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1. 《人知を超えたナゾ》をどうして人知がこしらえることが出来るのか?






2. 人間が持つのは 神のシルシである。

3. たとえば:

① 人間の真実や虚偽を超えた真理(《真理》が シルシである)
② 限りのある善と悪の彼岸としての至高の善
③ 相対的な美醜を超えたうつくしさ
④ 有限〔としての限りなさ〕を超えた無限
⑤ あるいは要するに 絶対性

4. シルシは たしかに人間が言わば発見して持ち得た指標である。

5. だけれども シルシが 神なのではない。その示す概念は ふつうに人
知なのだ。

6. 正解にみちびかれるために引いた補助線が シルシである。



7. 《神は 人間がこしらえたものだ》といまだに言っている。――わけが
分からない。これほどの不思議が世にあろうか。いったいどうなっているの?

質問者からの補足コメント

  • №20お礼欄つづき

    ▲ 日本人は今日まで神の概念はもたなかったし、これからももてない
    だろう
    ☆ 赤子の自然本性(身と心)のごとき聖なる甘えなんです。概念など
    は 補助線でしかないシルシです。

    成人となっては きよらかなおそれです。それが 信仰です。


    ★  「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。
    日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない」
    ☆ 冗談ではありません。と同時に 人知〔でどうにかしようとするハ
    カラヒ〕を言っている部分は そのとおりです。


    ★ 「基督教と教会とはすべての国と土地とをこえて真実です。
    ☆ これが ただの人知の問題です。それをああぢゃこうぢゃと観念と
    していぢくっているだけのオシヘです。

    オシヘは 移ろいゆかざるを得ない有限のものです。
    宗教よ おごるなかれ!!

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/10/12 09:51
  • №33お礼欄 ⑥を次の説明によっておぎないます。

    ☆ 《絶対性 ‐ 相対性》=《無限 ‐ 有限》としてです。

    ▲(ヘーゲル:無限と有限) ~~~~~~~~~~~~~~~~

    無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 

    どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
    ないしはこれを 我慢できないであろうが 

    この矛盾を持ちこたえることができるのが
    人格(☆ ――もしくは《わが固有の時間》――)の高さである。

    (『法の哲学』§35追加(講義録)藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    No.33の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/10/14 08:28

A 回答 (33件中11~20件)

キリスト教では、神にもっとも近い存在が、人間であり、物事=客体客観よりも、人間=設計者=神の分身=主観こそ、この世で、一番偉いと思ってるんですよ。

カント以降からヘーゲルまでの近代てつがくは、主観の哲学であることに留意されたい。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ キリスト教では、神にもっとも近い存在が、人間であり、
☆ 証明が必要です。

想定であるなら そういって理論を展開するのが 筋です。


★ 物事=客体客観よりも、人間=設計者=神の分身=主観こそ、この世で、
一番偉いと思ってるんですよ。
☆ 《神の分身》についても しっかりとした定義が必要でしょう。


★ カント以降からヘーゲルまでの近代てつがくは、主観の哲学であるこ
とに留意されたい。
☆ そうですね。副次的な主題に富む主題を取り上げています。ただし基
本は まづメインの問いに答えて欲しいとは思います。

☆☆ 7. 《神は 人間がこしらえたものだ》といまだに言っている。
――わけが分からない。これほどの不思議が世にあろうか。いったいどう
なっているの?


☆ どうでしょうか。

お礼日時:2019/10/12 15:28

正しい、間違いという二値論で物事を彼らは探求していたわけではなく、彼らは彼らなりに、宇宙の仕組み=構造=コンセプトを探求してるんですよね。

彼ら流にいうと真理の探求です。この姿勢が始まったのは、プラトンのイデア=宇宙、物事の設計図、コンセプトの探求からなんですよ。ですから西欧の宗教や哲学の知は、プラトンの域をでていないと、数学者のホワイトヘッドが言ってますよ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 正しい、間違いという二値論で物事を彼らは探求していたわけではなく、
☆ シルシとして《ただしいとは限らない》と言ったのは そのことがけっ
きょくその人の主観の枠内で真実であっても ほかの人にとっても妥当であ
るかは分からない・・・という意味です。

エピファニーは 当人の主観の内で神のシルシであり得て 他の人にとって
も同じく妥当であるとは限らない。という意味で言いました。



★ 彼らは彼らなりに、宇宙の仕組み=構造=コンセプトを探求してるんです
よね。彼ら流にいうと真理の探求です。
☆ つまり この場合も同じことです。哲学としての探究とそして 神のシル
シを表現することとは 別の仕事でしょう。


次の事態についても まったく同じことが言えましょう。そういう問題だと見
ます。:
★ この姿勢が始まったのは、プラトンのイデア=宇宙、物事の設計図、コン
セプトの探求からなんですよ。ですから西欧の宗教や哲学の知は、プラトンの
域をでていないと、数学者のホワイトヘッドが言ってますよ。

お礼日時:2019/10/12 15:10

そのシルシとは、海外の宗教学者がヒエロファニー=神の顕れ、と言ったり、哲学者ヘーゲルに至っては、神の設計図=コンセプトと言っていたものですよ。

宗教する人には、宇宙の起源を求める、宇宙ロマンだったのでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ そのシルシとは、海外の宗教学者がヒエロファニー=神の顕れ、と言ったり
☆ するものであり得たわけですが その事例が そのまま間違いなくただしい
とは限りません。

分からないわけですが 少なくとも《代表例》であるとは言えないと思います。


★ 哲学者ヘーゲルに至っては、神の設計図=コンセプトと言っていたものです
よ。
☆ つまり そこまで行けば――《コンセプト》と言うまでになれば―― それ
はまさしく《概念》なのですから とうぜんむしろ初めから《人知》の問題です。

そういう但し書きを添えているなら シルシのひとつの例になり得ます。



★ 宗教する人には、宇宙の起源を求める、宇宙ロマンだったのでしょうね。
☆ 《宗教する》というのは 信仰のナゾを何とか人間の言葉で表わせないかと
工夫することだと言えます。

そんなことを自分の主要な仕事とするのは あまり芳しくありません。信仰は
それとは別に成り立っていますし 生活日常そのものが 信仰〔の実践〕なので
すから。

つまり 《シルシ》学は 二の次の問題です。そういう断り書きを前提とした上
で取り組むものと思います。

お礼日時:2019/10/12 13:00

《神は人間がこしらえたものだ》といまだに言っている


なぜか。その鍵を内包する記述がありますので、紹介します。

「二十年間、私は布教してきた」フェレイラは感情のない声で同じ言葉を繰り返し続けた。「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根を下ろさぬということだけだ。」「根を下ろさぬのではありませぬ」司祭は首を振って大声で叫んだ。「根を切り取られたのです」だが、フェレイラは司祭の大声に顔さえ上げず、目を伏せた意志も顔もない人形のように、「この国は沼地だ。やがておまえにもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐り始める。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教と言う苗を植えてしまった」
「その苗が伸び、葉を広げた時期もありました」「何時?」初めてフェレイラは司祭をみつめ、薄笑いをそのこけた頬に浮かべた。その薄笑いはまるで世間知らずの青年でも憐れんでいるようだった。「あなたがこの国に来られた頃、教会がこの国のいたるところに建てられ、信仰が朝の新鮮な花のように匂い、数多い日本人がヨルダン川に集まるユダヤ人のように争って洗礼を受けた頃です」「だが日本人がその時信仰したものが基督教の教える神でなかったとすれば・・・」ゆっくりとフェレイラはその言葉をつぶやいた。その頬にはまだ、こちらを憐れむような微笑が残っていた。
わけのわからぬ怒りが胸の底からこみあげてくるのを感じ、司祭は思わずこぶしを握り締めた。理性的になれと必死に自分に言い聞かせる。こんな詭弁に騙されてはならぬ。敗北したものは弁解するためにどんな自己欺瞞でも作りあげていくのだ。「あなたは、否定してはならぬものまで否定しようとされている」「そうではない。この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思い込んでいた」フェレイラは疲れたように床に腰を下ろした。和服の裾がはだけ、棒のように痩せてよごれた素足が見え、「私はお前に弁解したり説得するためにこう言っているのではない。おそらくだれにもこの言葉を信じてもらえまい。お前だけではなく、ゴアや澳門にいる宣教師たち、西欧の教会のすべての司祭たちは信じてはくれまい。だが私は二十年の布教の後に日本人を知った。我々の植えた苗の根は知らぬ間に少しずつ腐っていたことを知った」
「聖フランシスコ・ザビエルは」司祭はたまりかねたように手で相手の言葉を遮った。「日本におられる間、決してそんな考えはもたれなかった」「あの聖者も」フェレイラは頷いた。「初めは少しも気がつかなかった。だが聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も日本人たちは勝手に大日と呼ぶ信仰に変えていたのだ。陽を拝む日本人にはデウスと大日とはほとんど似た発音だった。あの錯誤にザビエルが気づいた手紙をお前は読んでいなかったのか」
「もしザビエル師に良い通辞が付き添っていたならば、そんなつまらぬ些細な誤解はなかったでしょう」「そうじゃない。お前には私の話が一向に分かっていないのだ」フェレイラは初めてこめかみのあたりに神経質ないらだちを見せて言い返した。「お前には何もわからぬ。澳門やゴアや修道院からこの国の布教を見物している連中には、何も理解できぬ。デウスと大日と混同した日本人はその時から我々の神を彼ら流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りあげ始めたのだ。言葉の混乱がなくなったあとも、この屈折と変化とはひそかに続けられ、お前がさっき口に出した布教が最も華やかなときでさえも、日本人たちは基督教の神ではなく彼らが屈折させたものを信じていたのだ」
「我々の神を屈折させ、そして別のものを…」司祭はフェレイラの言葉をかみしめるように繰り返した。「それもやはり我々のデウスではありませんか」「違う。基督教の神は日本人の心情の中で、いつか神としての実体を失っていった」「何をあなたは言う」司祭の大声に土間で餌を温和しくついばんでいた鶏が羽ばたきをしながら隅に逃げた。
「私の言うことは簡単だ。お前たちはな、布教の表面だけ見て、その質を考えておらぬ。なるほど私の布教した二十年間、言われるとおり、上方に九州に中国に仙台に、あまた教会が立ち、神学校は有馬に安土に作られ日本人たちは争って信徒となった。我々は四十万の信徒を持ったこともある」
「それをあなたは誇っても良いはずです」「誇る?もし日本人たちが、私の教えた神を信じていたならな。だがこの国で我々の建てた教会で日本人たちが祈っていたのは、基督教の神ではない。私たちには理解できぬ彼ら流に屈折された神だった。もしあれを神と言うなら」フェレイラはうつむき、何かを思い出すように唇を動かした。「いや、あれは神じゃない。蜘蛛の巣にかかった蝶とそっくりだ。初めはその蝶はたしかに蝶に違いなかった。だが翌日、それは外見だけは蝶の羽と胴とを持ちながら、実体を失った死骸になっていく。我々の神もこの日本では蜘蛛の巣に引っかかった蝶とそっくりに、外形と形式だけ神らしく見せながら、既に実体のない死骸になってしまった」
「そんな筈はない。馬鹿げた話はもう聞きたくない。あなたほどこの日本にはいなかったが、私はこの目で殉教者たちをはっきり見た」司祭は手で顔を覆うようにして指の間から声を洩らせた。「彼らがたしかに信仰に燃えながら死んでいったのを私はこの目で見た」
雨の降る海、その海に浮かんだ日本の黒い杭の思い出が司祭の心に痛いほどよみがえってきた。片目の男が真昼の光の中でどのように殺されたのかも彼は忘れることはできなかった。自分に瓜をくれた女が薦に入れられて海に沈められた状況も記憶にそのままこびりついていた。あのものたちがもし信仰のために死んだのでないとすれば、それは人間に対する何という冒涜だろう。フェレイラは偽りを言っている。
「彼らが信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで」フェレイラは自信を持って断言するように一語一語に力を込めて、はっきり言った。「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」その言葉は動かしがたい岩のような重みで司祭の胸にのしかかってきた。それは彼が子供の時、神は存在すると初めて教えられたときのような重力を持っていた。
「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない」「基督教と教会とはすべての国と土地とをこえて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」
「日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在を持つものを神と呼ぶ。だがそれは教会の神ではない」「あなたが二十年間、この国でつかんだものはそれだけですか」「それだけだ」フェレイラは寂しそうに頷いた。「私にはだから、布教の意味はなくなっていった。たずさえてきた苗はこの日本とよぶ沼地でいつの間にか根も腐っていった。私は長い間、それに気づきもせず知りもしなかった」
最後のフェレイラのこの言葉には司祭も疑うことのできぬ苦い諦めがこもっていた。遠藤周作「沈黙」より

ciaopolpoさんが言われることに同意します。
>一神教は無理じゃないでしょうか。日本人は宗教嫌い。神が嫌い。無宗教です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ 《神は人間がこしらえたものだ》といまだに言っている
★ なぜか。その鍵を内包する記述がありますので、紹介します。

☆ 遠藤の『沈黙』ですが 根本的なズレがあるとわたしは考えます。
〇 信仰をいだくこととオシヘを持つこととは 月とスッポンの違いが
あるという問題です。


▲ 「二十年間、私は布教してきた」
☆ 布教は:
▼ (パウロ:コリント前書 1:21 ) 宣教という愚かな手段
☆ であると言っています。


▲ 「私たちの宗教は所詮、根を下ろさぬということだけだ。」
▲ 「根を切り取られたのです」
☆ 《手段》は 止むにやまれず採用したのでしょうし 《オシヘ》は
根を下ろす・下ろさぬとは 関係ありません。ただの経験思想なんです
から。

《信じること》には 一方で神という絶対性があり 他方でそれを受け
容れるという人間の相対的な意志行為があります。

オシヘは 神やその信仰を 仮りに示すただのシルシです。


▲ 「この国は沼地だ。・・・どんな苗もその沼地に植えられれば、根
が腐り始める。
☆ 宗教というものにとって 日本人の文化やナラハシが《沼地》であ
ることは 願ってもないよいことです。要するに 鳴り物入りの立派な
オシヘは あほくさいと人びとは知っているのです。(もっとも 丁寧
にお付き合いはしますが)。

だから 神社には 形のある神〔の像〕など皆無です。仏像があるぢゃ
ないかと言われても お付き合いをしているだけです。

見えざるかみが仮りのシルシとして 沼地の中に蓮の花のごとく 時に
咲いたりします。


遠藤周作 あやまてり!




もっとも この自然なシントウが 信仰を超えて成文化されていない宗
教になり得ていますが。つまり クウキ教と呼ばれる日本教です。
これは 言わずと知れた〔一般に〕お二階から来る同調圧力のことです。



▲ だがこの国で我々の建てた教会で日本人たちが祈っていたのは、基
督教の神ではない。私たちには理解できぬ彼ら流に屈折された神だった。
☆ それでよいのです。オシヘは ただのシルシだと分かり切っている
からです。見えざる信仰が息づいているのです。

それが 《屈折している》というのは 宗教者が勝手に自分のメガネを
かけてそう見ているだけのことです。

つづく

お礼日時:2019/10/12 09:51

要するに未だに人工生命を作れない。

生命は偶然には生まれない。そこには何か人知を超えたものが存在する。頭を絞った結果、神というものを考え出した。即ち、神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのだ。分からない事は全部神にする。だからキリスト教などでは、やたらに奇跡を強調する。信者にとって奇跡は神しか起こせない。しかし奇跡が本当に奇跡なのか、偶然なのか、どう判別するか。結論として、人間が神を想像し、理解を超えることを全部神に押し付けた。そうして宗教が生まれた。現代では科学の発展により、理解できることが増えている。しかし狂信的な信者は科学を信じず、神を祈る。まあ、人勝手だ。死も恐ろしい。突然命が消える。消えればどうなるのか。無くなるのか。無はとてつもなく怖い。それで地獄極楽を考え出した。たとえ地獄でも存在はできる。それも宗教を生み出した。どこまで行っても人間は恐怖から逃れられない。だから宗教に縋る。古くからの宗教や、新興宗教が乱立する。中には暴走する教義もある。それでも、科学を信じずに宗教を信じる。もっともっと科学が進歩すれば、人工生命を生み出せるかもしれない。だがそれが一番怖い。最後に仏教の深淵は無である。修行を繰り返し、無になることを最終目標とする。全く存在しない。完全に消滅する。これが怖いから宗教が生まれたのだが、釈迦は完全に逆を解いておられる。聞けばなるほど、と思うが、やはり消えてなくなるのは怖い。怖くなくなるまで修行するのだが。これは大乗仏教ではないからそのつもりで。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 要するに未だに人工生命を作れない。
☆ それは 可能性がかんぜんに断たれている場合(つまり そのように
証明された場合) それは 人知に限界がある・・・というだけのことで
はないのですか?


★ 生命は偶然には生まれない。
☆ これは すでにはっきりしていますか?


★ そこには何か人知を超えたものが存在する。
☆ そういった帰納法での推論もあり得ましょうが 基本は すでに相対
性に対する絶対性という論理による推理とそれとしての想定(仮説法)で
はないか。


★ 頭を絞った結果、神というものを考え出した。
☆ 絶対性あるいは超自然ないし超経験を そのまま《かみ》と呼んだの
では? (無限や永遠といった概念は それとして思考をおこなっていま
すが)。


★ 即ち、神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのだ。
☆ いいえ。《人知を超えた場ないしチカラ》を想定したのなら その仮
説したことと《つくったこと》とは まるで違います。

つくったかどうか・誰がつくったのかが 分からないので《人知を超えた》
と捉えたのですから。



★ 分からない事は全部神にする。
☆ いいえ。 いづれは分かるであろうという《未知》という分類があり
ます。未知は 人知のおよぶ範囲です。

知り得ないと証明された《不可知》も 知り得ないと知り得たのですから
人知の範囲なのです。


★ だからキリスト教などでは、やたらに奇跡を強調する。
☆ それは 話が別です。《絶対性⇒[擬人化=]絶対者⇒全知全能⇒奇蹟
を起こし得る》といった推理とそれの物語化の問題です。虚構です。

信仰は フィクションといった人知を超えています。



★ 無はとてつもなく怖い。それで地獄極楽を考え出した。・・・
☆ そういった話は 《人知》の問題です。

★ たとえ地獄でも存在はできる。それも宗教を生み出した。・・・
☆ 人知の問題です。宗教は 信じるのではなくオシヘを考えるというや
はり人知の問題です。

いまは 神とその信仰を問うています。宗教はまるで無関係です。

お礼日時:2019/10/12 09:00

お邪魔なのは、わかっているのですが、一言だけ。



戦国時代から、江戸時代にかけて始められ、そして、第二次世界大戦が終わるまで、日本では意識的な、”一神教=世界を創造した神”殺しを行い、大成功を収めました。そしてその後、新興宗教の時代を経て、恐ろしいオーム真理教事件が起きます。

日本の人々の心の中では、宗教は、なにか、後ろ暗い、不健全なものなのです。

一神教であるキリスト教が、原爆を落としたと断定なさる方も、哲学カテに存在します。四六時中、キリストの奇跡を揶揄し続ける人もいます。イスラム教がテロの温床だ、という方も多いです。日本で赤軍派がテロ活動を世界に先駆けて行っていたのにも関わらずです。

理性の目が、伝統と偏見によって曇らされているのでしょう。
それもこれも、戦前の教育のたまものです。

一神教は、無理じゃないでしょうか。
日本人は、宗教嫌い。神が嫌い。無宗教です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 戦国時代から、江戸時代にかけて始められ、そして、第二次世界大戦が
終わるまで、日本では意識的な、”一神教=世界を創造した神”殺しを行い、
大成功を収めました。そしてその後、新興宗教の時代を経て、恐ろしいオー
ム真理教事件が起きます。

★ 日本の人々の心の中では、宗教は、なにか、後ろ暗い、不健全なものな
のです。

☆ ① 《宗教》は そうですよ。オシヘは です。《説教》というもの・
あるいは《お偉い人の有り難いお話》は 眉唾物だと庶民は知っていますし
〔戦時中の《悠久の大義》も〕すべては《信じる振りをする》という姿勢で
乗り切って来ています。

② 祖先を措いて自分たちだけが救われるといった教義には――アブラハム
は 水による洗礼が永久に受けられない・だから救われないといったオシヘ
には―― 絶対的な拒否反応をしめします。

③ われらの説く神とオシヘこそが 唯一ただしいオシヘだという主張は
阿呆だということを思っています。(言いませんが)。



★ 一神教であるキリスト教が、原爆を落としたと断定なさる方も、哲学
カテに存在します。
☆ いやこれは――そういう言い分がしばしば見受けられますが―― 庶
民はあんがい違います。戦争〔に入ったこと〕がわるい。たたかいの中で
死ぬことについて 誰の所為・何の所為だとは見ません。


★ イスラム教がテロの温床だ、という方も多いです。
☆ これは ジハードというオシヘがあるからでしょう。旧約聖書では異
民族に対する《聖絶》がオシヘでした。

★ 理性の目が、伝統と偏見によって曇らされているのでしょう。
☆ たぶん《お上》意識が いまなお刷り込まれているのでしょう。わた
しのようなものの言い方は 常識はづれだと見なされているはずです。

★ それもこれも、戦前の教育のたまものです。
☆ ええ。その影響もありましょうね。しかも同時に GHQによる: 
▲ https://ja.wikipedia.org/wiki/ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
☆ も大きな影響をあたえたと言われます。

★ 一神教は、無理じゃないでしょうか。
日本人は、宗教嫌い。神が嫌い。無宗教です。
☆ いえいえ。信仰は誰もが身に着けているのではないか とは思います。
神は 普遍神ひとつだとも。

お礼日時:2019/10/11 23:01

《人知を超えたナゾ》をどうして人知がこしらえることが出来るのか?


  ↑
想像の産物ですから、どうにでも
構成できるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 想像〔あるいは 想像〕の産物
☆ が 《人知》です。

お礼日時:2019/10/11 20:51

この世は物質と精神で構成されています。

もし、この世は物質のみで構成されているとしたら、私は何も感じないでしょう。

熱いとか赤いと感じている主体が私です。熱いとか赤いと言う感じは、幾ら高性能な顕微鏡で脳の中を覗いても見えません。物質が、熱いや赤いに対応する動きをしているのが見えるだけです。
その動きの刺激を受けて、精神である私が熱いとか赤いと感じているのです。
熱いや赤いは物質ではないので、それを感じている私も物質ではありません。私は、無限の感受性である精神です。

物質の全体を宇宙と言います。質問者さん、それでは「精神の全体」を何と呼んだら良いでしょうか。

そして、この世の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果が原因となり更に結果を生じると言う形になります。
従って、宇宙の始まりは原因なくして結果を生じなければなりません。つまり、無から有を生じなければなりません。しかし、それは不可能です。

一方、精神は物質を動かすことが出来ます。精神である私は物質である手を動かすことが出来ます。ですから、宇宙の始まりにおいて最初に動いたものは、「原因から自由な精神」以外にはありません。

質問者さん、この「宇宙を創造した精神」を何と呼んだら良いでしょうか?

 ユダヤ教・キリスト教では、外界は神が創造したと信じます。
 ここに物が落ちたのは、ここに落ちるように、宇宙が作られているからであると考えます。そして、どうしてここに落ちたのかを追求し、 物体は外から力が加わらなければ、そのまま飛び出した方向へ等速運動を続けるが、落下距離は時間の2乗に比例する為、 放物線を描いて地上に落下し、ここに落ちたことを発見します。
 宇宙で起る全てのことは、必然であり意図されたものであると考えます。ですから、一見偶然に思える事柄に対しても、 必然であると確信し、その仕組みを解明しようとします。
 ある天才は、「神はサイコロを振らない。」と言いました。 これは、現象を確率で説明しようとする態度に対して、必然な説明をしなければならないと批判したものです。
 この様に、西洋では神が宇宙を創造したと言う確信により、自然科学は発達して来ました。

 それに比べて、東洋では仏が宇宙を作ったとは考えません。精神の中に仏が存在していると考え、内心の仏を追求します。
 宇宙は偶然出来たと考えます。物は色んな所に落ちます。物がここに落ちたのは偶然だと考えては、 落下の法則や万有引力の法則は思いつかないでしょう。
 無神論も同様です。ハッキリと必然と分ること意外は偶然であると考えたのでは、人に先駆けて新しいものを発見することは出来ません。


 神を持ち出すと、単純に非科学的であると非難する方が居られます。しかし、科学で全ての現象を説明出来るでしょうか。
 第一、物質の因果関係のみでは、宇宙の始まりを説明することは出来ません。 物質の因果関係は、原因→結果=原因→結果=原因→結果・・・と続きます。原因があり、その為に結果が生じ、 その結果が原因となり次の結果が生じると言う順番となります。
 しかし、これでは最初の原因が存在出来ません。その最初の原因は、何らかの原因により生じなければなりませんが、それがありません。 物質のみでは、宇宙の始まりを説明できないのは自明のことです。

 また、コインのゲームを考えて見ます。コインを縦に立て、倒れて表が出れば私が勝ち、裏が出れば貴方が勝ちます。 科学では、このゲームで私が勝つ確率は50%、負ける確率も50%としか言えません。 しかし、現実にはどちらかが勝ち、掛け金を全て手に入れます。それを決めるのは何でしょうか。
 これと同じことは、素粒子レベルでは無数に起っています。完全に均衡している状態で、僅かな力が加わり少しの不均衡が生じると、 不均衡が不均衡を呼び次第に大きくなり、終にはコインは倒れます。

 確率は50%ですが、ほんの僅かな力が加わることで、表が出たり裏が出たりする。その為に、ある者は人生で成功し、ある者は失敗する。 その僅かな力が精神である可能性はあります。

 精神である私は、物質である手を動かすことが出来ます。肉体は動かすか動かさないかで物的に均衡した状態にあります。 ほんの僅かな精神の力を、物的に均衡した物質(脳)に加えることにより、手は動いたり動かなかったりします。 この様に、精神は物質を動かすことが出来ます。

 単なる偶然の連続で、この宇宙は進行しているのでしょうか。それとも、何らかの意図があり、僅かな精神の力が加えられているのでしょうか。

正しい知識を得るには、全てのものを疑うことの出来ない自明なものなのか否か問いかけることが必要です。 デカルトは、この方法的懐疑により、全ての知識を自明なものか否か検証して見ました。
 その結果、自明なことは唯一つしかないことが判明しました。それは、全てのものを疑っている自分が存在することだけは 疑うことが出来ないと言うことでした。 「我思う故に我あり。」です。それ以外は、正しいと思ってはいたが、そう思っていただけであることが分りました。 これが「無知の知」です。

 しかし、自明なものしか信じないのであれば、そこまでです。そこから先は、何を信じるかによります。
 心は、その中に宇宙を作り出しています。私たちが感じている宇宙は、心の外の宇宙ではありません。心が作り出した宇宙です。 心の外を覗くことは不可能です。心の外に、宇宙があるのかどうかも分りません。
 しかし、心は外界に似せて、心の中に世界を作り出しているのです。心の中では、1+1=0でも、1でも3でも何でも構いません。 心の中に在るものは、消えたり生じたりします。従って1つと1つ在ったものが消え去り0となっても良いし、 新しく生じて3になっても良いのです。決して増えもせず減りもしないと前提して、1+1=2としなければならない必要はありません。

 しかし、外界では、無から有は生じませんし、有が消滅して無となることもありません。エネルギー保存の法則が成立します。 従って、1+1=2でなくてはなりません。
 心が1+1=2に制約されている事実は、心の中の世界は、外界に出来る限り似せて作られていることを証明しています。 外界に1+1=3を適用すると、その行動は誤りであり、失敗するからです。
 従って、外界には、心で感じている様な世界が存在することを前提とせざるを得ません。

 宇宙の仕組みを完全に解明した時、物質だけでは説明出来ないことが残されたら、神の存在を証明したことになります。  この様に、宗教は全く科学的な態度であると言えます。
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本気でそう思っているのでしょうか?



私は定義します。

「神は存在し、それは人知を超越したものだ。」

これでお終い。

神の性質を定義したのは、この平凡な「私」。

後は、好き勝手言えます。

人知を超えているのだから。

アホくさ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 本気でそう思っているのでしょうか?
☆ ふざけて考えていましょうか?

★ ~~~~~~~~
私は定義します。

「神は存在し、それは人知を超越したものだ。」
~~~~~~~~~
☆ 定義ではありません。願望でしょう。



★ 神の性質を定義したのは、この平凡な「私」。
☆ 人知を超えているものを どうして《その性質》がどうだこうだ
と言えるのですか?


★ ~~~~~~~~~
後は、好き勝手言えます。

人知を超えているのだから。
~~~~~
☆ ここは じつは重要なところです。

《人知を超えたナゾ》については:
★ 好き勝手言えます
☆ が それで放置したままではなりません。

〇 《人知を超えたナゾ》については たとえば《それが有る・無い》
を《好き勝手言える》のですが その好き勝手のいづれをも《同時に
言える》とするところが ミソになります。また そう規定しなけれ
ばいけません。

いづれか一方に排他的に片寄った好き勝手は すでに《人知》でその
ナゾをナゾでなくしています。《人知で分かったことにしている》と
いう欠点が現われます。

★ アホくさ。
☆ とは言ってらんないでしょ?

お礼日時:2019/10/11 20:50

哲学板への書き込みにしては稚拙で残念



> 人知を超えたナゾを人知がこしらえることができないこと
> は 自明のことです。

そういう論理展開なら
「神は 人間がこしらえたということは自明」と言われたら
反論できませんね
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この回答へのお礼

そうですか。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/10/11 17:07

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