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人間は自分が認識できないことを、信ずることができると思いますか?

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    あ、それから、あなたのように、ここがレベルが低いとか、バカとアホ
    ばかりだと言う人はこれまでもたくさんいたのだけれど、そういう人に
    限ってたいしたこと言っていなくて、レベルの高さを感じたことがない
    んです。私の主観ですが。
    あなたもそうなのかな。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/04/11 14:57
  • 認識(cognition)という言葉を辞書で引きますと、一般的には、「物事を見分け、
    本質を理解し、正しく判断すること。また、そうする心の働き。」とあります。

    この「正しさ」ということがポイントで、一般的にはこれを「常識にかなった」
    ということになると思います。

    また、哲学的には、「人間(主観)が事物(客観・対象)を認め、それとして知る働き
    また、知りえた成果。」とあります。

    これは、心理学等の「認知」(cognition)と、ほぼ同義ではないかと思います。同じ語
    の訳でもありますし。

    そして、その認識の正しさ(客観性)をどう求めるかという研究が「認識論」において
    なされてきた、ということであると思います。

    私はこれらの概念を、以上のように「認識」しておりますが、どうでしょうか?

      補足日時:2019/04/12 15:50

A 回答 (10件)

認識って、どういう意味で使ってるの?



英語、ドイツ語、フランス語では?
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この回答へのお礼

一般的な意味でも、哲学的な意味でも結構、それぞれで分けてお答えいただいても
結構。

英語、ドイツ語、フランス語ではどうか、調べていただければすぐに分かるかと。

お答えは日本語でお願いしたい。

お礼日時:2019/04/11 13:56

このサイトの哲学系の質問はレベルが低い。

この回答への補足あり
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この回答へのお礼

そう思います。

しかし、一歩踏み込んでみると、質問者が回答を予測して、質問のレベルを
下げざるを得ないと考えている部分と、回答者が質問のレベルを考慮して、
回答のレベルを意図的に下げているという悪循環が、あると思います。

全体的には私はこのカテには哲学の専門家がおらず、哲学の理解力は低いと
思いますので、背伸びした質問をして上滑りをしているよりも、基本的な部
分をクリアしていったほうかいいと考えています。

お礼日時:2019/04/11 14:40

思いますよ。



神などは認識した人は少ないでしょう。

それでも、信じる人は沢山おります。

人間には想像力がありますので、
認識しなくても、信じることは可能なのです。
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この回答へのお礼

補足にも書きましたが、一般的な意味での「認識」とは、常識にかなった事物の
理解・判断ということだと思いますので、「神を認識する」ということは、微妙
なことになると思います。

哲学的な意味では、「主観が事物を認め、"それとして"知る」ということですか
ら、「神」も「悟り」も、「認識する」ことには違いはない、となると思います。

問題はその「客観性」です。

また、今回の質問の柱は「信ずる」ということでもあります。これまた難しい概
念であると思います。

お礼日時:2019/04/12 16:08

私は認識できないものは、信ずることができないと思います。



私はクリスチャンですが、なぜキリストを信じたのか。言葉でうまく説明できませんが
たぶん、イエス・キリストが素晴らしい方であると強く認識したんだと思います。
私の意識の中に聖書の概念が入ってきて、それが価値観を変えたということだと思います。
イエス・キリストを知って探求し、私の中でそれが真実だと認識し得たから私は信じた。
たとえば、誰かが「信じてみたら?」と言って安易に信じたのではないということです。
ただ、日本には「鰯の頭も信心から」という言葉もあります。どうなんでしょう。
日本人は鰯の頭を信じているんでしょうか?
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この回答へのお礼

私も信仰を持っていますので、仰ることよく分かる気がします。

思いますに、信仰に入るきっかけというものは、大抵知人・友人
に勧められるものでしょうから、はじめは「よくわからないけれ
ど、信頼できる人の言うことだから」だとか、「何か惹かれるも
のがあった」といった類のものではないかと思います。
ですから、はじめは「信じてみるか」というのが本心であろうと
思われます。

その後、その教えを学び、実践することによって、キリスト教で
あるならば「聖書の哲学」、仏教であるならば「仏典の哲学」の
認識への長い道のりを歩み始めることになる、と。
そして、その道のりは、人により様々であろうと思います。その
結果、認識の仕方、深さも人それぞれということになるでしょう。

>日本人は鰯の頭を信じているんでしょうか?

日本にはキツネや蛇の信仰があります。この二つの動物は何か神秘
的なイメージがあり、「神の使い」として信仰の対象になり得るギ
リギリの線であろうと思います。

ご存知のように日本各地に男性器を「ご神体」として祀っている神
社があります。
また、私が昔住んでいた地域に「蛸不動」というのがありました。
このあたりになると、どうでしょう?神の使いとして信ずることは
難しいのではないかと思います。

まして、「鰯の頭」は無理でしょう(笑)。

お礼日時:2019/04/13 03:56

前回のあなたの質問によると、あなた自身が客観的に存在しているかどうかすら判らないと仰っているようですね。



で、質問ですが、あなたには何か信じられるものがありますか?別に、宗教じゃなくて良い。例えば、昨日夕飯を食べたかどうかなどです。もし、そのように、あなたに信じられるものがあるなら、あなたは自分が認識できないことでも信ずることができるのですね。
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この回答へのお礼

前回の質問に補足で書きましたが、哲学の認識論の理論としてそのようなものが
あるのだけれど、ということであり、私の主観的には、私が認識している私自身
が客観的に存在していると信じています。

さて、私が信じているものとは一体何かと考えてみますと…

そうですね、私が認識しているものの中で、「腑に落ちているもの」ということに
なりましょうか?
これは、数値化できるものではありませんので、明快に説明できそうにありませんが、
うーん、認識できているものの存在自体は信じられますかねえ。

古い記憶と、人の言葉は必ずしも信じることはできませんね、記憶は変わるし、人は
嘘をつきますから。

お礼日時:2019/04/13 04:28

太陽が球体である事は認識出来ませんが、信じています。



この質問を通して何を学ぼうとしているのですか?
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この回答へのお礼

私は、太陽が球体であると認識しています。

学校でそう習ったからです。

お礼日時:2019/04/13 04:34

認識、って考えてみると私には手に負えないかも。



使い方、捉え方で深浅があるんですね。
私の場合はもちろん浅い方で、動物的・本能的なもので、虫が目の前の“物”を認知した、というのを“物の存在を認識した”と云ってますが、さらにそれが食べられると知る事も、“そのものが食べられると云う事を認識した”と云います。

こんなレベルだから認識論なんてのに触れると、何のこっちゃ?と云うことになってしまいます。

認識って物の存在の有無だけではなく、内容があるんですね。
それで思うことは、本能的な事でも理性的な事でも『判断後の結果』の事を認識と云う
のではないかと。要するに認識する前に判断がある、と云う事です。言い換えれば、どのように認識するかという判断が働くと云う。

「このように認識している」と云うのは「このように理解している」と言い換えられますよね?
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この回答へのお礼

私も、昨日辞典で調べて、自分なりに理解しただけです。

汽笛さんね、また余計なこと言いますけど、我々「ずぶの素人」は、こういう
サイトを見ていると、いろんな質問があり、そのたびに興味を持っちゃう。汽
笛さんもそういう性格だと思いますが、興味を持っちゃ、調べを繰り返してい
ると、結局何にも身にならないなんてことになったりします。

何か、そういう面があったと思いますね、私は。時間を無駄にしちゃったなと
いう思いが、元気をなくしてしまいましたね。

言葉を何度も耳にしていると、分かった気になっちゃうんですね、これは誰でも
そうです。だから、基本的な部分を「分かっているのか」確認して、固めておい
たほうがいいと思いますよ。

お礼日時:2019/04/14 00:21

哲学と云うものの基本・基礎、ってありますか?

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この回答へのお礼

そうですね。

哲学史の概観、よく目にする言葉の一応の理解(存在、認識、価値など)、論理学の
基本の基本、等をマスターすることだと思います。

それまでは、何か複雑な質問には触れないほうがいいと思います。そういう質問を
考えていると、何だか賢くなったように思うかもしれませんが、大抵、混乱するだ
けだと思います、これは経験上言えること。

観念の操作が哲学ではないということが理解できたときに、基礎コースマスターと
思って、私はやっています。

あ、後は野矢茂樹先生のラジオ深夜便。

お礼日時:2019/04/14 22:15

認識と知識は混同しそう。


知る、と云う事は理屈を通して可能でしょうが、認識は実感を伴っていたいですね。

ただ、使い方では「その様に理解している」という意味で認識している、と言ったりするので、解釈が面倒になるのでしょう。
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この回答へのお礼

哲学辞典のコピペ。

認識 : 広義には知識のことで、何かあることを知ろうとする作用、そして
その成果として得られた事柄。通常は後者を知識と呼ぶ。

認識論 : 知識についての学。知識はいかにして得られるかという認識の構
造と認識の限界、得られた知識の確実性などを研究する哲学の一部門。

私にはコピペすることくらいしかできませんが、こういう基本的な質問に答
えてくれる回答者はいます。
ていうか、そもそもはQ&Aですから、そういう場であることを忘れています
よね我々は。

基本的なことを尋ねることが何か恥ずかしいようなクウキ、何か見栄の張り
合いのようなクウキがあるのは事実だと思います。

お礼日時:2019/04/14 22:38

認識、に正しさとか正しくない、とかは無いと思います。



この場合の正しい、って何ですか。

物事の解釈、は理性や感情が受け持ち、その結果を“認識”するのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

正しさとは、客観性のことです。

お礼日時:2019/04/15 00:50

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