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卒業論文のテーマが決まりません。
ベルリンの壁などが調べたいのですがどうやって何を書けばいいかもわからず……はじめて論文を書くのですがいまいち何をしたらいいのかわかりません。
論文に歴史のテーマは向いていますか?

A 回答 (4件)

> ベルリンの壁などが調べたいのですが


ネット検索すれば、建設から撤去までが説明された情報が一杯あります。
ただ、それを要約するだけでは論文にはなりません。ただのコピーです。

> はじめて論文を書くのですがいまいち何をしたらいいのか
ならば、まずは「論文とは何か」という論文を書けばよいです。

> 論文に歴史のテーマは向いていますか?
テーマは何でもよいです。評価点は書き方や内容です。
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ここで情報を得て書いた論文でホイホイ卒業できる大学ってどんな大学だろうね。


卒論指導の教官はいないのかね。
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「ベルリンの壁」卒論のテーマとして別に問題ないのではないかと思います。


着眼ポイントもたくさんあって、どこに着眼するかによってかなり違った内容になるのではないかと思いますが、質問者様が何故「ベルリンの壁」に興味を持ったのかわからないので、ヒントになるようにベルリンの壁の歴史を網羅的に整理した内容を回答にします。

まずは、娘が高校生の時、15年前の高校教科書の年表から拾い出してみます。
1945年 ベルリン陥落
1949年 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立
1961年 ベルリンの壁建設
1972年 東西ドイツ基本条約調印
1989年 東ドイツ ベルリンの壁撤去
1990年 東西ドイツ統一

ベルリンの壁の詳細はウィキを読んでいただくとわかりますが、ポイントは以下の三つだと思います。
・東ドイツの中に飛び地として西ドイツが存在し、東ベルリン、西ベルリンと呼ばれていた。
・ベルリンの壁は国境線にあったのではなく、東ドイツ領内に建設されて、西ベルリンは城塞で囲まれた都市状態になっていたものの、西側陣営(米英仏)は西ベルリンと往来できた。
・西側陣営はベルリンの壁建設にイチャモンをつけることは無かったが、東側の西ベルリンへの攻撃は西側陣営に対する攻撃とみなすとして、これについては断固とした態度を貫いた。

高校教科書の年表にはなく、ウィキに記述されている内容でポイントになるのは、1948年のベルリン封鎖です。この時に、アメリカがソ連と戦争状態になることを回避しながら、断固とした行動をとったために、西ベルリンは壁の崩壊まで西側陣営の一員として生き続けることになります。また、東ドイツからこの壁を乗り越えて西ドイツに逃れようとした人が結構いて、多くの悲劇があったのではないかと思います。

最後に、東西ドイツの統一はドイツだからできたことで、凄いことだと思います。簡単に統一と言いますが、実態は難民と化した東ドイツ全国民を西ドイツが受け入れるということで、普通はこんなことすると国が崩壊します。ドイツのスバ抜けた国民性と国力に驚きます。

蛇足です。
ポッダム宣言で戦後のドイツの分割統治はすでに決まっていましたが、ソ連が先にベルリンに到達していなければ、西ベルリンはなかったかもしれないと思います。

それよりも、ベルリンの壁は、朝鮮半島の分断やソ連の対日参戦と対比して考えてしまいます。朝鮮半島が実質的な戦争状態に突入したのは、ソ連の対日参戦からで日本本土へ逃れる人たちは、昨日まで親しくしていた朝鮮人の変貌ぶりに驚いたという証言が何かの番組でありました。
サハリンや北方四島への侵攻はもっと悲惨だったような気がします。ソ連は8月15日以降も侵攻を続け戦争状態が正式に終了する9月6日に北海道占領を断念したのではないかと思います。日本はアメリカ一国に占領されてラッキーだったと思います。
 なお、第二次大戦時の死者数もウィキに乗っていますが、戦場となったナチス・ドイツの死者数は約700万人ぐらいで全人口の1割が犠牲になっています。その中で終戦直後にドイツ本国に戻った人は、ほとんど民間人だったにも関わらず100万人以上も犠牲になった可能性あります。
 それに対して、日本本土が戦場とならなかった日本の場合、多く見積もっても300万人程度で全人口の5%程度にすぎません。そのなかで戦場となった沖縄の死者数は約20万人と突出して多いと思います。

以上です。
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