痔になりやすい生活習慣とは?

https://www.cnn.co.jp/fringe/35045208.html  (赤ちゃんにも善悪は分かる!?)

というような記事を見つけました。まだ理性のない生後数か月の赤ちゃんも善悪は分かっていると言うのです。アメリカのエール大学などの実験で坂道を上る人を助ける親切な人形と邪魔をする悪い人形のお芝居を赤ちゃんに見せたところ、殆どの赤ちゃんは親切な人形を選び、意地悪な人形には制裁を加えた赤ちゃんもいたと言うのです。その他の多くの実験から赤ちゃんは善悪が分かっていると科学的に実証されたと言うのです。もしそうであれば善悪は本能的であり、本能であればみんなが持っているのですから善は絶対的となります。
善とは理性的なものではないのでしょうか?皆さんどう思いますか?教えてください。

A 回答 (21件中1~10件)

>ゆえに絶対的である」←絶対的な善が 何故 悪に染まるのか?・・の説明ができなければあなたの空想理論になる・・



いいえ、絶対的な善は悪に染まっていません。進化によって手に入れた善悪の判断のどこが悪に染まっているのですか?

softshelledさんの善悪の判断は進化に基づいた判断ではなくて、shinwoodの論旨とは全く無関係なsoftshelledさんの善悪の判断に基づいた善悪の相対的な判断の中に悪があると言っているに過ぎません。ですからsoftshelledさんの主張は、shinwoodさん言う進化に馴染んだ判断は善、進化に逆らった判断は悪、と言う善悪の判断の反論にはなっていません。

子供のうちは親や先生の言うことをそのまま受け入れて、この世の中には善悪があるとだれでも思っている時期があります。ところが、思春期になると言葉とは論理であることに目覚め、妙に理屈を言うようになる。その時期になると、親の言っていた善悪の判断に疑問を持ち始め、もしかしたら善悪の判断とは状況に応じた相対的な判断ではないのかと思うようになってくる。

しかし、その思い込みは全く当てにならないのです。何せ、論理に目覚めたばっかりで、当然論理の展開が未熟だ。ですから、本人には屁理屈と理屈の区別が付かないのは普通のことなのです。しかし、人間は成長し色々な苦い経験をして行くうちに、論理も磨かれ、さらに、論理的であるからと言うだけで、そのことが現実として実現されるわけではないと言うことが判ってくる。論理的には無限に可能性があるのだが、現実にはその可能性のたった一つだけが実現していると言う事実が判ってくるようになる。

そのような苦労を重ね、石に齧り付き血の涙を流して全身全霊を捧げて行く過程を経験して行くと、この世の中には思春期の頃に思い込んでいた善悪の相対性が如何に未熟な判断であることが身体で判ってくる。そして、この命をかけて身を捧げた経験をしてくると、この世の中には、本当に善であり悪であることが存在するんだと言うことが判ってくる。これが、あらゆる芸術家や思索者達が認めてきた歴史的な事実なんですね。

そしてそのような深刻な経験を経て、本当の善と悪との判断は、それが進化に馴染むか馴染まないかと言う点にあると絞り込んだのが、shinwoodさんの言いたいことなんだと思います。

shinwoodさん、合っていますか?
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この回答へのお礼

Cyototuさん 私の代わりに解説していただいてありがとうございます。あなたのブログを読ませてもらいました。あまりに博識で私のような凡人にはなかなか分かりづらい文言もありますが、面白いので引き続き読ませていただきます。私のブログはもう更新はしていませんが、皆さんにもっと分かり易く書き直したいと思っています。

softshelledさんの言われる「絶対的な善が 何故 悪に染まるのか?」の意味はあなたが解説しているよりももっと単純なことだと思います。「赤ちゃんの性は善なのに何故、大きくなるにしたがって悪を働くようになるのか」ということだと思います。
ですから私は理性を持つようになればその理性が悪さをするようになりますと答えたのです。人間には生まれ持った良心がありますが、理性も持っていますので、その理性が善なる本能を抑えて悪さをするのです。

>そしてそのような深刻な経験を経て、本当の善と悪との判断は、それが進化に馴染むか馴染まないかと言う点にあると絞り込んだのが、shinwoodさんの言いたいことなんだと思います。<

これは苦労をして初めて本当の善悪が分かると言うことでしょうが、そう難しく考えることはないと思います。悪というのは簡単に言えば、公の益に反しようが自分の利益を優先する行為です。善は自分のことより公を優先する事です。私たち凡人は常日頃、自分のことを中心に考えていますが公に反するようなことはしない人たちです。
つまり悪とは公に害することであり、善とは公に益することだと単純に考えればいいと思います。

「それが進化に馴染むか馴染まないかと言う点にあると絞り込んだ」という文言はあまりよく理解できませんでした、すみません。

お礼日時:2019/02/15 20:30

善、というのは、社会的なものではないですか。

法の範疇で生活している人たちは、善い人たちなのです。

リンクは、クリックしていませんが、私には、意地悪な人形に制裁を加える赤ちゃん、というのが、非常に不気味に感じられます。

私は、米国在住で、大学の近所に住み、子供たちは二人とも大学付属のプリスクールに通っていました。入学の条件として、大学の教育学部の研究に協力する、という条項があり、何度か、大学院生がうちに実験にやってきました。実験は、何となく、洗練に乏しい。実験結果は、一応出して帰りますが、子供の機嫌が悪かったり、説明不十分だったりして、”これで、結論出しちゃって大丈夫かなぁ???”と思うようなことばかりでした。

こういう実験は、将来への研究のたたき台になるんだろう、と思って、協力しましたが、天下のイェール大学とはいえ、乳児相手なので、実験の精度に疑問が持たれます。
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この回答へのお礼

ciaopolpo2さん

>善、というのは、社会的なものではないですか。法の範疇で生活している人たちは、善い人たちなのです。<

なるほど、で、あなたの善の定義は?正しいとは何ですか?教えてください。

>天下のイェール大学とはいえ、乳児相手なので、実験の精度に疑問が持たれます。<

あなたは自分の疑問に対してどのくらいの自信を持っているの。全財産賭けられる?ほとんど自信ないよね?

お礼日時:2019/02/17 18:22

CNNの記事で???な点。


1.坂を上るのを手助け 、とあるけれど、動画は、箱の蓋を開けるのを手助けしていると見えてしまう。何故?
2.動画の後半。あれをどのように理解すればいい?(対赤ちゃん、ということで音声カットで考える。)
  a)ぬいぐるみ2体(手助けしたのと邪魔しのと)のうち、罰としてクラッカーを没収してください。
  b)ぬいぐるみとクラッカー(=賄賂)の合計で、どちらを選ぶか判断してください。
  どっちであっても、生後1年前後で、こんな複雑な判断は、それこそ無理と思うが。選ぶのは、真逆だし。
  かつ、どちらの意味に取るのか、大人から赤ちゃんへ伝えるのは無理でしょう。
  赤ちゃんが、どういう価値判断したか。う~ん。
   ※まあ、ab)とも、大人の勝手な想像なんだけどね。

他のHPから補足。2010年の実験であり、CNNの記事(2014)と同一としか思えない。
https://www.narinari.com/Nd/20100513530.html

CNNの記事と対比。
問題1
  箱の蓋を開ける実験は、確かにやってる。 生後5か月の赤ちゃんで、「善人を好んだ」。

問題2
  坂を上る実験。こっちもやってる。ただし、ぬいぐるみでなく三角、四角といった幾何学図形。
  幾何学図形にもかかわらず、善悪判定、なのか?
  で、CNNでは生後ヶカ月とあるけど、他HPでは、5か月なのよねえ。
  3カ月と5か月の違いは、相当な大問題です。

次の問題。
他HP記事
>21か月で試した際には、人形たちにご褒美をあげる機会を与える実験も実施。
>すると、ほとんどの子どもが「いけないうさぎには、ごほうびを取って罰した」行動が見られ、
>中には「罰として悪者の頭を叩いた」
これが、CNN動画の後半のことだと思うが...
ごほうびを取って罰した という解釈なら、善悪解釈が大人の善悪解釈と真逆なんだよね。
悪人のほうを選んでクッキーを没収、となるところ、それと真逆。

ですので、CNN報道の結論。
・○○新聞クラスのアホ記事。(この記事に限る。)

で、エール大学関連記事なんだけど、
赤ちゃんの母集団人数、書いてないんだよね。一応、5かヶ以上で、21ヶ月超えをそれなりに含む  ということだけが確かとしか言えません。(CNNの生後3ヶ月説、どこから?)



で、心理学としては?

これ、明確だったりする。
賢馬ハンスというのがありまして、
・質問者が質問の答えをあらかじめ知っていると、 それが元になり実験の結論に影響を与えしまう、というもの。
CNN報道の前半は、あんなお馬鹿さんな実験はあり得ない。ダブルブラインドが担保できてないじゃん。よって、試験結果は無効。
そうなるしかないと思うが。
※CNNのヤラセなのか、エール大学の本質チョンボなのか、ソコまではわかりませんが....
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この回答へのお礼

masa2211さん

>で、心理学としては?
>※CNNのヤラセなのか、エール大学の本質チョンボなのか、ソコまではわかりませんが....

「CNNのヤラセなのか、エール大学の本質チョンボなのか、ソコまではわかりませんが・・・」って侮辱しているけどさ。どのくらいの自信を持って否定してるの?全財産を賭けてもいいぐらいの自信があるの?たいして自信なんて持ってないでしょう? 相手を侮辱するなら全財産を賭けるくらいの自信を持って否定しなさい。

下記のHPの心理学の大学の教授も「赤ちゃんは、6か月ごろにはすでにものごとの善悪の判断ができるようです」って書いているよ。

http://www.ssu.ac.jp/relay-essay/20150205-83134/

お礼日時:2019/02/17 18:21

次の A と B とをくらべてみてください。



A ★(№17お礼欄) 私の善の定義はあらゆる善なる行為に絶対的に
内包しているから絶対善です。また「私より公を優先する行為、つまり愛
やおもいやり」は生物たちが絶対的に正しいとして遺伝子に書き込み本能
としました。

B ★(同上) 人間には理性があります。ゆえに理性が発達すれば人間
の理性をつかさどる脳は賢すぎるから悪いことも考えるようになるのです。
ずるいことを考えるのです、それが悪になるのです。またズルいことを考
えることも発明などの知恵の基になるのです。
人間の動物脳(脳幹など)は善であり、人間に特に発達した大脳皮質には
善も悪もあると言うことです。





☆ また B の内容は 次のわたしの書き込みとよく似ていますね。

C ☆☆(№17) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・
もし赤児の自然本性が 《善》であったとすれば その善なる自由意志の
中から ふと曲がるという負の善なる動きが起きた。

つまり 人間の善は 相対的なものであるゆえ それ自体が 移ろいゆか
ざるを得ない。曲がる。道を逸れる。おまけに腐る。――クリナメン。

つまり 善の中から悪が生じた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ なおこの文章は 誰のものでもなく わたしのオリジナルです。
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この回答へのお礼

bragelloneさん

>また B の内容は 次のわたしの書き込みとよく似ていますね。<

似てますけど別物です。良心は動物脳に書き込まれており変わりません。ですから「善の中から悪が生じた」わけではありません、間違いです。

>なおこの文章は 誰のものでもなく わたしのオリジナルです。<

そうであれば偉い人が書いたように思わせることは止めなさい。クリナメンとはあなたですか? 何故そんな回りくどいことをするのですか、これは一種の詐欺行為ではないのですか。

お礼日時:2019/02/17 18:19

善悪が本能的なものならば、人間以外の生き物にも善悪があるって事になりませんか?


猫がネズミで遊ぶのも狩の一種と見れば猫族にとっての善でしょうし、ライオンの子殺しも彼らライオン族にとっては、優秀な遺伝子が残るための善と言う事になるのでは?

でも、人間の子供はその内、虫をいじめたら可哀想だと思うようになるでしょう?そして虫を苛めるのを止める。これは、感情の発達に伴って善を覚えたと言えるのでは?
もしそう言うなら、善は感情であり後天的なもので本能的なものでは無く、少なくとも発達に伴うもので先天的に付与されているのではない事になりませんか?
性善というのは、人はあくまで後に善に発達する種を有していると言う程度なのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

キサラギXさん

>善悪が本能的なものならば、人間以外の生き物にも善悪があるって事になりませんか?<

そうですよ、善なる心はすべての生物は持っていますよ。

>猫がネズミで遊ぶのも狩の一種と見れば猫族にとっての善でしょうし、ライオンの子殺しも彼らライオン族にとっては、優秀な遺伝子が残るための善と言う事になるのでは?<

そうですよ。

>でも、人間の子供はその内、虫をいじめたら可哀想だと思うようになるでしょう?そして虫を苛めるのを止める。これは、感情の発達に伴って善を覚えたと言えるのでは?<

母親などからこれはいけないなどと教えられるからでしょうね。本能的な善は赤ちゃんは持って生まれてきます。その後大きくなるにつれ理性を持ち理性的善?というか正しさを覚えていきます。人間の理性で考えられた正しさは絶対的なものはなく全て相対的です。嘘を言うのもいい時もあるし人を殺すのも許される時もある。

>もしそう言うなら、善は感情であり後天的なもので本能的なものでは無く、少なくとも発達に伴うもので先天的に付与されているのではない事になりませんか?<

ですから善なる感情、いわゆる良心は動物脳(脳幹など)に書き込まれたものです。これは変わりません。人間の理性をつかさどるのは大脳新皮質です。この人間が特に発達した大脳新皮質による理性が悪を生じさせるのです。

お礼日時:2019/02/17 18:19

★ 善とは理性的なものではないのでしょうか?


☆ これは ヒトが 感性と理性〔およびおまけに霊性〕のそなわった動物
であるという一般的な定義の内ですから コメントは特になしです。


★ もしそうであれば(☆ その詳細の復唱をはぶきますが) 善悪は本能
的であり、本能であればみんなが持っているのですから善は絶対的となりま
す。
☆ おそらく 本能とはそれがあるとすれば 幼児が社会の中で育って行く
とき すでに歴史的に〔可変的にですが〕成っているナラハシとしての善悪
観をおぼえる(身に着ける) その能力がそなわっているといったことでは
ないかと推測します。



★ 絶対的
☆ という表現が 問題を起こしているのではないでしょうか?


生物としての存在であるヒトに 絶対性あるいは絶対的なチカラは おのれ
の意志のもとに意識して駆使することのできるようなものとしては そなわ
っていない・・・と説明するのが 一般的ではないでしょうか?

(つまり 哲学のお約束をやぶって言うなら 《おまけとしてそなわったと
想定される霊性》は われわれの人知のおよぶところではないと)。






人間の理性ないし意志の自由な判断は やはり相対的なものだと考えられま
す。


幼児だったわれわれは 小学校へあがりその登校・下校のときに ふと――
この《ふと》が 重要なのだと思われます――その道を横に逸れるというこ
とをやらかす・・・のではないか。

道草を喰うという或る種の余裕がある。意志自由の自由に そういう別種の
自由度がある。

そして われわれがよからぬことを心に思ったりするのは この道草なる自
由度のもとにある時間においてではないか。

もし赤児の自然本性が 《善》であったとすれば その善なる自由意志の中
から ふと曲がるという負の善なる動きが起きた。

つまり 人間の善は 相対的なものであるゆえ それ自体が 移ろいゆかざ
るを得ない。曲がる。道を逸れる。おまけに腐る。――クリナメン。

つまり 善の中から悪が生じた。





善を絶対的と見る見方は あまり生産的ではないように思います。

あるいは そもそも善悪観で人間と社会を論じることは ほとんど建設的な
内容がないように感じられます。
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この回答へのお礼

>絶対的という表現が 問題を起こしているのではないでしょうか?<

絶対という言葉は対が絶していると言うことです、いわゆる絶対神のように、ただ唯一ということです、対するものがないと言うことです。
また内包的定義のようにすべての要素に絶対的に内包しているものを言うことも絶対的です。絶対的に内包していれば、それは絶対的と言えます。私の善の定義はあらゆる善なる行為に絶対的に内包しているから絶対善です。また「私より公を優先する行為、つまり愛やおもいやり」は生物たちが絶対的に正しいとして遺伝子に書き込み本能としました。それが正しいとして何十億年間も続き、今後も生物が存在する限り「愛や思いやり」は未来永劫存在するでしょう。ゆえにこれはもう絶対善としていいだろうと言うことで絶対善と言っているのです。


>もし赤児の自然本性が 《善》であったとすれば その善なる自由意志の中から ふと曲がるという負の善なる動きが起きた。つまり 人間の善は 相対的なものであるゆえ それ自体が 移ろいゆかざるを得ない。曲がる。道を逸れる。おまけに腐る。――クリナメン<

どんなお偉らさんがそう言ったのかは知りませんが、何故その人の言ったことを正しいと信じるのですか?その根拠は?あなた達の悪いところは偉い西洋の哲学者の言ったことをすぐ信じてしまうことです。もう大人なんだから、まず疑うこと、それが哲学をするということです。勿論、論理的であり間違いがないと分かれば信じてもいいのです。とにかく信じないでまず疑いなさい、そうしないから日本人に一流の哲学者は出ないのです。三流な哲学者ばかりなのです。

人間には理性があります。ゆえに理性が発達すれば人間の理性をつかさどる脳は賢すぎるから悪いことも考えるようになるのです。ずるいことを考えるのです、それが悪になるのです。またズルいことを考えることも発明などの知恵の基になるのです。
人間の動物脳(脳幹など)は善であり、人間に特に発達した大脳皮質には善も悪もあると言うことです。


>善を絶対的と見る見方は あまり生産的ではないように思います。あるいは そもそも善悪観で人間と社会を論じることは ほとんど建設的な内容がないように感じられます。<

あなたには絶対善のすごさが分かっていないのです。善は相対的であると言う考えこそが争いを生んできたのです。

お礼日時:2019/02/16 18:53

まだまだ 沢山あるよ・



進化したのなら 何故 薬という植物が無いのか?

薬は 毒草等を 精製しなければ作られない・

単体での薬草は この世に無い・・

進化論って この様な事実を 捻じ曲げてる 屁理屈理論
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この回答へのお礼

なんというバカらしい質問であろうか? 少しは考えて質問されてはいかがだろうか。

お礼日時:2019/02/16 18:49

追記・・医学的にも「喉チンコ」は何の為にあるのか 分かってない・・



不要なものなのに 何故 尻尾と同じ様に 無くならなかったの?
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この回答へのお礼

>医学的にも「喉チンコ」は何の為にあるのか 分かってない・・不要なものなのに 何故 尻尾と同じ様に 無くならなかったの?<

あなたのこのような質問によってあなたの知性というものが分かるのです。どんなにかしこぶってもバレてしまうのですよ。
喉チンコは体に必要だから在るのです、不要なものではありません。それを人間は知恵がないから分かっていないだけです。やがて分かる時も来るでしょう。

お礼日時:2019/02/16 18:47

性善説は、まぁそうかなと思いますが、小さな子供はよく虫を殺して楽しみますよね。

あれは?
善が本能的なら悪も本能的なのでは?
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この回答へのお礼

>性善説は、まぁそうかなと思いますが、小さな子供はよく虫を殺して楽しみますよね。あれは?善が本能的なら悪も本能的なのでは?<

私も善の定義が出来たと言うことだけですから。何もかも分かったと言うことではありません。自信を持って「こうだ」と言えるように思索の途中なのです。

あなたの問いに答えてみれば、悪とは簡単に言えば公に害を与えようが私欲を優先する事です。しかし子供はまだ理性があまり発達していませんので、これが悪いことであると認識できないのです。そして虫などはそんなに公に害は与えません。例えば子猫が虫をいじって殺したら「悪だ」と言いますか?

お礼日時:2019/02/16 18:47

人間は神の子ではありません、動物です。

教育により人間になります。私は神は信じません」←どうぞ・・

どんな事を勉強しても 行き着く先は「神」・・

あなたに それが解れば考え方も変わるだろーから・・
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この回答へのお礼

>どんな事を勉強しても 行き着く先は「神」・・<

それはあなたの一意見です。論理的ではありません、何の価値もない言葉です。あなたが神でない限り。

お礼日時:2019/02/16 18:46

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質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

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あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

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実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q泣く子と地頭には勝てぬ

泣く子と地頭には勝てぬとは、道理の通じない者や権力者にはどうやっても勝てないから、無理を言われても従うしかないということ。
http://kotowaza-allguide.com/na/nakukotojitou.html

時と場合によりけりでしょうが、どうでも良いことに関してなら妥当な諺だろうと思います。
「道理が通じない者」かどうか、みなさんは、どういった基準で判断しますか?

Aベストアンサー

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すということに羞恥心
がないということだと思います。従って1.2がそれにあたると。

「地頭」というものの本質は、力を持っているため、人を軽く見て、自分のエゴを通そうとす
る、という点にあると思います。従って、3.4.5がそれにあたると考えます。

また、人間は複雑であるので、この二つがミックスされたケースが考えられます。
これを「泣く地頭」と今後呼びたいと思いますが、これは厄介です。

それから、価値観の相違ということの中に、信念・哲学を持たない(あるいは捨てた)、という
ことが紛れ込んできていると思っています。
その人(状況)では、詭弁もありますが、何か判断のつかない論理を使います。

これがミックスされると「泣く腹黒い地頭」となり、究極に厄介です。

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すと...続きを読む

Qもし、日本にキリスト教がもっと普及していたら?

アメリカでは、人口の70%がキリスト教徒だそうです。
日本では、キリスト教徒は人口の1%です。その割には、クリスマス、バレンタイン、ハロウィンなどキリスト教の行事が盛んですが。
それはさておき、
もし、日本に、キリスト教が、もっと普及していたら、日本は変わっていたと思いますか?日本の社会や国民性は変わっていたと思いますか?もしそうなら、どのように変わっていたと思いますか?

Aベストアンサー

日本は「宣教師の墓場」といわれていたくらいで、西洋では知識階層の宣教師の論法が日本の農民に論破されるくらいですから、普及することはあり得ないと思いますよ。ザビエルが日本を撤退するとき、「ほとほと疲れた」と書いています。

インドが200年イギリスに支配されてもキリスト教が布教できなかったり、中国にも景教以外のキリスト教はほとんど入っていません。アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など)に対抗できる精神的風土を持つ国にはキリスト教は進入できませんでした。持っていなかった韓国のキリスト教はカトリックやプロテスタントではなく、カルト教会が大部分で、代表が統一神霊協会です。

Q諸問題の解決方法を見つけました。

私は一つの発見をしました。それは「社会的問題は国民みんなの為にある」と言うことです。例えば憲法改正問題は賛成である、反対であると議論されています。しかし何故賛成、反対なのか、その根拠、理由は何でしょうか?それはやはり国民みんなの為なのです。憲法改正すればみんなの為にならないから改正は反対である。また憲法改正はみんなの為になるから賛成なのです。

つまりどちら側の意見もその根拠はみんなの為なのです。消費税問題も同じです。増税しなければ国民が困るから増税賛成であり、逆に増税すれば国民が困るから増税反対なのです。これもどちらもやはり国民みんなの為が根拠、理由なのです。いじめ問題も体罰問題も不正問題などなどもすべて国民みんなの為に解決しようとしているのです。つまり社会的問題の根拠、理由は全て「国民みんなの為」なのです。

そんなことは当たり前ではないかと言われそうですが、そうではありません。このことが良く分かってない、または良く認識されていないから、いろんな問題がなかなか解決できないのだと思います。この発見はいろんな問題の解決の大きな糸口になるのではないでしょうか。

それでは一番「国民みんなの為」になることは何でしょうか。それは社会が平穏であり、秩序が保たれていることです。つまり社会の安寧秩序です。一歩家を出れば暴漢に襲われたり、作物を作ればすぐに盗まれたりすれば、これはもう社会は成り立ちません。やはり国民の為になる一番大切なもの、最高のものは「社会の安寧秩序」なのです。

また正しい、正しくないは問題があるから必要なのです。問題が何もないなら「正しい」なんて必要ありません。つまり社会的問題を解くには「正しい」が必要になります。では正しいとは何でしょうか。正しいを辞書で引けば「あるべき姿があり、それと合致している様」と書いてあります。それでは「あるべき姿」とは何でしょうか。それは正しい根拠、理由です。みんなが正しいと思っている根拠、理由に自分の考えが合致するから「自分の考えは正しい」と言えるのです。

ですから自分が正しいと言うためには正しい根拠、理由がなければならないのです。そしてあらゆる社会的問題の根拠、理由は上記で示したように「国民みんなの為、社会の安寧秩序の為」なのです。
ですから正しいとは、あるべき姿である「社会の安寧秩序の為」に自分の考えが合致していることなのです。つまりこれはあらゆる社会的問題を解決するためのひとつの「方程式」が出来たと言うことなのです。何故なら「社会の安寧秩序」に合致していれば正しいと言えるのですから。

私たちは「正しいとは何ですか?」と聞かれてもなかなか答えることが出来ません。私も多くの人に聞いてみましたが誰も「正しいとはこうである」と答えた人はいませんでした。しかし社会的問題に対する「正しいとは何か?」が分かったのです。それは「国民みんなの為、社会の安寧秩序の為」です。正しいとは何か?それは「国民みんなの為、社会の安寧秩序の為」に道理的、論理的に合致していることが正しいと言うことなのです。

ですから死刑問題なども人権に反するから死刑は廃止すべきであると言うのではなく、また凶悪犯は死刑にすべきであると決めつけるのではなく社会的問題を解く方程式である「国民みんなの為、社会の安寧秩序の為」に合致する方が正しいと考えればいいのである。これにどちらが道理的、論理的に合致しているかと議論すれば、長らく議論されてきてもなかなか結論が出なかった死刑問題もやがて解決に向かうのではないでしょうか。
いろんな社会的問題もすべて正しい根拠、理由である「国民みんなの為、社会の安寧秩序の為」に合致するように考えていけば正しい結論に辿り着けると思います。

どうでしょうか。私の見つけた問題解決の方程式は間違いありませんか?

私は一つの発見をしました。それは「社会的問題は国民みんなの為にある」と言うことです。例えば憲法改正問題は賛成である、反対であると議論されています。しかし何故賛成、反対なのか、その根拠、理由は何でしょうか?それはやはり国民みんなの為なのです。憲法改正すればみんなの為にならないから改正は反対である。また憲法改正はみんなの為になるから賛成なのです。

つまりどちら側の意見もその根拠はみんなの為なのです。消費税問題も同じです。増税しなければ国民が困るから増税賛成であり、逆に増税す...続きを読む

Aベストアンサー

#8です。

>綺麗ごととは「とてもできないようなことを言っている」という意味です。

了解しました。

>あなたはNo6 で「現段階の人類は未だ本能の占める領域が広すぎて、本能の言いなりになる部分の多い自我同士がぶつかりあっている状態」と書いていますが、悪をやるのは理性です。理性のない動物だけの世界に悪は在りません。

はい、おっしゃっていることは非常によくわかります。
おっしゃるところの『理性』は、「本能の言いなりになる部分の多い自我」とお考えいただいてよろしいかと。
本来の理性と、理性と思い込んでいるものとは別物だということなのかもしれませんね。
動物の場合も、単に性欲・食欲以外の自我的本能みたいなものもあったりするらしいです。プライドとか仲間外れとか嫉妬とか、なかなか複雑とのこと。

精神分析の岸田秀だったと思いますが、昔、人間は本能の壊れた動物である、みたいなことを言っていました。
人間が人間である以上、純粋本能にのみ従って、それこそ純粋に生きることは難しいという宿命を背負っているのかもしれません。
理性というか、超自我性をどこまで組み込んでいけるか、といったことになるのでしょうね。

>私たちは人を殺すことはいけないと感じます。このように本能は人を殺すことは悪いことであると知っているのです。
私たちは「善いな~」と感じることがあります。それは本能が快いフェロモンを出しているのです。私たちは本能的に善を感知しているのです、それが正しいの基となっているのです。私たちはすでに本能的に善を感知して生きているのです。

それを妨げているものは何か、ということになりそうですね。
たとえば自分の「善いな~」と他者の「善いな~」がバッティングする場合など。

#8です。

>綺麗ごととは「とてもできないようなことを言っている」という意味です。

了解しました。

>あなたはNo6 で「現段階の人類は未だ本能の占める領域が広すぎて、本能の言いなりになる部分の多い自我同士がぶつかりあっている状態」と書いていますが、悪をやるのは理性です。理性のない動物だけの世界に悪は在りません。

はい、おっしゃっていることは非常によくわかります。
おっしゃるところの『理性』は、「本能の言いなりになる部分の多い自我」とお考えいただいてよろしいかと。
本来の...続きを読む

Q科学

超初歩的な質問です。

「サイエンスする」とはどういうことでしょうか?

哲学は科学の範疇には入らない、という考え方が多いようですが、そうだとすると
それは、何故ですか?

Aベストアンサー

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題としては、「科学」、狭義には「自然科学」の厳密性を担保するのは、「現象」そのものです。(現象以外は、基本的に検証の対象にならないと言えるでしょう)
「哲学」は、その性質上、形而上の存在も対象としなければいけません。 したがって、その厳密性の担保は、哲学が方法そのものから、生み出す必要があります。(これが、「哲学」が一筋縄では行かない所以です)
厳密性が一定の範囲で、確実に担保できるのは、形式科学としての「数学」ですね。(むしろ、厳密性が担保できる「形式」を見つけるのが、「数学」なのかもしれません)
宗教もある意味、「数学」に似ています。 それは、宗教の信仰者からは、そのようなものでは無いと言われるかもしれませんが、何らかの信仰対象に対して、信仰者がある形式で、その信仰を行う活動と言えなくも無いわけです。(その形式の分析は、宗教では無く、「宗教学」と呼ばれるでしょう)
古代ギリシャにおいては、これらは、全て「哲学」の領域にあったと言えるでしょう。(「数学」、「自然学」、「形而上学」は、「哲学」の中で混然一体として議論されていたわけです)
ヨーロッパにおいては、ローマ帝国によるキリスト教の国教化に伴い、しばらくは、(キリスト教)「神学」は、自然哲学や「形而上学」としての、プラトニズムと混然一体として、「哲学」としても、蜜月を迎えましたが、16世紀以降は、暗黒時代を経て、「哲学」からは、それぞれ「神学」、「自然科学」として、分科していきました。
分科した理由はさまざまでしょうが、基本的に「哲学的」な厳密性では、上手くゆかなくなったのが、一番の理由でしょう。
(キリスト教)「神学」は、その宗教的理由から、教義にかかわるような議論を嫌ったわけでしょうし、「自然科学」は、原因を追究するより、現象の法則の科学的解明の方が重要だったと言う事です。
「数学」も、論理実証主義により、その厳密性を確立する事を目指しましたが、ヘーゲルなどにより、その基盤が確実で無い事が証明されてしまいました。(したがって、一定の形式における論理的整合性の検証に特化したわけです)
これらは、「Why(何故)」から、「How(どのように?)」への転換と言えます。
「哲学」が追求するのは、「Why」でしょう。
「科学」は、「How」であり、一部の解釈は、「Why」となります。(ただし、解釈は、あくまで解釈であり、実証は成されていないでしょう)
これが、「哲学」と「科学」を分ける境界なんでしょう。

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題...続きを読む

Q心から信じていれば命さえも懸けられる

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命綱が切れないと心から信じているから命を懸けているではありませんか。この事実があるのに何故、皆さんこの事実を否定されるのか。事実判断を皆さんの価値判断で否定することなどできませんよ。事実そうなのですから。

「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命...続きを読む

Aベストアンサー

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

でも、日本以外の国では陸続きだったために互いに侵略しあい、戦に負ければ男どもは殺され、女どもとその子供は奴隷にされてきた。長い歴史の中でそんなことを繰り返してきた人々に性善説を信じよといっても無理です。

もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越...続きを読む

Qアラシ投稿の阿呆さについて ご意見をどうそ。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合もある。

3. これらの例は ふつうに自然に起こる人間どうしのヨコの関係です。そして
ここで問題としたいのは このヨコのではなく もしその互いの間に上か下かとい
うタテの関係が生じたなら どうするか? です。



4. 抽象的に規定しますと 《互いのマナザシがどちらか一方が他方よりも上か
ら差して来る》といった上下の関係です。(まだほっかほかの質問として マウン
ティングの問題が出ていましたね)。


5. まづ このタテの関係については ふたつの種類があると思います。
( a ) ふたり――といった単位体を例に採りますが――のあいだにそれこそ自生
的に生じたもの。気楽なマジハリ。
( b ) そして あとは 人為的に作為的につくられたタテ関係。

6. 大昔には 身分の世襲制によって 人びとそれぞれのマナザシは どのよう
にそそぐか(注がれるか)は 決まっていたとも言えます。

7. では 現代では このマナザシは 自由の精神をもって( b )の作為的な上
下関係を打ち破っているか? マナザシは 完全に自由になったか?

8. 家族の中での――遠慮の要らない――マナザシの錯綜関係もあるでしょうし
けっきょく果ては 国と国との関係における〔こちらは〕深謀遠慮なるアマアガリ
戦術としてのマナザシ照射も 起きるのかも知れません。

9. ここで問うのは こうです。アラシ回答は アマアガリ・シンドロームに落
ち入った阿呆なるマナザシ合戦である――という命題をめぐって 思うところを述
べてくださいと。

10. また広く人間のマナザシ関係について 見解を述べてくださっても結構で
す。制約はありません。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合...続きを読む

Aベストアンサー

荒らし投稿するのは、真面に自分の意見を持たずきちんとした考慮も無く唯単に字面を追ってそれ
に対して本能だけ(に思える)反応をし、短絡的な回答を(恰も自分の意見は正当だと思いながら)
述べているに過ぎないとボクは考えます。
そうで無い思慮深い人がそういった回答を読むと何て浅はかなといった感想を持つでしょう。
このサイト内での回答はそういった浅はかな人だけでは無く人生相談的な質問には相手の立場に
立って考え的確な回答をする人も沢山居ますし、技術的な質問に対する回答は自分の技術やスキル、
問題解決の手段を検索出来る力を持った人達が矢張り的確な回答をしてベストアンサーを沢山獲得
しています。
自分が回答出来る様な人間では無いのにしゃしゃり出るのは短絡的且思慮の浅い(AHO--)と思うのは
ボクだけでしょうか?
貴方からの補足をお待ちしています。

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ


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