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こちらにちょこちょこお邪魔している者です。

傲慢だった10代20代の頃の自分の愚かさに後悔し、

例えば、お財布を拾って落とし主の元へ返した後に「良いことをした」と思った次の瞬間には「何を些細なことで自己満足に浸っているのだ」と恥ずかしくなり、穴があったら入りたくなります。

例えば、愛想の悪い店員に内心腹を立て、これまた次の瞬間に「自分はなんて小さな人間だ。自分には寛容さが欠けている」と罪悪感に苛まれます。

また、とても良くしてくれる友人に対して「何で私なんかにこんなにも優しくしてくれるのだろう?」と自分には身に余ると感じ、自分は友人に何も返すことができないのに。と途方に暮れます。

これは自尊心が低い?自己否定?
こういう人間は精神疾患が寛解に向かうのは難しいのでしょうか?

A 回答 (3件)

面白いですねぷん・・


文学的かもなぷんぶは
純真な気がぷん
気にし過ぎるのかもぷん
若い頃は いろいろ思うものぷん
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この回答へのお礼

面白いですかぷん?
文学的ですかぷんぶは?
純真な感じですかぷん?

印象派のモネのような回答ですね。
輪郭はボヤけているけれど、何を描いているかは分かる。

気にし過ぎですかぷん?
少し楽になったような気がぷん。
ありがとうございますぷん。

お礼日時:2017/07/17 16:13

超自我の声というやつですね。


幼い頃に親や教師に叩き込まれた道徳や、これまでの人付き合いの経験から、大多数の他者に好感を抱かれそうな自己像を形成し、生身の自分を監督処理するメカニズムです。
その声に忠実に 立派な自分でいることは、社会を渡っていくにおいて益となります。

しかし、自然の姿を 口喧しく判別し 善へと導こうとするその声は もはや、子供にとっての親、生徒にとっての教師、民にとっての神のような、絶対的な権力ではなく、自分自身となり独走しています。
倫理道徳とは、法律のように 決まった枠に嵌めて罪罰を規定するものではなく、あくまで個人や集合体の当座の都合により作り上げられた相対的な価値基準であり、その時々のニーズに応じて移り変わるものです。

まして 表に出ない内面まで裁かれはしません。
殺人を実行すれば罪だけれど、いくら憎しみを募らせ 殺意を抱き 夢想して鬱憤を晴らそうとも 想念に留まる限り 罪ではありません。
ただの心の排泄作用です。

モデル化された規範に拠り 我が態度を正形できる能力は 人間として認められる条件です。
しかし一方で、怠惰に自分本位に我儘放題に好き勝手やりたいと欲するのも、自分の属性です。

私が生きるためには 他の生命を殺傷しないとなりませんし、我欲を通そうとすれば 必ず他者の快適を奪います。
世界の幸不幸は等しく、得をして幸せになる人がいる一方で、損害を蒙り苦しむ人がいるのだが、大抵の人は自分のことしか見ずに、生存に付随する排他作用には 目を瞑って生きているものです。

ここにあるのは、そんな犠牲を要する存在で、それを罪として削り 望ましく作り変えたいと欲するのは、後付けの仕事です。
他人を庇護するより まず、自分に餌を与えることが出来なければ、愛も優しさも何も始まりません。

人は人に寄与してこそ存在理由も生存資格も生まれる。
こう考えるのは道理です。
人に必要とされねば生きられません。
でも、皆に嫌われ、誰の役にも立たない人間にも、等しく価値があります。
存在に元来 差別はありません。
善悪を分別する篩は、より安全に生き延びるための利己的な指針であり、 皆にとって居心地のよい社会を築くための指標です。
人の本性として悪が備わっていようとも、内在する罪を自覚し、自制心のあるかぎり、自由に生きることを許されます。

つまり、人前での仮面と、自ずと湧いてくる素の自分と、どちらも必要な本当の自分であり、叱咤するも受け入れ甘んじるも自分次第です。
この監督の声が、本来の目的を失い、実存を引き裂いて苦しめるだけの枷となるなら、本末転倒で意味がありません。

たとえ自己肯定できても、固定された理想像があるかぎり、その命令に合致しない本性が湧いてきて決裂するし、人の嗜好も願望も気まぐれだから、完璧なはずの自分を卑下嫌悪する人も必ず出てきます。
それが移ろう世の姿です。

どんなに厳しく鞭を打っても、認められない悪態は消え去らず、抑え歪められるほど力を蓄え、なきものと目を閉ざし続ければ いつかは暴発し 今まで費やしてきた全ての努力を破壊します。

できるのは、理想と本能を区別し、どちらが 本当か嘘か、善か悪か、優か劣かと、潰し合いをせずに、全て欠かせないものと知って大切にすることです。
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この回答へのお礼

フロイトですか。
超自我ですか。。

他人への怒りを自傷行為で解消してしまうのも
そのせいでしょうか。。

ぼんやりとですが、常々感じている悶々とした感情の輪郭が見えたような気がします。

貴重なご意見を頂き、有難うございます。

お礼日時:2017/07/17 16:50

若いころは、正論さえ言ってれば問題ないと考えて当然の時期もあるでしょう。



しかし、大人になるにつけ、誤った考え方をする人にあえて合わせて、無用な衝突を防ぐようになりますね。

それを「何で私なんかにこんなにも優しくしてくれるのだろう?」と考えているうちは、正論しか認めない子供のような状態なのかもしれません。

このことは、人生経験が増すことによって自然と学べますから、考え過ぎずに、良い対応をしているなと考えられる方をよく観察することで、自分自身を成長させることができると思います。
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この回答へのお礼

明朗快活と感じる人を見ると、殊更 自分の不甲斐なさを痛感します。

回答いただいて、有難うごさいます。

お礼日時:2017/07/17 17:01

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