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▲ (カント:対象→認識か 認識→対象か) ~~~~~~~~~~~~~~~~

1. 総合的表象(☆ または 認識)とその対象とが合致し 必然的に関係し合い
両者がいわば相会することは 二つの場合にのみ可能である。

 ☆(ブラジュ註) 1-1. 三つ目の場合があるはずだという批判を問います。

2. 即ち対象が表象を可能にするか さもなければ表象だけが対象を可能にするか
二つのうちのいづれかである。

(I.カント:『純粋理性批判』 Ⅰ 先験的原理論 第二部門 先験的論理学 第一
部 先験的分析論 第一編 第二章 第一節 14 カテゴリーの先験的演繹への移り
行き 篠田英雄訳 1961 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. ☆ 次のような三つ目の場合があるのではないか? という問いです。

4. 世界と主体 あるいは 対象と認識 これら両者が互いに相い向かい合うと
き その双方向の関係において 認識は対象の存在をそれとして位置づけ 対象は
認識の中に感覚の像を植えつけそこから概念認識を形成させる。

5. お分かりのようにまったく単純な問いです。三つの場合のそれぞれについて
論証する段階の以前に 場合は二つか三つかと問うものです。

質問者からの補足コメント

  • №5お礼欄をおぎないます。

    ☆☆ 《空間と時間とは じつに認識主体にアプリオリにそなわっている。因果
    関係といった認識形式もそうだ。これらの――経験をふくまない――純粋認識に
    よって 世界ないし対象を われわれ人間は 〔地動説のごとく〕主体的に認識
    するのである》
    ☆ と 構成説を捉えたとき 次のように 能力とその作用とを分けて捉えるな
    ら 妥当だと言えるのかも知れません。

    時空間や因果関係(あるいは 《AはAである》等々のカテゴリ)を識別する能力
    が――潜在的にしろ―― 人間に生まれつき備わっている。そして その能力が
    発揮されるのは 世界ないし対象と相い向かい合ったときにである。

    ただし この場合の生まれつきの能力というのは 後天的に経験を経たあとに規
    則的な内容として認識し得たものを あてがったのではないかという気持ちをの
    こします。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/28 20:51

A 回答 (9件)

ブラジュさん、こんばんは❀


お礼ありがとうございます❀

なるほど❀

プチ平行線.。..。❀


わかりました

この件は、
研究所(笑)へ持ち帰るとします❀


新しくスレを出されたのですね*・゜゚・*❀

❀主知主義❀

これも楽しそうな課題ですので、
研究所に持ち帰るとします
ありがとうございます❀

*・゜゚・*:.。..。.・*:.。. .。.:*・゜゚・*❀
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この回答へのお礼

こんばんは。ご回答をありがとうございます。


★ ~~~~~~~~~
なるほど❀
・・・
この件は、
研究所(笑)へ持ち帰るとします❀
・・・
~~~~~~~~

☆ そうですね。ざっと考えて――証明のむつかしい問題としてですが――
《対象→認識》という方向だけの仮説は オールド・ショーさんが名づけて
いたように 模写説ですね。

対象ないし世界を それがわれわれの身(つまり感官)に映ったままの姿を
写し表わすといった見方です。これは 良し悪しの価値観をまじえない場合
にも 人によって異なった表現になりますので そのままそれだけを認める
のは まづいでしょうね。



認識→対象という見方の構成説と よければ双方向説とが 候補にのこりま
す。



しかし 証明のしようがないので その説を採った場合にどういう結果が現
われるか? この点について考えるという手が ひとつあり得ます。


認識主体の主体性は どちらも場合も確保されます。


そして 構成説だと その主体性が過度に発揮されがちになるのではないか?
そういう問題だと思います。



コペルニクス的転回と名づけているように 天動説から地動説に転回したと
言うのですから 地球が太陽のまわりを回るように人間も 認識行為にかん
して大いに主体的におこなうと言うものです。

その上 あたかも相手つまり対象は静止しているのだから こちらはフル回
転で動きまわって 隅々まで認識をおよぼすのだということになります。

そのとき この認識が 対象に対してあたかも優位に立つというような姿勢
が 出て来なければよいが・・・と思う。こういうわけだと考えます。

そんなところでしょうか。そういう危険がなければ 問題にすることもない
かと思います。

お礼日時:2019/05/31 20:52

ブラジュさん、こんにちは❀



>対象を前にして だまって坐れば ピタリと当たるというアプリオリ性あ
るいは 先験的な純粋認識――これは ウソだと思います。
>その能力は やどしていてもよい。けれども その発揮は 先験的ではな
く対象との同時一体的な経験行為だと見ます。
(どちらも 証明はなされていません)。
>要するに 認識と言うなら 経験行為ではないか? です。

→ここは表現のハナシになるのかわかりませんが

もし、認識というものが、必ず経験行為から成り立つものとして表現されるなら
先天的とか、後天的とか使わなくても単に「認識」という表現だけでよい気もするのですが、

あるいは
認識というものが、必ず経験行為から成り立つものとして表現されるために
あえて先天的、後天的と分けて認識という表現をつかっているのかわかりませんが

いずれにせよ
やはり先験的な純枠認識=経験よりも前に備わっている認識というものを
説明するための表現方法なのかなぁ.。..。.❀
それをわかりやすく表現したかったのか、他に和訳が適さなかったのかわかりませんが


ただ、カント推しの私としては、

「世界と主体 あるいは 対象と認識 これら両者が互いに相い向かい合うと
き その双方向の関係において 認識は対象の存在をそれとして位置づけ 対象は
認識の中に感覚の像を植えつけそこから概念認識を形成させる」

↑これも、3つ目の選択肢として否定はしないですし、だからと言って

「対象を前にして だまって坐れば ピタリと当たるというアプリオリ性あ
るいは 先験的な純粋認識」

↑これも否定はできない、というところになるのかなぁ.。..。.❀

*・゜゚・*:.。..。.・*:.。. .。.:*・゜゚・*
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この回答へのお礼

こんにちは。ご回答をありがとうございます。



★ もし、認識というものが、必ず経験行為から成り立つものとして表現されるなら
先天的とか、後天的とか使わなくても単に「認識」という表現だけでよい気もするのですが、
☆ 微妙ですが 違うと思います。

感性および知性という能力は 先天的にそなわっている――と言おうと思えば言えましょう。
(後天的にその能力やハタラキを 確認しじゅうぶん発揮するようになるということのはず
ですが 先天的なそなわりを想定してもよいかと思います)。

けれども その認識の能力とそれが発揮されることとは 微妙ですが 別ではないか?

そしてカントは 能力の発揮についても ふたつ(先験的と経験的)を分けます。

細かくなりますが 時空間という軸あるいは《Aが起こればBが結果する》といった因果関係
の基本形式 これらが 生まれつき備わっている。そして あとは 具体的な認識の行為およ
び内容は 確かに後天的な経験による。――と言います。

前者すなわち《経験にかかわらない純粋認識がある》という部分 ここをこの問いで問題に
しています。



ですから いま別様の批判の仕方をするなら そのような《世界の四次元性や物事の因果関
係性》という認識形式について その形式を形成する能力は 生まれつきであり その形式
じたいは じつは後天的に学習した結果の認識内容なのではないか? ――という見方を提
出し得ます。そういう批判の仕方です。

★ 先験的な純枠認識=経験よりも前に備わっている認識というもの
☆ というのは 以上のような事情として説明されるかと思います。




★ ~~~~
ただ、カント推しの私としては、

「対象を前にして だまって坐れば ピタリと当たるというアプリオリ性あ
るいは 先験的な純粋認識」

↑これも否定はできない、というところになるのかなぁ
~~~~~
☆ 証明やまた反対証明もむつかしいですから その狙いはと言うと 近代人の――合理主
義の主体性をとりわけ重んじる――主知主義と言いますか 人間の能力の礼賛にあるのでは
ないかと思われます。

次にまとめました。
【Q:縄文人的原始心性――プロト歴史知性――は いのちの息吹きに満ちていて とうとい。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11143040.html

お礼日時:2019/05/31 13:49

ブラジュさん、こんにちは❀



やはりカント推しからの意見としては、
何となくの肯定派になってしまいますが、

例えば、生まれつき目の見えない人の場合、
対象→認識はあり得るのですか??

おそらくこの場合の(目が見えない人の)認識とは、
視覚機能以外の感覚機能によって対象を認識するというハナシには
なってくるのでしょうけれど、

生まれつき目の見えない人が、「色」というものをピアノ(音色)で表現する人もいます
「色」というものを認識することは、視覚機能においての経験則のようにも思えるのですが、
また勿論、私たちの認識している「色」と同じものを認識しているとも言い難いのですが、
けれども、「色」というものを、彼らなりに把握し、表現しているというのは、
それは、経験則からなのか、先天的に備わっている知性の働きによってなのか
判別としないようにも思えるのですがどうなんでしょう??.。..。.❀

つまりは、先天的に備わっている知性の働きというのは、
経験するよりも前に発揮することがありうるのではないか
という疑問も少なからず残します

という理由から、何となく肯定派とします❀

*・゜゚・*:.。..。.・*:.。. .。.:*・゜゚・*
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。こんにちは。


★ 例えば、生まれつき目の見えない人の場合、
対象→認識はあり得るのですか??
★ 視覚機能以外の感覚機能によって対象を認識するというハナシには
なって
☆ 来ます。


そして カントは そのような《対象と向き合う場合の〈経験的な〉認識》
を否定しているわけではないです。


そうではなく そのような知覚〔そして認識〕といった経験に先立って
たとえば《時空間》という軸は 対象の側にあるのではなく 主体たる人
の側にアプリオリにそなわっている。だから それによって 《経験にか
かわることなくすでに主体的に 対象についての時空間といった座標的な
位置づけを 純粋直観として(知覚以前に) 終えている。だから 《認
識→対象》という矢印の場合が とりわけ人間性の象徴としてのごとく 
想定され主張されなければならないのだ――と言います。




★ ・・・それは、経験則からなのか、先天的に備わっている知性の働き
によってなのか 判別としないようにも思えるのですが.。..。.❀
☆ カントは 両方をみとめています。問題は 先ほど触れましたように
《知性のハタラキ》が 経験則として認識する場合(それは 時空間なる
軸以外の・対象のかたちや性質などについてです)のほかに・それに先立
って 《経験にかかわらずにすでに純粋認識をおこなっている》という部
分が 問題だと考えるのです。



★ つまりは、先天的に備わっている知性の働きというのは、
経験するよりも前に発揮することがありうるのではないか
という疑問も少なからず残します
☆ 《経験するよりも前に 潜在的な能力としてあり得る》と言えます。
けれども 時空間という軸を対象について捉えるのは《対象と向き合って
知覚をとおして触発されて――つまり 経験的に――その知性という能力
を発揮するから》ではないのでしょうか?

そういう物言いです。


対象を前にして だまって坐れば ピタリと当たるというアプリオリ性あ
るいは 先験的な純粋認識――これは ウソだと思います。

その能力は やどしていてもよい。けれども その発揮は 先験的ではな
く対象との同時一体的な経験行為だと見ます。

(どちらも 証明はなされていません)。

要するに 認識と言うなら 経験行為ではないか? です。

お礼日時:2019/05/30 14:03

>これが 《認識→対象》としての《構成説》の中身です。


---その「中身」については異論がありますが、
>アプリオリな装備というのは 思弁による想定です。証明されたわけではありません。
---証明が必要と言うことの意味にも、一言挟みたいところですが、カント解釈といったことに是非を問うほどの勉強家ではなく、カントの基本的な用語での微妙な違いを指摘するのは私の任ではない、としておきます。

今回のコメントは、あくまで、「二者択一の事例に依存」ということに対する疑問だったということで。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >これが 《認識→対象》としての《構成説》の中身です。
★ ---その「中身」については異論がありますが、
☆☆ > アプリオリな装備というのは 思弁による想定です。証明された
わけではありません。
★ ---証明が必要と言うことの意味にも、一言挟みたいところですが、カ
ント解釈といったことに是非を問うほどの勉強家ではなく、カントの基本
的な用語での微妙な違いを指摘するのは私の任ではない、としておきます。

★ 今回のコメントは、あくまで、「二者択一の事例に依存」ということ
に対する疑問だったということで。

☆ 三つ目の事例も 候補に挙がるのではないか? それが正解であるか
どうかにかかわらず 可能性は 三つではないか? こういう問いでした。

お礼日時:2019/05/30 10:27

素人の感想に過ぎませんが。



(あ):対象が表象を可能にする
(い):表象だけが対象を可能にする
(う):その双方向の関係において ……そこから概念認識を形成させる。
見方を変えて言い換えると、
(あ)は、模写説に連なる。
(い)は、構成説に連なる。
では(う)はなんと呼ぶべきか、ここは手軽に双方向説と呼んでおきましょうか。

模写説持ちからすると、双方向説は如何にして模写が成立するかを説かずに済んでラッキー。
構成説持ちからすると、双方向説は如何にして対象と合致するかを説かずに済んでラッキー。
逆に言うなら、
模写説持ちから見れば、双方向説が成り立つならそもそも模写説が生まれるはずもなし。
構成説持ちから見れば、双方向説が成り立つならそもそも構成説が生まれるはずもなし。

という感想が浮かびますね。

「双方向の関係」なるものが如何に説きうるのか、
「認識は対象の存在をそれとして位置づけ」は、
「対象は認識の中に感覚の像を植えつけそこから概念認識を形成させる」は、どうか。
それぞれ「認識論」と呼びうる程度に論述されなければ、感想以上には答え得ないでしょう。単なる三通りの場合という問題ではない。

カントがその箇所でそのように「二つのうちのいづれか」と言っているにしても、話はそう簡単な事ではない。そもそもの初めから、「いづれか」などと言いうるのはその当時カント本人しか居なかったのじゃないか? その「いづれか」に行く前にあったのは、むしろその「三つ目の場合」に近似したモノに対する批判ではなかったか?
と、感想を追加しておきます。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

いつもご回答をありがとうございます。

《場合が 三通りに分かれる》という単純な問いではダメだ。中身を検証せよ―
―というご見解になりましょうか。


▲ (カント:模写説(あ)と構成説(い)との違い) ~~~~
(い) 《ア・プリオリな認識》というときには 個々の経験にかかわりのない
認識というのではなくて 《一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識》を
意味するということにしよう。

(あ) 経験的認識は ア・ポステリオリにのみ 換言すれば 経験によっての
み可能な認識である。

☆☆ 【Q:カント葬送】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11109649.html
~~~~~~~~

☆ 四次元の世界の座標軸たると思われるところの《空間と時間とは じつに認
識主体にアプリオリにそなわっている。因果関係といった認識形式もそうだ。こ
れらの――経験をふくまない――純粋認識によって 世界ないし対象を われわ
れ人間は 〔地動説のごとく〕主体的に認識するのである》と。

これが 《認識→対象》としての《構成説》の中身です。

アプリオリな装備というのは 思弁による想定です。証明されたわけではありま
せん。


★ 模写説持ちからすると、双方向説は如何にして模写が成立するかを説かずに
済んでラッキー。
☆ 双方向説は 模写(つまり 対象→認識)をふくみます。その仕組みを明ら
かにすることは 別の仕事になります。

★ 構成説持ちからすると、双方向説は如何にして対象と合致するかを説かずに
済んでラッキー。
☆ というよりも 構成説とて 《対象→知覚・認識》という反応をも みとめ
ています。それは 《対象と合致する》経験的な感性および悟性のハタラキのこ
とです。つまり 双方向説と重なります。

構成説は そのような経験事象としての認識に先立って 天動説のごとき受動的
認識ではなく 人間の能動性を支える認識形式が作用しそれによって人間にふさ
わしい主体的な認識を成り立たせると言っています。

双方向説は この《経験に先立つ純粋認識》という想定は おかしい。なぜなら 
《認識形式――時空間軸や因果関係の形式――》がはたらくのは あくまで対象
と向き合ったときだからだ。と言っています。
《対象との接触》は あくまで《アポステオリな経験》です。

お礼日時:2019/05/28 20:35

カントをどうやって勉強したらいい京都学派か


位置から灰馬手勉強していくとしたら
どんな感じなのでしょうか。独学の限界等言うか。

幽霊の話しいなっても梅原猛の怨霊史観みたいで

何か甲オリジナリティとかないのでしょうかね。
でもコモンセンスでない緒かg買う敵ではない難しいよね。
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この回答へのお礼

純粋理性批判から入るんでしょうね。

何度も読む。十回 二十回と。

解説をも読む。本もあれば ウェブサイトにもありますから。

おかしいと思ったら そのうたがいをも とうとぶ。自分の感覚を
も大事にする。そして 何度も読む。

ですかね。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/05/27 23:45

中国の点等価天は非人格的で、天命とか天使は斧ですか。


渾沌の話g、肯定が点が人となった姿で死んでしまうというでしょうが、
それで点は身体を持てば、

そんな風に観g萎えた尾ですけれど、
萎えてしまうか。

認識が大将に従うとか
対称が認識にしたがうとか

彫る率もイデオロギー次第ですよね。
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この回答へのお礼

★ 認識が大将に従うとか
対称が認識にしたがうとか
☆ このふたつの種類しかないでしょうか?

お礼日時:2019/05/26 23:26

あのう



よく読んでください。
母ちゃんがどうとか って書いていませんよね。

わたしの文章の中の
どこにかいてる。答えてみて。

 あなたほどの高齢者の年になると 親はとっくの昔に 他界してますよね。(あなたが他界ですから)

 その年になって父ちゃん母ちゃん言わないほうが精神的にいいのではないでしょうか。
師を前に迷うだけです。
セラピーで泣き崩れるタイプのだらしない 爺さん坊や(精神年齢の非常に低い人)へ
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この回答へのお礼

サッカリンの砂糖漬け。

お礼日時:2019/05/26 23:10

みんなからも いわれているようで あれ だけど・・・



検討しましたが
言動がおかしいということから推測して

まちがっているのは 
あなただ *あなただけだ

 というかんがえが
 どうしても頭から離れません。
 どうでしょう。
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この回答へのお礼

おまえのかあちゃん 出べそ――という結論だけを言われても。・・・


こういう投稿は 屁でもありません。



わざわざご投稿をすみませんでした。

お礼日時:2019/05/26 19:54

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