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不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

質問者からの補足コメント

  • つづき。

    けっきょく:
    ★ 【 因α(非知)⇒ 果β(既知)】という構図
    ☆ は つねに一人の人間のその主観であるにとどまるということになります。

    そこでは:
    ★ [ 果α > 果β ] / という関係性になっている
    ☆ ことがあるはずです。たしかに。

    そしてその主観――つまり神の摂理はこうなんだぞ――を他の人にも自由に自
    己表現していいわけですが(表現の自由) それが みなの共通の了解事項と
    はなることはありません。

    もともとの大前提の《絶対のへだたり。あるいは 直接的な因果関係ではない》
    が控えています。いくら《敬虔な信徒》の得た啓示であったとしても この因
    果ないし摂理の関係は 主観の外には出かけません。(旧約聖書の時代はそれ
    としてあり得ました)。

    これは タテの関係(非思考)とヨコの関係(思考・感性)の問題でもあると
    思います。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/14 18:54
  • №30への補足つづき。

    ★ ~~~~
    わたしとしては、
     ★「人間が存在する(という事実)」=果β
    だけについて考えたい、と思っている、・・・
    ~~~~
    ☆ 限定しなければならないとは思いませんが 取り上げる主題ないしその
    条件として 異なっているとは思っていません。

    非連続説では 《普遍神とわれとの関係》が この場合のいちばんの派生命
    題だと考えます。

    ★ わたしが非知説そのものを否定しているわけでないことは以前から申し
    上げているとおりです。
    ☆ そうでしたか。ただし 次の神の想定では 少し違うということでしょ
    うか。

    ★ しかし、その実体はわからないにせよ、自ら生み出したところの「神」
    という概念について考察する場合に「非知」はそぐわないだろう、というこ

    ☆ じつは神は 概念〔のみ〕ではないんです。概念という経験事象を超え
    ているのですから。ゆえに 非知なんです。

      補足日時:2017/05/14 19:03
  • №35を振り返って このあと どうしましょう?

    おっしゃるように一たん 休みますか?

    主題を変えて出直しますか?

    もう一ぺんだけ ご回答ください。

      補足日時:2017/05/15 18:32
  • №47お礼欄をおぎないます。

    けっきょく《不可知》は きわめて特殊な場合だけではないかと推理し
    ています。

    ただし 神の定義に用いられることがありますが この場合は 例外と
    して しっかりと問題として扱わなければならない。と考えます。

    こういう姿勢で 特に差しさわりはないと考えます。

    No.47の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/17 16:45

A 回答 (81件中41~50件)

#36です。



1.
>《不可知》とは言っても 《ある》ことは 経験合理性において分か
っています。人間の理性で遡及しているのですから。
ですから 《人知のおよばぬ》や《絶対的》ではなくなります。

この論理は成立しません。
《ある》のだとしても、《ある》ものには、《人知のおよぶ》ものと《人知のおよばぬ》ものがあるのは当然なのだから、
☆《人知のおよばぬ》や《絶対的》ではなくなります
という結論を導く根拠にはなり得ない。
そもそも、不可知とは「わからない」という意味なのですから、《人知のおよばぬ》ことが前提となっている概念です。(わざわざ説明するまでもないはずですが・・)

2.

★不可知
と言ってるのですから、経験的に知ることはできないのは当たり前
~~~~
☆ その最終的原因と呼んだものは その中身が知られ得ないとして
も それを いま遡及して認識しつつあるのですから それが《ある》
ことは 自明です。つまり 経験事象だとなります。
ですから:
☆☆ それは 直接の因果関係であるしかないのでは?
☆ と 連続説に即した論理において なるはずなんです。

端的にお伺いしますが、
「因が無くして果は生じない」と思うのですが、いかがですか?
つまり、
★非連続説では 《直接の因果関係では ない》わけです。みなが共通に理
解し得る摂理関係は ついぞ出て来ません。
因果関係から自由なナゾとして 非経験の場を想定したのですから。(#30お礼欄)
とおっしゃる点は理解できるのですが、
★それでも ハタラキカケは――神の側から一方的に――あり得ると推
測し得ると見ます。
とも続けておられる。
この場合、たとえ、
★ハタラキカケ
と表現しても、また、
★神の側から一方的に
だとしても、
★あり得る
という可能性について言っているのだとしても、
★推測
という非確信的見解なのだとしても、そうした状態自体は、やはり、《連続》つまり《つながっている》と言うしかないのではないか?
ということです。
おそらく、ここが最終的論点になるのではないですかね。
「非連続は間接的に連続することもあり得るが、連続説は直接的に連続している」
とおっしゃりたいのですかねえ。
だとするなら、不毛・・・かもですよね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
★ 《ある》のだとしても、《ある》ものには、《人知のおよぶ》ものと
《人知のおよばぬ》ものがあるのは当然
☆ そういう論理も言い得ますが ここで言ったのは 《不可知なものが
ある》ということです。《ある》という認識として 人知が及んでいます。

人知のおよぶ《ある》というのは 神にかんして言うなら 言葉≒概念と
してだけの神のことです。

言いかえると 《全面的に人知が及ばぬ》のは 超経験であり 非経験の
場であり 非知として捉える神に――論理の必然として――なります。

2.
★ 「因が無くして果は生じない」と思うのですが、いかがですか?
☆ ですから われわれ人間がそのように認識している因果関係は 経験
事象に限られます。

超経験は その因果関係から自由です。《超えて》いる。またそう想定す
るものです。

★ ~~~
 ☆ 非連続説では / ハタラキカケが / 神の側から一方的に / あり得る /
  と推測する

という非確信的見解なのだとしても、そうした状態自体は、やはり、《連
続》つまり《つながっている》と言うしかないのではないか?
~~~
☆ はい。わたしの言う《神とわれとの タテの関係――非思考の庭――》
において〔のみ〕です。

まったくの主観としてです。この主観が 思考と感覚とをとおしてマジハリ
を成す《われ‐われなるヨコの関係》においては 共同化されることはあり
ません。

主観内においてのみ 非思考の庭にかかわる観念として《神とわれとがつな
がっている》と思っているでしょう。


★ おそらく、ここが最終的論点になるのではないですかね。
☆ かも知れません。

★ 「非連続は間接的に〔* 主観内の心的現象としてのみ〕連続すること
もあり得るが、連続説は直接的に連続している」 とおっしゃりたいのです
かねえ。
☆ そういう論点が派生すると考えます。

もともとは 経験世界における因果関係を遡及してその大元を追究するとい
うとき 人間の認識のチカラが遡及し得た・つまり人から神へと連続してい
ると捉えそう仮説した場合を 連続説と呼びました。

これを 成り立たないというかたちで批判することは むつかしい。つまり 
見解の相違であると言っています。

ただしその結果 《主観と神との連続》なる論点が生じます。

お礼日時:2017/05/16 15:59

他人の心はどの程度知ることができるか。


その割合は?

例えて
氷山の一角

と云うのはどうでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

その心(根拠)は?


《こころ》の問題には ふたつの場合がると思います。

《他人の心を知る》という場合と《他者という人間(人格)そのものを知る》
場合と。

後者は 要するに 人間とは何かという問い求めにもなっています。その理
論(人間論)だけではなく 実地にこの人・あの人・・・というふうに現実
にあっても知るということ。

前者の《他人の心を知る》には さらに二つの場合があるかと。

とにかくそのいま 誰々はどんな心の動きをしているかと問うてその心(心
理でしょうか)を知り 取りあえずその場その情況を捉え大過なくおさめる
といった問題の場合が ひとつ。

もうひとつに 互いに心がかようといった場合。夫婦や親友のあいだで 以
心伝心というかのように言葉が要らないほど分かり合っているとか あるい
は肝胆相照らす仲であるとか。



いづれの場合にも その知っているという割り合いは 分かりづらいのでは
ないか。

どれだけの割り合いで心理を知り得たか。
あるいは どれだけの度合いで 心を通い合わせ 人を知ることが出来たか。

《さとり》の問題にもなるのでは? どうでしょうか。

お礼日時:2017/05/16 06:06

《無限》って0のことだな。

指し示されているという恰好ってのはウソだ。ウソつきめ。
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この回答へのお礼

シルシで書けばよいかどうかも分からないけれど 無限大: ∞

お礼日時:2017/05/16 00:35

非連続ってのと、《指し示す指を見るのではなく その先を見るべき》ってのがつながらない。

その先を見るべきって思うのはなんで?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《永遠・無限・絶対》というのは 言葉であり概念です。

ですが その言葉・その概念としての意味内容そのものを理解
しただけでは つかめません。

《無限》は 二で割っても三で割っても 出て来た答えは も
との《無限》です。半分になったり三分の一になったりするの
ではないわけです。

したがって 《限りなくつづくこと》だとか《終わりがないこ
と》だとかあるいは《究極のなにか》といった説明とその意味
内容だけを捉えても 実際に指し示そうとしている意味内容は
つかめません。

指し示す指を見ていたのでは 意味が つたわるものも伝わり
ません。

指の先を見ようとすることが 肝心だ。


――でしょうか。



ただし 指の先を見よというだけでも まだ 非連続の先なる
ものは 見えないかも分からないですね。

経験世界を超えているところのものを 見ようとするというこ
と。

ということは もはやそれを指し示す指――言葉≒概念――は
ただのシルシである。ということになるはずです。



やまとの三輪なる大神(おほみわ)神社に 神殿はありますが
そこに何か神がいるということでもない。神を示す何かがある
ということでもない。

ただ神殿という建物のかたちで その指の先を指し示している。

それは 背後の三輪山のことかも知れない。

でも そのかむなび(神の霊)山も まだ 指でありシルシで
ある。つまりは 超経験の場たる神が それらの形あるものを
とおして(それを補助線として・依り代として) 指し示され
ているという恰好である。

お礼日時:2017/05/15 23:07

#36です。


一部修正

×
☆それは直接の因果関係であるしかないのでは?
というのは、あくまで非連続の立場での見解を示しているにすぎないのですよ。


☆それは直接の因果関係であるしかないのでは?
という【批判】は、あくまで非連続の立場での見解を示しているにすぎないのですよ。
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この回答へのお礼

批判ですけれど №36お礼欄にも書きましたが 連続説にもとづき
論理をはこんだ結果 そういう疑問が起きましたというお知らせです。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/05/15 21:01

1.


>★ (特定できない)
☆ ということは その原因の内容が分からないだけではなく それが
《最終のもの》かどうかも分からないということですよね。

そうです。

>つまり ほんとうに最終の原因は なおまだあるかも知れない。つまり:
☆☆ 〔遡及は〕限りなくつづくしかないのでは?

そうですよ。

>☆ さもなければ 遡及の過程を一たん人為的に断つ。そして最
終原因を想定する。のでは?
さらにそして 想定するからにはその仮説としては はっきりとした定
義内容でなければならない。《不可知と思う》という説明だと いまだ
に遡及をつづけていると考えられます。

☆いまだに遡及をつづけて
いても別にいいんじゃないですかね。
最終的原因について《不可知と思う》と言ったからといって、最終的原因が無いと言ってることにはなりませんよね?
なにが問題なのか、本当に不思議です。

>つまり 大きくは《人知のおよぶ》領域にあって どうも《知り得ない
と思われる不可知なるもの》を神とした。となるのでは? 《絶対》で
はないですよね?

★最終的原因は分からない
と136回ぐらいは言ったと思いますが、
★わからない
のですから、
☆《人知のおよぶ》領域
じゃないでしょう。

2.
★ ~~~
 ★「人間が存在する(という事実)」=果β
が、
 ★「人間が存在する最終的原因」=因β(不可知)
と、これこれこうした仕組みで【直接的】に関係している、と言ってい
るわけではない。
~~~
☆ ならば 《因β(不可知)》は 超経験だとなりませんか? 経験
事象であるなら いかに不可知だとしても それは直接の因果関係であ
るしかないのでは?

★不可知
と言ってるのですから、経験的に知ることはできないのは当たり前であり、それを超経験と呼びたければそう呼んでも構いませんよ。
しかし、「因」が不可知(超経験)だからといっても、その「果」は既知なわけです。(
ですよね?)

「因」の正体は不可知(または超経験)であるにせよ、この既知である「果」とは連続的につながっている、いや非連続である、という見解の相違があるだけじゃないんですか???

ですので、
☆それは直接の因果関係であるしかないのでは?
というのは、あくまで非連続の立場での見解を示しているにすぎないのですよ。
まず見解の相違をお認めになってから言うのならわかりますが、非連続が正しい根拠として延々と、こうしたことをおっしゃり続けていては、永遠に終わりませんよね?

> 非連続説では その《分かりやすくなった図示による理解》があく
まで一人の人の主観の内面にとどまるということになります。外には出
かけません。

ほらね、こういう具合です。
因みに、連続、つまり、不可知であるのは普遍的真理という立場ですので、
☆一人の人の主観の内面にとどまる
という事態は想定していないわけですが、こうしたことも見解の相違があるなら、当然のことでしょう?(信仰としての神は別の話になりますけどね)

3.

★ 概念であることに違いがないのなら、つまり、「神」という言語で
ある以上、「知に非ず」とは、いかにも矛盾でしょう
☆ 《永遠・無限・絶対》 これらは――明らかに《非知》ですが――
《言葉であり概念である》ので 《矛盾》が横行しています。

指し示す指を見るか その先を見るかでしょう。

☆その先
は不可知だ。
いや、
☆非知だ。

これだけの話ですよ。
違います?
経験事象を
☆指し示す指
と言い換えたところで、それは単なるロマンチシズム。
哲学の領域から逸脱している。

4.
>おっしゃるように一たん 休みますか?
主題を変えて出直しますか?

お疲れのようですから、休んでも構いませんよ。
なぜ、「見解の相違」と認識なさらないのか、どうもよくわからないままですが、仕方ないでしょう。
ただ、賛同するしないは別にして、今回申し上げたことの内容が理解できないようでしたら、つまり、見解の相違(むろん、同意でも構いませんが)に至らないままなら、
☆主題を変えて出直し
でも、おそらく同じことだという気はしますね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
★ ~~~
 ☆いまだに遡及をつづけて
いても別にいいんじゃないですかね。
最終的原因について《不可知と思う》と言ったからといって、最終的
原因が無いと言ってることにはなりませんよね?
~~~~
☆ 無いとは成りませんが 特定し得てもいないのでは? 《遡及を
つづけている状態において 仮りに最終的原因があると想定する》と
いうことでしょうか?

だとすると それは《最終》ではないとなりませんか? 《第一》で
はないと思えるんですが? 《その次》が出て来ますから。

《不可知》とは言っても 《ある》ことは 経験合理性において分か
っています。人間の理性で遡及しているのですから。

ですから 《人知のおよばぬ》や《絶対的》ではなくなります。

2.
★ ~~~
 ★不可知
と言ってるのですから、経験的に知ることはできないのは当たり前
~~~~
☆ その最終的原因と呼んだものは その中身が知られ得ないとして
も それを いま遡及して認識しつつあるのですから それが《ある》
ことは 自明です。つまり 経験事象だとなります。

ですから:
☆☆ それは 直接の因果関係であるしかないのでは?
☆ と 連続説に即した論理において なるはずなんです。外からの
批判ではなく。



タテの関係をめぐる議論は  わたしの非連続説を推し出そうとして
触れたわけではありませんので 保留としたいと思います。



3.
ここは 非連続説に立つ《非知》説を弁護するために書きましたので
その意味で 保留とします。

矛盾ではないかと問われたので 弁明したのですが。

4.
ここの論旨をお聞きしますと どうも 《指し示す指を見るのではな
く その先を見るべき》という《言葉=シルシ(補助線・依り代)》
説について 理解していただけていないと分かりました。

《永遠》等の事例を考えていただいても 届かないとしたら これは
冷却期間を置いたほうがよいかと思われて来ています。


いちど はこぶるさんが 質問なさってはいかがですか? 教えてと
いうよりは 情報交換としてになるでしょうが。

お礼日時:2017/05/15 20:59

#30です。



1. ☆最終的原因  ★ というものは無い(特定できない)という
スタンスである
☆ とすれば――特に連続説なら―― 原因を遡及して追究すること
は 限りなくつづくしかないのでは?

ですから、だからこそ、
★(特定できない)
と申し上げているんですけどね・・・。
おっしゃる意図がよくわかりません。

2.

★ 超経験の場を前提にしたご見解で
☆ は ないのですか? そうでなければ 《連続》という意味がな
くなります。すべては 経験事象の世界にとどまり おさまります。

ですから、それは
☆超経験の場
を認定している方の考え方ですよね?
対応させるなら、『不可知の場』とでもなりますかね。

3.
>このとき 《⇒》の意味する関係の内容が 問題だと思います。非連
続説では 《直接の因果関係では ない》わけです。みなが共通に理
解し得る摂理関係は ついぞ出て来ません。
因果関係から自由なナゾとして 非経験の場を想定したのですから。
それでも ハタラキカケは――神の側から一方的に――あり得ると推
測し得ると見ます。

そこは理解していますが、図式が下手だったかもしれませんね。
★【 因α(非知)⇒ 果α{ 因β(不可知)⇒ 果β(既知)}】
における
☆《⇒》の意味する関係の内容
は、連続説の場合であっても、
☆《直接の因果関係では ない》
のです。
つまり、
★「人間が存在する(という事実)」=果β
が、
★「人間が存在する最終的原因」=因β(不可知)
と、これこれこうした仕組みで【直接的】に関係している、と言っているわけではない。
たとえば、「黒鍵を押す」⇒「半音が出る」のような「一般の経験事象」における因果関係とは一緒にしないでほしい旨、申し上げていたはずです。
しかし、因β(不可知)によって得られた結果であると判断するのが妥当だろう、ということ。
一方、
>非連続説では 《直接の因果関係では ない》
:ながら、
>それでも ハタラキカケは――神の側から一方的に――あり得ると推
測し得ると見ます。
:ということであるのも理解しており、
「因α(非知)」が、2個の⇒だけでなく{}を経た上で、「果β(既知)」につながっているような図にすることで、連続とまでは言わないが、なんらかのハタラキカケはある、といったニュアンスを出したつもりでした。
図が下手なのはさておき、意図はおわかりいただけることでしょう。

4.
>★ 【 因α(非知)⇒ 果β(既知)】という構図
☆ は つねに一人の人間のその主観であるにとどまるということになります。

それは当然なのですが、ここは考え方が逆です。全体像は、
★【 因α(非知)⇒ 果α{ 因β(不可知)⇒ 果β(既知)}】
なわけですが、連続説の場合、
★因β(不可知)⇒ 果β(既知)
だけで間に合います。
しかし、非連続説は、
☆《絶対のへだたり。あるいは 直接的な因果関係ではない》
☆もともとの大前提
が控えて
:はいるのだが、一方で、
☆ハタラキカケは――神の側から一方的に――あり得る
というように、必ずしも、
★「因が無くしても果は生じ得る」
と言ってるわけではない、という趣旨のこともおっしゃっておられました(#27)。
それで、曖昧であれなんであれ、両者を組み込んだ形で因⇒果という関係性を図示すれば、わかりやすくなるかと思った次第。
少なくとも、これなら、非常によく理解できます。
むろん、違うならむしろ無いほうが良いわけですが、説明不足の部分もあるかと思い、再度解説させていただいた。

5.
>★ わたしが非知説そのものを否定しているわけでないことは以前から申し
上げているとおりです。
☆ そうでしたか。ただし 次の神の想定では 少し違うということでしょ
うか。

★ しかし、その実体はわからないにせよ、自ら生み出したところの「神」
という概念について考察する場合に「非知」はそぐわないだろう、というこ

☆ じつは神は 概念〔のみ〕ではないんです。概念という経験事象を超え
ているのですから。ゆえに 非知なんです。

いえいえ、そうではなく、たとえ、
☆概念〔のみ〕
ではないにしても、概念であることに違いがないのなら、つまり、「神」という言語である以上、「知に非ず」とは、いかにも矛盾でしょう、ということを申し上げています。

いずれにせよ、信仰対象としての神論議についてはスレを改めるほうが良さそうですね。
とりあえず、連続・非連続をやっつけてからでないと落ち着かないでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.& 2.
原因を遡及するとき 最終的原因は:
★ (特定できない)
☆ ということは その原因の内容が分からないだけではなく それが
《最終のもの》かどうかも分からないということですよね。

つまり ほんとうに最終の原因は なおまだあるかも知れない。つまり:
☆☆ 〔遡及は〕限りなくつづくしかないのでは?
☆ です。さもなければ 遡及の過程を一たん人為的に断つ。そして最
終原因を想定する。のでは?

さらにそして 想定するからにはその仮説としては はっきりとした定
義内容でなければならない。《不可知と思う》という説明だと いまだ
に遡及をつづけていると考えられます。

仮説としてでも特定(つまり 想定)できていないものを 象徴として
神とよぶ超経験の場に当てることは むつかしいのでは? 経験世界か
ら連続しているだけではなく なおまだ経験事象である何かを 神とし
ていることに・・・。

つまり 大きくは《人知のおよぶ》領域にあって どうも《知り得ない
と思われる不可知なるもの》を神とした。となるのでは? 《絶対》で
はないですよね?

3.
★ ~~~
 ★「人間が存在する(という事実)」=果β
が、
 ★「人間が存在する最終的原因」=因β(不可知)
と、これこれこうした仕組みで【直接的】に関係している、と言ってい
るわけではない。
~~~
☆ ならば 《因β(不可知)》は 超経験だとなりませんか? 経験
事象であるなら いかに不可知だとしても それは直接の因果関係であ
るしかないのでは?

4. 引用を端折りますが:
★ 両者を組み込んだ形で因⇒果という関係性を図示すれば、わかりや
すくなるかと思った次第。
☆ 非連続説では その《分かりやすくなった図示による理解》があく
まで一人の人の主観の内面にとどまるということになります。外には出
かけません。

信教・良心の自由とは そういうチョー主観的な想像をも許容するのだ
と思います。

5.
★ 概念であることに違いがないのなら、つまり、「神」という言語で
ある以上、「知に非ず」とは、いかにも矛盾でしょう
☆ 《永遠・無限・絶対》 これらは――明らかに《非知》ですが――
《言葉であり概念である》ので 《矛盾》が横行しています。

指し示す指を見るか その先を見るかでしょう。

お礼日時:2017/05/15 18:27

あくまで私個人の話しか出来ませんが、私は不可知論者という言葉は使います。



私個人の理由ですが、神がいる、いない、いるかもしれないしいないかもしれない。という話題の時、「いるかもしれないしいないかもしれない」という立場を表す適当な言葉が不可知論者だからその言葉を使っています。


不可知論者という言葉は広く普及していますが、「未知論者」という言葉は聞いた事がありませんね。





ためしに、「不可知論者」と「未知論者」をググって比較しました。


不可知論者
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%8D%E5%8 …


未知論者
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%9C%AA%E7%9 …


やはり、「神はいるかもしれないしいないかもしれない」という論者を示す適当な言葉は、「不可知論者」ですね。





>不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

不可知という単語だけで使うならば、未知でよいと思います。


「知られていないこと」を示す単語は、不可知よりも未知が適当。
「神はしるかもしれないし、いないかもしれない」という論者を示す単語は、未知論者よちも不可知論者が適切。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ (或る人) ~~~~
(あ) 神がいると信じている人は有神論者。
(い) 神なんて存在しない、ありえないと強く主張する人は無神論者。
(う) 神はいるかもしれないし、いないかもしれない、自分にはどちら
も証明することは出来ないという立場を取る人は不可知論者。
★ ~~~~
(え) 「知られていないこと」を示す単語は、不可知よりも未知が適当。
(お) 「神はしるかもしれないし、いないかもしれない」という論者を
示す単語は、未知論者よちも不可知論者が適切。
~~~~~~
☆ 反論します。(哲学は 既成の理論を添削し補正・修正したり ある
いは 批判しつつあたらしい視点や理論を提出したりするいとなみです)。

(か) 神を信じていて その神は有ると説明するのが 有神論です。

(き) 神を信じて(=つまり 神とわれとの関係をすでに われが生ま
れて存在しているということをめぐって 想定して)いて その神は無い
と説明するのが 無神論です。

(く) (う)(お)をめぐっては まづ最初の想定・すなわち《神を信
じる(そしてその具体的なかたちは 有神論かまたは無神論を採る)》を
ないがしろにしています。

(け) 《神の存在》という主題については 存在するも 存在しないも
いづれも証明されていません。そしてこれは 〔歴史上これまでの〕事実
です。

(こ) 《神を人は知るか つまり神は知り得るか》と問うとき ひとつ
に 可否いづれの答えも 証明されていません。これも 事実という問題
です。

(さ) つまり 広義の《神を信じる》という事態は 《神は知り得るか
知り得ないかが 知り得ない》という説明のもとに 神を想定するという
ことと同じ内容です。

(し) 《知り得ない》という意味の《不可知》は この場合明らかに使
えません。

(す) よって:
★ 不可知論者という言葉は広く普及していますが
☆ 哲学からすれば 明々白々な間違いです。

お礼日時:2017/05/15 13:37

一説には他者は分からないものだと云う。


でも、ブラジュロンヌさんは分かる部分もあると云う。

今は、どちらを取りますか?
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この回答へのお礼

いや。ちょっと舌足らずでした。

(あ)《他人(ひと)の心》は 分かるか? と
(い)《他者――つまりは もう一人のわれ( alter ego )――》は 知り得るか?

これらふたつがあります。(いまの場合)。

(あ)は 部分的に分かるのではないか? その割り合いは わたしは分かりません。
分かっているのかどうかも 聞いたことがありません。

わいわいえいとさんは 分かりますか その割り合いについて?




(い)は 単純に言えば (あ)の《他人の心》の中のもっとも奥にあって 自分で
も分かりにくいところ・・・とも言えるかも知れません。

知れませんが いちおう別として そうすると 《他者》というものは 分かったと
思ったらそれは 自分というものの一部分〔と共通であったので〕として分かったに
過ぎない。

つまり 分かった部分の奥に つねに《分からない他者》がのこってしまう。といっ
たお話です。

お話以上に展開した議論は まだ聞いたことがありません。


要領を得ないお応えになっているかも知れませんが こんなふうに思っています。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/05/14 22:34

他人の心は可知の部分もあると云う。


不可知の部分もあると云う。
これを受け入れても、不可知の部分が大部分!

こう受け止めてもいいですか?
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この回答へのお礼

だいたい そうだと思うのですが:
★ 不可知の部分が大部分!
☆ かどうかは どうなんですかねぇ。

その割り合いは 分かるんですかねぇ。

わたしには 分からないですね。どういう割り合いかは。


ご回答をありがとうございます。


あと 《他者》というもの。これは 分からないものだと
言います。

つまり・なぜなら 分かったとすれば その部分は じつ
は 自己の中になるその一部分であるからと。

つねに 《他者であるもの》は 分からない領域でありつ
づけるという説なんですが。

またさらに 《わたしであること》は じつは 自分自身
にも分からないところがあるのではないか。とは言われま
す。


ただし きちんとした理論としてさだまっているかと言う
と それは 聞いたことがないです。

お礼日時:2017/05/14 21:59
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