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不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

質問者からの補足コメント

  • つづき。

    けっきょく:
    ★ 【 因α(非知)⇒ 果β(既知)】という構図
    ☆ は つねに一人の人間のその主観であるにとどまるということになります。

    そこでは:
    ★ [ 果α > 果β ] / という関係性になっている
    ☆ ことがあるはずです。たしかに。

    そしてその主観――つまり神の摂理はこうなんだぞ――を他の人にも自由に自
    己表現していいわけですが(表現の自由) それが みなの共通の了解事項と
    はなることはありません。

    もともとの大前提の《絶対のへだたり。あるいは 直接的な因果関係ではない》
    が控えています。いくら《敬虔な信徒》の得た啓示であったとしても この因
    果ないし摂理の関係は 主観の外には出かけません。(旧約聖書の時代はそれ
    としてあり得ました)。

    これは タテの関係(非思考)とヨコの関係(思考・感性)の問題でもあると
    思います。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/14 18:54
  • №30への補足つづき。

    ★ ~~~~
    わたしとしては、
     ★「人間が存在する(という事実)」=果β
    だけについて考えたい、と思っている、・・・
    ~~~~
    ☆ 限定しなければならないとは思いませんが 取り上げる主題ないしその
    条件として 異なっているとは思っていません。

    非連続説では 《普遍神とわれとの関係》が この場合のいちばんの派生命
    題だと考えます。

    ★ わたしが非知説そのものを否定しているわけでないことは以前から申し
    上げているとおりです。
    ☆ そうでしたか。ただし 次の神の想定では 少し違うということでしょ
    うか。

    ★ しかし、その実体はわからないにせよ、自ら生み出したところの「神」
    という概念について考察する場合に「非知」はそぐわないだろう、というこ

    ☆ じつは神は 概念〔のみ〕ではないんです。概念という経験事象を超え
    ているのですから。ゆえに 非知なんです。

      補足日時:2017/05/14 19:03
  • №35を振り返って このあと どうしましょう?

    おっしゃるように一たん 休みますか?

    主題を変えて出直しますか?

    もう一ぺんだけ ご回答ください。

      補足日時:2017/05/15 18:32
  • №47お礼欄をおぎないます。

    けっきょく《不可知》は きわめて特殊な場合だけではないかと推理し
    ています。

    ただし 神の定義に用いられることがありますが この場合は 例外と
    して しっかりと問題として扱わなければならない。と考えます。

    こういう姿勢で 特に差しさわりはないと考えます。

    No.47の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/17 16:45

A 回答 (81件中51~60件)

他人の心を知る事は出来ない。


これは不可知といえるはずです。

想像や推測で理解に近づく事は出来るかも知れませんが。
また、感覚を通してある程度、あるいは何となく分かる、という事はあるでしょう。

他人の心は「可知」としますか?
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この回答へのお礼

可知の部分もあるんぢゃないですか?

不可知だと言い切れないんぢゃないですか?

そこらへんは あいまいだと思います。


あいつは怒っているとか。
あなたは わたしを蔑んでいるとか。
あなたが退屈しているということを かれは知っていますよとか。


屁理屈ですかねぇ。どうでしょう。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/05/14 20:45

#29です。



1.
>もし最終的原因――おそらくアリストテレスの第一原因――
だとすれば その限りなき追究をどこかで人間が断って そういった超
経験のチカラを想定するということによって 現われて来るのではない
か? 

非知の概念がわかりやすく解説されていますね。
まず申し上げておきたいのは、
☆最終的原因
というものは無い(特定できない)というスタンスである、ということ。
であればこそ、(その)最終的原因は不可知だ。
こう申し上げているわけです。
賛同するしないは別にして、論理的齟齬は生じていませんよね?

2.
>☆ 《異なるのが当然》という事情から いまさっき触れたように《ど
こかで 無限追究を断って 想定に切り替えざるを得ない》という問題
になるのだと思います。

超経験の場を前提にしたご見解ですね。
超経験という非連続の場を認めるか否かについて論議している最中にこうしたことをおっしゃるのは意味が無いと思うのですけどね。
いや、この箇所は論議としてではなく、あくまで自分の考え方に関する補足にすぎないのだ、というのであれば、その限りではありませんが、まず連続・非連続についての見解を先に片付けた上で、ということにしないと論点がぶれてしまうのでは(外れるとまでは思わないわけですが)。

3.
>★ 超経験の場を肯定する〔とか〕根拠となるはず〔だと主張している〕
☆ のではないわけです。
そして いまただちに言っておきたいと思ったのですが 仮説法による
想定だとすれば 《不可知》という定義には成りがたいと思うことです。

非知と不可知は、その成り立っている構造、と言いますか工法は同じだとみなそうとしているように見えますが、これはまったく違う、と言わざるを得ません。
不可知は想定でもなければ、仮説法でもなく、論理的命題として成立しているのです。
たしかに、「不可知であるもの自体」を示すことはできませんから、経験事象として証明することはできないわけですが、「不可知だと言わざるを得ない」ということは証明できるでしょう。
たとえば、「もっとも大きな数は何か?」と問われた場合。
数学的にはそれなりの答えもあるのかもしれません(たとえば無量大数でしたっけ)が、仮にそうだとしても、それはあくまで概念に過ぎないはず。
「これがもっとも大きな数です」と提示する(証明する)ことはできない。
この場合、「もっとも大きな数は不可知である」と言って良いのではないですかね。
#27-4で、そうした証明は為されている(と思う)のですが、あとは、それについてどう思うか、という見解の相違が残るだけですから、そこに焦点を絞っていただくと良いのではないでしょうか。
いずれにせよ、非知と同等に扱ってしまうと論議にならない。つまり、
>☆ ~《最終的原因を想定するしかない》ならそれを 《不可知》
とよぶのは むつかしい

というのは、特に新しい問題とはならないようです。
ただ、ここに関連して、4でさらに述べます。

3.
>たしか《最強の根拠ではないか》
とおっしゃったかと思って 

ああ、やはりその箇所でしたか。
☆無根拠という根拠なのです。
★いかにも、そうなると思います。
最強の根拠と言えるかも。
(#25)
の箇所ですよね。
これは、あくまでbragelloneさんのお立場であれば、そう言えるかもしれませんよね、という意味でした。
実は、「そうかもしれない」とは思っていたしだいでして、つまり、誤解を招くような構文であったことは我ながら自覚していたようです。こちらこそ失礼。

4.
わたしの勘違いでなければ、
★「因が無くして果は生じない」
点について、特に異論は無いのでしょう。
ただ、
☆超経験の場からのハタラキカケは 経験事象としての因果関係とは 中
身あるいは次元が異なる
とおっしゃっている。これは、次のような構造になると思うのですが、これでよかったですか。
【 因α(非知)⇒ 果α{ 因β(不可知)⇒ 果β(既知)}】
つまり、

{ 因β(不可知)⇒ 果β(既知)}は、あくまで経験事象である。
これは、実は、(さらに上位の)「因α(非知)」に因するところの「 果α 」の手の中で踊っている関係性にすぎないのであって、「 果β(既知)」は「因β(不可知)」に起因しているように見えるが、そのさらに大元には「因α」の存するところの(非知の場)を想定しなければならない。
つまり、経験事象 「果β(既知)」に関しては、
【 因α(非知)⇒ 果β(既知)】
という構図になっていると捉えるべきである。

おそらく、誤った解釈になっている箇所もあるのでしょうが、大筋としては、このように捉えて問題ないでしょうか。
だとすればですが、非連続の構図というのは、
[ 果α > 果β ]
という関係性になっているのではないか、と思うのですが、どうでしょうか。
bragellone:
「人間が存在する(という事実)」=果β
「人間が存在する最終的原因」=因α(非知)
hakobulu:
「人間が存在する(という事実)」=果β
「人間が存在する最終的原因」=因β(不可知)
といった違い。
つまり、因α(非知)は、果β [ 今の場合は「人間が存在する(という事実)」] 以外にも、別の(非知の事象であろうところの)果γ や果δ などの因にもなり得る。
といった位置づけ、でしょうか?
そういったことも想定すればこその非知である、と。
だとすれば(タラレバの連荘で恐縮ですが)、わたしとしては、
★「人間が存在する(という事実)」=果β
だけについて考えたい、と思っている、ということを申し上げるほうが早いのかもしれません。

また、わたしが非知説そのものを否定しているわけでないことは以前から申し上げているとおりです。
「なにかわからないもの」に対して「(その因は)非知=知に非ず」とするのは、むしろ論理的だからです。
むろん、この場合は、その「果(今回お示しした例で言うなら、果γ や果δ など)」自体も非知なわけですが。
しかし、その実体はわからないにせよ、自ら生み出したところの「神」という概念について考察する場合に「非知」はそぐわないだろう、ということを申し上げている次第。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

謝謝。

1. ☆最終的原因  ★ というものは無い(特定できない)という
スタンスである
☆ とすれば――特に連続説なら―― 原因を遡及して追究すること
は 限りなくつづくしかないのでは?

非連続説では どこか途中で断つのではなく そうではなく もとも
とその追究じたいをおこなっていません。もとから 絶対の隔たりが
あると仮定しているからです。

2. 連続説でも: 
★★ 《人智の及ばぬ》自然宇宙の《絶対的》摂理
☆ であれば 同じく:
★ 超経験の場を前提にしたご見解で
☆ は ないのですか? そうでなければ 《連続》という意味がな
くなります。すべては 経験事象の世界にとどまり おさまります。

3. 了解です。

4. で説明されていることは はこぶる理論としてそれとして整合
性があると見られます。

ただし そこには――今回特に明らかに――非連続説にもとづく《神
から人間世界へのハタラキカケ》についての中身に触れておられます。

じつは 正直に言って前提の違いが混ざってしまっているとは考えま
す。しかも 分かりづらいことに 所どころにだと思います。

★ 【 因α(非知)⇒ 果β(既知)】という構図
☆ ここは 大前提そのものにかかわりますが 触れたいと思います。

このとき 《⇒》の意味する関係の内容が 問題だと思います。非連
続説では 《直接の因果関係では ない》わけです。みなが共通に理
解し得る摂理関係は ついぞ出て来ません。


因果関係から自由なナゾとして 非経験の場を想定したのですから。

それでも ハタラキカケは――神の側から一方的に――あり得ると推
測し得ると見ます。

そして そのことが・そのことだけとしても 《普遍神とわれとの関
係》つまり信仰を派生させていると捉えます。

そこでは普遍神は 人によって――なぜなら信仰が 派生的な事態で
あるゆえ――自由に受け留め 自由に受け容れればよいとなる。すな
わち 《有る神》派と《無い神》派とが 同等に派生します。

さらにそこで 有神論派にあっては その一人ひとりの主観の内部に
おいて 神とわれとの関係をさらに具体的に いま取り上げていると
ころの:
★ 【 因α(非知)⇒ 果β(既知)】という構図
☆ を持って考えたり想像したりすることがある。となります。

つづく。

お礼日時:2017/05/14 18:39

#28です。



1.
>☆ つまり 《「因が無くして果は生じない」という命題を否定するの
でなければ》という仮説条件によって 《不可知だけれども(=見つか
らないけれども) その最終的原因というもの》を措いている――とい
う意味でしょうか?

「措く=除く」という意味でお使いになりましたか?
誤解を防ぐために言い直すなら、
不可知であるものが原因だと想定しても別に問題はないだろう、ということを言ってます。

>超経験の場からのハタラキカケは 経験事象としての因果関係とは 中
身あるいは次元が異なるとは 考えませんか?

そしてこの問題も 非連続説が直観だけによるのではないことを示すは
ずです。 
★ あくまで、人間が存在しているという経験事象
であることを前提になさった上でのご質問のようですから、その意味で言うなら同じだと思います。
☆経験事象としての因果関係とは 中身あるいは次元が異なる
とのことですが、そりゃあ、
☆超経験の場
というものを前提にするならば、異なるのが当然なのであって、しかし、そのことが超経験の場を肯定する根拠となるはずもないでしょう。
ですので、やはり見解の相違と言うしかないですよ。
結論を前提にしてしまうと齟齬が生じるわけで、
>そしてこの問題も 非連続説が直観だけによるのではないことを示すはず

といった論理も成立しないでしょう。

2.
>★ ~~~~~~
 ★’『 最終的原因については不可知 』
という意味です
~~~~~
☆ だそうですが それは 《無根拠という根拠》だとあらためて述べ
ておられるのでしょうか?
《原因》とは 《根拠》と重なる意味内容を持つのではありませんか?

ちょっとおっしゃりたい意図が掴めませんでした。
「人間が存在する最終的原因については不可知(と思う)」と言ってるだけなのですが。
そして、
「人間が存在する最終的原因については不可知(と思う)」ところの根拠は、#27-4で述べたとおり。
どういった点が問題ですか?
因みに、少なくとも、連続説に関して、
☆《無根拠という根拠》
を述べたことは、わたしの思い違いでなければ、無いはずですが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
★ 「措く=除く」という意味でお使いになりましたか?
☆ ごめんなさい。ぎゃくの意味になってしまいましたね。《措定する》
の意味に採り何気なく入力が変換されたままにしておいてしまいました。

★ 不可知であるものが原因だと想定しても別に問題はないだろう、と
いうことを言ってます。
☆ あぁ。この問いは 《なぜ最終的》と分かるのか? です。限りな
く追究はつづくのではないか? 

ですから もし最終的原因――おそらくアリストテレスの第一原因――
だとすれば その限りなき追究をどこかで人間が断って そういった超
経験のチカラを想定するということによって 現われて来るのではない
か? こういう意味の問いです。(舌足らずの面ありました)。

★ ~~~
そりゃあ、
 ☆超経験の場
というものを前提にするならば、異なるのが当然なのであって、しかし、
そのことが超経験の場を肯定する根拠となるはずもないでしょう。
~~~~
☆ 《異なるのが当然》という事情から いまさっき触れたように《ど
こかで 無限追究を断って 想定に切り替えざるを得ない》という問題
になるのだと思います。

もちろん 非連続説でもそうです。想定なのです。仮説法なのです。決
して:
★ 超経験の場を肯定する〔とか〕根拠となるはず〔だと主張している〕
☆ のではないわけです。

そして いまただちに言っておきたいと思ったのですが 仮説法による
想定だとすれば 《不可知》という定義には成りがたいと思うことです。

《知り得ないと思う》といった内容で定義することには成しづらい。
《思う・思わない》にかかわらず これこれだと《想定する》からです。

《非知》が最適かどうかを別として 《可知(既知・未知)や不可知》
とは 別の概念をあてがわざるを得なくなるのだと思います。


2.
★ ~~~
連続説に関して、
 ☆《無根拠という根拠》
を述べたことは、わたしの思い違いでなければ、無いはずですが。
~~~
☆ もうひとつ ごめんなさいでした。たしか《最強の根拠ではないか》
とおっしゃったかと思って 連続説にも 採り入れておられると勘違い
しました。失礼。


☆ 今回は 《最終的原因を想定するしかない》ならそれを 《不可知》
とよぶのは むつかしいという新しい問題が出ました。

お礼日時:2017/05/13 19:12

#27です。



1.
>けれども もし連続説において経験事象からその因果関係の鎖がす
でに超経験の場へと到ったとした場合 そうだとしてもそれが《最
終的》であることは どうして分かるのか?
そして いづれにしても どうしてその原因が《不可知》になるの
か? むしろ初めに 超経験の場は 不可知だとすでに決めていた
からではないのか? 超経験の場に届いたのなら そこはもう不可
知であると自動的に言っているに過ぎないのではないか?

ここは曲解、または誤解ですね。
☆いづれにしても
とおっしゃいますが、
☆《最終的》であること
がわかるとは言ってませんよ。
むしろ、それがわからないから不可知である、という論理展開になっている。
では、なぜわからないと言えるのか、その根拠は?とおっしゃるでしょうが、それは、4に記したとおり、
▼たとえば人類なり、生命なりの起源( 原因 )というものを探るべく遡ったとしても、その見つかった原因が新たな未知となって(さらにー常に)浮上するのは、事実というより論理的な整合性を備えた命題と言わざるを得ない。
であるなら、この論理的命題によって、「最終的原因、というものは見つからない(わからない)」、すなわち、『 最終的原因は不可知 』であることは論理的に証明されていると言える。
この因果関係は、 [ 因ー不可知、果ー既知 ] という構図ではあるが、「因が無くして果は生じない」という命題を否定するのでなければ、不可知の結果として既知が生じることに特に矛盾はないだろう。▲
という箇所。
ここをご理解いただかないと始まりません。(この場合は、むしろ終わりませんと言うべきか)
賛同していただく必要はありませんが、論理的な齟齬は生じていませんよね?

★~は論理的に証明されていると言える。
というのがわたしの見解。
「~」の部分で根拠は提示し尽くしていますので、これ以上の根拠は出てきません。
わたしの反論も、すべて、ここが大前提になっているわけであり、bragelloneさんに対して、「~と言える」と思うのか「~と言えない」と思うのか、という最終判断を委ねている状態ですね。
ここを放置して何を言っても水掛け論になってしまいます。
「~と言えない」と思う、が最終判断でしょうから、見解の相違ということになりますね、と申し上げたわけ。
非連続が直感であることの根拠も伺いましたが、それに対しても、上の見解そのものが反論の形になっているはず。

むろん、見解の相違が判明したとしても、
>ひとつに 《限りなく追究はつづく》

ということはたしかでしょう。
しかし、
>としか言えないのではないか?

となると、これもまた見解の相違のひとつでしょうね。
個人的には、納得できる新しい視点・切り口が明らかにならない以上、現段階でそれを続ける気にはなれません。
そう言えるほどには論議し尽くしたと言えるのではないですかね。
今回は、非連続という新鮮な視点をご提示いただきましたので、あれこれ述べさせていただきましたが、納得を得られるまでには至らなかった、というだけの話。むろん、十分に有意義でしたが、そろそろ、潮時でしょう。
これ以上続けても、お互いに自説の押し付け合いになってしまいますから。

2.
>言いかえると 経験事象としての因果関係と 絶対から相対へのハ
タラキカケとは げんみつに言えば 中身が異なっているはずです。

一応、念を押しておきますが、すべての経験事象について述べているわけではありません。あくまで、人間が存在しているという経験事象についてです。それだけというわけではありませんが、逆にすべての経験事象を対象にしているわけでもない。

3.
>★ 「(不可知)と思う」ところの根拠です。
☆ おかしい。不可知は 最終的な原因のことではなかったのです
か?

ここは、
★『 最終的原因=不可知 』
ではなく、
★’『 最終的原因については不可知 』
という意味ですので。
☆おかし
くはありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
★ この因果関係は、 [ 因ー不可知、果ー既知 ] という構図ではあるが、
「因が無くして果は生じない」という命題を否定するのでなければ、不
可知の結果として既知が生じることに特に矛盾はないだろう。
☆ つまり 《「因が無くして果は生じない」という命題を否定するの
でなければ》という仮説条件によって 《不可知だけれども(=見つか
らないけれども) その最終的原因というもの》を措いている――とい
う意味でしょうか?

超経験の場からのハタラキカケは 経験事象としての因果関係とは 中
身あるいは次元が異なるとは 考えませんか?

これは (2)の問題でもあります。

そしてこの問題も 非連続説が直観だけによるのではないことを示すは
ずです。

同じくこの問題は こちらも: 
★ あくまで、人間が存在しているという経験事象についてです。
☆ 同じくです。おっしゃるように この人間事象のみではありません
が まったく重なっています。



見解の相違については このところでは わたしのほうから述べて来て
いました。その点 ひとこと触れておきます。



3.
★ ~~~~~~
 ★’『 最終的原因については不可知 』
という意味です
~~~~~
☆ だそうですが それは 《無根拠という根拠》だとあらためて述べ
ておられるのでしょうか?

《原因》とは 《根拠》と重なる意味内容を持つのではありませんか?




見解の相違への合意については このところでは わたしのほうから述
べて来ていましたので 重ねて触れることは致しません。

お礼日時:2017/05/12 18:49

#25です。



1.
>★ ~~~~
 ☆向こう側から通じているチカラを探り当てる・・
というわけでもなく、そうした力が自動詞的に及んでる、といっ
たニュアンスになりますか。
~~~~~
☆ これは まだよく分からないですね。というのは そのよう
に及んで来ているチカラを けっきょく法則的なものとして 発
見するというコトは 欠かせないのではないのですか?

むろん、あくまでわたしのスタンスとして申し上げるのですが、そうではありません。
☆法則的なもの
自体に関しては、あくまで「人智の及ばぬ」です。
ただ、ある事象に関して、それ(人智の及ばぬ法則的なもの)が(連続的に)働いた結果であることは明白(と捉えるのが妥当)であろう、という見解。
なぜ妥当なのかについては何度も申し上げているところですが、大事な点ですので、若干の編集を加えつつ、4項でもう少しまとめる形にしてみたいと思います。

2.
>★ これは言ってみれば緊張による血管収縮という生理作用なわ
けですが、敢えて言うなら、そうした緊張をもたらすような属性
が備わっていること自体については、自然の摂理、神のなせる業
なのだ、と捉える立場になると思います。
☆ ここは ほぼ一致しているようです。こちらは 神のなせる
わざというところを もっと控えめに・間接的に言うことになり
ますが。

☆ほぼ一致
の意味がちょっとわかりませんでした。
わたしは連続説として申し上げたのですし、そちらは、
☆もっと控えめに・間接的に言う
からこその非連続じゃなかったんですか?

3.
>そして ちょっとした揚げ足取りをするなら 不可知の場合は
《無根拠とか有根拠とか》とは 言えないのではないですか?
知り得ない〔と思う〕と 言っているのですから。あるいは摂理
という表現をも推し出しているからにはです。どうですか?

論点がずれましたね。
不可知自体の根拠について言及しているわけではありません。
「(不可知)と思う」ところの根拠です。

4.
たとえば人類なり、生命なりの起源( 原因 )というものを探るべく遡ったとしても、その見つかった原因が新たな未知となって(さらにー常に)浮上するのは、事実というより論理的な整合性を備えた命題と言わざるを得ない。
であるなら、この論理的命題によって、「最終的原因、というものは見つからない(わからない)」、すなわち、『 最終的原因は不可知 』であることは論理的に証明されていると言える。
この因果関係は、 [ 因ー不可知、果ー既知 ] という構図ではあるが、「因が無くして果は生じない」という命題を否定するのでなければ、不可知の結果として既知が生じることに特に矛盾はないだろう。

およそこういった論理展開になるかと思います。
非連続説、あるいは非知というのは、「因が無くしても果は生じ得る」と言ってることになるのでしょう。
やはり、見解の相違になりそうです。
水掛け論やトートロジーは避けたいので、特にご質問がなければ、わたしの出番はここまで、としたほうが良さそうです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.=4.
★ ~~~
(あ)「最終的原因、というものは見つからない(わからない)」、
すなわち、
(い)『 最終的原因は不可知 』である
ことは論理的に証明されていると言える。
~~~
☆ これまで触れませんでしたが ここは微妙です。(あ)から(い)
がみちびかれるというのは 自明ではありません。

経験事象として――超経験の場へとただちに飛躍することなく――
因果関係を原因へとさかのぼって追究するとき その限りなくつづ
く追究のありさまから 『 最終的原因は不可知 』であると結論づけ
る理由は 何でしょう?

ひとつに 《限りなく追究はつづく》としか言えないのではないか?

もし最終的な《第一原因》に突き当たったとする場合 それは け
っきょく《超経験の場》へと入って行ったからだと思われる。つま
り 連続説の場合にのみ (い)がそれとして導かれる。

けれども もし連続説において経験事象からその因果関係の鎖がす
でに超経験の場へと到ったとした場合 そうだとしてもそれが《最
終的》であることは どうして分かるのか?

そして いづれにしても どうしてその原因が《不可知》になるの
か? むしろ初めに 超経験の場は 不可知だとすでに決めていた
からではないのか? 超経験の場に届いたのなら そこはもう不可
知であると自動的に言っているに過ぎないのではないか?

こういった疑問が起こります。

★ 非連続説、あるいは非知というのは、「因が無くしても果は生
じ得る」と言ってることになるのでしょう。
☆ 《非連続》説において 絶対の場から相対の世界へと何らかの
ハタラキカケがあると 派生的に想定される。ただしその作用や影
響のあり様は 分からないと言っています。

言いかえると 経験事象としての因果関係と 絶対から相対へのハ
タラキカケとは げんみつに言えば 中身が異なっているはずです。

2.
非連続説におけるヤマシサ反応(良心)の扱いは《非思考の庭(信
仰なる動態)》からの――間接的な――身体や神経への影響という
ものです。

神からの非思考の庭へのハタラキカケは 間接的でありむしろ曖昧
なままです。二段階があります。

3.
★ 「(不可知)と思う」ところの根拠です。
☆ おかしい。不可知は 最終的な原因のことではなかったのです
か?

お礼日時:2017/05/12 16:15

不可知なものの具体例。

測定対象の真の値。
http://www.de-pro.co.jp/2012/06/15/3996/
 測定結果の信頼性を表す言葉として測定誤差というのがある。
 「測定誤差」は、「測定値」-「真の値」で定義され、概念と
 して分かり易いが、「真の値」という不可知の量が定義に含ま
 れているという原理的な困難がある。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

リンク先の末尾のほうに:
▼ 真の値や誤差という不可知の量を、定義の中で参照することを
避けたために、このような回りくどい表現になっている。
☆ ともあります。けっきょく 定義が成されていないのではない
のですか?


ただ何となく:
▼ 真の値や誤差という不可知の量
☆ と言っているだけだというかたち。

おそらく この場合には:
・ 《真の値》は それがあるとして・そうだとしても 実際問題
においては 測りがたい。知りがたい。

☆ といった意味で使っているのでは? これでは なお哲学とし
ての用語には 役に立ちません。

大きくは 《未知》に入るのだと思います。と考えますが どうで
しょう。

お礼日時:2017/05/11 22:43

#24です。



1.
>つまり 第一原因なる説は アリストテレスがつとに説いた論理として
の神論だからです。もしよければ 《違い》についてお聞かせください。

難しいことはわかりませんが、
推理
ある事実をもとにして、まだ知られていない事柄をおしはかること。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/116913/meaning/m …
ではなく、
論理
事物の間にある法則的な連関。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/237233/meaning/m …
といった単純な違いです。

2.
>向こう側から通じているというのは その神のほうがハタラキカケをお
こなっていると採るのか。それとも それは 知り得ないことであって
基本は 人間の側が 向こう側から通じているチカラを探り当てる・・
・といったことなのでしょうか?

☆向こう側から通じているチカラを探り当てる・・
というわけでもなく、そうした力が自動詞的に及んでる、といったニュアンスになりますか。

3.
>恥づかしくて顔を赤らめるのは わざわざ ここは赤面しようと思って
また努力してそうするものではないです。

ただし そのことを直接に神と結びつけるのでもないわけです。非連続
なる仮説が 前提にあります。そして それが 非知なるナゾだという
所以です。

そうですね、これは言ってみれば緊張による血管収縮という生理作用なわけですが、敢えて言うなら、そうした緊張をもたらすような属性が備わっていること自体については、自然の摂理、神のなせる業なのだ、と捉える立場になると思います。

4.
>無根拠という根拠なのです。

いかにも、そうなると思います。
最強の根拠と言えるかも。
しかし、強いから良いというわけでもなさそうでして。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1. 
《推理》も 引用された(1)の意味だけではなく:
▲ (推理)2  論理学で、前提から結論を導き出す思考作用。
前提が一つのものを直接推理、二つ以上のものを間接推理という。
☆ といった論理学における用語としての意味もあります。

ただ 論理が:
▼ (論理) 事物の間にある法則的な連関。
☆ というように すでに初めに《法則的な連関》を措定してい
るとは 思わなかったです。

もっとも 推理は その推理の結果として この《法則的な連関》
をみちびくことはあり得ます。

これらは 両者のあいだに違いがあるというよりは やはりその
ような法則を前提しているのなら 連続性の問題なのだとは思わ
れます。(つまり そういう違いであると)。



2.
★ ~~~~
 ☆向こう側から通じているチカラを探り当てる・・
というわけでもなく、そうした力が自動詞的に及んでる、といっ
たニュアンスになりますか。
~~~~~
☆ これは まだよく分からないですね。というのは そのよう
に及んで来ているチカラを けっきょく法則的なものとして 発
見するというコトは 欠かせないのではないのですか?



3.
★ これは言ってみれば緊張による血管収縮という生理作用なわ
けですが、敢えて言うなら、そうした緊張をもたらすような属性
が備わっていること自体については、自然の摂理、神のなせる業
なのだ、と捉える立場になると思います。
☆ ここは ほぼ一致しているようです。こちらは 神のなせる
わざというところを もっと控えめに・間接的に言うことになり
ますが。

人間の自然本性を 神の霊に関係づけるのだと言うかたちで。



4.
★ ~~~~
 >無根拠という根拠なのです。

いかにも、そうなると思います。
~~~~~
☆ ここは じつは 《非根拠》とは言わないんです。

根拠が無い。あるいは 意味が無い。――そのことを根拠とし
そうとすれば 意味とする。

じつは――さらにですが―― 有根拠と言ってもよいわけです。

そして ちょっとした揚げ足取りをするなら 不可知の場合は
《無根拠とか有根拠とか》とは 言えないのではないですか?

知り得ない〔と思う〕と 言っているのですから。あるいは摂理
という表現をも推し出しているからにはです。どうですか?

お礼日時:2017/05/11 22:34

#23です。



>なぜなら 原因をさかのぼって最終的なそれに到るというのは あ
くまで人間の推理を出ない・・・と初めに考えそれを大前提として
いるからです。

なるほど、そういうスタンスなのですね。
わたしがお示ししているものは、あくまで論理という位置づけで、推理とは(若干なのかもしれませんが決定的に)異なりますが、このあたりも見解の相違なのでしょう。

>問題は かんたんです。もしこの神からの人間世界へのハタラキカ
ケなる命題を――想定仮説とその派生として――みとめるとするな
らば ひとつに それは前提として連続説なのか・非連続説なのか
が問われると思います。

いえ、そうではありません。
★「こちら側から通じている」わけではなく「(どこかはわからない
が)向こう側から通じている」といったニュアンス。
というのは、あくまで《連続的に通じている》という意味です。
つまり、《非連続》だとするなら、わざわざ通じさせる必要はない、という前提が、お言葉を拝借するなら、「直感」としてある、ということになりますかね。

>連続説に立つゆえにこそ 《不可知。または不可知と思う》という
命題が出されるのだと思うからです。

この点は、おっしゃるとおり。
ただ、直感に付随させるその根拠が、非連続説に比較すれば、やや論理性を伴なうものではないだろうか・・・という(謙虚に言うなら)我田引水的な期待、あるいは(有体に言うなら)確信がある、ということです。
因みに、
☆《不可知。または不可知と思う》
ではなく、
《不可知。すなわち不可知と思う》
ですので、念のため。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ わたしがお示ししているものは、あくまで論理という位置づけで、
推理とは(若干なのかもしれませんが決定的に)異なります
☆ あっ それは気づきませんでした。

つまり 第一原因なる説は アリストテレスがつとに説いた論理として
の神論だからです。もしよければ 《違い》についてお聞かせください。


★ ~~~
 ★「こちら側から通じている」わけではなく「(どこかはわからない
 が)向こう側から通じている」といったニュアンス。

というのは、あくまで《連続的に通じている》という意味です。
~~~
☆ ううーむ。ぢゃあ 経験事象における因果関係論から 最終的な原
因へとさかのぼるということだと やはり受け取るのですが? 向こう
から通じているチカラを受け取るためにでしょうか。

向こう側から通じているというのは その神のほうがハタラキカケをお
こなっていると採るのか。それとも それは 知り得ないことであって
基本は 人間の側が 向こう側から通じているチカラを探り当てる・・
・といったことなのでしょうか?

★ つまり、《非連続》だとするなら、わざわざ通じさせる必要はない、
という前提が、お言葉を拝借するなら、「直感」としてある、
☆ 非連続説では 神からのハタラキカケがあると 派生的にやはり想
定しています。つまり:
★ わざわざ〔人間の側から〕通じさせる必要はない
☆ のですが? 

ヒラメキだとかあるいは良心――ヤマシサ反応――は 人間が思考や感
性やその努力で得るものではなく 向こう側からやってくるのを受け取
るものです。

恥づかしくて顔を赤らめるのは わざわざ ここは赤面しようと思って
また努力してそうするものではないです。

ただし そのことを直接に神と結びつけるのでもないわけです。非連続
なる仮説が 前提にあります。そして それが 非知なるナゾだという
所以です。


★ 《不可知。すなわち不可知と思う》 / ですので、念のため。
☆ これは 迂闊でした。

★ 直感に付随させるその根拠が、非連続説に比較すれば、やや論理性
を伴なうものではないだろうか
☆ 割り合いではなく まったくの違いだと思いますよ。だって 論理
なり思考なり感覚なりを われの側からはたらかせることはないのです。
無根拠という根拠なのです。

お礼日時:2017/05/11 18:38

#18です。


次の2つに論点が集約されたようですので、そこに関してだけ。
ここで言ってることをご理解いただくなら、本格的な見解の相違という大団円に至ったことになるかと思われます。

1.
>人間の理性や感性が 絶対の領域
にも通じているということになります。

不可知という認識は、(神という)絶対的領域に向けて積極的なベクトルが(たかが人間というものの営為によって)働いていることになるのであり、それは無いだろうと捉えている、ということですね。
そうではなく、あくまで人間は、そのベクトルの受け手にすぎません。
「こちら側から通じている」わけではなく「(どこかはわからないが)向こう側から通じている」といったニュアンス。

2.
>わたしの見るところでは 連続説も 同じく直観に拠っているのだ
とは思っています。

厳密には不可知を証明できないわけですから、
☆直感
という点を完全否定するものではありませんが、
☆同じく
という点には異論を述べざるを得ません。
つまり、単なる直感ではなく、あくまで、

★原因が新たな未知となって(常に)浮上する
のは事実というより、論理的な整合性を備えている命題だと思う~。
であるなら、それは、
★『最終的原因』というものは見つからない
とする証明にならないはずがない。
(のであるから不可知という概念は論理的に有効である)

といった演繹的根拠が背景としてある、と言いたいところ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

2.から始めます。
★ ~~~
 ★原因が新たな未知となって(常に)浮上する
のは事実というより、論理的な整合性を備えている命題だと思う~。
であるなら、それは、
 ★『最終的原因』というものは見つからない
とする証明にならないはずがない。
(のであるから不可知という概念は論理的に有効である)
~~~~
☆ ここだけの論理を見るなら その不可知の導入にさほど異論は
出ないのかも分かりません。

何度も申し述べていますが:
★ 原因が新たな未知となって(常に)浮上する
☆ ということ。もしくはさらにその原因が 最終的原因つまり超
経験なる神にまで到るということ。

この推論の回路は 非連続説には ないのです。初めから断たれて
います。

なぜなら 原因をさかのぼって最終的なそれに到るというのは あ
くまで人間の推理を出ない・・・と初めに考えそれを大前提として
いるからです。

問題は その非連続説にあっても――(1)の議論で たぶん今回
初めて触れておられると思うのですが そのような――《超経験か
らの 経験世界へのハタラキカケ》というテーマでは 勝手ながら
推測をおこなうことです。

次のくだりの前半は そのとおりであり 後半が いまのテーマで
す。
★ ~~~~
不可知という認識は、(神という)絶対的領域に向けて積極的なベ
クトルが(たかが人間というものの営為によって)働いていること
になるのであり、それは無いだろうと捉えている、ということです
ね。

そうではなく、あくまで人間は、そのベクトルの受け手にすぎませ
ん。
「こちら側から通じている」わけではなく「(どこかはわからない
が)向こう側から通じている」といったニュアンス。
~~~~
☆ この後半の命題ですね。

問題は かんたんです。もしこの神からの人間世界へのハタラキカ
ケなる命題を――想定仮説とその派生として――みとめるとするな
らば ひとつに それは前提として連続説なのか・非連続説なのか
が問われると思います。

もうひとつに・そして最後に 非連続の仮説に立つならば 神は
《知り得ないと知り得た》という定義による不可知にはならないと
いう問題です。

連続説に立つゆえにこそ 《不可知。または不可知と思う》という
命題が出されるのだと思うからです。

どうでしょう。

お礼日時:2017/05/11 15:51

未来は未だ知らず、そして知ることはできない。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ん? その未来が来れば 分かるようになるぢゃん?

お礼日時:2017/05/11 13:23
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