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先日、日本語の苦手な留学生の論文言語が日本語であることに関する質問をしました。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10015504.html
 今回は、その研究室の研究のやり方についてです。所属する学科では卒業研究を2名まで共同ですることが認められています。大学院生については特に規定がありませんが、これまで複数著者によるものはありませんので、1人で1研究テーマということで考えられています。当然ですが院生と4年生の同一研究はありえないと考えています。
 3年前に問題の留学生が入学してきまして、1年経過時に学内の紀要に論文が発表されました。著者は、指導教員、4年生、博士課程留学生の3名でした。この紀要に使われている図表はすべて4年生の卒論にも記載されています。
 2年経過時に学内の紀要に2報目が指導教員、博士課程留学生の2名を著者として掲載されました。この論文の図表はすべて、著者として挙げられていない前年(D1時)の別の4年生の卒論にも掲載されています。
 これらの事例から、この研究室では、卒業研究の複数のグループにテーマを小分けして、かつ大学院生も加えて研究している。あるいは1つの研究テーマを大学院生と4年生が共同で行い、卒論は小分けして書いているという疑念が湧きました。加えて、2本目の紀要には4年生の名前が入っていないということがあります。このようなことは、留学生本人ではなく指導教員が実際の著者だったことを示唆していると思っています(日本語紀要)。
 そして、いよいよ3年目になり、博士の学位申請の年の秋に、初めて英文ジャーナルが出ました。この論文は博士課程留学生と指導教員を著者に英文で書かれています。この論文の図表は、D2時の4年生2名3グループ計6名3冊の卒論にわけられて、すべてが掲載されており、D2時の卒論すべてがこの論文のデータとして使われているにも関わらず、論文著者として入っていません。つまり院生と卒研生6名がひとつのテーマに取り組み、卒論は3つに小分けしたと考えられます。かつ、D3のこの時期にこの様な論文が出るということは、博士論文もこれに沿ったものが出てくると思われます。過去2年の学部卒業生は、それぞれを卒論にして卒業しています。今年これらとかぶった博士論文が提出された場合、それらはオリジナルなデータとして認められるでしょうか?私はダメだと思っています。2年分は卒論も引用するものとし、D3時のものだけオリジナルとして考えれば可能性はあると思いますが。そもそも、掲載された紀要の2報目、英文ジャーナル1報は4年生の名前を入れていない点で業績とカウントできるのでしょうか?カウントできるとしても重大な違反だと認識しています。さらに、D3時のデータをオリジナルとして認めた場合、今年の4年生は卒論でオリジナルデータが出せるのかという心配が出てきます。おそらく同様のことをしていると思いますので。
 12月上旬に博士論文事前審査会がありますので、ここで大問題になると思うのですが、第三者の考え方を聞こうと思い質問致します。

質問者からの補足コメント

  • No.2への補足です。
     私が学生の頃、地方の理学部の学科には4名の教授、助教授、助手しかおらず、助手まで入れて12名でした。隣県の帝大は13講座で13人の教授がおり、私の大学の教員たちは、助手といえども教授並みにオリジナルな研究をやらないと立ち行かないと言われていました。なんせ、当時、国立大学というのに修士課程もありませんでしたから。
     卒論生と院生のテーマについてですが、査読論文等に出す内容は共著で構いませんが、卒論や修論、D論などは、オリジナルデータにするのがルールだと考えています。今回の審査では学科内の副査間では意思統一できています。学科外からも1名副査に入ってもらいますが、この方の意見は今のところ聞いていません。少なくともD論が、過去2年間の卒論、今年の卒論の合作で、それ以外にそれを越えるデータが全くないということではダメだと思っています。院生オリジナルも必要でしょう。

      補足日時:2017/11/25 04:27
  • No.3への補足です。ひどい誤変換があり失礼いたしました。

     本質問も前質問も自分の偏狭かもしれない考えが、第三者的にどう見られるかということを考えて行っているものですので、どのようなご回答も大歓迎です。
    (中略)
     英語については、前質問でしましたが、そもそも日本語で博論を書く事自体疑問です。

      補足日時:2017/11/25 05:02

A 回答 (3件)

複数のことが質問に混在するので回答しにくいですが,工学系で僕が経験したことを書いておきます。

質問が長いので,これも長いです。面倒なら無視してください。たいしたことは書いてありません。
 一つのテーマ(大きな)を同じ研究室の複数の学年の違う学生が研究するのはごく普通です。特に大きな実験が必要な研究は一人ではできません。一般論として,研究を複数で実施すること自体には何も問題はありません。特に4年生の能力は先生にとっても未知でしょうから,安全の(卒論が仕上がる)ために院生と一緒に勉強させることはあり得ます。例えば,原子力関係の1本の論文著者が30人以上(複数の大学や機関のもしかしたら技術職員名も並んでいたのかもしれませんが)だったのを見たことがあります。
 次に,大人の事情。博士課程を修了する場合,修了までに成果発表の「数」をノルマにする大学はたくさんあるようです。一般に学内の紀要は業績としてカウントしませんが,大学によってはそれも許容しているのかもしれません。その博士の学生さんを修了させるために数を稼ぐために,中身に(一般的常識としてはその博士の学生さんも少しは関与したはずの)4年生などの研究成果を含めるのはあり得ます。より倫理的にきびしく考えるなら,共著の論文の場合,これは先生の成果,これは4年生,これは博士の学生・・・という内容についての明確な区別を先生がしていれば問題はありませんね。
 最終的な博士論文が3年間に発表した論文の成果でできあがっているのは,あまり問題にはなりません。その学生がやった成果なら!ですけど。特に博士課程の社会人学生の場合は,過去の成果をまとめて論文を作り上げておいて,最後の章がその指導教員とのやや新しい成果というのはあり得ます。業務もあるので忙しいから部下に計算を手伝ってもらった場合もあるかもしれません。それはたいていは謝辞に書いてあります。だから,少なくともその学生が3年間に自分でやった成果と,口を出した手を出した4年生の成果を含むのは,さほど問題にはならないと思います。海外のPhDの場合は,発表していない論文を学位論文にした「あと」学外に発表する順番のようですが,我が国の博士の場合は「既に」発表した論文を元に学位論文に仕上げることは多いようです。物理系では違うのかもしれず,分野にもよるのかもしれませんが。
 質問には明記されていなくて,確かに問題になりそうなのは以下のようなことでしょうか。質問者がおっしゃるように,要は,先生の倫理観の問題です。
 ・著者に無い人の成果を含めた論文の場合,謝辞にもその4年生などの氏名が無い,同時に,その4年生が例えば学会支部での口頭発表をしたこと等も引用されてない,等の場合は問題でしょう。少しでも出典がわかるのであれば,本当は図表のコピペは駄目ですが,紀要などなら許されるのかもしれません。本来なら,データだけを4年生からいただいて,その博士の学生の研究結果に向けた観点から書き直した図表にすべきです。
 ・また,著者の成果以外「のみ」で完成され,著者の中の博士の学生の成果が「全く」含まれていない論文は大問題でしょう。「ある程度」あれば問題は無いですが,この「程度」がどれくらいか,また文献引用ではなく図表のコピペをどのくらい許すか,などは,その博士の学生を審査する大学の内規なり所属学会の考え方に依ると思います。英文ジャーナルの場合は,既発表かどうかは自己申告の場合が多いらしく,外国の査読者が紀要にアクセスできない場合は,調査すらできないので,仕方がないのかもしれません。ただ,ある大きな研究目的にいたるまでの途中の小さな成果を日本語であちこちに(先生の業績数を増やすために?),異なる学生による支援で出しておいて,それを全部まとめて新しい結果をさらに得た上で,「新しい最終的な」結論を大成果として英文国際誌に発表するというのは,多分普通にやっていることかもしれません。昨今は,論文数ばかり問題にするようなので・・・
 最後に,他人がどういう博士論文を書くかとか,その先生の倫理がどうであるかなんて気にしないで,ご自分の勉強をしていただいた方が穏やかな生活ができますよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
 本件で一番問題と考えているのはほ3年間この大学院生の博士論文のために4年生も含めて、テーマがひとつしかなかった
と思われることです。
 特に英文ジャーナルの図表は全て、D2時の4年生の3冊の卒論に載っているものがそのままです。それでその論文に4年生の名前はありません。2報の紀要もD1時の卒論それぞれ1冊の図表と同じですから、まだ、博士論文の原稿は来ていませんから
わかりませんが、過去2年の卒論、そして今年の卒論の集大成がその博士論文になるのではないかということです。
 ご回答の最後の2行は、大変ごもっともなのですが、このようなことを認めては所属する大学院の存在価値まで疑われる
ことになると考え、危惧しているところdレス。今回学位を取得予定の大学院生は外国の大学の教員であり、このような経験
は決して今後の彼のためにも良くないと危惧しております。
 本質問の趣旨は、私の考えが、第3者的にどう見られるかを確認したいところにあります。どのようなご意見も歓迎しております。

お礼日時:2017/11/23 09:54

研究室の研究形式には京大型と東大型があります。

前者はヒエラルキーを総動員して単一または二つの巨大なプロジェクトを遂行します。一方後者は一人一テーマが基本ですが現在かなり変わったと思います。京大型ですと論文には必ず数人の名前がならびPrimary AuthorはM2からD3までと、広くなります、理由は修士卒にも論文の書き方を教えるためで一報あれば良い。D論時にはPrimary Author最低3報で本来それが正しい姿の「はず」。一方東大型では卒論生でさえ新規テーマを与えられるので「ヒヨコ以前」の卒論生や外部からのM1は指導教員と文献と自分の頭にしか頼るものは無く、外部に論文を発表出来たら幸運すぎるか天才かその両方かになります。ですが実際には東大型でも完全に新規のテーマが与えられるのは「使い潰し」の卒論生だけ、研究室全体の方針は教授、准教授と他の指導教員が頭をひねり凝議して決め、その線に沿ったテーマが「確実なD論生」へ卒論時に与えられることになります。ですから東大型の大学では学生の報文数は非常に少なくなり、私などD1でやっと一報、それも関連したデータを残した修論生のそのデータを吸収咀嚼してやっと形になった冷や汗もの。質問者様が厳密に考えていらっしゃる様な状態ではありません。もちろんこれは半世紀前のこと、ですが私の後輩達の報文を見ていると彼らのやり方は変わっていない。言えることは内部の紀要は公的には全く意味を持たず、外部へ出された報文のPrimary Authorの業績とされます、Primary Authorが教授・准教授でない場合も研究を企画した教授・准教授の業績ではあるわけで、それは理系、文系で差はありません、場合によっては100年代々受け継いだ研究室というものの業績として評価されます。ですから御質問者様の様に厳密にとらえるのは一般的な認識とは異なると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。doc_somday様はいろいろな回答で存じ上げており東大のご出身ということで高地からのお見下ろしによ色々な名回答をされておられることは存じ上げております。一方私は、地方の大学を出た叩き上げといいますか、やっとこさ地方の帝大で論博を取った、東大・京大を知らぬ田舎者であり、その2つの形式など知りません、若輩者でございます。
 私の認識では、学位申請論文に上げる業績の内、共著者がいる場合、共著者全員がその論文で博士の学位を請求しないという同意書をとらねばいけないというルールが有ります。当然のことながら論文の著者はその研究に貢献したもの全員を著すべきものと考えています。まあ、貢献がなかった4年生は省いても良いでしょうが、貢献していれば4年生でも入れるべきと。また、学部の卒論は学内のみにしか出回らず、外部には出ないものですが、卒論で書かれたものはその時点で、その4年生の業績であり、博士課程の院生が諸々の指導をしたにしても引用にとどめるべきで、博士論文におけるその院生の業績とするのはよくないという考えです。
 今回の質問のケースでは、D1の3月の紀要で当時の4年生の1人が共著として入っていますが、この紀要自体を問題にしているわけではありません。同時期の卒論にオリジナルデータで単著で書かれているのですから、そのデータは院生の博士論文では引用すべきデータだろうと考えます。
 D2の3月の紀要では、この院生と指導教員のみが著者であるにも関わらず、すべての図表がD1時の別の4年生の卒論に入っています。これは前年の卒論にオリジナルデータとして入れた時点で、その4年生のオリジナルデータということで、紀要にも卒業した4年生の名前を入れるべきだったと考えています。また、博士論文に書く場合引用とすべきと考えます。
 D3になって書いたジャーナルも院生と指導教員のみが著者であるにも関わらず、すべての図表がD2時の3つの卒論に分かれて入っています。これは、卒論全てがこの院生の研究に統合されているということで、この研究室ではひとつのテーマしかなく、それを分割してテーマを出しているということを強く示唆しています。
 字数オーバーになりますので以下補足に書きます。

お礼日時:2017/11/25 04:30

ご質問者様はDCの学生の研究はチームプレイを一切認めない、とお考えなのでしょうか?


私は工学系でしたが、DCの学生が研究テーマを統括し、MCやB4の学生にサブテーマを与え、彼らが手を動かした部分は修論なり卒論なりにまとめさせ、リーダーであるDCの学生はそれぞれの成果をまとめてジャーナルに出したり博論にまとめたりするのが普通だと思っていました。もちろん、複数の博論に同一のデータが載る、というのは許されなかったと思いますが。ご質問者様は「オリジナル」というキーワードを何度も挙げられていますが、私の考えとしては、DCの学生が戦略を担当し、後輩が戦術を担当する、という体制であればそれぞれにオリジナリティはあると思います。

上記は健全に階層化された研究体制の話であって、後付けで何らかの成果をかき集めて博論にする、っていうのはまた別の話かもしれません。恐らくご質問者様はこのパターンを疑っていらっしゃるのではと思います。冒頭のURLにある過去のご質問と合わせ、ご質問者様から出てきた情報のみを鵜呑みにする限りは、私もこのパターンなんだろうなと思えてきます。もう少し補足するならば、リーダーが研究を統括しているのであれば、それはすべて自分の言葉で説明できるはずなのであって、日本語が不得手であるなら一から英語で書けるにもかかわらずそれを怠っていると見られても仕方ないでしょう。

最後に、
>このようなことは、留学生本人ではなく指導教員が実際の著者だったことを示唆していると思っています(日本語紀要)。
仮にそれが事実であるならば、その指導教員は相当なおバカさんですよ。指導教員が主導しているならばせめて英語で書くでしょう。嘘をつくならもうちょっとましな嘘をつけ、ってやつです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。本質問も全質問も自分の辺境かもしれない考えが、第三者的にどう見られるかということを考えて行っているものですので、どのようなご回答も大歓迎です。
>ご質問者様はDCの学生の研究はチームプレイを一切認めない、とお考えなのでしょうか?
そうではありません。研究室全体として最終的にはつながるテーマであっても、4年生なり大学院生なり、本人たちには個別のテーマを与え、それぞれある程度のオリジナリティーは必要だろうと思っています。少なくともD3になって出したジャーナルの図表がD2時の3冊の卒論に分かれて全て入っていたということは、この卒論3グループに院生一人が全て関わっており(ここまでは良いですよ)、4年生以外の大学院生の研究データは一つもないの?という疑問です。少なくともDCの学生が全体の統括者で、4年生が関わっていないデータが全くないという状態は流石にまずいという考えです。
 後付けで何らかの成果をかき集めて博論にするとまでは言いませんが、3年間在学中の全てのデータが博論と卒論で共有されているというのは流石にまずいと思われます。もちろん博論が出てきてからの話になりますが、現在の予想では、D2までの卒論で書かれている内容が引用ではなくオリジナルデータのように出てきて、プラスD3の部分は新しく出てくると思います。そしてその後出てくる今年の卒論にその新しいデータが出てきたら上記の推定があっていたということになるでしょう。
 事前審査会ではD3になってからのオリジナルデータが、後に出てくる卒論に含まれるかはわかりませんが、少なくともD2までのデータについて、卒論に書いてあるものを引用なしに書かれていた場合は、引用するように指摘するつもりです。
 英語については、全質問でしましたが、そもそも日本語で博論を書く事自体疑問です。特にD1秋の中間発表でわずかA4で1枚の要旨が日本語で出され、それを書いたのが指導教員であることが分かっており、5回の中間発表は全て英語だったのに日本語で博論が出ること自体大変疑問に思っているところです。
 指導教員のおバカぶりはまさに書かれているとおりと思っています。指導教員が主導して、日本語のD論が出れば、これ、誰が書いたのという疑問が出るのは当然と思います、論文が日本語なので、発表後の質疑は日本語でやろうと考えています。

お礼日時:2017/11/25 04:51

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