさんの見解にすぎず、【だけ】という点において極めて合理性に欠ける論理である、という印象を今のところ受けます。
証明できるはずがない、という前提に立って、『知り得ないということが証明されない限り、「不可知」を使ってはいけない』とおっしゃっているのでしょう。
証明できないのなら、知り得るか知り得ないかは知り得ないと表現するのが妥当であり、それを非知と呼ぶのだ、と。

まったくわからない論理でもないのですが、2つの点で瑕疵が生じているように思っています。
まず、
☆ [ 未知は ] もともと《可知》であり その未知が既知と成り得る
という解釈が独断的である、というのが一点。
つまり、もともと《可知》でないものも含まれるという語彙要素を勝手に排除している。
次に、仮に、何らかの未知が既知となった場合を想定してみてほしいのですが、その既知となった事象はいかなる原因で顕現したものなのか?
という問題が残りますよね。
原因が新たな未知となって浮上するわけです。これを繰り返すことになるわけですが、その場合、『最終的原因』というものは見つからないと捉えるのが論理的判断ではないかとわたしは思います。
そのように判断した場合、人はこれを不可知と呼ぶわけでで、そのことに別に不合理はないはずです。
たしかに、その判断が甘かったという謗りを受けることはあるかもしれませんが、だからといって、じゃあ、
★『最終的原因』
というものが見つかるはずだ、と考えるのが合理的なのか?
いや、それがわからないからこそ非知なのだ、とおっしゃるかもしれませんが、これは逃げの論理、あるいは何らかの意図に基づく方便という印象しか持てない、ということ。くどくて恐縮ですが、
★『最終的原因』というものは見つからない
という判断に合理性が無いとするお立場であるなら、これは、(有体に言うなら理解できない、謙虚に言うなら)もう見解の相違そのものと言わざるを得ない。
また、
★『最終的原因』というものは見つからない
のが論理的判断であればこそ、それを摂理と表現できるのだとも思いますね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

4.a.
★ ~~~~~~
 ☆もともと《可知》
であるなら、人間が知り得ないことは本質的に何もない、ということに
なりますよね。
~~~~~~~
☆ ふつう〔自然〕科学者はあらゆるものごとを認識してやろうと思い
認識できるとも思っているのではないですか?

そして 少なくともこの経験世界における経験事象については まづ一
般に《可知》だと捉えるのだと思います。

ですから それでも《知り得ないと証明し得た》というわたしの定義に
なる不可知は 特殊な場合だと考えられます。

《証明しえた》という部分で そのものが《経験事象》であるという前
提のもとにありつづけています。《知り得ない》としてもです。

認識の能力と意欲とで《経験事象については 人間が知り得ないものは
ない》と だいたい思っているでしょうね 人びと(近代人)は。

《本質的に》かどうかは 別でしょう。


b.
★ 証明できるはずがない、という前提に立って、『知り得ないという
ことが証明されない限り、「不可知」を使ってはいけない』とおっしゃ
っているのでしょう。
☆ 論点がずれたと考えます。《知り得ないと証明されない限り それ
は〈未知〉であり 未知と呼べばじゅうぶんである》というたたき台と
しての論点です。

ではなぜそのとき《未知と言えばよく 不可知を使ってはいけない》と
言うのか? かんたんです。《不可知》なる用語を ただ単に《この未
知は どうもわれが思うに不可知っぽいなという感想をあらわすために》
用いるというのだからです。

余計なことを言うなという意味ではなく そのような用法は 哲学の議
論にはなじまないと言っています。そういう意味で 使ってはいけない
ものです。

★ もともと《可知》でないものも含まれるという語彙要素を勝手に排
除している。
☆ つまり 《もともと〈可知〉でないもの》とは なんでしょう?
という問い返しです。


★ ~~~~~
 ★『最終的原因』というものは見つからない
という判断に合理性が無いとするお立場であるなら
~~~~~~
☆ ここは一気に未知から非知ないしそれにかかわる不可知の問題に飛
んだ恰好です。

つまり 連続か非連続かの問題だと思います。そしてこの観点での問題
と見るのなら 見解の相違になるかも分かりません。

お礼日時:2017/05/10 16:35

#11です。



1.
>★ 「不可知」の場合、事実として顕現する状況ではない。なぜ
なら、単に人間の見解を述べているだけにすぎないので。
☆~~~。未知も同じことです。明後日は分からないと言えば それは一応 
未知です。一般性があります。不可知との《違い》として《事実
うんぬん》の問題はそのあとでしょう。

若干思い違いをされているようです。
☆明後日は分からないと言えば それは一応 未知です。
とのことですが、
☆明後日は分からないと言えば
その(言った)時点で未知という事実があることは確かですよね?
その意味で、不可知とは異なるということを申し上げた箇所です。

2.
>★ そう思わなければ、見解の相違ですね、で済みます。
☆ この場合の《見解》は ただの主観という意味になります。
もちろん趣味嗜好の問題として おれはその見解に対しては わ
が主観が取り合わないと言うことは 自由です。ですが 見解の
相違には成りません。

ここは、
☆《可知ですよ》とは指摘しないとしても 《不可知と言った
から その見解をほかの人たちはみとめて受け容れなければならないと
なるのですか?》と聞き返すことができます。
とおっしゃる箇所を受けての遣り取りですが、要するに、
可知も不可知も、そう思う、というだけにすぎないのであって、じゃあ、証明してみろ、と言われたら、ある程度の根拠を述べ合ったあとであれば、それ以上は言えないわけですから、これはもう見解の相違以外のなにものでもないと思うのですけどね。

3.
>《合理的》についての解釈が 反論の場合には 窮屈になってい
るのでは?

理由をおっしゃっていただけますか。
表現上の問題、つまり相手の文への理解・解釈だとすれば、それはお互い様でしょう。

念のため回答を分割します。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.★ ~~~~~
  ☆明後日は分からないと言えば
その(言った)時点で未知という事実があることは確かですよね?
その意味で、不可知とは異なるということを申し上げた箇所です。
~~~~~~~
☆ 《未知と見て言ったという事実》はありますが 《天候の事実
は 明後日にならないと分からない》はずですが。

2.★ 可知も不可知も、そう思う、というだけにすぎないのであ
って、じゃあ、証明してみろ、と言われたら、ある程度の根拠を述
べ合ったあとであれば、それ以上は言えないわけですから、これは
もう見解の相違以外のなにものでもないと思うのですけどね。
☆ あさって日が同じく昇るかどうかは 経験事象として分かるよ
うになります。まづ単純な可知は そういうたぐいのものでしょう。

不可知の場合は たとえば数学でポアンカレ予想たらかんたらいう
のがあるそうですが これにしても まづ証明が出来たのなら け
っきょく可知に属します。

証明ができるまでは 未知です。感想として こりゃあ不可知っぽ
いなと言ってもよいでしょうが ことの本質には影響しません。つ
まり 《不可知と思う》と言うんぢゃ話を成しません。

つまり そういう定義の不可知では 見解を成し得ません。


★ ~~~~~~
 3.  >《合理的》についての解釈が 反論の場合には 窮屈
   になっているのでは?

理由をおっしゃっていただけますか。
~~~~~~~
☆ これは 不可知の定義をなさるとき ご自分の説としては合理
的な説明をあたえようとされているのに 反論の場合には 次のよ
うな文脈で《窮屈 あるいは 粗雑》だと思ったことを申しました。

☆☆(№11お礼欄) ~~~~~~
3.
★ 不可知は可能性についての言及にすぎず、「不可知という状況」
は事実として存在し得ない。
☆ これは論点先取のあやまちを犯しています。

★ 「神は不可知」という状況
☆ も同じくだと思います。

《合理的》についての解釈が 反論の場合には 窮屈になってい
るのでは?
~~~~~~~~
☆ 不可知が定義をあたえられそれが一般にみとめられたあと:
★ 「不可知という状況」は事実として存在し得ない。
☆ ということが言えるようになります。こういう情況での発言で
す。

お礼日時:2017/05/10 16:11

#11です。



#10さんへのお礼を拝見して、ひとこと出しゃばります。

>つまり 不可知だと思っていたが 可知であった。ゆえに 不可
知とした見解を取り下げる。・・・と成ると思います。

それで何が問題となるのですかね?
再三、申し上げていますが、「不可知=不可知と思うこと」にすぎません。
可知であったとわかった時点で、「不可知と思ったがそうではなかった」と言えば済むこどで、論理的に重大な矛盾は別に生じないでしょう。
せいぜい、認識が甘かったな、と言われる程度。
ある時点で不可知と思ったのなら、それは不可知(=不可知と思う)と表現するしかない。
まさか、不可知と言ったのは間違いだった、と責めるわけにはいきません。
不可知と思う、と言ったにすぎないのですから。
これに対して、
既知だ。
未知だ。
のように断言することは可能なわけです。むろん、それが事実であれば、です。
であればこそ、未知だと思ったが既知だった(逆もまた同)、という場合は検証不十分ということで謝罪の必要性も浮上する。
しかし、不可知の場合、(単なる見解にすぎないのですから、)そうした検証ができる性質のものではない、という点をご理解いただく必要があると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~
 >つまり 不可知だと思っていたが 可知であった。ゆえに 不可
知とした見解を取り下げる。・・・と成ると思います。

それで何が問題となるのですかね?
~~~~~~~
☆ 舌足らずの部分がありました。

x 不可知だと思っていた
○ 不可知だと思っただけではなく 一応の理論づけた証明を成した。
けれどもその証明が間違っていたと分かった。

☆ ゆえにそのとき かつての不可知説を取り下げる。となります。




★ しかし、不可知の場合、(単なる見解にすぎないのですから、)
そうした〔未知か既知かの〕検証ができる性質のものではない、とい
う点をご理解いただく必要があると思います。
☆ これは すでに不可知という用語がみとめられていることを前提
としたご議論です。一般性のある《見解》になっているかどうかは
まだ決まっていません。

未知とどう違うのかを明らかにしていただかないと 話は 進みませ
ん。

すでに〔不可知という言葉を出すのは〕 修辞学の問題だ 形容語句
をつけ添えるだけであると了解がなっているのでは? (回答№11
の事項4などです)。




★ 〔未知か既知かの・あるいは 可知かどうかの〕検証ができる性
質のものではない
☆ というのであれば・つまり《可知なのかどうなのか》を問題とす
るのであれば すでにそのとき 《可知》と《そうでないもの》との
区別が出来ていてもよいわけです。

つまり 推測で言うならば それは《事実であるかないか》という判
定基準でしょうか?

つまり わたしの場合は あくまで《経験事象――思考や想像だけの
ものでも その観念さえも事実だとすれば 事実と同義――》という
範疇で 可知と不可知とを分けています。

《事実であるか無いか それが分からない》というのであれば 経験
事象であることを超えているのですから 非経験の場を想定し それ
は非知だという区分になります。

これに代わる分類を示していただくことになるかと思います。もし不
可知を別の内容で定義するという《見解》の場合にはです。

《不可知と思う・思わない》の主観性を超えて一般性を主張するとい
う場合には 《事実であるかどうか》を問う問題をクリアなさること
が 重要ではないでしょうか?

お礼日時:2017/05/10 08:36

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