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信長の象徴として「安土城」があるので安土という名称が入るのは分かります。
が、桃山は本来伏見城の事ですよね。
なのに何故「安土伏見時代」と言わないのでしょうか?
そもそも伏見城時代とても短い期間で無くなっていますし、その分秀吉の滞在も短いはずだと思うのですが…。

A 回答 (7件)

大阪城を築いてからも、秀吉は伏見城に結構暮らしています。

そして薨去は伏見城でした。この時の秀吉の本拠地は、大阪ではなく伏見城です。歴史はこの伏見城から動いたのです。このため「安土大阪時代」は無いと思います。そして日本人は、語呂合わせが好きで、言葉のリズムと語呂を大切にします。伏見の別名桃山の方が発音のリズムが良く、これで決まったような気がします。
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この回答へのお礼

なるほど、初めて合点が行きました!
ありがとうございます!

お礼日時:2018/03/23 08:12

「安土桃山時代」がいつから始まりいつに終わったとするのかは学者の中で見解が分かれます。


ざっくりと信長の居城であった安土城が建立された頃に始まるが、伏見城の在城期間よりも後の時代までを指す見方が多いので「安土伏見時代」とはならなかったようです。
何より桃山文化という言葉があるように主に美術史や文化史の分野においては大変に特色ある華麗な文化が花開いた時代という事で注目されています。

また伏見城時代にはその場所は桃山とは呼ばれておらず、跡地に桃の木が植えられた経緯から江戸時代以降に桃山、あるいは桃山時代と呼ばれるようになりました。
歴史的区分からみると城の名を冠するよりも桃山の方がわかりやすいという事だと思います。
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この回答へのお礼

本当は小牧、長久手以外が主戦場だったのに構成で小牧、長久手の戦いと呼ばれている戦のようなものなのでしょうか…。

>伏見城の在城期間よりも後の時代までを指す見方が多いので「安土伏見時代」とはならなかったようです。
桃山=伏見城のあった場所ですし、これだとそれはそれで桃山時代よりも後の時期までも指す事となり、結果不適切となってしまうよう思えるのですが。

お礼日時:2018/03/20 20:55

単純に城の名前ではなく土地や地域の名前での命名だからでしょう。



当時の人たちが城の名前や人の名前の情報をそうそう知り得たとは思えません。知ることが出来るとしたら、場所ぐらいではないかと。今みたく情報社会じゃないですから。
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この回答へのお礼

桃山文化の名称は近代のものです。

お礼日時:2018/03/20 20:52

>その秀吉の盛期の時代を何故桃山時代というのかな、と思ったのです。



そこね、伏見の桃山に城を築いたから

それだけよ

秀吉が盛期を盛ったのは大坂城ですよ
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この回答へのお礼

それならば大阪時代でも構わないわけですよね?

お礼日時:2018/03/20 20:51

もしかすると当時の伏見になにか、別に伏見を象徴するような物があったのではないんですかね?


それで呼称が伏見では混同されるので、桃山と言えば豊臣、とわかりやす形になったのではないでしょうか
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信長が築いた「安土城」、秀吉が新に築いた「伏見桃山城」が謂われだと聞き及んでますが。



どちらも地震で消え去ったとも。
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信長が盛期を盛った時代を安土時代と言います、秀吉が盛期を盛った時代を桃山時代と言います



それを一纏めにして安土桃山時代と言ってるだけです。

二人が生きてた期間は短いですから、大きくまとめたにすぎません
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この回答へのお礼

その秀吉の盛期の時代を何故桃山時代というのかな、と思ったのです。
別に大阪時代でも構わないと思うのですが。

お礼日時:2018/03/20 00:34

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