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不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

質問者からの補足コメント

  • つづき。

    けっきょく:
    ★ 【 因α(非知)⇒ 果β(既知)】という構図
    ☆ は つねに一人の人間のその主観であるにとどまるということになります。

    そこでは:
    ★ [ 果α > 果β ] / という関係性になっている
    ☆ ことがあるはずです。たしかに。

    そしてその主観――つまり神の摂理はこうなんだぞ――を他の人にも自由に自
    己表現していいわけですが(表現の自由) それが みなの共通の了解事項と
    はなることはありません。

    もともとの大前提の《絶対のへだたり。あるいは 直接的な因果関係ではない》
    が控えています。いくら《敬虔な信徒》の得た啓示であったとしても この因
    果ないし摂理の関係は 主観の外には出かけません。(旧約聖書の時代はそれ
    としてあり得ました)。

    これは タテの関係(非思考)とヨコの関係(思考・感性)の問題でもあると
    思います。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/14 18:54
  • №30への補足つづき。

    ★ ~~~~
    わたしとしては、
     ★「人間が存在する(という事実)」=果β
    だけについて考えたい、と思っている、・・・
    ~~~~
    ☆ 限定しなければならないとは思いませんが 取り上げる主題ないしその
    条件として 異なっているとは思っていません。

    非連続説では 《普遍神とわれとの関係》が この場合のいちばんの派生命
    題だと考えます。

    ★ わたしが非知説そのものを否定しているわけでないことは以前から申し
    上げているとおりです。
    ☆ そうでしたか。ただし 次の神の想定では 少し違うということでしょ
    うか。

    ★ しかし、その実体はわからないにせよ、自ら生み出したところの「神」
    という概念について考察する場合に「非知」はそぐわないだろう、というこ

    ☆ じつは神は 概念〔のみ〕ではないんです。概念という経験事象を超え
    ているのですから。ゆえに 非知なんです。

      補足日時:2017/05/14 19:03
  • №35を振り返って このあと どうしましょう?

    おっしゃるように一たん 休みますか?

    主題を変えて出直しますか?

    もう一ぺんだけ ご回答ください。

      補足日時:2017/05/15 18:32
  • №47お礼欄をおぎないます。

    けっきょく《不可知》は きわめて特殊な場合だけではないかと推理し
    ています。

    ただし 神の定義に用いられることがありますが この場合は 例外と
    して しっかりと問題として扱わなければならない。と考えます。

    こういう姿勢で 特に差しさわりはないと考えます。

    No.47の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/17 16:45

A 回答 (81件中31~40件)

#49です。



1.
>見解の相違については このスレッドの早い段階から触れて来ていると思う
のですが。

触れる触れないの問題ではないでしょう。
見解の相違と認めるか認めないか、という問題じゃないですかね。
見解の相違ですね、しかし云々、とやってしまうと、キリがなくなる、あるいは水掛け論になる、と申し上げているところ。
では、見解の相違でいいんですね?
話をやめる気がないのなら、
☆早い段階から触れて来ている
などと言わないほうがよろしいですよ。

2.
a.とぼけていらっしゃるのでないとすれば、なかなか文面での会話は難しいものだな、という印象を受けますね。
>★★(回答№27)  [ 因ー不可知、果ー既知 ] という構図ではあるが〔因
果関係ではある〕
☆ これは 人知の及ばぬ超経験の場に入ってその最終的原因をさだめよう
としたはずです。

とのことですが、不可知、すなわち知り得ないことについて言ってるわけですから、それが
☆超経験
であるのは当然のことですよね?
ですので、
>★ 論理的根拠
☆ は この《超経験への突入》のときに 一たん断ち切れたはずなんです。

ともおっしゃっておられますが、別に断ち切れてはいないでしょう。

b.
>超経験の場も 連続している言うのでしょうが それは 想定としてであり 
直観に拠っているはずです。という意味ですよ。

これは、28回ぐらい申し上げたはずですが、
★因なくして果は無い
というのは合理的な命題と思っていますので、
☆想定
でも
☆直感
でもない、というのがわたしの「見解」です。

3.
>☆ 《タテの関係》と言えば 非思考ですよ。そうではないタテの関係を立て
るとおっしゃるなら それとしての定義をしてもらわないと 答えようがない
ですよ。

なるほど、そうおっしゃるかなとは思ったのですが、まあ、こちらが bragellone さんの表現を勝手に解釈していた、ということですね。
単に、「タテの関係=神(摂理)からの一方的なハタラキカケによって形作られているはずの関係」のように考えていただければよいかと思います。
ただし、(このようにおっしゃるかと思い)前回も念のため補足したはずですが、非思考ではないやつ、ですね。

4.
a.
>☆ 《介入(因果関係)》ではなく 淡い摂理関係を想定するとしても それ
は 直接のカカハリではないわけです。

それは同じですよ。

b.
>あるいは 《直接の介入》だとしてもそれは 個別のわれ一人の主観内のみだ
という意味です。一般化され得ません。

いえ、ですから、
「人間が存在する最終的原因」でも、
あるいは、
「人間が存在することに関してのタテの関係」でも良いのですが、
そのことについて、
☆淡い摂理関係
でも
☆《直接の介入》
でも構いませんが、そうした関係性にあるとき、A さんの場合は○○という関係、 B さんの場合は××という関係、のように異なるかもしれない、とおっしゃっていることになりますが、それで間違いありませんか?
と申し上げている次第。

c.
>介入(因果関係)を 一般的なハタラキカケ論として知ろうとしません。そう
は 立てていないんです。
しかも 或る人の主観としては――非思考ゆえに自由思考として―― 介入を
知り得たと思うことすらあり得ます。
:
そのことはもう十分わかっています。
ただ、ハタラキカケがある、という事実は変わらないわけですから、
☆知ろうと
していようがいまいが、
☆そうは 立てて
いようがいまいが、その関係性がどうなっているのかぐらいはおっしゃっていただく必要があると思うのですけどね。
そうでなければ、個人の勝手な受け止めに任せるということになるわけで、(いくら淡いと言っても)それはもう
☆ハタラキカケ
ではありませんよね?
つまり、非思考に連続性を(わずかでも)付加しようとするのは誤りではないのか、という気がするんですよ。
(当初、おっしゃっていたように)
☆絶対的へだたり
あるいは、完全なる
☆非連続
でいいんじゃないですか?
神のせきばらいを、経験事象の人間どもが、勝手にそれを忖度する、といった構図。
どうも、こう言っているとしか思えないんですよね。
☆ハタラキカケ
などと、連続性を付与させようと欲張りすぎじゃないんですかね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
見解の相違は 連続説と非連続説とのあいだのものです。

その基本の違いのほかに いくつか派生命題がありこれをめぐって互い
に知っておこうとした。

こういう感じです。

2.a
★ ~~~~
 >★ 論理的根拠
 ☆ は この《超経験への突入》のときに 一たん断ち切れたはずな
 んです。 

ともおっしゃっておられますが、別に断ち切れてはいないでしょう。
~~~~~
☆ 連続しているからなのでしょうが 《ここからは超経験へと進み入
る》という時(局面)があったはずです。

そのときには それまで経験事象について原因を遡及して来たその姿勢
が 一たん変化するはずです。

未知の領域から《人知の及ばぬ》領域に突入します。おそらく連続説は 
それでも 《直接のつながりがある》と捉えるでしょうが この《それ
でも》という断層があるはずです。

b.
★ ~~~~
 ★因なくして果は無い
というのは合理的な命題と思っていますので、
 ☆想定
でも
 ☆直感
でもない、というのがわたしの「見解」です。
~~~~
☆ 上の( a )の議論で 《論理ないし探究の姿勢に断層が出来る》そ
のあとでは 《想定》に拠ることになり それは 経験合理性(≒因果
関係の認識)を超えたゆえ あとは《直観》の問題になるはずです。

3.
★ 単に、「タテの関係=神(摂理)からの一方的なハタラキカケによ
って形作られているはずの関係」・・・ただし、・・・非思考ではない
やつ
☆ 《形作られているはずの関係》は 或る一人の主観の・それも《非
思考》としてのタテの関係の内に限るというのが こちらの定義です。

そのタテ関係が そちらの定義において 一般的に形成されているとす
るのなら 個別の主観であっても すでに一般的なヨコの関係にそのま
ま通じている。となります。

4.a.
分かりました。

b.
★ A さんの場合は○○という関係、 B さんの場合は××という関係、
のように異なる・・・か?
☆ タテ関係では 構図としては異ならないのが基本です。

c.
★ ~~~
 >介入(因果関係)を 一般的なハタラキカケ論として知ろうとしま
 せん。
その関係性がどうなっているのか
~~~
☆ 基本構図は どうもなっていません。主観内部では どうにでもな
り得ます。

お礼日時:2017/05/18 00:41

#48です。



>★ はぐらかさないで
☆ と言われれば 同じような説明でも 何度も重ねておこないます。

いやいや、そうじゃないでしょう。
☆同じような説明
という表現で、
☆’同じ説明
ではない、と暗におっしゃりたいのだとすれば、そこは目を瞑りましょう。
しかしですね、まあ、わたしの聞き方がまずかったのかもしれませんが、
☆《神‐われ なるタテ関係》
んついてわたしが問う場合、
☆’《最終的原因‐われ なるタテ関係》
という意味ですよ。
(神の定義を保留している現状において)そこはご理解いただいていると思ったのですけどね。いずれにせよ、
☆ つまり 《異なる部分》は (い・う・え)の区分や名称のことです。
は、信仰対象としての神について述べておられるにすぎないわけで、わたしにも若干の責がありそうですから、強くは言えませんが、答えになっていません。
で、改めてお尋ねします。

《最終的原因‐われ なるタテ関係》において、
A さんの場合は○○という関係、 B さんの場合は××という関係、のよ
うに異なるかもしれない、とおっしゃっていることになりますが、それ
で間違いありませんか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~
で、改めてお尋ねします。

《最終的原因‐われ なるタテ関係》において、
A さんの場合は○○という関係、 B さんの場合は××という関係、のよ
うに異なるかもしれない、とおっしゃっていることになりますが、それ
で間違いありませんか?
~~~~~~
☆ (あ) この場合のタテ関係というのは 連続説としては――連続
している〔と見る〕からには―― けっきょくヨコの関係でもある・・
・のではありませんか? 

(い) つまり《直接の――それを言葉で表現しがたいとしても 基本
は想定じょう直接の――つながり》がある。その基礎の上に この《タ
テ関係》が 誰にもいつかおとづれるようにして 成り立つ。のではあ
りませんか?

(う) すなわち だとすると:
★ A さんの場合は○○という関係、 B さんの場合は××という関係、
のよう
☆ だとした場合 それらは 理論づけて捉える対象ではなくなる。の
ではありませんか?

(え) その意味は ○○もxxも すでに個別の《タテ関係》であり
しかも同時に 一般の経験事象と同じくヨコの関係として その出来事
が生起している。のではありませんか?

(お) そういう多様性は 非連続説では ありません。想定していま
せん。強いて言えばそういう場合というのは 自由意志の発揮の仕方に
よる個性の問題とのみ捉えます。


まだ 問いの意味を掴み得ていないかも知れませんが このように。

お礼日時:2017/05/17 20:51

#46です。



1.
a.
>《絶対の隔たり》は 非経験の場を想定し それは認識の問題として非知
であると定義したところにすでに生じています。つまり 非経験の場は 相対
世界を超えている《絶対》として説明できますと言ったときに 隔たりという
中身を含んでいます。

この想定・この仮説にもとづき 理論を展開しているだけのことです。
根拠は 初めの想定です。

いや、ですから、それはわかってますって。
その
☆初めの想定
については、表現を様々に変え(つまり、新たな切り口、視点で)、色々述べていただきました。
そして、今は、新しい根拠を示すのではなく、
☆根拠は 初めの想定です。
と言うより他にない段階に入った。
こういうことですよね?
これを見解の相違と言うのだと思うのですけどね。

b.
>連続説が 直観に拠るのと同じように 非連続説も 直観に拠り想定をおこな
っています。

たしかに、
☆直感に拠る
点では同じですし、それは認めたはず。
しかし、連続説では、なぜそのような直感に拠るのか、という論理的根拠もお示ししたはずです。(#27で)
しかし、非連続説は、それを示していない。
どこまでいっても、そのように規定しているからという「見解」を根拠として再浮上させているだけでしょう。
いっしょにしないでください。

3.
> そこで《タテの関係》はないのですか? という問いになっています。

すでに、#43で、次のように確認していたはずなのですが。
★☆《神とわれとの タテの関係――非思考の庭――》
において〔のみ〕で
【つながっている】とおっしゃいましたが、そうしたつながりは、誰にでも訪れるものですよね。(否なら、その理由をお示し願います。イエスと考えて先に進みます)☆★
否定されていませんから、わたしが、
★そうしたつながり(神とわれとの タテの関係)は、誰にでも訪れるもの
と考えていることはお分かりになっていると思ってました。
むろん、(神に対する捉え方が一致しているわけでありませんから)
☆非思考
ではありませんよ。
で、答えは「ある」ですね。

4.
>☆ タテの関係(非思考)とヨコの関係(思考・感性)を区別するからです。

なるほど。わかりました。
いずれにせよ、区別するしない以前に、
☆非思考
という見解時点で食い違っているようです。
ここの論点は#44お礼欄で俯瞰できるのですが、以下のようになっています。

→→→★ ~~~
 ☆神が人間世界に《直接に》介入していても それは 人間には分から
 ない。
という点では同様ですよ。
~~~
☆ 不可知だけれど 《介入(因果関係)はある》のですよね?
非連続説では ある・ないについても 言いません。主観内面に閉じ込め
ます。←←←

☆非連続説では(《介入(因果関係)》が) ある・ないについても 言いません。
とおっしゃっておられますが、正確には、
☆’非連続説では(《介入(因果関係)》が) あるかないかは知り得ない、と捉えます。
ということですかね。
今までの理解からいくとそうなると思うのですが、誤解があるようならご指摘ください。
誤解がないようなら、やはり、非知の定義を前提として展開しているだけであり、見解の相違になってしまうと思うのですけどね。
様々な角度からお伺いできるのは有難いと言えば有難いのですが、どうも決定的に新たな視点とまでは言えない印象でして。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.a.
★ これ(* 省略しました)を見解の相違と言うのだと思うのですけどね。
☆ 連続説は きょう挙げたあたらしい質問で触れていると思いますが 非
連続説を基礎とした場合にもそこから派生する別の仮説として立ち上げるこ
とができると捉えています。

見解の相違については このスレッドの早い段階から触れて来ていると思う
のですが。

b.
★ しかし、連続説では、なぜそのような直感に拠るのか、という論理的根
拠もお示ししたはずです。(#27で)

★★(回答№27)  [ 因ー不可知、果ー既知 ] という構図ではあるが〔因
果関係ではある〕
☆ これは 人知の及ばぬ超経験の場に入ってその最終的原因をさだめよう
としたはずです。

★ 論理的根拠
☆ は この《超経験への突入》のときに 一たん断ち切れたはずなんです。

超経験の場も 連続している言うのでしょうが それは 想定としてであり 
直観に拠っているはずです。という意味ですよ。


3.
☆☆ 《神とわれとの タテの関係――非思考の庭――》
★ ~~~~
そうしたつながりは、誰にでも訪れるものですよね。・・・むろん、(神に
対する捉え方が一致しているわけでありませんから)
 ☆非思考
ではありませんよ。
で、答えは「ある」ですね。
~~~
☆ 《タテの関係》と言えば 非思考ですよ。そうではないタテの関係を立て
るとおっしゃるなら それとしての定義をしてもらわないと 答えようがない
ですよ。


4.
★ ~~~
 ☆非連続説では(《介入(因果関係)》が) ある・ないについても 言いま
 せん。
とおっしゃっておられますが、正確には、
 ☆’非連続説では(《介入(因果関係)》が) あるかないかは知り得ない、と
 捉えます。
ということですかね。
~~~
☆ 《介入(因果関係)》ではなく 淡い摂理関係を想定するとしても それ
は 直接のカカハリではないわけです。

あるいは 《直接の介入》だとしてもそれは 個別のわれ一人の主観内のみだ
という意味です。一般化され得ません。

介入(因果関係)を 一般的なハタラキカケ論として知ろうとしません。そう
は 立てていないんです。

しかも 或る人の主観としては――非思考ゆえに自由思考として―― 介入を
知り得たと思うことすらあり得ます。

お礼日時:2017/05/17 20:38

#45です。



1.
>違いますよ。こちらの仮説を説明しているだけです。
> いえいえ。その意味での見解の相違は このスレッドで早い段階でお
伝えしていますよ。説明は 必要な限り何度もおこないます。

「見解の相違」と言えるのは、これ以上、論理的な根拠を挙げての説明が不可能だという状況に達した場合だと思います。
ですので、いくら必要であっても、新しい切り口や視点を示した上で話すのでなければ、つまり、単なる繰り返しになってしまっているわけですから、見解の相違が成立しているように思うのですけどね。

2.
>非連続説では 遡及するかたちで捉えるところの最終的原因という規定は 
ありません。

なぜ、そんな瑣末な、しかも表現上の点に拘るのか理解に苦しみますね。
まあ、それはさておきますが、
☆《神‐われ なるタテ関係》としての個々のわれは 互いに異なっている
か? それは 《人であることと タテ関係という構図》は 互いに同

とおっしゃったわけですよね?
では、その
☆《神‐われ なるタテ関係》
について、
A さんの場合は○○という関係、 B さんの場合は××という関係、のように異なるかもしれない、とおっしゃっていることになりますが、それで間違いありませんか?
とお尋ねしているわけです。
今度は、はぐらかさないできちんと答えてください。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
★ 新しい切り口や視点を示した上で話すのでなければ
☆ 今回の場合について言えば 同じような種類や内容の説明であって
も 誤解を解くため・または 誤解されやすい箇所をさらに分かりやす
く表現を尽くすために重ねておこなっています。


2.
★ ~~~~~~
 ☆《神‐われ なるタテ関係》としての個々のわれは 互いに異なっ
  ているか? それは 《人であることと タテ関係という構図》は 
  互いに同じ
とおっしゃったわけですよね?
では、その
☆《神‐われ なるタテ関係》
について、
A さんの場合は○○という関係、 B さんの場合は××という関係、のよ
うに異なるかもしれない、とおっしゃっていることになりますが、それ
で間違いありませんか?

☆☆(№45お礼欄)  ~~~~~~
その○○やxxが 非連続説での《非知なるナゾ》のことだとすれば: 
(あ) 基本的には〔――表現が○○とかxxとかであるにかかわらず――〕
普遍神〔のこと〕です。
(い) 具体的には まづ《有る神と無い神》とに分かれます。(人の自由
選択)
(う) さらに《有る神》は ブラフマンやヤハヱ―やアミターバ・ブッダや
アッラーフなどなどに分かれます。名が異なるのみです。
(え) 自分の神をいだいて自由に名をつけてもかまいません。
~~~~~~~~
☆ つまり 《異なる部分》は (い・う・え)の区分や名称のことです。

《○○という関係、 ××という関係》というかたちに合わせるなら:
(お) 類型として《梵 - 我一如》なるタテ関係のことです。
・ 梵我一如:ブラフマン神(梵)‐ アートマン(霊我)の一体
・ 無梵無我一如:シューニャター(空:無梵)‐ アン-アートマン(無我)
   =無神論
・仏仏一如:アミターバ・ブッダ ‐ ブッダター(仏性)=有神論
・霊霊一如:キリスト(神・霊) - われ(霊)

☆ この《梵我一如》類型が わが非思考の庭に成る。という見方です。

あと 《異なる部分》は それぞれの個性の部分です。自由意志の発揮の仕方
で よくもわるくも独自の性格を形成すると言えます。

★ はぐらかさないで
☆ と言われれば 同じような説明でも 何度も重ねておこないます。

お礼日時:2017/05/17 18:52

不可知という言葉は、辞書にあるような「人知では推し量る事の出来ない物事」という意味で使う事で構わないと思います。


それでは、どんな事が不可知と云えるかと言う事が問題なんでしょう。

他人の心は推測でしか知る事は出来ない、と言った意味合いの事を先に投稿したら、ブラジュロンヌさんは、たくさん深みのある分析をしてくれました。

それによると、結局曖昧な要素があり過ぎて可知とも不可知とも言えない、というご意見のようでした。と言う事は「未知」と言うことになるのでしょうか。

「不可知論」で、その定義を考えるなら具体例を持って探究するのが必須かと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 不可知という言葉は、辞書にあるような
「人知では推し量る事の出来ない物事」
という意味で使う事で構わないと思います。
☆ ところが おっとどっこい! 《人知》というときそれは 誰が決めて
いるのでしょうか?

《推し量る事の出来ない》というその度合いは どうなんでしょう? だれ
が考えても人知は及ばないというのなら それは どのように証明されてい
ますか?

それを定義しないうちは 哲学として使えません。という疑問・質問です。


★ それでは、どんな事が不可知と云えるかと言う事が問題なんでしょう。
★ 「不可知論」で、その定義を考えるなら具体例を持って探究するのが必
須かと思います。
☆ そうなんですが――まったくそうなんですが―― 不可知の事例は む
つかしい。

数学でそういう事例があるかに聞きますが わたしはしっかりと説明するま
でに到りません。

ただし 超経験の神について不可知だという定義を与えること このことに
は 抵抗があり じっさい批判しています。そして いまはこの問題一点を
めぐって問い求めをすすめてもよいとは 思っています。




★ ~~~~~~~~~
他人の心は推測でしか知る事は出来ない、と言った意味合いの事を先に投稿
したら、ブラジュロンヌさんは、たくさん深みのある分析をしてくれました。

それによると、結局曖昧な要素があり過ぎて可知とも不可知とも言えない、
というご意見のようでした。と言う事は「未知」と言うことになるのでしょ
うか。
~~~~~~~~~
☆ 大雑把に言えば 《既知と言ってよい部分と そして 未知だと言わざ
るを得ない部分》とがあると考えています。

《不可知》という部分は まれだと思っています。(理由説明しがたいので
そういう感触だけです)。

《さとり》の問題にまでなると 《非知》すなわち《神 と われとの一如》
の問題に行き着きます。つまり 《非知》が出て来ます。

お礼日時:2017/05/17 16:40

#44です。



1.

☆ 《永遠》は われわれ相対的な存在とは 絶対のへだたりがあります。
☆しかも その絶対が絶対の側から 人間にハタラキカケをおこなっている
と推し測り得ます。

こうした記述は詭弁とみなす、と事前に申し上げたはずですので、そのように受け止めます。
理由もすでにお示ししましたが、あえて繰り返すと、これは連続説と何ら変わらない
☆推し量り
だからです。
つながっているかいないか、を論じているときに、こうしたことをおっしゃるのは理解できませんね。
連続説の場合も、直截的に繋がっているような経験事象とは分けて考える、ということもお伝えしているわけですから。

>神が人間を信じるかどうかの問題ではなく 現実はその逆の向きになるの
も 絶対の隔たりゆえです。

ここも
☆絶対の隔たり
を大前提にして述べておられる。
なぜ
☆絶対の隔たり
と言えるのか?
ということをお示しいただかないと、意味がない記述だとは思われませんか?
子供がダダをこねているようなものですよ。

3.
>a.
★ ~~~
 ☆《われ‐われなるヨコの関係》
は結果的に(無意識的である場合も含め)構築されている、と捉えるのが
妥当でしょう
~~~
☆ このヨコの関係は 最終的原因にまでつながっているのですか? つ
まり タテの関係は ないのですか?

むろん、つながってますよ。
その
★結果的に
という構文ですから。

>b.
★ ~~~
 ☆神が人間世界に《直接に》介入していても それは 人間には分から
 ない。
という点では同様ですよ。
~~~
☆ 不可知だけれど 《介入(因果関係)はある》のですよね?

そうです。
別に齟齬は生じていませんよね。

>非連続説では ある・ないについても 言いません。主観内面に閉じ込め
ます。

はい、そういうお考えであることは理解しています。
なぜ言わないのか?
という点についての論理的根拠が必要だ、ということに気づいていただきたい。
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この回答へのお礼

1.
《永遠》の事例をめぐって:
★ ~~~
こうした記述は詭弁とみなす、と事前に申し上げたはずですので、そのように
受け止めます。
理由もすでにお示ししましたが、あえて繰り返すと、これは連続説と何ら変わ
らない
 ☆推し量り
だからです。
つながっているかいないか、を論じているときに、こうしたことをおっしゃる
のは理解できませんね。
連続説の場合も、直截的に繋がっているような経験事象とは分けて考える、と
いうこともお伝えしているわけですから。
~~~~
☆ こちらとしては 《永遠》は 概念であるだけではないという命題を説明
しています。

★ ~~~~~
ここも・・・なぜ
 ☆絶対の隔たり
と言えるのか?
ということをお示しいただかないと、意味がない記述だとは思われませんか?
~~~~~~
☆ 《絶対の隔たり》は 非経験の場を想定し それは認識の問題として非知
であると定義したところにすでに生じています。つまり 非経験の場は 相対
世界を超えている《絶対》として説明できますと言ったときに 隔たりという
中身を含んでいます。

この想定・この仮説にもとづき 理論を展開しているだけのことです。
根拠は 初めの想定です。
連続説が 直観に拠るのと同じように 非連続説も 直観に拠り想定をおこな
っています。

3.a.
★ ~~~
 ~~~~~~~
  ☆《われ‐われなるヨコの関係》
 は結果的に(無意識的である場合も含め)構築されている、と捉えるのが妥
 当でしょう
 ~~~~~~
 ☆ このヨコの関係は 最終的原因にまでつながっているのですか? つま
 り タテの関係は ないのですか?

むろん、つながってますよ。
その
★結果的に
という構文ですから。
~~~~~
☆ そこで《タテの関係》はないのですか? という問いになっています。

b.
★ ~~~
 >非連続説では ある・ないについても 言いません。主観内面に閉じ込め
 ます。

はい、そういうお考えであることは理解しています。
なぜ言わないのか?
という点についての論理的根拠が必要だ、ということに気づいていただきたい。
~~~~~
☆ タテの関係(非思考)とヨコの関係(思考・感性)を区別するからです。

これも ひとつの主題であり論点として浮かび上がったかに思われます。

お礼日時:2017/05/17 16:27

#43です。



1.

a.つまり 《ある》と認識している限りで――その中身が不可知であって
も――そのものは 人知がおよんでいます。

そういうご見解であることはわかりました。
☆そのもの
自体が何かわからないのですから、人知がおよぶことは不可能、という意味で不可知というのがこちらの見解。
この点は、よほど新しい切り口が出ないかぎり水掛け論になるでしょう(というかすでになっている)。

b
★ 根拠を挙げずに、非経験・非知を一方的に擁護しているだけ。
☆ それを遡及の過程で見つけた(認識し得た)と言っているのではな
く 遡及は初めからしていずに 《絶対》なる超経験の場を想定し そ
の仮説をめぐって その余のものごとと食い違いはないようだと言って
います。

ですから、ここも、
☆《絶対》なる超経験の場を想定
していることを大前提に話を展開しているわけで、水掛け論、堂々巡りを繰り返していることになりますよね。
また、なぜ、
☆《絶対》なる超経験の場を想定
するのか?
という点については、既に十分伺ったはず。
何か新しい切り口をお示しいただくなら別ですが、見解の相違で落ち着けるころあいじゃないですかね。
少なくとも、今回のa,bのような記述は(その内容自体ではなく、あくまで現時点においては)無意味、無駄と言えるでしょう。

2.
>《神‐われ なるタテ関係》としての個々のわれは 互いに異なっている
か? それは 《人であることと タテ関係という構図》は 互いに同
じですが あとは 何とも異同について分かりません。

☆《神‐われ なるタテ関係》は、誰にでも訪れるものである。
しかし、「人間が存在する最終的原因」については、A さんの場合は○○という原因、 B さんの場合は××という原因、のように異なるかもしれない、とおっしゃっていることになりますが、それで間違いありませんか?
☆宗教のオシヘ
については、まだ、それを論じる素地ができていない(片付いていない問題を放置したまま論じても意味が無い)はずですので、今はスルーします。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.a

★ 〔そのもの〕自体が何かわからないのですから、人知がおよぶことは
不可能、という意味で不可知というのがこちらの見解。
☆ こちらのコメントとして:
結果から原因へ・そのまた原因へと遡及するというのは 事実として捉え
ていなくても 論理的には一つひとつの原因=結果なるものについて《あ
る》という想定を与えている。その限りで その《ある》ものに人知は及
んでいる。という見方です。


b
★ ~~~~~
ですから、ここも、
 ☆《絶対》なる超経験の場を想定
していることを大前提に話を展開しているわけで、水掛け論、堂々巡りを
繰り返している
~~~~~~
☆ 違いますよ。こちらの仮説を説明しているだけです。


★ ~~~~~
また、なぜ、
 ☆《絶対》なる超経験の場を想定するのか?
という点については、既に十分伺ったはず。
何か新しい切り口をお示しいただくなら別ですが、見解の相違で落ち着け
るころあいじゃないですかね。
~~~~~~
☆ いえいえ。その意味での見解の相違は このスレッドで早い段階でお
伝えしていますよ。説明は 必要な限り何度もおこないます。


2.
★ しかし、「人間が存在する最終的原因」については、A さんの場合は
○○という原因、 B さんの場合は××という原因、のように異なるかもし
れない、とおっしゃっていることになりますが、それで間違いありません
か?
☆ その○○やxxは そうだとしたら 連続説における《最終的原因》
としての具体例でしょう。

非連続説では 遡及するかたちで捉えるところの最終的原因という規定は 
ありません。

その○○やxxが 非連続説での《非知なるナゾ》のことだとすれば: 
・ 基本的には 普遍神です。
・ 具体的には まづ《有る神と無い神》とに分かれます。(人の自由選
択)
・ さらに《有る神》は ブラフマンやヤハヱ―やアミターバ・ブッダや
アッラーフなどなどに分かれます。名が異なるのみです。
・ 自分の神をいだいて自由に名をつけてもかまいません。

★ ~~~~~
 ☆宗教のオシヘ
については、まだ、それを論じる素地ができていない(片付いていない問
題を放置したまま論じても意味が無い)はずですので、今はスルーします。
~~~~~
☆ うけたまわりました。

お礼日時:2017/05/17 16:07

#42です。



1.
>連続説とは――ほんとうに端折った言い方なんですが――:
《人間と神との――それを結果と原因の関係として捉えようとしたかた
ちでの――つながりがある》と想定している。

そのとおりです。

2.
>非連続説では はっきりと《絶対のへだたりがある》と想定します。

これは違うでしょう。
☆それでも ハタラキカケは――神の側から一方的に――あり得ると推
測し得る(#30お礼欄)
とおっしゃっているわけですから、ダブルスタンダード。
ただし、たとえ
☆絶対のへだたり
があっても
☆ハタラキカケは――神の側から一方的に――あり得る
のだ!
とおっしゃるのなら理解できます。
しかし、その場合は、見解の相違に達したことになる。
「【絶対的な】へだたりがあるならハタラキカケはできない」というのが合理だと思うので。
万一、「絶対的ではないへだたり」とおっしゃるようなら、それは(連続説と同じことになるので)詭弁とみなします。

3.
>別の言い方では 非連続説では 《神とわれとのタテの関係》は 非思
考(つまり 神からの一方的なハタラキカケ)だと見ていて そのタテ
の関係〔なる主観〕が 《われ‐われなるヨコの関係》に 直接に介入す
ることはない。
神が人間世界に《直接に》介入していても それは 人間には分からな
い。
連続説では どうか? どうでしょう?

a.☆そのタテの関係〔なる主観〕が 《われ‐われなるヨコの関係》に 直接に介入す
ることはない。
という点に関しては、#43で述べましたので繰り返しませんが、
☆《われ‐われなるヨコの関係》
は結果的に(無意識的である場合も含め)構築されている、と捉えるのが妥当でしょう、ということになります。

b.☆神が人間世界に《直接に》介入していても それは 人間には分からない。
という点では同様ですよ。
そもそも
★人智の及ばぬ
と規定しているのですから。
《直接に》という表現すら妥当ではない。

4.
>☆ 非思考の庭では 非思考と捉えているゆえに そこではいかなる主
観的な思考や想像をもまったく自由に成し得ます。非思考の海を自由に
泳ぎまくってもよい。いくら甘えてもよい。

ヨコの関係なる社会における発言としては 経験合理性(≒因果関係の
認識)にもとづき 言わば《非思考なる主観》を翻訳したあとの自己表
現としておこなう。

こういった場面こそに「非共同化」という概念は適用されるべきじゃないでしょうか。
同時に、これはむしろ宗教・信仰の領域のような気もするわけですが。

5.
>このスレッドで何らかの――中間決算のようなものでしょうが――結着
がつくとよいですね。

そうですね。
まあ、仲良しクラブ(お達者クラブにはお互いまだ若干の間がありそうですし)ーそういうのが好きな方もいらっしゃるようですがーではないので、あくまで論理最優先で、結果的に、
☆中間決算のようなもの
が得られるなら、これに越したことはないですね。
ただ、司会者のよろしきを得て、結果如何に関わらず、それなりに深堀りできているのではないですかね、すでに。
その点では感謝している次第。
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この回答へのお礼

つづきます。

1.
☆☆ 《人間と神との――それを結果と原因の関係として捉えようとした
かたちでの――つながりがある》と想定。

★ そのとおりです。
☆ あぁ よかった。

2.
★ 「【絶対的な】へだたりがあるならハタラキカケはできない」という
のが合理だと思う。
☆ 《永遠》は われわれ相対的な存在とは 絶対のへだたりがあります。
しかも その絶対が絶対の側から 人間にハタラキカケをおこなっている
と推し測り得ます。何もないなら この言葉≒概念は とっくに廃れてい
るからです。

その程度のハタラキカケでよいわけです。ですがそれは 絶対のへだたり
がある間柄ゆえに 相対のほうへ作用し得ます。相対どうしなら そうい
うハタラキカケがあったとしても 一方の側は 無視し得ます。

神が人間を信じるかどうかの問題ではなく 現実はその逆の向きになるの
も 絶対の隔たりゆえです。

ここが あたかも一般の人びとにとって盲点であるようです。人間原理で
考えがちなようです。

3.a.
★ ~~~
 ☆《われ‐われなるヨコの関係》
は結果的に(無意識的である場合も含め)構築されている、と捉えるのが
妥当でしょう
~~~
☆ このヨコの関係は 最終的原因にまでつながっているのですか? つ
まり タテの関係は ないのですか?

b.
★ ~~~
 ☆神が人間世界に《直接に》介入していても それは 人間には分から
 ない。
という点では同様ですよ。
~~~
☆ 不可知だけれど 《介入(因果関係)はある》のですよね?

非連続説では ある・ないについても 言いません。主観内面に閉じ込め
ます。

4.
★ ~~~
こういった場面こそに「非共同化」という概念は適用されるべきじゃ
ないでしょうか。
同時に、これはむしろ宗教・信仰の領域のような気もするわけですが。
~~~
☆ タテ信仰が そのまま共同化されることはあり得ません。

宗教は №43の(2)で触れました。ヨコ領域です。

5.
★ ~~~
 >このスレッドで
あくまで論理最優先で、結果的に、
 ☆中間決算のようなもの
が得られるなら、これに越したことはないですね。
ただ、司会者のよろしきを得て、結果如何に関わらず、それなりに深堀りで
きているのではないですかね、すでに。
その点では感謝している次第。
~~~
☆ 謝謝。

お礼日時:2017/05/16 19:33

#41です。



1.
a.
>☆ そういう論理も言い得ますが ここで言ったのは 《不可知なものが
ある》ということです。《ある》という認識として 人知が及んでいます。

論点のすり替えですね。
☆(《不可知なもの》が)《ある》という認識として 人知が及んで
いない、とは言ってませんよね?
《不可知なもの》に人智が及んでいない、と言ってるだけ。
というか、人智が及んでいないからこそ《不可知》と言ってるわけで、じゃあ、なぜ「人智が及んでいない」と言えるのかという点について、は137回ぐらい申し上げたはず。
ここは蒸し返されませんように。

b.
>言いかえると 《全面的に人知が及ばぬ》のは 超経験であり 非経験の
場であり 非知として捉える神に――論理の必然として――なります。

a でお気づきだと思いますが、
全然、言い換えになってません。
(新しい)根拠を挙げずに、非経験・非知を一方的に擁護しているだけ。

2.
☆ 非連続説では / ハタラキカケが / 神の側から一方的に / あり得る /
  と推測する
★という非確信的見解なのだとしても、そうした状態自体は、やはり、《連
続》つまり《つながっている》と言うしかないのではないか?
☆ はい。わたしの言う《神とわれとの タテの関係――非思考の庭――》
において〔のみ〕です。
まったくの主観としてです。この主観が 思考と感覚とをとおしてマジハリ
を成す《われ‐われなるヨコの関係》においては 共同化されることはあり
ません。
主観内においてのみ 非思考の庭にかかわる観念として《神とわれとがつな
がっている》と思っているでしょう。

ここの記述は極めて重要ですね。
では、お尋ねします。
☆《神とわれとの タテの関係――非思考の庭――》
において〔のみ〕で
【つながっている】とおっしゃいましたが、そうしたつながりは、誰にでも訪れるものですよね。(否なら、その理由をお示し願います。イエスと考えて先に進みます)
★「人間が存在する(という事実)」=果β
だけについて「人間が存在する最終的原因」を考えたい、と申し上げた(#30)わけですが、この場合、
☆《神とわれとの タテの関係》
は個々で異なる関係になるわけでしょうか?
そんなことはありませんよね?(もしなるなら、その理由をお願いします)
つまり、
☆まったくの主観として
である点は同意できますが、誰もが、そうした主観を持ち得るのだとするなら、
☆《われ‐われなるヨコの関係》においては 共同化されることはありません。
と言いながら、結果的に共同化されている、と言わざるを得ないのではないか?
このように思う次第。(この点について否なら理由は不要。見解の相違でしょう。特に補足したい点がおありのようでしたが伺うことにやぶさかではありませんが)

3.
>もともとは 経験世界における因果関係を遡及してその大元を追究するとい
うとき 人間の認識のチカラが遡及し得た・つまり人から神へと連続してい
ると捉えそう仮説した場合を 連続説と呼びました。

これを 成り立たないというかたちで批判することは むつかしい。つまり 
見解の相違であると言っています。

「人間の認識のチカラが遡及し得た」とは言ってませんけどねえ・・・、「得ない」からこそ不可知だと138回ぐらい申し上げたところ。
まあ、ここを含めての「相違」なのかもしれませんが、この辺りは#42へのお礼欄記述に応じる形で述べるほうが良いでしょう。

4.
>ただしその結果 《主観と神との連続》なる論点が生じます。

これは言えますね。
というか、「神とは何か」という論点。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.a
ここは 因果関係の問題です。最終的原因が不可知であることとは別に
それは 人間の認識力によって原因を遡及して捉えようとしているから
には・そしてその遡及の過程は連続しているからには 《不可知のもの》
として《ある》と認識しているわけです。

つまり 《ある》と認識している限りで――その中身が不可知であって
も――そのものは 人知がおよんでいます。

b
★ 根拠を挙げずに、非経験・非知を一方的に擁護しているだけ。
☆ それを遡及の過程で見つけた(認識し得た)と言っているのではな
く 遡及は初めからしていずに 《絶対》なる超経験の場を想定し そ
の仮説をめぐって その余のものごとと食い違いはないようだと言って
います。

2.
★ ~~~~~
 ★「人間が存在する(という事実)」=果β
だけについて
 ☆《神とわれとの タテの関係》
は個々で異なる関係になるわけでしょうか?
~~~~~~~
☆ 人間という経験事象と超経験なる神とが絡んでいますが このタテ
の関係はそもそも神の側からのハタラキカケです。

《神‐われ なるタテ関係》としての個々のわれは 互いに異なっている
か? それは 《人であることと タテ関係という構図》は 互いに同
じですが あとは 何とも異同について分かりません。

非思考の庭として――信仰は――成り立っているからです。

しかも 非思考ゆえそこで何を考え何を想像しても自由です。個々の人
どうしで 《同じ主観内容》を得ているかも知れません。

ですが それは まだ経験合理性にもとづく表現に翻訳されなければ何
とも分からないのですし 経験思想として表現されたなら もうそれは
《タテ関係としての主観》とは 別のものに成ってしまっています。


☆☆ 《われ‐われなるヨコの関係》においては 共同化されることは
☆ タテの観想(瞑想)そのものとしてはありません。

宗教のオシヘは 経験思想への翻訳が未熟な(つまりは 神秘をなお残
した)ヨコの思想(倫理規範や人生の知恵)です。これらは 共同化さ
れ得ます。

オシヘは 信仰という蝉のその抜け殻です。ですがそこでは タテ信仰
はもう生きていません。ヨコに成ったからです。


3.
ここは(1)の問題です。

4.
★ 「神とは何か」という論点。
☆ の確認。

お礼日時:2017/05/16 19:04

#41です。



「絶対的摂理の象徴」ではない神、といったものをわたしは認めていないわけですが、そこに関してまで当スレで論じてしまうと論点が拡散してしまう危険性があるように思います。
むろん、極めて重要な関連性を持つ、というより、当スレの論議を前提としてでなければ、その論議は進まないのでもありますが。
このまま続行してもどちらでも、それは質問者の立場にお任せすべきなのでしょう。
しかし、いずれにせよ、連続・非連続にだけは決着をつけておく必要がある。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 連続・非連続にだけは決着をつけておく必要がある。
☆ 前回(№41)の末尾で そのことについて こちらの側の見解を
述べました。どうでしょう。

そして その基本の前提となる《連続説か非連続説か》をめぐって派生
して来る論点があるという見方をも 述べました。


それは 言ってみれば・早い話としてですが 次の対比になるかも分か
りません。

連続説とは――ほんとうに端折った言い方なんですが――:

《人間と神との――それを結果と原因の関係として捉えようとしたかた
ちでの――つながりがある》と想定している。

非連続説では はっきりと《絶対のへだたりがある》と想定します。



そのあと いまの《人間》を 《個別のわれ・つまり主観》として捉え
ようとしたときには どうなるか?

連続説では: 《われなる主観も 神と――人知によって明らかにする
ことはむつかしいが――直接のつながりがある》と想定している。

非連続説では 《絶対の隔たりがあるにもかかわらず その絶対の側か
らの一方的なハタラキカケがあると 派生的に想定し得ると見る。そし
てそれは しかしながら あくまでわれなる主観の内部においてのみだ》
と見る。


別の言い方では 非連続説では 《神とわれとのタテの関係》は 非思
考(つまり 神からの一方的なハタラキカケ)だと見ていて そのタテ
の関係〔なる主観〕が 《われ‐われなるヨコの関係》に 直接に介入す
ることはない。

神が人間世界に《直接に》介入していても それは 人間には分からな
い。

連続説では どうか? どうでしょう?




☆ 非思考の庭では 非思考と捉えているゆえに そこではいかなる主
観的な思考や想像をもまったく自由に成し得ます。非思考の海を自由に
泳ぎまくってもよい。いくら甘えてもよい。

ヨコの関係なる社会における発言としては 経験合理性(≒因果関係の
認識)にもとづき 言わば《非思考なる主観》を翻訳したあとの自己表
現としておこなう。




このスレッドで何らかの――中間決算のようなものでしょうが――結着
がつくとよいですね。

お礼日時:2017/05/16 16:25
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