No.78ベストアンサー
- 回答日時:
#76です。
1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。
:
了解しました。
>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。
:
いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めています。
ただし、人間存在の最終原因とか、神とか、摂理とかいったように、その思考の対象がすでに定まったものに対して適用するのは妥当とは思われない。
つまり、
『 過去、人間は、未知・既知といった経験事象としての概念の他、知り得ないと判断する思考現象としての不可知という概念を操ってきた。しかし世界には、知り得るか知り得ないかが知り得ない、と言わざるを得ないような [ 何か ] は常に存在しているのであり、それは 非知 とでも呼ぶべき対象なのである。』
といった脈絡で採用されるべき視点ではないか、と思う次第。
2.
そのあとの記述も精査しましたが、
>★ つまり、連続説の場合も、(ⅲ)の内容については大いに同意するものです
が、
☆’《とはいえ、経験事象が そうしたナゾの影響を受けていることもまた事実
である》
★ といった続きがあるわけです。
☆ この《続き》は 一たん非連続(つまり 淵があって超えねばならなかった)
を認めたあとの《手続き》としてなのです。さもなければ 《無限》が 有限世
界と地続きだとなります。
:
☆超えねばならなかった
ものではなく、あくまで、当初から並立しているもの です。
こういった内容に象徴されるように、すべてが 非知を大前提にした論理展開 となっていますよね。
なぜ、非知でなければならないのか?
ここが示されない以上、弱いのではありませんか?
3.[ おまけ ]
>☆ というのは 《絶対の隔たりが 〈無限〉と人知とのあいだに ある》と認
めた上でそのあと それでも わたしは連続説に立つのだという宣言なのです。
:
違います。
あくまで「宇宙の摂理の象徴としての神」の場合にはですが、
☆絶対の隔たり
は当初から認めていません。
よって、
>★ ここで〔☆ こそ〕また連続・非連続の論議に舞い戻ってしまうわけで〔☆
それに関しては〕やはり見解の相違と判定するのが妥当じゃないですかね。
:
といった甘言に篭絡されるいわれもありません、ということになりそうです。
>★ むろん、この場合の「直接」は、一般の経験事象同士における直接とは意味
が異なることは、128回ほど申し上げているので、すでにご承知のはずでしょ
うけど。
☆ 鯉の滝登りではありませんが 一たん有限から無限の夢幻境へと論理で駆け
上ったからには その《精神の軌跡》を抜きにして この《直接》の意味内容を
考えるわけには行きません。でしょう?
:
★原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうので、最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ません。
という言及に関して、
・原因=有限での経験事象
・最終原因=無限の夢幻境での事象
のように分けてお考えなのだと思います。
しかし、
★原因が分かったとしても
という表現は、
「あ、これだ!」のように
★原因が分かったとしても
といった意味ではありません。
★原因に対する原因が永遠に付きまとう
というのは、論理的合理性に基づいて、つまり、これだけで成立している命題なわけです。
説明上、例として挙げることはありますが、経験事象としての原因を必須の要素として必要としているわけではない、という点にご留意いただければと思います。
ご回答をありがとうございます。
1.
★ むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。 / 少なくともわた
しはそう認めています。
☆ そうなんですか。ただし 次の問題もあるのですね。
★ ただし、人間存在の最終原因とか、神とか、摂理とかいったように、その
思考の対象がすでに定まったものに対して適用するのは妥当とは思われない。
☆ 《〈思考の対象〉ではない》と応答することができるかと思います。
★ つまり、
『 過去、人間は、未知・既知といった経験事象としての概念の他、知り得ない
と判断する思考現象としての不可知という概念を操ってきた。しかし世界には、
知り得るか知り得ないかが知り得ない、と言わざるを得ないような [ 何か ] は
常に存在しているのであり、それは 非知 とでも呼ぶべき対象なのである。』
といった脈絡で採用されるべき視点ではないか、と思う次第。
☆ それが――無限とは何かで特に分かりやすいところの――《神》だという
説ではあります。
2.
★ なぜ、非知でなければならないのか?
☆ 《永遠》や《絶対》もそうですが とりわけ《無限》が 恰好の説明にな
ると考えます。
無限は この世のものではない と言いますか この世を超えています。その
上でこの世にも ハタラキカケをおこなっていると推理しうる。こういう説明
です。
3.[ おまけ ]
★ あくまで「宇宙の摂理の象徴としての神」の場合にはですが、
☆絶対の隔たり
★ は当初から認めていません。
☆ ですから それでは《無限》はどうするのか? どう扱いどこに位置づけ
るのか? という問題が 積み残しになりましょう。
★★ 原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうの
で、最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ません。
★ という言及に関して、
・原因=有限での経験事象
・最終原因=無限の夢幻境での事象
★ のように分けてお考えなのだと思います。
☆ そのとおりです。〔無限の場では タトへでなければ 《事象》とは言わ
ないのですが〕。
★★ 原因に対する原因が永遠に付きまとう
★ というのは、論理的合理性に基づいて、つまり、これだけで成立している
命題なわけです。
☆ 論理的合理性は 人知です。無限の場ではなく 有限の因果関係の世界で
す。
No.80
- 回答日時:
#78です。
ご見解は賜りました。
拝見したかぎり、わたしが何か言うとすれば繰り返しになってしまうようですので、あえて控えるほうが良さそうですね。
特に、ご所望の点がございましたら、その旨、お知らせください。
ご回答をありがとうございます。
そうですね。
展望としましては けっきょく《神》を持ち出さずに 人間学・人間論を
展開することができるといったところにまでたどり着くことです。
その基礎理論とともに 社会についての理論ないし発言を行なって行くこ
とです。
取りあえずいま思い浮かんだことを 宿題にして欲しいといったかたちで
述べたいと思います。:
《象徴としての》神。この表現は 聞いたことがないです。
だから まづいということではなく そうではなく 一般的に分かるよう
に説明して行って欲しいとは思います。
このスレッドは 不可知の問題にしぼって 早晩 結着が着くかと思って
いましたが 広がって長丁場になりました。
いちど休憩を採るのがよいかも知れません。もっとも 神論を始める態勢
になっているかとも思えますが。
自然の流れにゆだねましょうか。
No.77
- 回答日時:
しかし、文面による遣り取りというのは、なかなか難しいものですね。
№76より。
つまり 知り得る(可知)と見て 既知か未知かに区分し あとは それでも
特殊な認識対象があって 経験事象であるのにその何かが知り得ないと見ること
になる不可知を付け加える。
★ つまり、連続説の場合も、(ⅲ)の内容については大いに同意するものです
が、
☆’《とはいえ、経験事象が そうしたナゾの影響を受けていることもまた事実
である》
★ といった続きがあるわけです。
☆ この《続き》は 一たん非連続(つまり 淵があって超えねばならなかった)
を認めたあとの《手続き》としてなのです。さもなければ 《無限》が 有限世
界と地続きだとなります。
★よって、
☆(ⅳ) ナゾは 人間とのあいだに絶対のへだたりがある。
★と言うのは当たらない。
☆ というのは 《絶対の隔たりが 〈無限〉と人知とのあいだに ある》と認
めた上でそのあと それでも わたしは連続説に立つのだという宣言なのです。
★ ここで〔☆ こそ〕また連続・非連続の論議に舞い戻ってしまうわけで〔☆
それに関しては〕やはり見解の相違と判定するのが妥当じゃないですかね。
★ 以下(ⅵ) ~(xⅶ)も、想定内ではありましたが、大変興味深く読ませて
いただきました。
☆ どうもです。
★ 一箇所、コメントが必要と思われる点についてのみ言及いたします。
☆ はい。
☆☆(ⅻ) 連続説は (ⅳ)の《絶対のへだたり(非連続)》を認めた上でな
お神なるナゾからのハタラキカケを享けた人間が 霊霊一如にあって《神と直接
につながっている》と仮説する命題である。
☆★(xⅲ)’ ハタラキカケが 直接のつながりであるのだから 神なるナゾは
《原因》である。
★ とでも言うべきところ。
★ むろん、この場合の「直接」は、一般の経験事象同士における直接とは意味
が異なることは、128回ほど申し上げているので、すでにご承知のはずでしょ
うけど。
☆ 鯉の滝登りではありませんが 一たん有限から無限の夢幻境へと論理で駆け
上ったからには その《精神の軌跡》を抜きにして この《直接》の意味内容を
考えるわけには行きません。でしょう?
No.76
- 回答日時:
#74です。
1.
a.
>★ この1~3に関しては、特に異議は無いということでしょうか?
☆ その論理構成として 個々のことがらを論点とするよりは 全体観に立って
しかも 別の視点を導入したほうがよいのではないかと。
[ ~~~~。
つまり プラトンの神は そのようなかたちで 経験事象と連続しています。
論理や観念だけだとしても 人知が及んでおり 人知の及ばぬところもある(ま
たは そのイデアの世界にかつていたことをこの地上に来てからは 忘れている
)というかたちで 人知という枠組みの中におさまっています。〕
:
☆論理や観念だけ
で『人智のおよばぬところ』を論ずることはできない。
こうおっしゃるわけですね。
しかし、『人智のおよばぬところ』という概念自体が(経験事象ではないのですから)論理や観念によって生み出されたものである以上、それを(論理や観念によって)論ずることで何か不都合が発生するとは到底思えないのですけどね。
何らかの不都合がもしあるとすれば、それをやってしまうと
☆非知
の概念を否定せざるを得なくなるから、という、この一点ではないかと勘ぐってしまうのですが、意図の曲解でしょうか?
そもそも、
~~~~
1.因無くして果は生じない。
2.しかし、原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付き
まとう。
3.ゆえに、「最終原因は何か」は不可知である。
~~~~
という論理展開は、人類を巻き込む形での
☆全体観
に立っているわけで、
☆別の視点を導入したほうがよい
理由が見当たらない、ということ。
神を巻き込んでいないから全体観ではない、とおっしゃるのかもしれませんが、「自然摂理の象徴としての神」はしっかりと巻き込ませていただいており、つまり、「神ー宇宙摂理」の関係性が棚上げされている現状においては、単なる見解の相違にすぎないように思うのですけどね。
いずれにせよ、論理そのものとして1~3の展開に異議はありますか?
b.
>
(ⅲ) 《ナゾは 人間がいかに・どれだけその能力を総動員して研究し考え尽
くしたとしても つねにナゾのままにとどまり 人間や経験事象からの影響を受
けない》
つまり 早い話が こうなりませんか?:
(ⅳ) ナゾは 人間とのあいだに絶対のへだたりがある。
(ⅴ) ナゾは 人間が知ろうとしても 知り得るかは分からないし 知り得な
いかも分からない。つまり 非知である。
:
非知説の場合にそうなるのはわかります。
【 人間存在の最終的原因 】についての不可知説では、
☆知り得ない
と(上記1~3の論拠によって)断定している点が大きな違いですね。
つまり、連続説の場合も、(ⅲ)の内容については大いに同意するものですが、
☆’《とはいえ、経験事象が そうしたナゾの影響を受けていることもまた事実である》
といった続きがあるわけです。
よって、
☆(ⅳ) ナゾは 人間とのあいだに絶対のへだたりがある。
★と言うのは当たらない。
となるわけですが、ここでまた連続・非連続の論議に舞い戻ってしまうわけで、やはり見解の相違と判定するのが妥当じゃないですかね。
というわけで、以下(ⅵ) ~(xⅶ)も、想定内ではありましたが、大変興味深く読ませていただきました。
一箇所、コメントが必要と思われる点についてのみ言及いたします。
>
(ⅻ) 連続説は (ⅳ)の《絶対のへだたり(非連続)》を認めた上で なお
神なるナゾからのハタラキカケを享けた人間が 霊霊一如にあって《神と直接に
つながっている》と仮説する命題である。
:
とおっしゃるわけですが、
☆《絶対のへだたり(非連続)》を認め
てはいない、という点で連続説に対するスタートから曲解があります。
つまり、(xⅲ)においては、「あたかも」でも「経験事象にたとえて」でも「仮説したい」でもなく、
☆(xⅲ)’ ハタラキカケが 直接のつながりであるのだから 神なるナゾは 《原因》である。
とでも言うべきところ。よって、
☆(xⅳ) つまり《最終原因》というのは
☆ひとつの派生命題として成っている。
わけではまったく、無い。
むろん、この場合の「直接」は、一般の経験事象同士における直接とは意味が異なることは、128回ほど申し上げているので、すでにご承知のはずでしょうけど。
ご回答をありがとうございます。
1.
a.
☆☆ 論理や観念だけ
★ で『人智のおよばぬところ』を論ずることはできない。 / こうおっしゃ
るわけですね。
☆ 誤解です。人知の及ばぬところについても 人知を何とかして及ぼそう
と図るのが 哲学です。表現や推論の仕方を工夫するということだと考えま
す。
☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。
でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。
★ 1.因無くして果は生じない。
☆ この命題は いかんせん・かなしいかな 経験事象について当てはまる
というものです。それを超えた場については 当てはまらないと言うことで
はなく 成否が分からないという――想定上の――帰結になります。
ですから 経験事象の世界からそれを超えた場を扱うには ひとつの淵を超
えなくてはなりません。《因果関係から自由な場》に移ることになるはずで
すから。
つまり非連続です。しかもこの断層を超えたあとでは あらためて連続説を
提示することがあり得ます。
《次元の違う場へと――想定じょう――上がって行ったそのあと それでも
実は 連続しているのではないか》と論理を及ぼそうとし得ると考えられる
からです。
《無限》を 経験的で有限で相対的な世界においてそのままほかの経験事象
と同じように扱うことは 論理じょう 不都合です。
★ 神を巻き込んでいないから全体観ではない、とおっしゃるのかもしれま
せんが、「自然摂理の象徴としての神」はしっかりと巻き込ませていただい
ており、・・・
☆ 扱い方の問題です。《巻き込み方》が 一様では困ります。
b.
★ 【 人間存在の最終的原因 】についての不可知説では、
☆☆ 知り得ない
★ と(上記1~3の論拠によって)断定している点が大きな違いですね。
☆ 因果律の論拠を当てはめるのは 大きな淵を超える手続きをおこなった
あとではないか? これが 物言いの骨子です。
《知り得ない》と想定したのは この断層をよじ登ったからこそのはずです。
淵を超える手前までは すべて経験事象についての因果関係〔だけ〕をめぐ
る探究でよかったわけです。
№77へ。
No.75
- 回答日時:
#73です。
>最終的は 原因のほうではないんですか?
:
はい、そうです。誤植続きで申し訳ありません。
>
★ 不可知=あるはずだが知り得ないもの。
☆ どのようにして《知り得ない》と分かったのですか? それが
明らかなように規定しないと 定義にはなりませんよ。
:
なんども申し上げましたように、知り得ないと思ったら、その時点で「不可知」が成立する、ということなのですが、#74と重複もしますので詳しくは触れません。
№74お礼欄からのつづきです。
(ⅳ) ナゾは 人間とのあいだに絶対のへだたりがある。
(ⅴ) ナゾは 人間が知ろうとしても 知り得るかは分からないし 知り得な
いかも分からない。つまり 非知である。
☆ ここに もう一点 つけ添えます。:
(ⅵ) ナゾは 《1.因無くして果は生じない》なる因果律を難なく超えてい
る。因果関係から自由である。
(ⅶ) ナゾは 事実としての因果関係から自由であり 事実をめぐる法則とし
ての因果律(つまり 論理)による影響を受けない。
☆ これらの命題からは さらにこう考えられまいか。:
(ⅷ) 無限で絶対なるナゾは 因果関係の中に住んでいる人間を見て 少しは
友だちにでも成ってやろうかといった茶目っ気を起こしたんぢゃないだろうか。
(ⅸ) 必然の王国とも呼ばれる経験事象なる世界。つまり あやまちが起きて
その縁起(因果関係)がシガラミともなって人の自由意志を取り巻く世界。そこ
に そうっと小さな風穴を開けてやろうかなと。
(ⅹ) 《霊:ルーアハ;プネウマ;スピリトゥス》とは もともと《息》であ
り《風》のことである。つまり ナゾなる神の・人間への贈り物は この霊であ
る。
(ⅺ) 霊霊一如なる信仰(神とわれとのカカハリ)が 生まれつき潜在するチ
カラとして人にそなわり いつの時か 人はそれに気づく。と。
(ⅻ) 連続説は (ⅳ)の《絶対のへだたり(非連続)》を認めた上で なお
神なるナゾからのハタラキカケを享けた人間が 霊霊一如にあって《神と直接に
つながっている》と仮説する命題である。
(xⅲ) ハタラキカケが 直接のつながりであるとしたら 神なるナゾは あた
かも(つまり 経験事象にたとえて)《原因》であるとも仮説したい。
(xⅳ) つまり《最終原因》というのは ひとつの派生命題として成っている。
(xⅴ) かくて 《人間存在の最終原因》について こう語られる。:
▲ (ヨハネによる福音 1:13) それらの人は、血すじによらず、肉の欲によら
ず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。
(xⅵ) ちなみに非連続説では この文字(命題)は あくまで補助線(依り代・
指先を指し示す指)であると言い張る。
(xⅶ) 最終原因は 不可知というよりは 非知なるナゾについての《仮構知》
なり。
No.74
- 回答日時:
#72です。
>1.☆☆ 不可知なる最終的原因とは 何か?
★ ~~~~
1.因無くして果は生じない。
2.しかし、原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付き
まとう。
3.ゆえに、「最終原因は何か」は不可知である。
~~~~
☆ 視点を変えて 次のように批判します。
:
★どの段階で異議が発生するのかお知らせください。
とお尋ねしたのに、これが答えですか。
この1~3に関しては、特に異議は無いということでしょうか?
>(あ) 《無限》は 二で割っても三で割っても 答えは 半分や三分の一
にはならず もとの無限のままである。というとき その無限に 経験事象
にかんする因果関係が 当てはまりますか?
(い) この無限を 人間存在の原因に関して どう扱いますか?
:
どこから無限が出てきたのか不明ですが、人間存在の原因追求は無限であるとした場合について述べろ、ということですかね。
いずれにせよ、何回か申し上げたように思うのですが、
★人間存在の最終原因は、(不可知としているのですから)経験事象ではありません。
そのようなものとして(経験事象として)仮定していることになるではないか、とおっしゃるのかもしれませんが、
1~3は、あくまで論理です。
まず、
1.因無くして果は生じない。
という大前提がある。
この大前提に、
2.(しかし、)原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとう。
という小前提が付加されている。
そこから、
3.ゆえに、「最終原因は何か」は不可知である。
という結論が論理的に導かれている。
極めて簡単な展開のように思うのですが、
☆この無限を 人間存在の原因に関して
どう扱うのか言わないと、この論理は成立しない、ということでしょうか?
哲学的素養が無いので何とも言えませんが、そんなこともないように思うのですけどね。
ですから、その必要は無いと個人的には思うわけですが、それはさておき、少し考えてみました。
☆《無限》は 二で割っても三で割っても 答えは 半分や三分の一
にはならず もとの無限のままである。
これは、次のようなことの言い換えなのかな、という気もします。
最終原因は、そこに行き着くまでの過程において、何度、原因の判明を繰り返したとしても、その過程の段階で最終原因としての答えが出ることはなく、もとの最終原因のままである。
ご回答をありがとうございます。
1.☆☆ 不可知なる最終的原因とは 何か?
★ どの段階で異議が発生するのかお知らせください。
☆ そのことをお伝えするためにも 全体観が有効だと考えました。
★ この1~3に関しては、特に異議は無いということでしょうか?
☆ その論理構成として 個々のことがらを論点とするよりは 全体観に立って
しかも 別の視点を導入したほうがよいのではないかと。
(ⅰ)★ 人間存在の最終原因は、(不可知としているのですから)経験事象で
はありません。
☆ あらためて確認できました。重要だと思います。
★ 〔《1.因無くして果は生じない》で始まる説明式〕《1~3》は、あくま
で論理です。
☆ 論理も 経験事象です。論理として人知が及んでいます。
〔《イデア》というのは 純粋理性だとか純粋概念だと見られていますが 元は
《見えたるもの》です。v の文字を語頭におぎなえば ヴィデオにつながります。
つまり プラトンの神は そのようなかたちで 経験事象と連続しています。
論理や観念だけだとしても 人知が及んでおり 人知の及ばぬところもある(ま
たは そのイデアの世界にかつていたことをこの地上に来てからは 忘れている
)というかたちで 人知という枠組みの中におさまっています。〕
さて 無限をどう扱うか? 発起人としては大きな収穫がありました。
☆☆ 《無限》は 二で割っても三で割っても 答えは 半分や三分の一にはな
らず もとの無限のままである。
★ これは、次のようなことの言い換えなのかな、という気もします。
(ⅱ)★ 最終原因は、そこに行き着くまでの過程において、何度、原因の判明
を繰り返したとしても、その過程の段階で最終原因としての答えが出ることはな
く、もとの最終原因のままである。
☆ 最終原因をナゾと言いかえますが:
(ⅲ) 《ナゾは 人間がいかに・どれだけその能力を総動員して研究し考え尽
くしたとしても つねにナゾのままにとどまり 人間や経験事象からの影響を受
けない》
つまり 早い話が こうなりませんか?:
(ⅳ) ナゾは 人間とのあいだに絶対のへだたりがある。
(ⅴ) ナゾは 人間が知ろうとしても 知り得るかは分からないし 知り得な
いかも分からない。つまり 非知である。
№75お礼欄に継ぎます。
No.72
- 回答日時:
#71です。
>4.
☆☆ 《思う》という人が現われたなら その定義は 有効でなくなります。
★ むろん、その人にとっては無効でしょうね。
☆ だったら 同じ定義を前にして解釈の仕方で 別の意味になる・・・と
いうことですよ?
:
☆同じ定義
とは何について、どのような内容を指していますか?
微妙なところに差し掛かっていますので具体的におっしゃってください。
もし、不可知について、不可知と思うこと と定義したことを指しているなら、そうですよ、とお答えします。
別に齟齬は生じないでしょう。
>
☆ 不可知なる最終的原因とは 何か? その定義を聞きたい。この一心です。
☆ 何でもかまいません。《最終の》定義を示してください。という問いです。
:
それは無茶振りでしょうよ。
☆何か?
が分からないからこそ不可知なわけですから。
少し整理すると以下のようになると思います。
どの段階で異議が発生するのかお知らせください。
1.因無くして果は生じない。
2.しかし、原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとう。
3.ゆえに、「最終原因は何か」は不可知である。
ご回答をありがとうございます。
4.
☆☆ 同じ定義
★ とは何について、どのような内容を指していますか?
☆ あらためて最終的原因を定義して欲しいんですが どんな定義であれ
《思う》場合と《思わない》場合とが 両立するというのであれば それら
ふたつの解釈例を許容するような定義だとなります。
★ もし、不可知について、不可知と思うこと と定義したことを指してい
るなら、そうですよ、とお答えします。 / 別に齟齬は生じないでしょう。
☆ 解釈によって異なる内容となる定義では 困ります。
☆☆ 不可知なる最終的原因とは 何か?
★ ~~~~
1.因無くして果は生じない。
2.しかし、原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付き
まとう。
3.ゆえに、「最終原因は何か」は不可知である。
~~~~
☆ 視点を変えて 次のように批判します。
(あ) 《無限》は 二で割っても三で割っても 答えは 半分や三分の一
にはならず もとの無限のままである。というとき その無限に 経験事象
にかんする因果関係が 当てはまりますか?
(い) この無限を 人間存在の原因に関して どう扱いますか?
差し詰め この問いでよいと思います。
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つづき。
けっきょく:
★ 【 因α(非知)⇒ 果β(既知)】という構図
☆ は つねに一人の人間のその主観であるにとどまるということになります。
そこでは:
★ [ 果α > 果β ] / という関係性になっている
☆ ことがあるはずです。たしかに。
そしてその主観――つまり神の摂理はこうなんだぞ――を他の人にも自由に自
己表現していいわけですが(表現の自由) それが みなの共通の了解事項と
はなることはありません。
もともとの大前提の《絶対のへだたり。あるいは 直接的な因果関係ではない》
が控えています。いくら《敬虔な信徒》の得た啓示であったとしても この因
果ないし摂理の関係は 主観の外には出かけません。(旧約聖書の時代はそれ
としてあり得ました)。
これは タテの関係(非思考)とヨコの関係(思考・感性)の問題でもあると
思います。
№30への補足つづき。
★ ~~~~
わたしとしては、
★「人間が存在する(という事実)」=果β
だけについて考えたい、と思っている、・・・
~~~~
☆ 限定しなければならないとは思いませんが 取り上げる主題ないしその
条件として 異なっているとは思っていません。
非連続説では 《普遍神とわれとの関係》が この場合のいちばんの派生命
題だと考えます。
★ わたしが非知説そのものを否定しているわけでないことは以前から申し
上げているとおりです。
☆ そうでしたか。ただし 次の神の想定では 少し違うということでしょ
うか。
★ しかし、その実体はわからないにせよ、自ら生み出したところの「神」
という概念について考察する場合に「非知」はそぐわないだろう、というこ
と
☆ じつは神は 概念〔のみ〕ではないんです。概念という経験事象を超え
ているのですから。ゆえに 非知なんです。
№35を振り返って このあと どうしましょう?
おっしゃるように一たん 休みますか?
主題を変えて出直しますか?
もう一ぺんだけ ご回答ください。
№47お礼欄をおぎないます。
けっきょく《不可知》は きわめて特殊な場合だけではないかと推理し
ています。
ただし 神の定義に用いられることがありますが この場合は 例外と
して しっかりと問題として扱わなければならない。と考えます。
こういう姿勢で 特に差しさわりはないと考えます。