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不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

質問者からの補足コメント

  • つづき。

    けっきょく:
    ★ 【 因α(非知)⇒ 果β(既知)】という構図
    ☆ は つねに一人の人間のその主観であるにとどまるということになります。

    そこでは:
    ★ [ 果α > 果β ] / という関係性になっている
    ☆ ことがあるはずです。たしかに。

    そしてその主観――つまり神の摂理はこうなんだぞ――を他の人にも自由に自
    己表現していいわけですが(表現の自由) それが みなの共通の了解事項と
    はなることはありません。

    もともとの大前提の《絶対のへだたり。あるいは 直接的な因果関係ではない》
    が控えています。いくら《敬虔な信徒》の得た啓示であったとしても この因
    果ないし摂理の関係は 主観の外には出かけません。(旧約聖書の時代はそれ
    としてあり得ました)。

    これは タテの関係(非思考)とヨコの関係(思考・感性)の問題でもあると
    思います。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/14 18:54
  • №30への補足つづき。

    ★ ~~~~
    わたしとしては、
     ★「人間が存在する(という事実)」=果β
    だけについて考えたい、と思っている、・・・
    ~~~~
    ☆ 限定しなければならないとは思いませんが 取り上げる主題ないしその
    条件として 異なっているとは思っていません。

    非連続説では 《普遍神とわれとの関係》が この場合のいちばんの派生命
    題だと考えます。

    ★ わたしが非知説そのものを否定しているわけでないことは以前から申し
    上げているとおりです。
    ☆ そうでしたか。ただし 次の神の想定では 少し違うということでしょ
    うか。

    ★ しかし、その実体はわからないにせよ、自ら生み出したところの「神」
    という概念について考察する場合に「非知」はそぐわないだろう、というこ

    ☆ じつは神は 概念〔のみ〕ではないんです。概念という経験事象を超え
    ているのですから。ゆえに 非知なんです。

      補足日時:2017/05/14 19:03
  • №35を振り返って このあと どうしましょう?

    おっしゃるように一たん 休みますか?

    主題を変えて出直しますか?

    もう一ぺんだけ ご回答ください。

      補足日時:2017/05/15 18:32
  • №47お礼欄をおぎないます。

    けっきょく《不可知》は きわめて特殊な場合だけではないかと推理し
    ています。

    ただし 神の定義に用いられることがありますが この場合は 例外と
    して しっかりと問題として扱わなければならない。と考えます。

    こういう姿勢で 特に差しさわりはないと考えます。

    No.47の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/17 16:45

A 回答 (81件中21~30件)

#59です。



>☆ 《経験事象でない》という中身を定義する問題が 不可知の定義とほ
とんど同じこととして のこると思います。

おそらく#60で同じことに触れることになるかと思われますので、煩雑さを避けるため、ここでは敢えて控え、欄確保のためだけの投稿といたします。
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この回答へのお礼

№63お礼欄からの続きです。

1.
b.
>ほんとうはその想定の時に 《最終的》はまだしも《原因》かどうかは それす
らも 非知なわけです。

★ しかし、因なくして果が無いなら、原因はどこかにある必要がありますよね。
☆ それは すでにナゾを想定において定義したあとの派生命題です。

ナゾそのものについては 経験合理性の物指しなる因果関係を超えているはずです。
超えていないのなら 経験事象であるはずなので 通常の認識と規定が可能です。

★ それを「原因かどうかわからない」という非知で捉えるのは矛盾じゃないでし
ょうか。「(論理的合理性に基づいて)あるはずの原因」について不可知だと言っ
ているわけです。
☆ すでに触れたように 経験科学の定義の仕方として 通らないと考えます。


2.
a.
★☆ 未知
☆ の定義ないし扱いについて すでに(1)に述べたと思います。

b.
>連続説の場合は 非知なるナゾが 《仮構知》になるはずなんです。
★★《経験し得ない》未知
☆☆ も いまの《仮構知》なる最終的原因から 連続して直接の因果関係にお
いて人間存在があるとするとき 《経験不可能》と言い切るのは 言い過ぎでし
ょうし 《未知》というより《仮構知》として――想定じょう――知ったと言っ
ていることになるはずなんです。
☆☆ 《今現在》のご議論
☆☆ の再説がありましたら お願いします。
:
★ ~~~~
 ☆連続説の場合は 非知なるナゾ
が介入する余地はありませんので、先に述べたこと以外で何か言及するのは難し
いですね。
 ☆《経験不可能》と言い切るのは 言い過ぎ
とは捉えない、などと言っても水掛け論になっちゃいますし。
特に新しい切り口は見出せません。
~~~~~~
☆承りました。


3.
>☆ ただし幕引きではなく 幕開けなのだと思われます。神論へそして人間論へ
の。

★ それは言えてますね。
☆ ありがとうございます。

お礼日時:2017/05/21 07:11

#58です。



1.
>b.
《大元の大元》は 前項の《想定》のもとにある。のではないのですか? そし
て それが 経験存在なる人間と連続しているというのも 想定なはずです。

むろん、そうですが、それで何か問題なるのか、つまり、おっしゃりたいことの意図がちょっとわかりませんでした。

>c.
★ ~~~
つまり、
 (ア)いつか《経験し得る》未知
と、
 (イ)いつまでも《経験出来ない》未知
という、両方の可能性を含んでいる
~~~
☆ (ア)のナゾは あり得ないですよね。経験事象どうしならその因と果とは
――想定を必要とせず――連続しています。
(イ)は 《経験不可能》なら なぜ不可能かが問われます。
ですから その問題を超えて (1.a)の《大元の想定》が 連続説の行き方
として生じます。
連続説は 二段階においてこの大元〔の大元〕の想定が おこなわれるはずです。
二段目は そこへの《突入》ですよ。

(ア)は完全に勘違いなさっておられますね。
一度申し上げたのですが、「未知」と言えるのは、あくまで「今現在」でしかないのです。
★(ア)いつか《経験し得る》未知
はあるが、
★’(ア)いつか《経験し得た》未知
というものは存在しません。
「未知」と認識された【今現在】において、その「未知」の対象は、すべて「ナゾ」にならざるを得ない。
つまり、
★☆《最終的原因》とされることになる《ナゾ》
は、最初から未知として認識されているわけ
です。
☆経験事象どうしなら
とおっしゃいますが、経験事象となった段階で、それはすでに「未知」ではない。
たしか、未知を「いつか既知なることを前提にした未だ知られざるもの」のように定義なさっていたと思いますが、わたしの場合「いつか既知なることを前提にした」の部分は排除していますので、そういった違いも影響しているのかもしれません。
(イ)については、もう言わなくてもおわかりでしょう。
同じことを(数度ならまだしも)何度も繰り返されるのは良い気持ちはしないですよね、たぶん。
どうしても必要なら、繰り返しますので、その旨、おっしゃってください。

2.

★(人間存在の)原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付き
まとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。
☆ 最終的原因となると 第二段としてさらに〔連続性を〕想定しなければなら
なくなる領域に入ります。可知か不可知かを超えてしまいます。

1で申し上げたとおりで、
☆第二段としてさらに〔連続性を〕想定しなければなら
なくなる
必要はありません。
非知説としては、
☆可知か不可知かを超えてしまいます。
という結論に導きたいのは理解できますが、連続説の論理として、そうはならないということも同様にご理解いただければ、と思います。

3.
a.
>だから そこから〔なお〕連続性を直観として見たという場合と いや非連続は
そのままにして むしろ絶対の側からこちらにハタラキカケがあると想定する場
合と。ふたつの神観に分かれるみたいです。

☆そのままにして
というのが、まさにご都合主義にしか感じられないわけですが、直感と言われればそれまでですので、そういうものだということは理解していると何度も申し上げています。

b.
>★ 「その原因に対する原因が永遠に付きまとうわけはない」といったよう
☆ な一方の見方に片寄った反論は 非連続説からは出て来ません。

なるほど、ごもっともな理屈だと思います。
「その原因に対する原因が永遠に付きまとう」こと自体を否定なさるわけではない、というお立場なわけですね。
そうしますと、
[ ★(人間存在の原因は)永遠に不可知と言わざるを得ません ]
というわたしの命題前書きについて、特に異論を述べるものではない、ということにもなるでしょうか。
つまり、
☆ [ 人間存在の原因 ] は、非知であって不可知ではない。
と主張してきたのだが、それは、あくまで絶対的論理に基づく反論の根拠としてではなく、(単に、と便宜上補足させていただくのですが)非知説の構図を展開してみせただけである、と。

3.

★ 「論理的に経験不可能」と思えばこそ《不可知(と思う)》と認識する
☆ 実体験としては無論のこと 論理的な認識としても 《非経験で非知である》
ゆえに 連続説と非連続説とが互いに見解を分け合うかたちで人間には持たれ得
る。のでは?

☆論理的な認識としても 《非経験で非知である》
のは、あくまで、
「何かわからぬもの」を対象とする場合に有効な視点でしょう、と申し上げたはずです。
つまり、「人間には未だ認識の対象となってない事象が存在するのであり、それは非経験の場にある非知のものである」と言うことはできるし、それが《直観》だとしても論理的な認識だろう。斬新な視点だとわたしも認めた。
しかし、「神」「摂理」「人間存在の原因」など、思考の対象としてすでに取り上げられているものに対して、
☆《非経験で非知である》
というのは、
☆論理的な認識
とは言えない、ということ。
論ずるという行為自体で、思考の場という俎上にすでに挙がっているのであり、それなりの意味を付与しているからこそ思考の対象となり得るのであって、「知に非ず」と言い放つのは不合理である、という(私の)見解。
つまり、今回の直接の懸案である「人間存在の原因」について
☆《非経験で非知である》
と主張する場合、それは
☆論理的な認識
とは言えず、直観のみが根拠となっている、と言わざるを得ない。
「連続・不可知説」の場合、同様に直観だろうと言われればそれまでですが、しかし、論理的根拠(裏づけ)として、
[ ★(人間存在の原因は)永遠に不可知と言わざるを得ません ]
を挙げている。
ここが極めて重要、且つ大きな差異であると思うわけです。
むろん、このように言い募るのもわたしの個人的見解にすぎないわけですから、その意味で、
☆連続説と非連続説とが互いに見解を分け合うかたちで人間には持たれ得
る。
ということに特に異を唱えるものではありませんし、むしろ、そうですよね、と何度か打診させてもいただいたはず。
まあ、とりあえずは見解の相違という点ではお互い一致したようです。
後は、中身について、その残務処理といった形になりますかね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.b.
★ ~~~
 ☆ 《大元の大元》は 前項の《想定》のもとにある。のではないのですか? 
 そして それが 経験存在なる人間と連続しているというのも 想定なはずで
 す。

むろん、そうです
~~~~
☆ つまり 《最終的原因》は 《経験事象を超えている》。ゆえに 想定であ
る。のですよね?

この事項が確認できたなら ( c )の《未知》問題は ただちに解決です。

その前に(3)を取り上げます。
★ ~~~
3. 「連続・不可知説」の場合・・・論理的根拠(裏づけ)として、
 [ ★(人間存在の原因は)永遠に不可知と言わざるを得ません ]
を挙げている。
~~~
☆ 不可知問題は措きまして 《想定》問題が この表明では 抜け落ちている
かと思われます。

c.
★★ つまり、(ア) いつか《経験し得る》未知
☆☆ (ア)のナゾは(つまり 最終的原因なる未知は) あり得ないですよね。
☆ つまり 《今現在》のご議論を必要とせず明らかではないでしょうか。

2.
★★ (人間存在の)原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。
☆ これも (1.a)の《想定》問題だと思います。

3.a.
☆☆ だから そこから〔なお〕連続性を直観として見たという場合と いや非
連続はそのままにして むしろ絶対の側からこちらにハタラキカケがあると想定
する場合と。ふたつの神観に分かれるみたいです。
★ そういうものだということは理解していると何度も申し上げています。
☆ 確認しえました。

b.
★ ~~~
そうしますと、・・・わたしの命題前書きについて、特に異論を述べるものでは
ない、 / つまり、・・・単に、非知説の構図を展開してみせただけ
~~~
☆ そうです。

3.
★ 「神」「摂理」「人間存在の原因」など、思考の対象としてすでに取り上げ
られているもの
☆ その定説批判です。《想定せざるを得ない》問題は 《思考の対象には非ず》
となるはずぢゃん と。

★ ~~~
ここが極めて重要、且つ大きな差異であると思うわけです。
むろん、・・・
 ☆連続説と非連続説とが互いに見解を分け合うかたちで人間には持たれ得る。
ということに特に異を唱えるものではありません
~~~

お礼日時:2017/05/20 18:58

#57です。



1.
a.>
☆☆ 経験事象について《人知が及ばない》と人知で知り得た場合
☆ 事象のあることは 知られているけれども それがどうしてそうなる
のかが 知り得ないと知り得た場合です。
★ ~~~
 ☆’’「何らか」について《人知が及ばない》と人知で判断した場合
にそれを不可知と呼ぶ。
~~~~
☆ 《そう判断しない場合》があり得ますから 定義には成りません。

何がおっしゃりたいのかよくわかりませんが、
★「何らか」について《人知が及ばない》と人知で判断
するときに、そのように判断すること、あるいは、その対象が不可知と定義されている。
ということを申し上げただけですけどね。
☆《そう判断しない場合》
を不可知と呼ばないのは当然のことでしょう。

b.>
★ そもそも、「因」が経験事象でないからこそ不可知なわけで、その不
可知と経験事象(既知であるところの何らかの「果」)とが連続していた
としても特に不都合はないだろう
☆ 《経験事象でない》とは どのように知るのか? その定義は? と
いう問題が初めにあります。

そうですね。
よくわかります。
ただ、同じことの繰り返しになってしまい恐縮ですが、
☆どのように知るのか?
つまり、
☆’どのように「不可知であると」知るのか?
と言えば、それは、不可知と判断することが合理的だ(と私が思う)からです。
これを指して直感とおっしゃったのではなかったのでしたっけ。
まあ、それはさておきますが、直感であることは認めた上で、その裏づけとなる根拠もすでに(139回ほど)お示ししています。
覚えておられますか?
そろそろ、この周回軌道から離脱しないと進展しないんじゃないですかね。

>経験事象が 非経験の場と――定義では 絶対の隔たりがあるとしたあと
で なお――連続していると想定することは 一つの仮説としての行き方。

はい、それも理解できると28回ぐらい申し上げたはずです。

c.
>★ ・「因」が経験事象でなくとも、その「果」との関係性は(因ー果 
という合理的関係性において)連続である。
☆ そのように想定するのが 連続性の仮説です。

そう(私の見解としてであると)53回ほど申し上げています。

>★ ・「因」が経験事象でないなら、その「果」との関係性も不連続であ
る。
☆ 経験事象を超えているなら 《連続していない(不連続)》と断定す
ることは出来ません。どうであるかが分からない非知での非連続です。

そうでしたね、失礼しました。
非知説の立場から言うと、そうなりますよね。

2.
非知説からすれば、そういうことになるのは理解できているつもりです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.a.
★ ~~~~
「何らか」について《人知が及ばない》と人知で判断した場合に それを
不可知と呼ぶ。
 ☆ 《そう判断しない場合》
を不可知と呼ばないのは当然
~~~~
☆ つまり 不可知と呼ぶか呼ばないかが――定義なのに――定まってい
ません。

b.
☆☆ 《経験事象でない》とは どのように知るのか? その定義は?と
いう問題が初めにあります。
☆ 《その定義は?》のみ問うことにします。つまり 上の(a)の問題
です。

c.
問題はないようです。


2.
問題はないようです。


☆ 《経験事象でない》という中身を定義する問題が 不可知の定義とほ
とんど同じこととして のこると思います。

お礼日時:2017/05/20 18:03

#56です。



1.
a.
>(お-a) 経験事象をさかのぼって人間存在の原因を追究するとき その過程で
ついに【経験出来ない】場にぶつかるときがある。そこでは さすがに連続説も
その連続説のままを推し進める動きを一たん休める。
☆ ことは ないですか?

#55で申し上げた内容でお答えできると思います。
→→★むろん、未知の中から不可知と思う対象が選定されるわけですが、その選定するという思考作用の発生自体を
☆断層
とおっしゃるなら、それはそうかもしれません。
しかし、そのことによって、《直接のつながりがある》こと自体にブレが生じるといった性質の断層ではないですね。★←←
また、少し補足するなら、連続と言う場合、経験事象ですでに可知となった因と果を想定して言っているわけではない、という点にご留意いただく必要があるかと思います。
あくまで、その大元を最初から想定している点で、非連続説と土俵は同じでしょう。

b.
>《大元》は 未知でしょうか? つまりまだ《経験し得る》。
《大元の大元》は 《経験出来ない》ですよね?

未知は結果として、
(ア)いつか《経験し得る》未知
と、
(イ)いつまでも《経験出来ない》未知
に分かれることはご理解いただけるでしょう。
これは、《大元》であっても《大元の大元》であっても同じです。
また、
(ア’)いつか《経験し得る》と思う対象=可知
(イ’)いつまでも《経験出来ない》と思う対象=不可知
です。
どちらの場合も、
・実際に《経験し得た》
なら、既知となる。
こういった関係性になります。

c.
>従ってこの《最終的原因》とされることになる《ナゾ》は 未知の領域からそこ
に突入する時があるのでは? 
そのとき 遡及の手を一たん休めるのでは? つまり それまでと同じく・そし
てあらためて 連続性を想定して ナゾの特定をおこなう。

★未知の中から不可知と思う対象
を選定する思考作業をそう呼ぶことはできないわけではありませんが、
☆突入
といった大げさなものではありません。
なぜなら、
☆《最終的原因》とされることになる《ナゾ》
は、最初から未知として認識されているわけであり、つまり、
(ア)いつか《経験し得る》未知
と、
(イ)いつまでも《経験出来ない》未知
という、両方の可能性を含んでいることは、最初から了解済みのことだからです。
つまり、
(ア’)いつか《経験し得る》と思う対象=可知
あるいは、
(イ’)いつまでも《経験出来ない》と思う対象=不可知
という両方の場合が当初から想定されているわけです。
結局、ここに関しては、
☆突入
という(連続説から言うなら大げさな)表現を採用するか否か、つまり、
☆そのとき 遡及の手を一たん休める
>~・そしてあらためて 連続性を想定して ナゾの特定をおこなう。

のかどうかという見解の相違ということになるかと思います。

2.
★ ~~~~~~
 ☆《未知》の領域
は、どの段階においても、
 ☆《人知の及ばぬ》領域
なわけです。
~~~~~
☆ 生命体の原因を遡及して 未知であったDNAを発見したというとき この場
合は 《人知の及び得る》かつ《経験できる》領域だったわけです。
生命のナゾ・つまり大元の大元を立てるときには 《人知の及ばぬ・経験出来な
い》領域に突入します。よね?
:
おっしゃりたいことはよくわかります。
ただ、
☆未知であったDNAを発見した
なら、それは未知ではなくすでに既知です。
仮に誰かが、これ以上の原因は見つからないだろうから不可知だ、と言っていたとしたら、それは、その人の推測が誤っていたということになるだけ。
「不可知」という経験事象はなく、あくまで「不可知(と思う)」という意味でしか有り得ないと申し上げているのは、そういう意味です。
☆《人知の及び得る》かつ《経験できる》領域だったわけ
ですが、「そういう曖昧なことを根拠にした命題は哲学として認められない」のようにおっしゃるかと思います。
しかし、私の場合、「不可知(と思うこと)」の相当の根拠として、つまり、
★推測が誤っていたということになる
ことのないと思うところの根拠を挙げているのが、

★よって、
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

という前提を導くための前書き部分、

★(人間存在の)原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。★

という箇所です。
ですので、仮に反論がおありなら、
(人間存在について考えてみる場合)「その原因に対する原因が永遠に付きまとうわけはない」といったように断言していただければ話が早いかもしれません。

3.
>☆ 先ほどの《経験可能で人知の及ぶであろう》生命体と《経験できず人知の及ば
ぬ》生命のナゾ(最終的原因)との間に 《論理的関係性》があると想定されてい
ることは 分かりました。
でも 論理的関係性だとしても 《想定》であり 《連続している》という仮説な
わけですよね? 
《想定》ではなく合理的な帰結だとするなら その結論をみちびけたことは 《人
知が及んでおり 論理的に経験し得る》事象だと成るのではありませんか?
《経験不可能》なのではなく 論理的に経験可能であり 事実体験としてのみ《未
経験》という区分に過ぎないのでは?

最後の一文を印象深く受け止めました。
特に、
☆論理的に経験可能であり
という点は、一理あるかもしれません。
ただ、「論理的に経験不可能」と思えばこそ《不可知(と思う)》と認識するわけなので、つまり、

事実体験として《未経験》という区分ではあるが、《経験不可能》であると捉えるのが論理的である以上、《不可知》という区分に収めるのが合理的である。

とでもなりますかね。
☆に過ぎない
ということではないのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.a.
★ あくまで、その大元を最初から想定している点で、非連続説と土俵は同じで
しょう。
☆ 連続説が 非連続説と同じく 想定であり根拠は直観にあるというこちらの
物言いをめぐってこの論点はありました。ので 結着だと思います。

b.
《大元の大元》は 前項の《想定》のもとにある。のではないのですか? そし
て それが 経験存在なる人間と連続しているというのも 想定なはずです。

ご議論を省き 説明を端折りましたが。

c.
★ ~~~
つまり、
 (ア)いつか《経験し得る》未知
と、
 (イ)いつまでも《経験出来ない》未知
という、両方の可能性を含んでいる
~~~
☆ (ア)のナゾは あり得ないですよね。経験事象どうしならその因と果とは
――想定を必要とせず――連続しています。

(イ)は 《経験不可能》なら なぜ不可能かが問われます。

ですから その問題を超えて (1.a)の《大元の想定》が 連続説の行き方
として生じます。

連続説は 二段階においてこの大元〔の大元〕の想定が おこなわれるはずです。
二段目は そこへの《突入》ですよ。

2.
★(人間存在の)原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付き
まとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。
☆ 最終的原因となると 第二段としてさらに〔連続性を〕想定しなければなら
なくなる領域に入ります。可知か不可知かを超えてしまいます。

そういう意味で 《原因に対する〔最終的〕原因》は むしろそのものが《永遠》
なのではないですか? 切っても切れないナゾ。殺しても死なないナゾ。孫悟空
の相手。

だから そこから〔なお〕連続性を直観として見たという場合と いや非連続は
そのままにして むしろ絶対の側からこちらにハタラキカケがあると想定する場
合と。ふたつの神観に分かれるみたいです。

★ 「その原因に対する原因が永遠に付きまとうわけはない」といったよう
☆ な一方の見方に片寄った反論は 非連続説からは出て来ません。

3.
★ 「論理的に経験不可能」と思えばこそ《不可知(と思う)》と認識する
☆ 実体験としては無論のこと 論理的な認識としても 《非経験で非知である》
ゆえに 連続説と非連続説とが互いに見解を分け合うかたちで人間には持たれ得
る。のでは?

お礼日時:2017/05/19 20:21

#55です。



1.
>~~~~~。
《人知の及ばぬ》という規定が 二種類に分かれるということだと思われ
ます。
ひとつは 経験事象について《人知が及ばない》と人知で知り得た場合。
もうひとつは 経験事象を超えていて 《人知が及ぶか及ばないかが 人
知の知るところではない》場合。
後者のばあいには 《断層》があると見通されるのでは?

☆経験事象について《人知が及ばない》と人知で知り得た場合
という想定そのものに無理があります。
☆《人知が及ばない》
時点で、それは、
☆経験事象
ではないからです。
☆’《人知が及ばない》ものについて《人知が及ばない》と人知で知り得た場合
とでもなりますか。正確に、そして端的に言うなら、
☆’’「何らか」について《人知が及ばない》と人知で判断した場合
にそれを不可知と呼ぶ。

連続しているなら、経験事象として捉えなければならない、とおっしゃるかもしれませんが、そもそも、「因」が経験事象でないからこそ不可知なわけで、その不可知と経験事象(既知であるところの何らかの「果」)とが連続していたとしても特に不都合はないだろう、と申し上げている。
つまり、
☆経験事象について《人知が及ばない》と人知で知り得た場合。
にしても、
☆経験事象を超えていて
という点では
☆経験事象を超えていて 《人知が及ぶか及ばないかが 人知の知るところではない》場合。
と同じである。
そして、
☆《人知が及ぶか及ばないか》
について、
前者(不可知・連続)は、
★《人知が及ばない》
と人知で判断し、
後者(非知・非連続)は、
☆《人知の知るところではない》
と捉えている、という違いがあるだけ。
《非知・非連続》の場合に断層があるのはわかりますが、それは(敢えて注釈しますが)単に《知に非ず・連続に非ず》と規定された時点で自動的に発生している、それらの概念の属性と言うべきでしょう。
つまるところ、ここは、
・「因」が経験事象でなくとも、その「果」との関係性は(因ー果 という合理的関係性において)連続である。
・「因」が経験事象でないなら、その「果」との関係性も不連続である。
という相違点になるのだと思います。
連続説内部において、2つの解釈が生じるわけではない。

2.
>★ 「人間が存在するという事実(果β)」に関してのみ言うなら、A の
ハタラキカケのされ方と B のハタラキカケのされ方が、完全に、常に異
なる、ということはないだろう、というより、基本的には同じような「さ
れ方」だと捉えるのが合理的ではないか、ということです。
☆~~~~。
~~~~。
(き) 道を ふと逸れ――ヤマシサ反応が出ていても これをなおざり
にして―― ちょっと道草を喰って行こうとする場合というのが たいて
いの人間の経験するところではないでしょうか。《個性ないし自我》とい
う一面。

ここがわかりやすいと思いますので、申し上げると、その、
☆ヤマシサ反応
が生じたり、
☆ちょっと道草を喰って行こう
と思ったりするようなことが、まさに、
☆たいていの人間の経験するところ
でしょう。
つまり、その意味で、
★A のハタラキカケのされ方と B のハタラキカケのされ方が、完全に、常に異
なる、ということはないだろう、というより、基本的には同じような「さ
れ方」だと捉えるのが合理的ではないか
と申し上げた次第。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
☆☆ 経験事象について《人知が及ばない》と人知で知り得た場合
☆ 事象のあることは 知られているけれども それがどうしてそうなる
のかが 知り得ないと知り得た場合です。

★ ~~~
 ☆’’「何らか」について《人知が及ばない》と人知で判断した場合
にそれを不可知と呼ぶ。
~~~~
☆ 《そう判断しない場合》があり得ますから 定義には成りません。

★ そもそも、「因」が経験事象でないからこそ不可知なわけで、その不
可知と経験事象(既知であるところの何らかの「果」)とが連続していた
としても特に不都合はないだろう
☆ 《経験事象でない》とは どのように知るのか? その定義は? と
いう問題が初めにあります。

経験事象が 非経験の場と――定義では 絶対の隔たりがあるとしたあと
で なお――連続していると想定することは 一つの仮説としての行き方。

★ 《非知・非連続》の場合に断層があるのはわかりますが、
☆ 《無限》は 二で割っても三で割っても出て来た答えは 半分や三分
の一にはならず 元のままの無限である。このことを 事例としてみてく
ださい。経験事象を超えている非知です。

★ ・「因」が経験事象でなくとも、その「果」との関係性は(因ー果 
という合理的関係性において)連続である。
☆ そのように想定するのが 連続性の仮説です。

★ ・「因」が経験事象でないなら、その「果」との関係性も不連続であ
る。
☆ 経験事象を超えているなら 《連続していない(不連続)》と断定す
ることは出来ません。どうであるかが分からない非知での非連続です。


2.
★ ~~~
 ☆ヤマシサ反応
 ☆ちょっと道草を喰って行こう
の意味(その共通性)で、
 ★ A のハタラキカケのされ方と B のハタラキカケのされ方が、・・・
 基本的には同じような「され方」だと捉えるのが合理的ではないか
~~~
☆ わが心なる非思考の庭が 霊において神の霊と呼応すると想定すると
ころから ヒラメキや良心が――経験事象につながることとして――起き
ます。共通の要素です。

あとは 個別にわれが ヒラメキや良心の反応をどう受け留めどう振る舞
うか。これは 人によって――同じにもなり得ますが――異なります。自
由意志として。ハタラキカケの受け留め方だと見ます。

お礼日時:2017/05/19 19:08

#54です。



1.
>(え) 「自然宇宙の絶対的摂理」が 超経験の場です。となると さらに細
かい想定が必要になると思われます。

(お) 経験事象をさかのぼって人間存在の原因を追究するとき その過程で
ついに超経験の場にぶつかるときがある。そこでは さすがに連続説もその連
続説のままを推し進める動きを一たん休める。

まずですが、
☆超経験
はあくまで非連続(非知)の立場での表現だということ。
むろん、わたしとしても論議の共通タームとして使ってきたわけですが、連続(不可知)の場合は、『経験できない』とでも言えばすむことなのです。
つまり、不可知と言った場合、どの段階においても、
★『経験できない』
という点ではなんら変わらないのであり、この点、明確にしておかなかったのはこちらの責任でしょうが、ですから、
☆推し進める動きを一たん休める
必要もない。
見解の違いによる視点の違い の典型でしょう。

2.
>(か) なぜなら 《未知》の領域から《人知の及ばぬ》領域へと突入するか
らです。超経験の場に対しても あらたな仮説措置としての想定をおこなうこ
とになる。はずだ。

この点につきましても同様でして、
☆《未知》の領域
は、どの段階においても、
☆《人知の及ばぬ》領域
なわけです。
☆仮説措置としての想定
は特に必要ないと思われます。

3.
>(く) 《人知が及ぶ世界か 及ばないとする場か》で違って来る。可知の領
域では 連続性を仮説のまま当てはめればよい。その可知の領域を超えた場に
ついては すくなくとも《それまでと同じように 連続性なる仮説を確認しつ
つ 同じように当てはめる》と ことわらざるを得ないはずだ。

勘違いなさっていると思います。
そもそも、何か可知のものに関して連続と言ってるわけではありません。
★しかし、因無くして果は生まれないのであって、「人間が存在するという事実」という「果β」に対応する因が存在すると捉えるのが合理的ではないか。
と本文でも述べているように、
【 ある何かの事象 】に関して、そこには「因」と「果」が必然的に存在しているのであり、その「因」と「果」が連続の関係性にあることもまた必然である。
このように申し上げているわけで、論議における「連続性」というのは、あくまで論理的関係性です。
《人知が及ぶ世界か 及ばないとする場か》
といった点を考慮する必要はない、ということ(という見解)。

以上に関して反論なさる場合、非連続のお立場ではなく、仮に連続の立場に立つなら論理的齟齬は生じていないと思われるのか、いや、その立場に立つとしても不合理な論理になっている、と思われるのか。
といった点を明示していただくと紛れが少なくなるかもしれません。
後者の場合は、応じさせていただきますし、前者なら(もう十分論議は為されたように思われるので)見解の相違ということでお互い落ち着けるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
(お-a) 経験事象をさかのぼって人間存在の原因を追究するとき その過程で
ついに【経験出来ない】場にぶつかるときがある。そこでは さすがに連続説も
その連続説のままを推し進める動きを一たん休める。
☆ ことは ないですか?

《大元》は 未知でしょうか? つまりまだ《経験し得る》。
《大元の大元》は 《経験出来ない》ですよね?

従ってこの《最終的原因》とされることになる《ナゾ》は 未知の領域からそこ
に突入する時があるのでは? 

そのとき 遡及の手を一たん休めるのでは? つまり それまでと同じく・そし
てあらためて 連続性を想定して ナゾの特定をおこなう。

しかしながら 《経験出来ない》ゆえに そのナゾを最終的原因として呼ぶとき
にも それとして想定し仮説する。ことになるのでは? =2.の(か)および
3.の(く)ですが。


2.
★ ~~~~~~
 ☆《未知》の領域
は、どの段階においても、
 ☆《人知の及ばぬ》領域
なわけです。
~~~~~
☆ 生命体の原因を遡及して 未知であったDNAを発見したというとき この場
合は 《人知の及び得る》かつ《経験できる》領域だったわけです。

生命のナゾ・つまり大元の大元を立てるときには 《人知の及ばぬ・経験出来な
い》領域に突入します。よね?


3.
★ ~~~~~~
【 ある何かの事象 】に関して、そこには「因」と「果」が必然的に存在している
のであり、その「因」と「果」が連続の関係性にあることもまた必然である。
このように申し上げているわけで、論議における「連続性」というのは、あくまで
論理的関係性です。
~~~~~~
☆ 先ほどの《経験可能で人知の及ぶであろう》生命体と《経験できず人知の及ば
ぬ》生命のナゾ(最終的原因)との間に 《論理的関係性》があると想定されてい
ることは 分かりました。

でも 論理的関係性だとしても 《想定》であり 《連続している》という仮説な
わけですよね? 

《想定》ではなく合理的な帰結だとするなら その結論をみちびけたことは 《人
知が及んでおり 論理的に経験し得る》事象だと成るのではありませんか?

《経験不可能》なのではなく 論理的に経験可能であり 事実体験としてのみ《未
経験》という区分に過ぎないのでは?

お礼日時:2017/05/19 16:40

#53です。



>1.
☆☆ 未知の領域から《人知の及ばぬ》領域に突入
☆ するに際して 遡及するときの論理や姿勢に変化は ないですか?
見解の相違をみとめつつ この問い=確認は あってもよいはずです。
>2.ただ この《それでも》があるなら そこに《想定 ないし 仮説》
という要因が入って来るはずでは?

「未知」と《人知の及ばぬ》、すなわち「不可知」の間に断層はありません。
未知と言うのも、不可知と言うのも、あくまで「今現在」であり、不可知は未知に包合されている。
つまり、未知と言う場合、最初から不可知の可能性は想定済みなわけです。
むろん、未知の中から不可知と思う対象が選定されるわけですが、その選定するという思考作用の発生自体を
☆断層
とおっしゃるなら、それはそうかもしれません。
しかし、そのことによって、《直接のつながりがある》こと自体にブレが生じるといった性質の断層ではないですね。

>4.《普遍神をわが心に受け容れて(=信じて)成る》非思考の庭が《霊
霊一如》なる類型として定まっている。これが 基本構図です。
そのキャンバスの上で(その掌の中で)孫悟空なるわが主観は 狂っ
たようにでも自由自在に飛び回ります。

☆基本構図
を後出しされた格好ですが、若干補足を。
☆自由自在に飛び回
るのだとしても、その飛び回り方に何らかのハタラキカケが(非連続ではあっても)関与しているはず。#53では、
★☆あとは 何とも異同について分かりません
というのは、整合性に欠けると思う
と述べたわけですが、ここは、「人間が存在するという事実(果β)」に関してのみ言うなら、A のハタラキカケのされ方と B のハタラキカケのされ方が、完全に、常に異なる、ということはないだろう、というより、基本的には同じような「され方」だと捉えるのが合理的ではないか、ということです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
★ 「未知」と《人知の及ばぬ》、すなわち「不可知」の間に断層はあり
ません。
★ 未知と言うのも、不可知と言うのも、あくまで「今現在」であり、不
可知は未知に包合されている。
☆ すなわち この未知(または 既知といっしょにした可知)と不可知
とは ともに経験事象を相手にしていると こちらは捉えるわけです。

《人知の及ばぬ》という規定が 二種類に分かれるということだと思われ
ます。

ひとつは 経験事象について《人知が及ばない》と人知で知り得た場合。
もうひとつは 経験事象を超えていて 《人知が及ぶか及ばないかが 人
知の知るところではない》場合。

後者のばあいには 《断層》があると見通されるのでは?




4.
★ 「人間が存在するという事実(果β)」に関してのみ言うなら、A の
ハタラキカケのされ方と B のハタラキカケのされ方が、完全に、常に異
なる、ということはないだろう、というより、基本的には同じような「さ
れ方」だと捉えるのが合理的ではないか、ということです。
☆ (あ) 普遍神から人へのハタラキカケ一般については 《非思考の
庭》における梵我一如として 決まっています。

(い) あるいはつまり マクロコスモス(普遍神)とミクロコスモス
(人)との 霊をつうじての一体が 想定において 人間にとっては め
ぐみとしてあると 決まっています。

(う) 次にこのハタラキカケを こんどは個別の人間すなわち《われ》
が どう受け留めるか? これは まちまちです。受け留め方が 人によ
って異なります。

(え) こういう理論と実際の状態なのだと思うのですが どうでしょう?

(お) (う)の個別の状態について いったいぜんたい どうなってい
るか? 分かりません。分からないことが はっきりしています。

(か) せいぜい分かることは めぐみとしての霊霊一如なる庭の状態を
そのまま受け容れ(聖なる甘え) 受け容れつづける場合と そして そ
の一体性からふと離れて行く場合とがあるということでしょうか。

(き) 道を ふと逸れ――ヤマシサ反応が出ていても これをなおざり
にして―― ちょっと道草を喰って行こうとする場合というのが たいて
いの人間の経験するところではないでしょうか。《個性ないし自我》とい
う一面。

お礼日時:2017/05/18 19:00

#52です。


ほとんどは、#51の投稿で応じている形になっているようですから繰り返しません。

>でも ヒラメキや良心は 人間が考え努力して得たり備えたりするもの
ではないという仮説が 立ちはだかると思われます。

ここは大いに同意できますよ。
むしろ、それ以外では有り得ないでしょう。

ここで少しまとめておきたいと思いますが、まず拙論を以下に再掲させていただきます。
→→~~~。つまり、[ 人間存在の ] 原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。よって、
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
を定理として認めざるを得ない。この場合、
「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」
よって、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
という命題が結論として導き出される。←←

今回の論議は、上記のような拙論における大前提(A)、及びその「根拠」に対するbragelloneさんの異論を巡って行なわれてきました。その過程を極めて大雑把ですが辿るなら次のようになるかと思います。

[ ★(人間存在の原因は)永遠に不可知と言わざるを得ません ]
☆ [ 人間存在の原因 ] は、非知であって不可知ではない。
「自然宇宙の絶対的摂理」があるとしても、それが「人智の及ばぬ」ものであるなら(というより、あるのだが)、それに対して、知り得るとか知り得ないとか言うこと自体が不合理だからである。つまり、そうしたものに「起因して我々は生まれた」とは言えないわけで、よって、( A )の命題は成立しない。
★しかし、因無くして果は生まれないのであって、「人間が存在するという事実」という「果β」に対応する因が存在すると捉えるのが合理的ではないか。
そして、[その原因に対する原因が永遠に付きまとう ] わけなので、その因は永遠に不可知と言わざるを得ない。
また、「人智の及ばぬ」ものであるからこそ不可知と言うのであって、そのこと自体に不合理性はまったくない。
☆因があるとする場合でも、それは、あくまで「神 / 自然宇宙の絶対的摂理」の一方的なハタラキカケとして作用するのみである。
人智で、「知り得るとか知り得ないとか」いう判断を下せるような対象ではない。
なにしろ、経験事象とは非連続なのだから。
★しかし、非連続なのにハタラキカケが可能だというのは矛盾ではないか。
☆いや、「神 / 自然宇宙の絶対的摂理」とは、そういったものとして規定されているし、されるべきものなのだから、矛盾でもなんでもない。

多様な切り口での解説もいただきましたし、こちらも可能な限りの視点で述べさせていただいたと思います。
見解の相違に至っているように思われますが、いかがでしょう。
神 と 自然宇宙の絶対的摂理の関係性に論点が移動する形で落ち着いているように見えます。






2.
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ ヒラメキや良心
☆ についての確認 ありがとうございます。


全体を見渡す議論とその経過を まとめていただきました。

あらましとして 同意します。

細かいところでのコメントと そして 全体としてのわたしの推理した見通し
のようなものを述べたいと思います。

それは 一体となっているかたちです。そしてこのコメントは わたしの新し
い質問:【Q:人は神と連続してつながっているか?】に書いています。



★ 《「自然宇宙の絶対的摂理」・・・に「起因して我々は生まれた」》(A)
とは言えない
☆ か? げんみつには 次のように考えます。

(あ) 非連続説なら かんたんに《言えるか言えないかが 分からない》と
なります。

(い) 連続説では やや複雑な手続きを採って この A の仮説を推し出して
いると思われます。

(う) まづ連続説とは 経験世界と超経験の場とが 連続してつながってい
ると想定する仮説です。

(え) 「自然宇宙の絶対的摂理」が 超経験の場です。となると さらに細
かい想定が必要になると思われます。

(お) 経験事象をさかのぼって人間存在の原因を追究するとき その過程で
ついに超経験の場にぶつかるときがある。そこでは さすがに連続説もその連
続説のままを推し進める動きを一たん休める。

(か) なぜなら 《未知》の領域から《人知の及ばぬ》領域へと突入するか
らです。超経験の場に対しても あらたな仮説措置としての想定をおこなうこ
とになる。はずだ。

(き) もともと連続してつながっていると想定していた〔(う)〕けれども
実際に原因を遡及して問い求める過程では 初めの想定をただ上から観念的に
かぶせて進めばよいとはならない。

(く) 《人知が及ぶ世界か 及ばないとする場か》で違って来る。可知の領
域では 連続性を仮説のまま当てはめればよい。その可知の領域を超えた場に
ついては すくなくとも《それまでと同じように 連続性なる仮説を確認しつ
つ 同じように当てはめる》と ことわらざるを得ないはずだ。


★ 見解の相違に至っているように思われますが、いかがでしょう。 / 神 と
自然宇宙の絶対的摂理の関係性に論点が移動する形で落ち着いているように見
えます。
☆ わたしにも そのように思われます。

お礼日時:2017/05/18 18:33

#51です。



1.
>未知の領域から《人知の及ばぬ》領域に突入します。おそらく連続説は 
それでも 《直接のつながりがある》と捉えるでしょうが この《それ
でも》という断層があるはずです。

★☆直接のつながりがある》
はず。
☆《それでも》という断層があるはず。
という見解の相違であるということは了解しました。

2.
>《論理ないし探究の姿勢に断層が出来る》そ
のあとでは 《想定》に拠ることになり それは 経験合理性(≒因果
関係の認識)を超えたゆえ あとは《直観》の問題になるはずです。

☆《論理ないし探究の姿勢に断層が出来る》
という非連続説を前提すれば、そういうご見解になるでしょうね。

3.
>☆ 《形作られているはずの関係》は 或る一人の主観の・それも《非
思考》としてのタテの関係の内に限るというのが こちらの定義です。
そのタテ関係が そちらの定義において 一般的に形成されているとす
るのなら 個別の主観であっても すでに一般的なヨコの関係にそのま
ま通じている。となります。

少し表現を変えてみましょうか。
☆或る一人の主観の・それも《非思考》としてのタテの関係の内に限る
のだとしても、
☆☆ タテ関係では 構図としては異ならないのが基本(#4-b)
である上に、
★同じ人類
という、そもそものヨコの関係があるのだから、
★「人間が存在する(という事実)」=果β
に関しても、
☆ヨコの関係(個々人間における認識、感覚などの同一性)
が(非連続説においても)結果的に、つまり意識せずに形成されるのではありませんか?
ということ。
実は、骨子を端的に申し上げるとですね、

☆《神‐われ なるタテ関係》としての個々のわれは 互いに異なっている
か? それは 《人であることと タテ関係という構図》は 互いに同
じですが あとは 何とも異同について分かりません。(#43)☆
という箇所について、
☆あとは 何とも異同について分かりません
というのは、整合性に欠けると思うのですが、いかがですか?
と言いたいわけです。
勿体つけてすみません。

4.
>c.
★ ~~~
 >介入(因果関係)を 一般的なハタラキカケ論として知ろうとしま
 せん。
その関係性がどうなっているのか
~~~
☆ 基本構図は どうもなっていません。主観内部では どうにでもな
り得ます。

☆どうもなってい
ないのだとしても、同じ基本構図ですよね。
そして、
☆主観
にしても、その「同じ基本構図」によって影響を受けているわけですから、そういう関係性にあると捉えるのが合理的だと思うわけです。
まあ、しかし、あくまで非知説に基づくなら
☆ 基本構図は どうもなっていません
となることは理解できます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
☆☆ 未知の領域から《人知の及ばぬ》領域に突入
☆ するに際して 遡及するときの論理や姿勢に変化は ないですか?

見解の相違をみとめつつ この問い=確認は あってもよいはずです。


2.
前項の《突入》時に 遡及のために用いるところの:
☆☆ 論理ないし探究の姿勢に断層が出来る
☆ のでは? 

《断層が出来かかったときに 〈それでも〉 仮説としてそこを連続
していると捉える》となりましょうか?

ただ この《それでも》があるなら そこに《想定 ないし 仮説》
という要因が入って来るはずでは?


3.
★ ~~~~~~~~
 ★ヨコの関係(個々人間における認識、感覚などの〔☆その内容で
 はなく範疇としての〕同一性)
が(非連続説においても)結果的に、つまり意識せずに形成されるの
では?
~~~~~~
☆ それは 《人間であること》という共通の要素でしょう。その上
で ヨコにおいても(思考や感覚が)・タテにおいても(その非思考
の海で自在に泳ぐ主観が) おのおの異なります。

ヨコにおける自己表現は 経験合理性の物指しで測ることができます。
因果関係ないしその論理化によって 表現内容を交通整理することが
できます。

タテにおける言わば自己表出は 混沌やら神秘をふくんでおり ―― 
人間の思いや想像がかかわる限りで 多少はいまの物指しで交通整理
できるのかも分かりませんが―― むしろそういった整理をすること
を望んではいない状態にあります。
整理をしても どうってことはない場合が多い。

ゆえに:
☆☆ 何とも異同について分かりません。
☆ そして そうであっても 精神の秩序は なんら損なわれること
はありません。おさまるところにおさまっているからです。

次項の基本構図のことです。


4.
《普遍神をわが心に受け容れて(=信じて)成る》非思考の庭が《霊
霊一如》なる類型として定まっている。これが 基本構図です。

そのキャンバスの上で(その掌の中で)孫悟空なるわが主観は 狂っ
たようにでも自由自在に飛び回ります。

★ ~~~~~~~
まあ、しかし、あくまで非知説に基づくなら
 ☆ 基本構図は どうもなっていません
となることは理解できます。
~~~~~~~
☆ ありがたいです。

お礼日時:2017/05/18 16:34

#50です。




(い) つまり《直接の――それを言葉で表現しがたいとしても 基本
は想定じょう直接の――つながり》がある。その基礎の上に この《タ
テ関係》が 誰にもいつかおとづれるようにして 成り立つ。のではあ
りませんか?

いえ、それは違いますね。
おっしゃりたいことはよくわかります。
《ヨコの関係》
はたしかにあるでしょう。
しかし、それは、単に「同じ人類」というだけの(ヨコの)つながりにすぎない。
ですから、次のように問い直しましょう。

★同じ人類
という
☆その基礎の上に この《タテ関係》が 誰にもいつかおとづれるようにして 成り立つ
のだとすれば、《最終的原因‐われ なるタテ関係》において、
A さんの場合は○○という関係、 B さんの場合は××という関係、のよ
うに異なるかもしれない、とおっしゃっていることになりますが、それ
で間違いありませんか?


(う) すなわち だとすると:
★ A さんの場合は○○という関係、 B さんの場合は××という関係、
のよう
☆ だとした場合 それらは 理論づけて捉える対象ではなくなる。の
ではありませんか?

(い)でご理解いただけたと思いますが、そういうことにはなりません。
この懸案の大元は、以下の辺りです。

→→★ ~~~~~
☆ 非連続説では / ハタラキカケが / 神の側から一方的に / あり得る /
  と推測する
★という非確信的見解なのだとしても、そうした状態自体は、やはり、《連
続》つまり《つながっている》と言うしかないのではないか?
☆ はい。わたしの言う《神とわれとの タテの関係――非思考の庭――》
において〔のみ〕です。
まったくの主観としてです。この主観が 思考と感覚とをとおしてマジハリ
を成す《われ‐われなるヨコの関係》においては 共同化されることはあり
ません。
主観内においてのみ 非思考の庭にかかわる観念として《神とわれとがつな
がっている》と思っているでしょう。(#43)←←

→→ ★ ~~~~~
★「人間が存在する(という事実)」=果β
だけについて
 《神とわれとの タテの関係》
は個々で異なる関係になるわけでしょうか?
☆人間という経験事象と超経験なる神とが絡んでいますが このタテ
の関係はそもそも神の側からのハタラキカケです。
《神‐われ なるタテ関係》としての個々のわれは 互いに異なっている
か? それは 《人であることと タテ関係という構図》は 互いに同
じですが あとは 何とも異同について分かりません。←←(#43お礼欄)

つまり、わたしの趣旨としては、
☆共同化されること
がない、つまり、
☆主観内においてのみ 非思考の庭にかかわる観念として《神とわれとがつな
がっている》と思っている
のだとしても、
★同じ人類
というヨコの関係があるのだから、
A さんの場合は○○という関係、 B さんの場合は××という関係、のように、それぞれの(タテの)関係性(つまりハタラキカケの内容)自体が異なるはずはないだろう、ということです。


(え) その意味は ○○もxxも すでに個別の《タテ関係》であり
しかも同時に 一般の経験事象と同じくヨコの関係として その出来事
が生起している。のではありませんか?

☆同時に
の意図が今ひとつですが、同じ人類であることを一般の経験事象とするなら、そうなるでしょうね。
そして
☆ハタラキカケ
が、
★「人間が存在する(という事実)」=果β
に関するものであるなら、
☆何とも異同について分かりません
ということはないだろう、と。
しかし、それが
☆理論づけて捉える対象ではなくなる
とおっしゃっているのですかね?
であるなら、それはなぜでしょうか?


(お) そういう多様性は 非連続説では ありません。想定していま
せん。強いて言えばそういう場合というのは 自由意志の発揮の仕方に
よる個性の問題とのみ捉えます。

くどめに述べてきてしまいましたが、A さんや B さんの受け止め方、
☆自由意志の発揮の仕方
について言っているわけではないのです。
★A さんの場合は○○という関係、 B さんの場合は××という関係
とは、あくまで、《神とのタテの関係》についてです。
☆ハタラキカケ
の中身が変化するのか、という意味。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

(い) 
《同じ人類という基礎の上に》という条件をつけても付けなくても タ
テの関係は つねに《非思考》なるカカハリです。

ゆえに 思考および感性をつうじてマジハリを展開するヨコの関係とは 
直接のつながりがありません。

非思考の庭がわが心に成るというときそれは 《普遍神とわれとの――
霊をつうじての――〈梵我一如〉類型なるカカハリ》として定まってい
ます。

類型が 決まっています。具体例はいくらかに分かれます。


(う) 
★ ~~~~
 ★同じ人類
というヨコの関係があるのだから、
A さん、 B さん それぞれの(タテの)関係性(つまりハタラキカケ
の内容)自体が異なるはずはないだろう、
~~~~
☆ 《梵我一如あるいは霊霊一如》なる類型として みんな同じです。

★ ハタラキカケの内容
☆ は 個別にまったく自由です。主観がそう受け取ったそのものが 
ぜんぶその主観にとっては 活きます。

ただし その主観をヨコの関係で発言するときには 経験合理性という
言語に翻訳して欲しい。


(え)
ハタラキカケは つねにタテの関係に限ります。或る主観内に限ります。
非思考として成り立っています。そして それゆえにこそ 主観はいか
ようにも自由にこのハタラキカケについて 思いを巡らせます。

これらそれぞれの主観の内容について 何ともその異同については分か
りません。同じ部分・異なる部分 それらは千差万別だと推測されます。

そして このタテ関係における千差万別の各主観が もし――連続説に
おいて――そのまま現われたとしたら とうぜん もはや《理論づけて
捉える対象ではなくなる》と考えられます。

そうでないと言うには タテ関係が 非思考において成り立つのではな
く 思考や感性と通じた成り立ちだと仮定する場合だと思われます。

でも ヒラメキや良心は 人間が考え努力して得たり備えたりするもの
ではないという仮説が 立ちはだかると思われます。


(お) 
★ ~~~
《神とのタテの関係》について
 ☆ハタラキカケ
の中身が変化するのか
~~~~
☆ ハタラキカケの内容は 神がおしえるわけではないのです。人間が
勝手に想像するわけです。前項のごとく 千差万別です。

そして 梵我一如なる類型は 普遍であり不変です。

お礼日時:2017/05/18 01:46
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