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日本の騎馬戦術は、中国大陸→ロシア沿海州→北海道→東北の蝦夷を経由して伝来したのでしょうか?

日本の騎馬戦術は東北の蝦夷から伝来したと聞きました。馬の飼育に適していたので、軍事的に優位であり、奥州藤原氏は「奥州17万騎」と呼ばれる程の軍団を率い、畿内以西の西国を恐れさせたというのは本当ですか?

もう一つ、それら東北を始めとした東国勢力は、精強な騎馬兵を有していながら、何故大和を征服しなかったのですか?
世界に目を向けたら、北の騎馬民族が、南方の農耕民族を侵略するといった事例が見られます。

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    源平合戦で活躍した源義経は、騎兵戦術の天才と言われ、数々の奇襲は、騎兵によるものでした。この戦術を奥州で学んだという説がありますが、本当でしょうか?義経を題材とした書籍では、よく取り上げられています。しかし、彼が主として率いたのは、西国武士団で、彼らに卓越した馬術が無ければ遂行出来ません。しかもこの戦術は、東国武士団にむしろ嫌われていたそうです。彼はこの戦術をいったいどこで学んだのでしょうか?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/23 08:03
  • どう思う?

    調べてきた中には高句麗の移民が北海道を経由して東日本一帯に移住し、騎馬文化を伝えたという説を唱えた書籍がありました。その他関連書籍調の見解を大まかにまとめると
    ①東日本は狩猟牧畜文化・騎射による狩猟を行うので、精強な弓騎兵による機動力抜群の軍隊を編成していた。
    ②日本刀や流鏑馬は蝦夷が起源であり、日本文化の源流は東日本である。
    長野県には馬牧が多数存在し、群馬県は馬が群れていたから群馬という地名になった等、割とそうなのではないかといえる説であるのですが、どう思われますか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/23 21:38

A 回答 (6件)

そもそも「騎馬技術」は、「誰かから教わらなければ成立しない」と思っているということですか?



「教えられなければ誰も馬には乗れない、戦うこともできない」ということですね?
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> 日本の騎馬戦術は、中国大陸→ロシア沿海州→北海道→東北の蝦夷を経由して伝来したのでしょうか?



違います。
昔から中国には馬がおらず、中国は馬を輸入していました。
琉球は古来より、中国に多くの馬を輸出していました。

馬がいたのは中国が言う北狄。今でいうウイグルや昭和の呼び名で満州と呼ばれた地域。
昔の呼び名でスキタイや匈奴と呼ばれた草原地帯の民族です。

日本の馬は東南アジアから台湾や琉球などを経由で、日本に入ってきました。
馬が伝来したルートと、戦術の発達とは関係ないので、ここでは論じられません。



> 東国勢力は、精強な騎馬兵を有していながら、何故大和を征服しなかったのですか?

なぜ精強な騎馬兵があれば大和を征服できると考えているのですか?
日本の地形を考えてみれば、馬なんて大した役に立たない事が分かりますのに。
平家物語に始まり数々の軍記がありますが、敵味方とも騎馬による大規模な騎馬戦が行われた記録なんて、ないですよ。
この回答への補足あり
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>日本の騎馬戦術は、中国大陸→ロシア沿海州→北海道→東北の蝦夷を経由して伝来したのでしょうか?



いいえ、戦術は独自に発達したものです

北海道に入った馬は、牧羊馬、走る事よりも重いものを引っ張るものを目的に発達しましたので
戦闘では、遅すぎて使い物になりません、人間が走ったほうが早い
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>日本の騎馬戦術は、中国大陸→ロシア沿海州→北海道→東北の蝦夷を経由して伝来したのでしょうか?




遺伝子の解析によると、日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された蒙古系馬だそうです。事実、魏志倭人伝には邪馬台国には馬がないと記録されており、古墳時代には馬の骨や馬具が出土していますから。

ただ騎馬戦術そのものは、日本独自で発達したようですね。ともかく日本では蒙古のように大平原というのがないですから、蒙古流の騎馬戦術は使えませんし、漢民族は歩兵が主体であまり騎馬というのは活用していないですね。

>日本の騎馬戦術は東北の蝦夷から伝来したと聞きました。馬の飼育に適していたので、軍事的に優位であり、
>奥州藤原氏は「奥州17万騎」と呼ばれる程の軍団を率い、畿内以西の西国を恐れさせたというのは本当ですか?

奥州藤原軍17万騎というのは「吾妻鏡」にでてくるものですが、明らかに誇張です。このあたりは下記の知恵袋のやりとりをご覧ください。

奥州合戦では、奥州軍はなぜあんなに簡単に頼朝率いる鎌倉軍に敗北したのでしょうか。(Yahoo知恵袋)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …

>それら東北を始めとした東国勢力は、精強な騎馬兵を有していながら、何故大和を征服しなかったのですか?
>世界に目を向けたら、北の騎馬民族が、南方の農耕民族を侵略するといった事例が見られます。

精強な騎馬兵といえども、日本の国土では大量の動員は難しいです。
馬を養うためには、とうぜん飼料が必要です。これがけっこう大変なんですよ。

匈奴などの北方民族がなぜ強かったというと、華北の大平原を舞台にしていたからですね。
大平原ですから、馬の飼料はいくらでもあるわけです。しかも馬の機動力を十二分に生かせます。
敵が反撃すれば直ちに退却し、敵が弱みをみせれば再び襲い掛かる

ところが日本の場合は、山が多くそんな戦術は使えないんです。
だからこそ日本における騎馬戦術は独自に発達しました。

ちなみにいえば、モンゴル帝国があれだけ強大になったのは、部族ごと移動したんですね。
騎馬兵と共に、女性や子供、さらには膨大な数の羊、ですから必要に応じて大平原にテント(ゲル)をたてたのです。
遊牧生活に戦いが加わるだけなのですよ。

ちなみに西洋の農耕馬や軍馬、競走馬が大量に輸入されたのは明治以降になってからですね。
この回答への補足あり
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No4です。

補足を拝見して再度書き込みます。

>この戦術を奥州で学んだという説がありますが、本当でしょうか?

義経の半生記はよくわかっていないのです。
馬の使い方などは奥州で学んだとは思いますが、戦術そのものは彼が独自に編み出したものではないでしょうか。
それまでもそれからも、馬の機動力を最大限まで生かすというのは、その前の歴史にはありません。
また、その後にも、せいぜい武田の騎馬隊ぐらいでしょう。

また、義経は壇之浦の戦いで平家の船の漕ぎ手をねらって弓を射かけました。
漕ぎ手を失った船は、推進力も操舵力も失い、ただ海の上をただようだけで、これが平家滅亡の一因ともいわれています。
これまで、漕ぎ手は非戦闘員であり、漕ぎ手を弓で狙うという発想はなかったのです。
それ以外でも屋島の戦いでも、わざと嵐の中に出航させ、不意打ちをします。
このように誰も考えないような戦術をとったところから、馬の使用についても独自で考えたのではないでしょうか。

時代はかわりますが、戦国時代末期の織田信長の発想にもつうじるところがあります。
毛利水軍の「ほうらく」とよばれる「手りゅう弾」「火矢」などに対抗するために当時はだれも考えつかなかった鉄甲船をつくったのですから。
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騎馬戦術、騎乗に限定すると、分かりませんが、馬の日本列島の輸入と繁殖ならば、《4世紀にモンゴル方面から朝鮮半島経由で九州北部地方へ》ということのようです。

 その後、《5世紀に高句麗から中部地方へ》、《6世紀 推古朝 厩戸王とか馬子とか東漢駒とか、馬を重視して馬を献上させる制度もできて、中部地方で馬の生産や改良も盛んになって》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC …
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=190761
http://www.hidaka.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/uma …
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/matusir …
http://www.hidaka.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/uma …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E6%97%A8 …

東日本一帯 というよりも、飛鳥、奈良、京都から見れば東国になる《現在でいう日本の中部が》渡来人の畜産技術を核にしてやったのではないですかね。

平安末期まで、
群馬県の県名の由来
藤原京(694~710年)の時代の資料によると、現在の群馬県の中に「車評(くるまのこおり)」(「評」は大宝律令によって「郡]となる)と呼ばれていた地域があったとされています。 和銅6年(713年)の諸国の風土記編集の勅令により、国・郡・郷名はその土地にあった漢字二文字で表すこととされ、国名[上毛野国⇒上野国]に、郡名[車郡⇒群馬郡]に改められた。 郡vs群はなんとなく紛らわしい。 馬も多く産出した郡だから、群馬ということにしたのかもしれませんが、[くるまvsぐんま]だいぶ違う気がしますね。なお、群馬と表記しても呼び方は「くるま」で江戸時代まで使われていて、発音が「ぐんま」に確定したのは明治時代からだそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E9%A6%AC …

ところで、頼朝が奥州攻めをするとき、奥州17万騎という軍は本当にいたのでしょうか。 専門の軍を養うには経済力も費値用ですが、多くの軍を使う必要性そのものがないと、経済力があってもできません。 エゾ征伐のようなことが繰り返されたとして、攻め込まれる側が軍事調練をする騎馬軍や大兵力の軍事組織を備えているということは、あり得ない想像でしょう。 安倍頼時、貞任、宗任がそれなりの軍事戦闘能力を持っていたことは間違いないとして、源頼義が動員し侵攻した軍の状態から想定しても、奥州軍がいわゆる軍勢としてはさほどのものではなかったということでしょう。 源頼義に味方することになった出羽清原武則が動員した兵力の大部分は歩兵です。それも、通常は農民のようなことをしている人たちでしょう。 
http://www2.nua.ac.jp/kiyou/kiyou002.php?file=/0 …
有名な戦いの場が山岳であって、平原のようなところではないのも、騎馬戦主体の戦いではなかったことを示していると思います。 軍の将がきらびやかな鎧兜で騎乗し、弓を上手にしていることは、当時の戦いや軍を統率する上で大事だったと思いますが、蒙古の騎馬軍団のようなものではなかったと思います。 
平将門や平貞盛などにしても動員している軍の大半は歩兵だと思います。 将は、騎乗して立派で剛毅なのが大事だと思います。 そのために騎乗や騎射を練習していたでしょうが、一般の軍兵は関係なかったと思います。
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