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老荘思想で考えられている「道」は、ビッグバンが発生する前の空間のことですか?

老荘思想では道を「天地も万物も何も存在しない、かつ名前もつけられない、混沌と静寂のもの」と定義しています。

ビッグバン前の状態は、天地も万物も何も存在していないうえ、名前も付けられない、混沌・静寂の様です。これぞ、老荘思想で言う「道」なのでしょうか?

A 回答 (4件)

★ ビッグバンが発生する前の空間のことですか?


☆ 時空間が発生する前というのは 有限で相対的な世界を超えたところの
ことです。

《無からの想像 creatio ex nihilo 》というときの《無》は この経験世界
における《有る無し》を超えています。《非有・非無》といった意味でしょ
うが ただたんに《無》と言っています。

老子の《道》は 哲学から見て大幅に好意的に解釈するなら 神――普遍神
――のことです。

普遍神と人間たるわれとのカカハリは つまり信仰のことですが それは一
般に《梵我一如》なる類型として捉えることができます。

道については それに倣って《道人一如》と言えるかと思われます。


○ (普遍神とわれの関係である信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えら
れる) ~~~~~~~~

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  G. タオイズム:道人一如(有神論?) / 無為人為一如(無神論?)
   道:無限性:無為自然
   人:有限性:人為不自然

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空・シューニャター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. プラトン:霊霊一如
   霊:イデア / 宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)
       / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然(神)および自然(神の分身))
   霊:われ(自然本性)

  H. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;エローホ(神)
   霊:われ

  I. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ;イラーハ(神)
   霊:われ

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荘子が、道教、という宗教を作った張本人なのかどうか、道教、と言うと、老荘思想とも、言われるように。


老子をを教祖に祭り上げた、道教、の始祖のひとりが、荘子、と見られているようです。
そして、道教、と言うと、気功、や、仙術、などのカルト的思想、にも結びついており。
このカテでの質問も、そちらを念頭に置いた質問と思えるものもある、ようです。
莊子の書に、「莫逆の友」と言われるものがあるようです。
集った、四人の男の一人が。「生を頭、死を尻、と捉えている者がいたら、友となれるのだが。」というと、互いに、笑って頷き、生涯の友となった。というような話です。
生を頭、死を尻、つまり。生=死 生と死は同じものの両面、一つのものの表裏、である。と考えていとなるるなら、
知恵=道理(この世界の在り方、起こり方)を理解した、信ずべき相手である。そんなところでしょう。
生=死 とは、「道は道にして、常の道にあらず。名は名にして常の名にあらず。」の「老子」という書の、
第一章、道=道 道=常でない道。道=道 は、道ー道=0であり、老子の思想、老子の数学、では、総ての存在在、一(いっ)であり、ゼロは存在しない。道-道、とか、善=善、などは存在にならない。
世界を世界として在らせている、道(トウ、タオ)は(常でない道)と一体でなければ、一(いっ)としての存在にはならない。つまり、道✕常でない道=一(いっ)
すなはち、常でない道=1/道  道✕1/道=1  であり。
第二章の  人々は善は善であると考え、善が悪であることを知らない。
      美は美であると考え美が醜で在ることを知らない。
    は 善✕(1/善)=1 が存在となり、この善の逆数 (1/善) が悪と名付けられ     る。と一章の説明になっているのです。

一章の 無を万物の祖に名付け、有を天地の母になずく。
    もつて無はその檄を現さん欲し、有はその矯を誇示せんとす。
言葉の意味を詮索特定するまでもなく、檄(げき)とは、能力、方向性の意味であり
矯は姿形、の意味になのです。
と考えると、老子の考え方は、古代ンドの釈迦と全く同じと言えるような考え方なのです。老子は 無=有 無✕有=一(いっ)なる世界と言い
  釈迦は 縁=起 縁✕起=次の縁起 と言っています。
釈迦も老子も、世界は空間(形あるもの)と形あるものと一体の形あるものに変化を起こす実体のない、能力、方向性、によって、変化を起こし続けている。つまり現代人が認識する、時間、が起き続けている。
空間=時間 空間✕時間=世界=1 =一定 と考えているのです。
私はかって、釈迦を知り、古代中国に釈迦と同じ考え方をしていると思える、老子が、かって理解出来た者が一人もいないと言われる、難解な哲学、との評価を見とき、老子は
空間=時間 空間✕時間= 一定 という事を言っている筈だと直感しました。

老荘思想では道を、、、と定義しています。? かって理解できた者が一人もいない、とは
定義によって真理という妄想を作り続ける、西洋思想、またそれにかぶれた現代日本人には、なのです。東洋には、釈迦や老子を理解できていた、と思える。名もない賢者がいくらでもいたはずなのです。
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老荘思想で考えられている「道」は、ビッグバンが


発生する前の空間のことですか?
  ↑
ビッグバン以前には空間も存在しない、と
されています。



老荘思想では道を「天地も万物も何も存在しない、
かつ名前もつけられない、混沌と静寂のもの」と定義しています。
   ↑
道は定義できない、としているはずですが。
そもそも人間は不完全です。
その人間が創った言語では表現出来ない、という
考え方があります。




ビッグバン前の状態は、天地も万物も何も存在していないうえ
   ↑
現代科学ではビッグバン以前も無ではない、と
しています。



これぞ、老荘思想で言う「道」なのでしょうか?
   ↑
理解の仕方は色々ありますが、キリスト教の神
みたいなモノでしょう。

キリスト教の神がなんとなく人格的なのに
対し、道にはそうした人格らしきモノがない
という違いがあるだけで。
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道(タオ)と道(みち)は無縁ではありません。


「道理」と一緒にされるように、根源的規範であり、
不確定性原理でいう存在以前=無限不確定性(≒無)
とは相反する概念です。
むしろそうした起源は、自我仮説(記憶=過去=時間軸)
と環境仮説(予測=未来=空間軸)の相補分化として、
あなた自身の事だと言えます。
その歪んだ“道”のおかげで、この世界は不完全なのです。
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