痔になりやすい生活習慣とは?

三国志の話ですが、当時の蜀は関羽、張飛、趙雲、馬超、諸葛亮がいました。張飛一人で20000、関羽、趙雲、馬超の三人で30000、あと、諸葛亮の戦術で✖️10。姜維の戦術で×5
蜀は実質2500000の軍勢を従えていたことになります。この時魏総勢150000程度、呉30000。まず、呉に姜維と関羽二人でで攻め込んで呉を滅ぼし、同時に諸葛亮と張飛二人で魏に攻め込めば簡単に蜀が統一できたのではありませんか❓

A 回答 (8件)

その考え方は根本から間違っています。



長坂で曹操軍に追われていた劉備軍団には関羽、張飛、趙雲、諸葛亮がいて、質問者様の計算でいうと劉備軍団には40万の軍勢がいた計算になるのですが、実際は5000の騎兵を相手に敗走を続けることになりました。
個人の能力が兵力の加算にならない実例です。

漢中攻防戦で張飛と馬超が出陣していますが、彼らはろくな功績を挙げられず、一時そろって敗走しています。
第一次北伐において趙雲の軍は、兵力において劣勢の曹真らの軍に敗北しています。
彼らが出てきたからといって必ず戦闘に勝てるわけではないという実例です。

そもそも蜀の人材がその能力で兵力の加算や倍率を設定できるのなら、魏や呉にもそれを適用しないのは不公平な計算です。
魏や呉にも優秀な人材が存在するのですが、もし同様に考えるならおそらく蜀の一人勝ちのような計算にはならないはずです。

でも、まぁ、反三国志の世界であれば、質問者様のいうようなことが成立しそうな気はします。
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この回答へのお礼

え、蜀の豪傑たちは全身鋼鉄だったのではなかったのですか?

お礼日時:2019/03/14 22:50

すみません。

途中で送信してしまいました。続きです。関羽が呉により領土を奪われてから戦闘の形が変わりました。つまり諸葛孔明や司馬懿の時代になったんです。蜀の国は頭脳戦を描けるのが諸葛孔明しかいませんでした。それに比べ魏や呉には沢山の軍師がいました。ですから、諸葛孔明と張飛が魏に攻め行っても負けてたと思います。日本の真珠湾攻撃のようなもんです。例えば、現在の会社に置き換えて見ると蜀の国は関羽、張飛、趙雲は職人であり経営能力があるのは諸葛孔明ただ一人で劉備は経営を丸投げしてた代表取締役って感じですかね?
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この回答へのお礼

え、張飛は蜀の技術により生み出されたサイボーグではなかったのですか?

お礼日時:2019/03/08 14:32

まず、当時の人口から数を割り出すと実質的に10分の1以下と見るのが妥当かと思います。

横山光輝さんの三國志は吉川英治の三國志を土台に描いてます。それらの元になる元本は『三國志演技』と言う本です。正史の『三國志』ではありません。『三國志演技』は爆発的な人気になり、その影響はつい最近まで中国では、魏の曹操は最近まで悪者とされてました。関羽や張飛に関しては戦闘能力は抜群でしたが作戦を練る事や戦術に置いては、もう1つでした。関羽、張飛、趙雲が活躍してた前半は、一騎打ちから戦闘が始められましたが、関羽が陸損
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正史を読まれていたんですね。


ならば尚更「蜀」という国?が如何に「演義」「横山版」「吉川版」で美化されていたかが分かると思います。

赤壁にしろ「元々戦いがなかった」「風土病が曹操軍に蔓延した為、船を焼き払い撤退した」という説もあります。
そうでないと、曹操軍の名のある将が赤壁でほとんど亡くなっていないのはおかしい…というある意味の事実に基づいての説です。

関羽にしても個人の武勇は沢山伝わっていますが、一軍を率いる将として考えるとそこまでの戦績は残っていません。
これは趙雲に関しても同様ですね(趙雲は劉備より年上、という話もあります)。

どちらかというと関羽・趙雲よりも、張飛の方が軍を率いる才能はあったようです。
張飛の務めた「車騎将軍」の位は三公に次ぐもので、その下に「幕府」を持ちます。
…果たして世に有名な「傍若無人な張飛」に務められる職か?と言われると、それは違うでしょうね。

蜀の猛将はどちらかというと「個の強さ」に特化した将が多かったのでは?というのが個人的見解です。

結局の所「正史」にしても陳寿が「晋」の時代に編纂したもので、陳寿は元蜀の文官…。
蜀の楊戯(文然)が記した「蜀書」を基にしている事も考えると、多少の『蜀贔屓』もあったのでは?と言われています。
「魏」「呉」に対して「蜀漢」としたのも、『蜀が漢の正当後継国である』という陳寿独自の解釈である…という話も。

様々な憶測・推測が2000年近い時間の中で、歪曲して挿入された…と捉えるのが一番しっくり来るような気がします。

私は魏好きな野郎ですが、特に蜀アンチという訳ではありません。
三國志自体大好きで、ちょこちょこと色んな説を採り入れて楽しんでます。

長文失礼しました。
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この回答へのお礼

関羽と張飛はほんと強いですよね。彼らはやはり全身鋼鉄だったんですよね?

お礼日時:2019/03/08 07:13

中国は白髪三千丈の世界です。


鳳凰などは日本列島より大きい鳥です。

何事も大げさなのです。

日本だと、せいぜい宮本武蔵の数十人が
限度です。
西洋ではシラノの百人が最高です。

しかし、中国では千人、万人単位に
なります。

それは現代でも同じです。

習近平主席の「一帯一路」構想などは
ヨーロッパを含むユーラシア大陸を
中華圏にしてしまう、という壮大なものです。

壮大過ぎます。




簡単に蜀が統一できたのではありませんか❓
 ↑
妄想と事実は違います。
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この回答へのお礼

まじめにいきます。
たしかに・・・赤壁の戦い曹操軍100万・・・
秀吉朝鮮出兵時の明でも全軍で53万くらいしかいなかったのにこの時より人口が少ないしかも70%しか把握できていない曹操が・・・

お礼日時:2019/03/07 18:04

残念ですが、姜維は孔明以外の将と関わっていません。

ので除外。
あと孔明は、どちらかというと内政の能力に長けていました。
北伐を考えれば分かりやすいですが、守りは上手・攻めは下手。

なので単純計算は出来ません。
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この回答へのお礼

え、そうなんですか?こうめいって攻め下手なんですか?けど、関羽とかたくさん豪傑いましたよね?だから蜀がかなり強かったのでは?

お礼日時:2019/03/07 14:18

蜀が統一されたなら


ショック(蜀)
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この回答へのお礼

座布団一枚!

お礼日時:2019/03/07 14:17

戦は足し算引き算では答えが出ない問題です

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Q徳川家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのですか?

魏忠賢などの悪臣の専横によって乱れきった明朝の末期は徳川家康・秀忠が将軍だった頃であり、鎖国も行っていませんでした。
結果的に明は女真族という辺境の弱小民族によって征服されてしまうわけですが、徳川幕府がその気になれば明を征服するのは容易だったはずなのに、家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

Aベストアンサー

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

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家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
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そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
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上杉征伐の途中に石田三成の挙兵を知り、軍を西に向けた徳川家康の背後を上杉景勝は何故攻めなかったのですか?
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皆さん書いていらっしゃる通り、秀吉に命じられたようです。
  
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Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む

Q長篠の戦いで、武田軍は、どのような面で勝算を見込んで、2倍以上の兵力の織田・徳川軍に対して戦いを挑ん

長篠の戦いは、<3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。>そうですね。
ところで、武田軍は、どのような面で勝算を見込んで、2倍以上の兵力の織田・徳川軍に対して戦いを挑んだのでしょうか?

Aベストアンサー

長篠の戦は勝頼にとっては、準備万端で迎えたものではなく、行き当たりばったりで始まったものです。 長篠の戦いが発生したのは、家康の家臣の謀反が発端となっています。 家康は三河の奉行として、大賀彌四郎という男を抜擢していました。 この大賀は、もともとは中間ちゅうげん(雑用係)の身分だったのですが、なかなか目端が利いたために家康が取り立てました。 そしてやがては三河の一地方の行政を差配するほどの地位を与えています。 当時は武力が尊ばれる時代で、武士たちは行政に携わることを嫌い、この方面の人材は不足気味でした。 そのために家康は大賀を抜擢したのですが、大賀は取り立てを受けるとやがて増長し、三河の中心地である岡崎城を奪い、自分がその主になりたいという、だいそれた野心を抱くようになります。 しかし大賀自身には兵力がありませんので、勝頼に連絡し、「三河で一揆を扇動して徳川軍を攪乱し、その隙に城門を開いて迎えるので、岡崎城を家康から奪って欲しい」と要請しました。 そして成功の暁には、自分を岡崎城の城主にしてほしい、と願い出ます。 勝頼としては、岡崎城を手に入れれば、織田・徳川連合を三河で分断することができますので、喜んでこの申し出を受け入れます。 そして1575年5月の初めに、甲斐かい(山梨県)を出発して三河へと向かいました。 武田軍の総兵力は3万3千でしたが、この時は裏切りに応じて城を接収するのが目的でしたので、勝頼が動員したのは1万5千、全体の半分以下でしかありませんでした。 つまり勝頼は、出陣の際には織田・徳川連合と決戦を行うつもりはなかったのです。 このことが、長篠の戦いの結果に大きな影響を与えます。 長篠城に転進する大賀の企てた陰謀はやがて露見し、大賀とその仲間たちは捕縛されました。 これは大賀の仲間になっていた者が、果たして主君を裏切っていいものかと思い直し、家康の重臣に大賀の企みを密告したためでした。
浜松城にいた家康は、謀反の知らせを受けて激怒し、大賀をのこぎり引きという、残忍な刑罰によって処刑しています。 大賀の陰謀が失敗したことが伝わると、勝頼は行軍の目的を失ってしまいました。 しかし、1万5千もの兵を動員しておきながら、何の成果も得ずに撤退するわけにもいかず、家康に奪われていた長篠城を取り戻そうと目的を切り替えます。 このようにして、長篠の戦いは流動的な、言わば行き当たりばったりの経緯によって開始されたのでした。

長篠の戦は勝頼にとっては、準備万端で迎えたものではなく、行き当たりばったりで始まったものです。 長篠の戦いが発生したのは、家康の家臣の謀反が発端となっています。 家康は三河の奉行として、大賀彌四郎という男を抜擢していました。 この大賀は、もともとは中間ちゅうげん(雑用係)の身分だったのですが、なかなか目端が利いたために家康が取り立てました。 そしてやがては三河の一地方の行政を差配するほどの地位を与えています。 当時は武力が尊ばれる時代で、武士たちは行政に携わることを嫌い、...続きを読む

Q「第二次世界大戦を起こさないためにタイムスリップできるとしたら、いつ、どこに行き、どんな行動をします

「第二次世界大戦を起こさないためにタイムスリップできるとしたら、いつ、どこに行き、どんな行動をしますか?」

Aベストアンサー

歴史というのは、過去からつながっていますので
どこかで、ストップさせる、というのは
難しいのです。

第二次大戦が起こったのは、不況が原因ですが、
どうして不況になったのか、といえば
第一次大戦で好景気になった反動が来たから
不況になったのです。

では第一次大戦はどうして起こったのか、といえば
植民地の争奪戦が原因ですので、植民地をやめさせる
ことが必要です。

では、どうして西洋列強は植民地政策を採るようになったのか、
といえば、ルターの宗教改革にまで遡ります。
あれで信者を減らしたカトリックが、国家と組んで
信者を増やすべく、植民地政策に乗り出したのです。

ルターの宗教改革がどうして起こったのか、といえば
カトリックが腐敗したからであり、
カトリックがどうして腐敗したか・・・

こんな具合に、延々と遡ります。




「第二次世界大戦を起こさないためにタイムスリップできるとしたら、
 いつ、どこに行き、どんな行動をしますか?」
  ↑
強いていえば、ドイツに巨額な賠償金を払わせるのを
やめさせることです。


近代経済学の父、といわれるケインズは次のような
指摘をしています。

第一次大戦でドイツは莫大な賠償金を背負う結果に
なりました。

ケインズは、こんな巨額な賠償金を背負わせたら
ドイツは爆発して、また戦争になるぞ。

ケインズの予言が的中したわけです。

歴史というのは、過去からつながっていますので
どこかで、ストップさせる、というのは
難しいのです。

第二次大戦が起こったのは、不況が原因ですが、
どうして不況になったのか、といえば
第一次大戦で好景気になった反動が来たから
不況になったのです。

では第一次大戦はどうして起こったのか、といえば
植民地の争奪戦が原因ですので、植民地をやめさせる
ことが必要です。

では、どうして西洋列強は植民地政策を採るようになったのか、
といえば、ルターの宗教改革にまで遡ります。
あれで信者を減らした...続きを読む

Q江戸時代にスペインやオランダが、日本に対して低姿勢だったのはなぜですか?

江戸時代前期というとスペインやオランダが強かった頃であり、スペインはフィリピンを、オランダはインドネシアを植民地とし、原住民に対して過酷な収奪をやっていました。
しかしながら、日本に対しては一切手を出さず、徳川幕府がキリスト教を迫害しても文句を言わず、オランダに至っては貿易は出島のみ、それもキリスト教を布教しないという条件でようやく認めてもらっている有様です。

このように、江戸時代の世界の覇権国とも言えるスペインとオランダが、なぜか日本に対しては強いことを言えず、低姿勢に徹したのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

彼らは、まずキリスト教神父が乗り込み
現地人を宣撫して、それから本国から軍隊を
送り込み、占領してしまう、
という方法をとっています。

日本は、そうした戦法をいち早く察知し
キリスト教が広がるのを阻止しました。
そもそもですが、一定レベル以上の文化、文明が
既に発達している地域で、新たな宗教を布教する
のは困難なのです。

このように、キリスト教布教に失敗した、という
のがまず上げられます。


次は武力です。

スペインの神父が、本国に当てた書見が残って
いますが、それには
「他のアジア諸国と異なり、日本の武力は強力
 である」
旨の記載がうかがえます。

幸いというか、戦国時代の余韻が残っていた
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植民地にするのはいじめるためではありません。
儲けるためです。

武力で植民地化するよりも、貿易で儲けた方が、
という判断が働いたのでしょう。

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日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

Aベストアンサー

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日の丸は、1870年制定

Q清の康熙帝・雍正帝・乾隆帝が日本侵略を考えなかったのはなぜですか?

清の最盛期は長く、康熙・雍正・乾隆帝の全盛期は130年以上に及び、モンゴル帝国に次ぐ広大な領土を支配しました。
日本ではちょうど江戸時代にあたりますが、その当時の日本が清を恐れていたような記録はなく、清も日本を侵攻しようとは考えなかったようです。

意図していたわけではないと思いますが、相互不可侵の紳士協定が結ばれていたような感じです。
あれだけ領土拡大意欲の強かった清が、日本に対しては一切手を出さず、朝貢を求めるような素振りもなかったのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

小規模な貿易は行われていたようですが、秀吉や倭寇影響か、あまり良い国交関係とは言い難かったようですね。

前王朝の時、倭寇対策が大変だった。
江戸時代になって、おとなしくなったので、あえてちょっかいを出す必要はなかったのでは?

さらに言うと、そのためもあって、清王朝でも海上交通に制限をかけていた。
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